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中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

公開講座「暮らしのなかの子育て・親育て」

2010-09-27 16:54:04 | 授業日記
去る25日(土)、神戸サテライトキャンパスで、
公開講座
「暮らしのなかの子育て・親育て
 -子どもと大人のかかわりを考えよう-」

が開催されました。
私も参加しました。

公開講座は市民の方を対象に開かれる講座だそうで
いろんな形式のがあるようですが、
今回は全1回ですので、この日だけです。

幼年教育コースの佐藤哲也先生を司会に、
幼児教育がご専門の名須川知子先生、
道徳教育がご専門の淀澤勝治先生、
そして発達心理専門ということで私・中間玲子が
それぞれ20分ずつ話をし、
その後1時間は参加者とのディスカッション、という形式でした。

20分だけなので一人の講演よりはだいぶ気楽に準備してたのですが
やはり、他の先生方に話を聞かれるというのはとても緊張しますね。
私が最後の話者でしたので、待ち時間の40分間、
ずっとドキドキしていました。
1人の講演の時はきっとこのドキドキに気づく余裕がないんだなあなどと
思ったりしながら順番を待っていたわけです。

で、最初の名須川先生が話し始めた時に気づきました。
時計がない!
この日、腕時計を忘れてしまっていたのですが、
教室に入れば時計があるだろうとたかをくくっておりました。
しかし、時計に背を向ける配置になっているではありませんか…

隣の淀澤先生に、「すみません、時計を忘れました。
私の発表の時にお貸しくださいませんか。」
と筆談でメッセージを伝えると、
なんと淀澤先生も腕時計を持ってらっしゃらない・・・
子どもと接する時に危ないからはめないんだそうです。

結局、淀澤先生に、ケータイの時計をみていただき、
「○分経過」とメモを細かくいただきながら、話をしてきたのでした。

・・・とここまで書くと、単なる「お仕事ウラ話」ですが、
「授業日記」ですから、会の内容も書きましょう。

名須川先生は、幼児教育の立場から、
言葉での表現以前にしっかりと身体で感じながら
世界を知っていくことの大事さを強調しておられました。
また、子育てにおいては周囲のサポートの重要性などについても
話されていました。

淀澤先生は、道徳教育の立場から、
「感動を伴わない知識は知恵とはならない」という話をされていましたが、
冒頭に、名須川先生に触発されたとのことで、
「バスと赤ちゃん」という話をされました。
これがまた、なんともいい話で…。涙が出そうになりました。
中学生の道徳副読本に載っている話だそうです。
概要を書いてみようとしたのですが、
ググったら・・・出てきました
こちらです。
ううっ、いい話です

そして私は、青年心理学の立場から、
思春期・青年期にどのような世界の変化が起こり、
子どもは何を体験するのかを中心に話をしました。

話し終えてみると、会自体は和やかないい雰囲気で楽しかったです。
後半ではまず、佐藤先生の配慮で、
参加者の方々にもそれぞれ自己紹介などをしていただいたのですが
皆さんご自身のことや会への動機などを話してくださり、
ぐっと雰囲気がほぐれました。

子育ての過程でぶつかる色んな問題を、
あーでもない・こーでもないって、あれやこれやと悩みながら
答えを探しているうちに子どもはどんどん大きくなってしまう
なんていうのが現実かもしれませんが、
そういう過程で、子どもを育てながら親も親として育っていきます。
つまり、子どものことを考えながら、親も自分に向き合わざるを得ない。
参加された方の感想をお聞きすると、
私が出した話でヒットしたのはこの辺りのことのようでした。

最後の挨拶でも言ったのですが、こういう会に来てくださること自体、
色々考えようとしてくださっている方々なんだろうなあと思い、頭が下がります。
参加された方々が何かを持ち帰っていってくだされば
また色んな輪が広がっていきそうだなーと感じたりしました。

参加してくださった皆様、ありがとうございました。

コメント補足

2010-09-07 10:13:11 | 授業日記
昨日のブログについて、
昨夜の段階では内容を書けてない気がしてましたので、補足です。

アンケートに書かれたいくつかのコメントが
要点をおさえてくださってましたので、
それらを引用しながら内容紹介させていただこうと思います。

こんな話をしてきました。

(1)大人は子どもに知らず知らず「モデル」として影響を与えている
大人も折々悩んだり迷ったりすることがあるのだと子どもにも分かって安心あせてあげられればと、なるべくありのままの姿を見せるようにしていますが、自分の前向きさはどうやったら見せられるかを新たに悩み始めました。
前向きに生きるということは意識し始めると逆に苦しくなるのかなと、子どもたちへの投げかけ方は難しいと思いました。

→後半部分、ずっと補足的に強調していたところですよね。
 前向きに生きる価値と、それ自体を目的にする弊害、
 両方のメッセージを受け止めてくださって嬉しいです。
 「こういうモデルにならねばならない」と考えすぎて
 身動きとれなくなるのは本末転倒ですよね。
 でも、どんな姿であれ、関わる存在としてそこにいる限り、
 何らかの影響を与えてしまう大人であることは
 大人が背負わなきゃいけないことなんだろうなと思っています。

(2)自信の有無はともかく、動いてみよう
これまでの経験から、何かに取り組むにあたって、すぐに「できない」「無理!」などと言う人がいると、その取り組みが止まってしまう、あるいは能率が悪くなるということを感じていた。だから自分では絶対にそんな言葉を口にしない(「忙しい」という言葉も含めて)ように心がけ、生徒にも言わせないようにしている。「難しいかもしれないけどまずやってみよう」と考えるところから道は開ける。常々こう考えていたことが裏打ちされてるようなお話を聞かせていただけたので自分としては満足しています。
→私も、どんな状態であっても、たとえ平時の10%しか動けないとしても
 それでも1日のうちに少しでも何かをすることは大事だと思っています。
 もちろん、それさえできない状態にエネルギーが落ちている子の場合は
 その回復を待つことが優先されることは言うまでもありません。

(3)失敗「できる」価値
「やったからこそ失敗できる」「取り組んだこと自体が財産である」この言葉が心に残りました。生徒に対してかけてあげたい言葉だなと思った。失敗しても価値はあがるということを大切にしたい。
→私はずっと自尊感情の研究を続けていますが、
 自尊感情の損失を「観念的に」恐れるというのは、
 非常に弊害が大きく、深刻な問題だと思っています。
 ですので、このメッセージを受け止めていただけて嬉しいです。
 価値の感じ方や評価の仕方、物事の見方など、
 私たちは他者から学んでいくので、
 自尊感情の低下を「観念的に」恐れている生徒さんに対しては
 それは恐れなくていいんだと教えてくだされば嬉しく思います。

そんなことを言ってはいますが、私自身が研究者として発展途上です。
上記事柄も、研究書としてしっかりまとめたいと
ここ数年、書きためては停滞し、を繰り返しています。
なので、目下の課題は、目の前の仕事に取り組むことと
数年の研究課題をしっかりまとめて本にするということです。

ですが、
ワークシートの○○、××などの事例から学ぶところが印象深かったです。是非、「具体事例から学ぶ心理学(仮称)」といったような一般人が読みやすい本を考えていただければと思います。ありがとうございました。
こんなコメントもいただきまして、
上記課題の「その先」の課題をいただいた気分です。

「ゴールと思っていたその先」を意識するとゴール自体の
ハードルが下がりますね。
(cf. ゴールが見えることによるマイナス効果

ゴールのその先の、そしてまだまだその先の方へ進むために
今日もまたがんばります!

「前向きに生きるための心理学」at小林聖心女子学院

2010-09-06 22:10:03 | 授業日記
去る8月31日(火)、
兵庫県宝塚市にある小林聖心女子学院というところで
先生方を対象に、講演をしてきました。

担当の先生は、6月の講演を聴いてくださっていた方で、
それに加えて、先生とも色々お話を聞きながら
内容をアレンジしていきました。

今回は、生徒の心を理解することはもちろん、
関わる人間として
「自分自身をまず知ろう」ということに特に力点をおいたので、
かなり、「自分ならどうする?」「どう考える?」という質問を
投げかけながらの講演でした。

その問いかけが多くなると、どうしても時間がかかってしまい、
2時間たっぷり使ってしまいましたが、
特に後半は皆の答えを言い合ったりの時間も多かったので、
ワイワイと楽しみながら聴いてくださっていたようでした。

その時のアンケートが今日届きました。
評価は4.22点(5点満点)。

猛暑の最中に、自分について、自分の理想について考えるなんて
なかなか自分ではやらない作業だと思いますし、
やれと言われてもなかなかスムーズに進むものではないと思います。
でも、それをやるからこそ見えるものがあるだろうと信じて、
いくつか課題を用意していました。

感想を読ませていただくと、そんなちょっととっつきにくい課題にも
十分とりくんでくださって、その活動を通して
色々と考えを深めてくださっていたことが分かって、
上記メッセージ、「まず自分はどうかな?」というところに
力点をおいた甲斐があったなと、
うれしく、また、ありがたかったです。
ありがとうございました。

翌日からはもう始業というお忙しい中だったと思いますが、
生活の中に少しでも記憶として残れれば幸いです。

コメントリプライ(2)to講演in神崎郡

2010-09-02 07:04:15 | 授業日記
引き続き、講演に関連して出された質問へのリプライです。

このような質問をいただきました。

「自分を伸ばす」という内容でしたが、
ふと娘(8歳)のことに置き換えました。
自分は比較的楽観的ですが、娘は悲観的な方向です。
これをどのように楽観的な方向に導けばよいか…、
どのように働きかければよいか…と思いました。


これは、これまでの研究から
私独自の考えをもっているところです。

楽観的な考え方は、事態に対する希望を感じやすくさせ、
物事に前向きに取り組むことを手助けします。

でも、私は「楽観的であること」自体を
目的にしようとは思っていません。
楽観的でない見方をする人が、
「楽観的であること」を目的にしてしまうと、
そうあるために問題から目をそらしたり、
楽観的でない自分を責めてしまったりという、
別の問題が生じることがあるからです。

誰にでもその人なりの慣れたものの見方というのがあるもので、
その変化には、時間がかかるものです。
でもその間にも、
色々な問題に取り組んでいかないといけないのが現実です。
人は、経験を通して少しずつ変わっていきます。

そのためには、どのようなものの見方をしていても、
その時々の現実に取り組み、動くことができなければならないわけです。
もちろん、そのためには楽観的であった方が不安は少ないでしょう。
また、楽観的なものの見方をしている方が、
よい結果も得やすいことが知られています。

でも、悲観的であっても物事に取り組むことが出来る人もいます。
その人たちは、悲観的な見方をしていても、
「自分はダメだからやりたくない」と逃避してしまうのではなく、
「そうならないようにがんばろう」と努力するエネルギー源に
変えることができる人たちです。
その人たちは、防衛的悲観主義者とよばれ、
物事を悲観的に考え、動けなくなっている悲観主義者と区別されます。

ここがポイントになります。

そのエネルギーに変えることができたら、
悲観的な考え方をしていても、
楽観的な人たちと同じくらいの結果を得ることができたと報告されています。
慎重に取り組むなど、楽観的な人たちにはない、
その人たちなりの問題への取り組み方略が実行されるからです。
とはいえ、そういう自分の考え方を好きにはなれないとも
感じていることも報告されていました。
なので、最終的には楽観的にものを考えられるようになった方が
その人たちも楽に生きられるのだろうとは思います。
でもそれは、時間をかけて少しずつ可能になる変化でしょう。

つまり、悲観的な人には楽観的な人とは違うやり方で、
物事に前向きに取り組むルートが開かれているわけです。
まずはこのルートを開いてあげることだと思います。
その人なりの存在様式は、
まず基本的には肯定してあげなければならない。
おそらくその人自身、
「悲観的な自分」に苦しんでいるかもしれませんから。
ならば、楽観的か悲観的かはともかく、
「じゃあ、次、どうしていこうか?」と。
そして、その人なりのやり方で、
物事に一生懸命取り組む経験を積み重ねていく方向を
開いてあげる。

そしてそのような自分の経験を積み重ねていくことによって、
でもそれだけではダメで、
楽観的なものの見方を学び、
(そのためには、お母様がよいモデルになるかもしれませんね)
それを少しずつ自分の中にとりこんでいくことを通して、
時間をかけて、ものの見方というのは変わっていくのだろうと
私は考えています。

ということで、まとめると、
自分とは違う状態にある娘さんをまずはそのまま認めてあげて、
でも、楽観的なものの見方をしているモデルとして存在しつつ、
その子なりの生き方を支えてあげる、
ということになるでしょうか。

それが私の考えです。

コメントリプライ(1)to講演in神崎郡

2010-08-30 14:00:14 | 授業日記
8月18日に行った講演に際して、
いくつか質問をいただいていました。

早くと思いながら行事が目白押しで後々になってしまってました。
ぼちぼちお答えしていこうと思います。

まずは、こちらから。

対人関係において日々悩むことがありますが、
他人の考え方や行動は変えることができません。
何か考え方というか、
気持ちの持ち方のヒントになることはありますか。


これについては、かつて、ブログの弟子の小野原雅夫先生
回答を書いておられます。

スティーブン・コヴィーの 『7つの習慣』
という本の紹介のようですが、
中程に簡潔に要点がまとめられています。

コヴィー氏は 「すべての問題は影響できる」 と言い、
私たちが直面する問題を3種類に分類することを提案しています。
・直接的にコントロールできる問題 (自分の行動と関係している問題)
・間接的にコントロールできる問題 (他人の行動と関係している問題)
・全くコントロールできない問題 (誰も影響できない問題、過去の出来事など)

第1のグループは当然、自分の行動で影響できます。
第2のグループは、自分が他人に影響を及ぼすことによってコントロールできます。
第3のグループにも、自分の態度を変えることによって影響を及ぼすことができるのです。
つまり、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれを受け入れればいいのです。


そしてこのような座右の銘が引用されています。

「主よ、変えるべき変えられることを変える勇気を、
 変えられないことを受け入れる平和を、
 そして、その区別をつける知恵を与えたまえ」


とても大切なことを非常にシンプルにまとめた言葉だと思って
読んだ記憶があります。

今回上記ブログを読んで改めて思ったのですが、
その前半部分にある
「問題は外から自分に降りかかってくるものと考えるのではなく、
自分はすべての問題に対して主体的に対処することができるのであり、
その責任を引き受けよ」
については、
講演に参加された方はワークを通して
実感することができたのではないでしょうか。
よい復習になると思うので、是非、小野原先生の記事を読んでみてください。

また、上記記事にある
「笑顔をつくり、穏やかな気持ちで受け入れる」については、
同じく小野原先生の「幸せになる方法」とセットで読むと、単に「されるがまま」ではないことに
気づくことができると思います。

幸福というのは自分の外からやってくるものと思っている人が多いですが、
それは完全に間違いです。
幸福とは、自分で感じるものです。
感じなくてはいけません。
(中略)
したがって、幸福になるための第二の秘訣は、
満足しやすい体質を作っておくこと、にほかなりません。
つまり、日頃から幸せの感受性を高めておくことが大事なのです。


そして、具体例をあげてメッセージとしていますが、
その表現がとても気に入っていますのでそれも引用しましょう。

晴れた朝には、いい天気だなあと窓を開け、
雨の日には、これでまた湖に水がたまってよかったなあと美味しい水を飲み、
月曜の朝学校に向かうときは、通学路の軒先の花の香りを楽しみ、
選挙カーの騒音を聞いたら、民主主義の国に生まれたことを感謝する。
日々の生活のちょっとしたことの中にいちいち満足を感じるように努力して、
少しずつ幸福の感受性を高めていってください。


ということで、上記質問に対する答えとしたいと思います。

「人間形成学特講」終了!

2010-08-25 18:23:39 | 授業日記
8月23日(月)から25(水)まで、
神戸大学で「人間形成学特講」の集中講義を行ってきました。

今回は、3日間とも5コマ(うち1コマはレポート)という
ハードスケジュールでがっつり講義をやってきました。

プログラムは
1日目:人間形成過程についての基本的理解
(1・2)人間形成過程についての基本的理解:遺伝と環境
(3・4)人間形成過程における自己意識の問題
(5)ミニレポート

2日目:自己意識の発達と自尊感情
(1・2)自己意識の発達
(3・4)アイデンティティの形成
(5)ミニレポート

3日目:人間形成過程と自己意識
(1・2・3)人間形成過程と自尊感情
(4)自尊感情神話への批判
(5)ミニレポート

私は自己論や青年期論が専門なので、
「人間形成」といっても、その過程において
自己意識がどのような役割を果たすかということを中心にしつつ、
授業を組み立てました。

今回、自分なりに新しく展開できたのは、
初日の「遺伝と環境」について、ジェンダーとの絡みで
その問題を問い直すというものです。

「遺伝か環境か」といった問題は、
いまや「遺伝も環境も」、とりわけ
「遺伝と環境は相互に作用し合う」という考え方が
常識となっています。

ところが、性差をめぐる議論では、
「性差はつくられる」という主張が強くあります。
もちろん、性別には環境からの働きかけも非常に大きいことは
言うまでもありません。
その意味では、確かに「性差はつくられる」ものです。
しかし、もともと性別はないのだという考え方は
「環境が決定する」という環境論の立場を強くとるものだと
とらえることができるわけです。
そして実際に、その論にのっとったがゆえの悲劇も実在します。
cf. 『ブレンダと呼ばれた少年』

「遺伝か環境か」という議論は、もはや時代遅れの考え方だと
思われているでしょう。
しかし、いまだに、領域によっては、いずれが決定するかが議論されており、
しかも、その見解が、思想や政策に影響を及ぼすほどの力を
もっていたりもするわけです。
性差においても、当然ながら、「遺伝も環境も」と考えるのが妥当でしょう。

現在、遺伝学がどんどん進歩しています。
しかもその議論は、何かが明らかにされる(環境との相互作用含めて)
という方向での知見はもちろん、
かえって、「人間には未知なる部分がある」ということを
明らかにするものもあって、
その研究結果自体も非常に面白いものです。
その上、その視点で、別の議論を読み直すことができたのは、
私にとっても非常に刺激的な作業となったのでした。

「ストレス・マネジメント」at中学校

2010-08-19 23:59:59 | 授業日記
スクールカウンセラーとして務めている中学校で、
その学区の小学校・中学校の先生方を対象に、
「カウンセリング・マインド研修」を行いました。

「カウンセリング・マインド」は、
これまでも授業でやったことあるのですが、
今回は、思い切って、そのスキルやテクニックの前に、
まずは相手を受け止められる自分の状態を作っておこうという趣旨で、
「ストレス・マネジメント」をテーマに決めさせていただきました。

私たちのストレス反応には、
身体的側面のものと心理的側面のものがあります。

身体的側面の簡単なものとしては、脈拍が上がるなど。
心理的側面の簡単なものとしては、気分の変動など。
実際に、複数の状況下で脈拍を測定してもらったり、
ストレッサー(ストレスをもたらす原因)を人工的に与えて
その前後で気分の評定をしてもらったりしながら、
進めさせていただきました。

それらを通して、ストレス発生の機序を学び、
最終的には、ストレス状況下におかれた際、
・ストレッサーに対して
・ストレス状況への評価に対して
・ストレス反応を起こしている気分や身体に対して
どのように対処していこうか、ということを
グループで話し合ってもらうというのが目的でした。

職場の仲間ですから、話しやすいところと
かえって話しにくいところがあったかと思いますが、
皆さん積極的に参加してくださって、盛り上げてくださいました。
グループワーク中心だったので
どうなることかと実はとても不安だったのですが、
本当に有り難かったです。
結果的にはとても楽しく、私はしばし爆笑しながらの
ストレス・マネジメント講座となりました。

今回の研修に参加された先生方、
積極的に取り組んでくださってありがとうございました。

上記ストレスへの対処に加えて、
もっとも有効にストレスに立ち向かう力は、人の支えです。
学区内の先生方ですから、もともとネットワークはあったと思いますが、
今回の研修の副産物として、それがさらに促進されていれば
嬉しい限りです。

また、ストレスは、それ自体、決して悪者ではありません。
それがあることで生活にはりも出てきます。
自分に悪い影響を与えているストレスにはうまく対処し、
心地よいストレスを味わいながら、
皆さん、毎日を乗り切っていきましょう!

「自分を伸ばすための心理学」in神崎郡

2010-08-18 23:59:59 | 授業日記
兵庫県神崎郡というところの
「神崎郡小中学校事務職員協議会夏季研修会」にて、
「自分を伸ばすための心理学」というタイトルで
講演をしてきました。

今回は、生徒を伸ばすためにはどうすればよいか?ではなく、
ご自身を自分で伸ばすためにはどうすればよいか?をテーマに、
組み立てました。

具体的には、
・自分の「欲求」について考えよう
・欲求があっても動けない場合、欲求をもとに動ける場合の
 メカニズムをそれぞれ理解しよう
ということを骨子に、お話ししてきました。

前回の反省をもとに、
できるだけ、参加型で講演を展開できるようにしたのが
今回の(今回以降の)大きな変更点です。

今回は、もともと、参加者の方々が顔なじみで、
すでに私の講演の前には和やかな雰囲気ができあがっていたことが
大きく幸いして、
私もその中に混じらせていただく形で、
色々やりとりをしながら話をさせていただくことができました。

お互いのワークシートへの回答に爆笑し合ったり、
私のひっかけ問題に素直にひっかかってくださったり、
とても楽しく参加してくださって、皆さんに感謝です。

ブレイクをはさんで2時間ほど話をしていたのですが、
楽しく時間を過ごすことができました。
満足度得点は、4.27点(5点満点)で、
前回の4.16点よりわずかばかりのアップなのですが、
皆さんの感想からは、
「わかりやすく楽しかったです」「すっきりしました」
「充実した時間を過ごすことができました」など
無理なく書かれたポジティブな感想をいただくことができ、
(これまでは、いいところを探そうとしてくださって
 ポジティブな感想を書いてくださってた感があったのです…)
これからの励みになりました。

ありがとうございました。

いただいた質問への回答はまた改めて書かせていただきます。
もうしばらくお待ちください。

「自分を伸ばすための心理学」コメントリプライ(3)

2010-06-25 20:22:04 | 授業日記
ひき続き、3つめの質問です。

 3.体系的に話をするとなると、
 どうしてもマジョリティーについての話になるとは思いますが
 現場はマイノリティーの対応に苦労をしています。
 マジョリティーについての話を、どうつなげていけばよいのでしょうか。


今回は、全般的な心理傾向を理解してもらうことを目的にしていましたので
概ねの人にあてはまりやすいところを中心にお話させていただきました。
なので、当たり前に聞こえる事が多かったのかも知れません。
ですが、当然、目的意識をもってそのように組み立てています。

その観点について、補足をしたいと思います。


ただ、マイノリティー、マジョリティーの定義がよく分からないので、
なかなか答えにくいのですが、
行動面での区別をしていると仮定してお答えしますね。


なぜそのような行動をするのか?を考えるときには、
その子の心理について考えることが必要になります。

そして、ここからが大切なのですが、
マイノリティーとされる子どもであっても、
マジョリティーと重なる心理傾向は持っています。

たとえば、自分の価値を感じたい、認めてもらいたい気持ちなどは、
おそらくどのような人間においても抱かれている心理だと思われます。

また、悩んでいる場合、問題を起こしている場合も、
その行動の背後に共通する心理的原則を知っていることで
悩みや問題の意味を考えていくことができます。

なので、ここで「マジョリティー」とされている心理を
きちんと理解することは重要なのです。

「マイノリティー」に見える生徒であっても、
それは、その生徒の一部を見ているからそう思えるだけともいえます。
表に現れた行動だけを見ていると、
マイノリティーと思っている生徒と
マジョリティーと思っている生徒との共通点を見出せないかもしれませんが、
その子の心を理解する上では、一般的な心理について知っておくことは
絶対に役に立ちます。

勉強ができない、方向が見えない、友達がいない、などの悩みは、
決して一部の子どもだけに見られるつまずきではありません。
また、言うまでもないことですが、マジョリティーとされる子どもも、
共通するところと同時に、皆、独自の心は持っています。

その辺りを、一歩、立ち止まって考えていただくきっかけに
していただければとも思います。

・・・とはいえ、
これについては、
ここまでつなげるのが私の仕事だったなあ、とも思いました。

ここで書いたことを、“つなぎ”に使い、
次に、具体的な行動のバラエティーとの兼ね合いを
示すことができたらきっとわかりやすかったですね。

そのような工夫の必要も感じました。
この補足で、少しフォローになればいいなと思います。

その他にも、色々なコメントありがとうございました。
ヒットしたところはどこだったのか、
また、工夫のしどころはどこなのか、など
とても参考になりました。

次回に生かしていこうと思います。
ありがとうございました。

「自分を伸ばすための心理学」コメントリプライ(2)-2

2010-06-24 20:01:45 | 授業日記
昨日の続きです。

 2.部活、授業、指導などで、生徒にどの程度の
 負荷、カベ、目標を与えたらよいのですか?


この質問で、負荷、カベ、目標とあるのを、
それぞれ、(1)プレッシャー、(2)課題、(3)目標として考え、
昨日は、(1)プレッシャーについて書いてみました。

今日は、(2)課題と(3)目標について書きますね。


(2)課題について

人は、課題がどれだけ客観的に適切なものであっても、
それを自分がやれるだろうという「効力期待」がもてなければ
なかなか動くことができないものです。

なので、「効力期待」のもてる、しかし、結果を導けるような
課題をどう与えるかということが重要になります。

一般的には、やる気を出す課題というのは、
少し努力をしたら解決できる程度のものである、
とされています。

簡単すぎたら退屈するし、
難しすぎたら不安で動けなくなる。

その人の力量と難易度のバランスがとれている時、
人は夢中になりやすいと言われます。

じゃあ、どういうのがその人にとっていい課題なのか?
となると、結局は、
相手がどのような状態にあるか、
何が出来て何が出来ないか、
何が出来そうになっているかなど、
相手を知る事が不可欠になってきます。


(3)目標について

目標は、本人がどれだけ傾倒できるものであるかによって
その目標が意味あるものかどうかが大きく変わってきます。

つまり、課題やプレッシャーよりも、目標は、
本人がそれを選び、それに向かっていこうとしているかどうかが
重く吟味されるもののように思います。

特に「人生の目標」などは、本人が時間をかけて探していくものでもあり、
それを見つける事が青年期の大きな課題とも言われるほどです。
言い方を変えれば、それを見つけられれば、
人生に対する意識も変わるほどのものであるとも言えるのです。

なので、目標に関しては、
「目標を与える」というよりは、
「目標をもつ過程や、目標に向かう過程を支える」という視点に
なるかと思います。

第1に、大きな目標には、それを叶えるための小さな目標が
必要になってきます。
つなげる「はしご」です。

その「はしご」をどうつけてあげられるか。
それがサポートのしどころだと思います。

第2に、その目標は、夢やあこがれではなく、
現在の自分が向かっていくという、
現実感覚に基づいたものであることが求められます。

そのためには、本人の自己理解が深まるような支えが
必要になってくると思われます。

第3に、人生の目標が見えなくても、
日々の中で小さな目標を掲げる事は可能です。
その先に自然と大きな目標が見えてくる事もあります。

その「小さな目標」は、先に述べた「課題」と似ているところが
あると思います。

自分の能力に照らして、取り組むべき課題は、
そのまま「小さな目標」になりますね。
そしてそれはもちろん、「効力期待」のもてる
「行動目標」であることが望ましいです。

となると、(2)でも述べたように、そのためには、
自分に何ができるかを考えたり、
また、どの程度のものに取り組むべきかを整理したりすることが
必要になります。

ということで、目標に関しては、
「目標を与える」というよりは、
「目標をもつ過程や、目標に向かう過程を支える」という視点で
向き合っていくのかな、と考えた次第です。


明日までコメントリプライです。

「自分を伸ばすための心理学」コメントリプライ(2)-1

2010-06-23 20:15:42 | 授業日記
昨日に続き、2つめの質問です。

2.部活、授業、指導などで、生徒にどの程度の
 負荷、カベ、目標を与えたらよいのですか?


負荷、カベ、目標とあるのですが、
うーん、考えるために、勝手ながら、
それぞれ、(1)プレッシャー、(2)課題、(3)目標として
書かせていただこうと思います。


まず、(1)プレッシャーについて。

プレッシャーを感じる場面は、
・相手が期待してくれているから、
・どうしてもそれをやり遂げないといけないから、
など色々あるかと思いますが、
それは逆に、「だからがんばろう!」と
思わせてくれるものでもあります。
つまり、プレッシャーがあるからこそ、
動けるという側面をまず指摘できると思います。

プレッシャーは、ストレスと同様、
自分を成長させてくれるものです。

ですが、プレッシャーが大きすぎて動けなくなることがありますね。
なぜでしょう。

プレッシャーというのは、
結果を出さなければならないときに感じるものであり、
自分が「結果」を得る事が出来るのだろうか?
ということに密接に関わっています。

そして、51対49であっても、自分はやれると思っていたら
心地よいプレッシャーとなるだろうし、
到底自分はやれないと思っていたら、そのプレッシャーは
大きな重圧となるでしょう。

「自分はやれない」「この状態が大変」だけだったら、
それでもやるしかないのですが、
その時に生じた不安や恐怖は、思考によって増幅されます。

不安や恐怖を増幅する思考とは?

もしも「結果」を成し遂げないと、
「他者からの承認」や「自分の価値」は全て失われてしまう

そういう考え(思いこみ)です。

そう思うと、プレッシャーはとても大きなものになるでしょう。
「他者からの承認」や「自分の価値」を感じることは
心理的健康において、とても大きなことだからです。

なので、その結果が得られない時に、
その自分を受け入れることができるか否か、
そこが、プレッシャーに伴う不安の大きさを左右するように思います。

もちろん、全身全霊を懸ける事態というのもあるでしょうが、
日常的には、
「その子全体の価値は結果の如何に依存しない」ということを
メッセージとして伝えつつ、
(つまり、失敗したとしても、君には挫折に打ち克つだけの
 強さがあるんだよ、ということを日々において伝えつつ)
プレッシャーを与える事が大事だと考えます。

また、やれるかもしれないと思った時は、
プレッシャーは苦しいながらも心地よいものにもなりますので、
そういう認知をもてるようにサポートすることも必要でしょう。


・・・思いがけず長くなってきましたので、
(2)課題、(3)目標については
引き続き明日、書かせていただきます


「自分を伸ばすための心理学」コメントリプライ(1)

2010-06-22 22:56:10 | 授業日記
先日、自分を伸ばすための心理学という講演をさせていただきました。

ようやく、アンケート結果が届きましたので、
今日から3回、質問に答えていきたいと思います。


1.ポジティブシンキングとポジティブ感情の違いはなんですか?


「ポジティブな思考」と「ポジティブな感情」の違いです。

ポジティブな感情とは、うれしい、楽しい、など、
自分にとってプラスに感じられる感情です。
いい出来事が起こった時や、自分の好きなものを目にしたときなどに
わき上がってくる感情です。

ポジティブな思考とは、起こっている事柄について、
肯定的にとらえようとするものの見方です。

たとえば、取り返しのつかないような大きな失敗をしてしまったとき、

・行動したからこそ失敗したのだ、行動しただけでもよかった
・失敗したからもう失敗することはない

というように、その失敗をしっかりと引き受けた上で
失敗した自分というものをポジティブに受け止める思考があります。

同時に、

・自分のせいではない
・あれは大した失敗ではない

あるいは

・あれを失敗だという他人が悪い

というように、その失敗したことを引き受けられないままに
「ポジティブ感情」だけを求めて思考を切り替えることもあります。

つまり、単に、ポジティブな感情を抱くことを目的とする思考もあるのです。

ここを区別したいと考えています。

見るべき現実を見ないことや、引き受けるべき事柄を引き受けないことなど、
見方をゆがめる方向への思考が進むと、都合良い現実が作り上げられますから
その現実に対してポジティブ感情を抱くことは可能になるでしょう。

しかし、その思考は、かえって現実に立ち向かう力を奪ってしまいます。
何らかの感情を抱くことを目的とした思考のコントロールは、
得てして不自然な結果を抱く弊害が指摘されることも少なくないです。

その意味で、ポジティブ思考とポジティブ感情は、イコールではないのです。

もちろん、ポジティブ思考に至ったときには、
ポジティブ感情が自然と生じてくることは多いだろうと思います。

とはいえ、感情は思考によって媒介されますから、
ポジティブ感情を抱くことを優先し、その後で思考をするのが
精神的によい場合も少なくないでしょう。
その時には、むしろ「気分転換」。

好きなことを考えたり、身体を動かしたり、別の課題に取り組んだりして、
不安や心配によって思考過程が阻害されない程度に感情状態を回復させてこそ、
現実に起こっている物事をきちんと見つめながら、
そこにあるポジティブな意味合いに出会うことが可能になるようにも思います。

というわけで、

ポジティブ感情は、個人が感じるプラスの感情
ポジティブ思考は、起こっている事柄について肯定的に考えること
そして、
ポジティブ思考には、単にポジティブ感情を抱くことだけを目的としたものと
きちんと現実を受け入れた上で進められるものなど、いくつか質の違いがある

といえるでしょう。

ついでに、

ポジティブ感情を抱くことで一時的な幸せを感じられますが、
永続的な幸せは、ポジティブ感情のみでなく、
現実に基づくポジティブ思考によって支えられていると考えられています。

応援

2009-08-10 15:11:04 | 授業日記
私が所属している兵庫教育大学は、
教員採用試験合格率ナンバーワンを誇る大学だそうです。

当然執行部の意識も高く、この真夏、しかも台風の危険も迫る中、
2次試験面接に向けての対策として模擬面接が実施されています。


私も初めて模擬面接の指導に参加してきました。
初めてなので最初は緊張していましたが、
途中からはとても楽しく参加しました。

模擬面接(しかも指導の意味合いが強い)は、
その人を査定するためのものではなく、
その人を応援するための活動なので
とても楽しかったのです。

人のいいところの萌芽はどんどん見えてくるので
それについてあーだこーだと言いながら、
その活かし方をあれこれ検討していくのは
とても好きな作業です
言っている内に、わあ、この人こんなにすごーい
と、勝手にテンションが上がっていきます。


ただし、「応援」するのが幸せだとしても
自分が幸せになるために応援するわけではない。
テンションが上がった時には要注意

私の職業には、教師として、カウンセラーとして、
他者を「応援する」ことをプロとして行う側面があります。
そのような場合には、
どのように応援するかというその応援の仕方はもちろん、
そもそも応援すべきかどうかということも含め
(時にはその応援すべき相手が誰なのかさえ)
常に検討されるべき余地を含んでいます。

これがものすごく難しいことだから、
トレーニングを続けなければならないわけですよね。
時には自分の応援の不適切さに深く悩んだりもします。
しかも相手のあることなのでその責任は重大で
罪悪感に苦しむ事もあります


でもそれでも、やはり私は、人を応援することが好きです。
なので今日のお仕事は幸せな活動でした

あれ、そうなると、私は学生を
自分の好きな活動に付き合わせちゃったのかな?

…まあ、利害が一致しているから、許してもらいましょう。
そして、皆、教員採用試験合格に向けて、
がんばってください

p.s. 福島大の皆も頑張れ~っ
そして、中間玲子、あんた自身もがんばれ…

ちょっと違うでしょ。。。反省もこめて。

2009-07-12 09:41:34 | 授業日記
ある人の話をネットラジオで聞いていて、
ちょっと違うでしょ。。。と思う事がありました。

話の趣旨は、コミュニケーションにおける非言語情報の
重要性という事でした。
もちろん、それは事実で、私も授業でそれに触れたりします。
先日も、私たちがやりとりにおいて、言語以外の情報を
いかにやりとりしているかという話をしました。
http://blog.goo.ne.jp/rayray-cocco/e/f963856aacd156bd2bc155c12043d623
なので、うん、うん、と首肯したり、
参考事例の勉強したりしながら聞いていたのですが、
そのメッセージは危険じゃないの?と思う事がありました。
まったく間違っているわけではないのですが誤解されそうな。

1つは、オバマ大統領の演説について、
その演説における自信の程度や落ち着き方などが
高く評価され、アメリカ人の支持を得たという話。
それはもっともなのですが、その際、
オバマ氏の原稿はスピーチライターが書いていたことを
他の候補者と比べて特に言及するわけです。
ヒラリー氏やマケイン氏もおそらくスピーチライターが
書いた原稿だったのでしょうが、それについては
その内容のすばらしさに言及するわけです。
それでも、アメリカ人の支持をえなかった、と
話がこう流れていくわけです。

これって、
「ヒラリー氏やマケイン氏はいい原稿を持っていたが
 その表情や自信のなさなどから支持されなかった。
 オバマ氏は人の原稿を読んでいたが
 その伝え方によって支持された。」
とも聞こえかねませんか。
となると、「内容はどうでもいい、提示の仕方だ」と
なりかねませんか。

昨今、特に政治的行為については、
雰囲気だけで行動する、ということが批判されてきています。
このような論調は、内容を軽視した雰囲気重視のコミュニケーションを
助長することにもなりかねないのではないか、と危惧します。

非言語情報の話は、言語情報が全てだと思っているところに
それ以外の情報の重要性を指摘する点で非常に有益です。
実際の対人場面の場合は、言語内容はともかく、表情などから
「察する」といったことが行われ、
そこからはたらきかけがなされ、
言語情報のやりとりへと展開していき、その人についての
重要な理解を得る事ができることがあります。
非言語情報を無視していては、そのような展開は起こりません。
ですがそれは、言語情報を無視していいということではありません。
むしろ、言語情報と非言語情報とのギャップや違和感それ自体も
重要な情報として送られ、私たちをそのコミュニケーションへと
かき立てていると考えられます。
そして多くの場合、その違和感やギャップは、対話によって
言語化がなされるということによって解決されるのではないでしょうか。
(もちろん、絵画や音楽など、別の形態による表現もあるでしょうが
 多くの場合、ということです)
つまり、非言語情報は大事だけれども、
人を理解するという観点から見た時には、
非言語情報だけでは不可能ではないかと考えられるのです。

話をもとに戻すと、自分が意図的に何かを伝えようとする場合でも、
その伝えたい内容があってこそ、非言語情報の演出効果は
最大になるのではないでしょうか。

非言語情報は非常に大事です。
確かにどんなにいい言語情報であっても
伝え方でどう伝わるかが全く異なってきます。
また、言語だけでは伝えきれない内面を吐露するチャンネルにもなっています。
でもそれは、繰り返しになりますが、
言語情報の内容がどうでもいいということではないのです。

非言語情報の重要性の話がこういう方向に展開することが
あるのかとむしろ驚き、
この話を授業で扱う時には次から十分気をつけようと
自戒した次第です。

もう1つ。
第一印象についての話がありました。
第一印象というのは非常に重要です。
非常に限られた情報しか与えられていないのに、
そこから私たちはその人についての色々な仮説を立て
今後のつきあい方の方針を瞬時に判断するからです。

なので、どういう印象を相手に与える事ができるか
もっと考えて日頃から努力しましょうという話でした。

これも確かにその通りなのですが、
重要な観点が抜けています。
第一印象を形成する際、私たちはその相手からのみ
情報を得ているわけではないということです。
私たちはこれまでに出会ってきた色々な他者の情報も付加しながら
その人についての限られた印象から、全体の印象というものを
形成していきます。
つまり、第一印象が悪かったといっても、
それはその印象を与えた本人のみのせいとは限らないのです。

これは、対教師への印象などにおいてよく起こります。
生徒は、新しい先生に出会った時に「値踏み」をします。
それはその先生を理解してのことではなく、
これまでの先生や大人へのイメージが多く付与されての
勝手な値踏みであることが多いです。
教師が対生徒に対して行っていることもあると思います。
それを理解していないと、たとえば悪いイメージを相手に
もたれた場合に、「自分のどこが悪かったんだろう」と
延々落ち込むことになりかねません。
印象についての努力をした人ほど
落ち込んではい上がれなくなるのではないでしょうか。

もちろん、第一印象がよくないと、
その後、その人と会うチャンスさえなくなり、
その印象を覆すことさえできなくなることがあります。
また、第一印象が悪いため、相手がこちらに対して
否定的な態度で接して、こちらも否定的な態度で応じて
結果として、本当に印象の悪い人になってしまうかもしれません。

その話者も、こういうことが言いたかったわけで、
その点は十分理解できます。
なので、第一印象をよいものにする努力をしましょうという
メッセージを否定する気はありません。
ましてや、印象が悪くてもそれは相手の偏見のせいだから
あなたのせいではないのですよ、という気も毛頭ありません。

でも、その印象形成の要因は自分だけにあるわけではない、とことも
同時に知っておく事で、うまくいかなかった場合にも、
ひどく自分を責めて悩んで、不安が募って
結果として否定的なコミュニケーションを展開する、
というスパイラルからは逃れられるのではないかと思うのです。

自分のはたらきかけによってコミュニケーションの過程を
変える事はできるでしょう。
でも、コミュニケーションがどちらか一方によって
操作されているかのように考えるのは、ちょっと違う気がします。
この手の話で怖いのは、「こう努力しましょう、そしたらこうなる」と
こちらの働きかけで結果が変わる事を強調しすぎている点です。
はたらきかけと結果との間には、実に多くの要因が介在しています。

その辺もうまく理解してもらいながら、
それでもはたらきかけていくことの意義を
考えながら問いながら伝えていきたいなあと、
また、自戒した事でした。

修行の過程(4):なぜ仏様に出会えたのか

2009-06-30 09:45:45 | 授業日記
さて、前回、修行中に仏様に出会う意味について考えました。
そして、大きな自己意識の変化が促されるのではないかと
考察しました。

では、なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか。
この問いには、
(1)なぜ、「仏様」を見る事が可能だったのか
(2)なぜ、その出会いでその人が変わる事ができたのか
が含まれます。

(1)については、幻覚であったと昨日書きました。
ですが、必ずしも幻覚に浮かぶのが仏様とは限りません。
なぜ仏様だったのでしょう。

実は、幻覚のメカニズムは私にはまだ理解できないところが多いので、
上記の問い「なぜ仏様だったのか」を考えるにあたっては、
それを考えるヒントとなる話をするにとどめます。

北浜邦夫『ヒトはなぜ、夢をみるのか』(文春新書)の
説明をひいてみましょう。

私たちが、ものを見るという場合、外からの刺激によるものと、
脳内に生成される映像を見る場合の2つがあると考えられます。
そして外からの刺激がない時にみるもの、つまり、夢や幻覚は
この後者をみているということになります。
普通、何かを想像しようとしても、細部まではハッキリと見えず
漠然としていることが多いのですが、
意識水準が低下してくれると
明瞭にものが見えるようになり、聞こえるようになるそうです。
これが幻覚です。

ところが、上記の問い「なぜ仏様だったのか」は
これでは説明が不十分です。
これについては、「脳の仮説立証性」をひいておきましょう。
これは、何か外からのぼんやりとした刺激を受けた時に、
私たちがそれをどう判断するかということについての話です。

たとえば、何かぼんやりとした光とか物体とかがあるとする。
最初、そういうものに気づき、見るともなくぼんやりと見る。
受動的に注意するわけです。何かがあるようだ、と。

すると次に、「何だろう?」と目をこらしたりして
その物体を追ってみたり探ってみたり、能動的に
注意する段階に移ります。

その時、まだしっかりとした輪郭を描くほどには
見えていない物体ですが、その見えたところの情報が
脳に集められます。
そして、その情報について、
その線の傾きや色や形はどうであるのか、
そしてそれらはどこにあるのか、などが
脳で分析され、さらにその後統合されて
「○○が見える」という知覚が成立します。
その時、それらの情報は、
過去に同じような刺激として束ねられた情報と同時に
統合されるのだそうです。

結果、「おそらく○○だ」と思ったものを見る
ということが起こります。
おそらく○○だろうと思い、昔見た○○の記憶と比較し、
次にもう1回確かめて「○○だ」と分かる。
つまり、「学習した経験と生得的な情動体験を基礎にして
新しい刺激を自分の都合のよい方向に解釈していく」のです。
これが「脳の仮説立証性」です。

ただし、この場合、外からの刺激の処理と
記憶にある表象(心像)の処理が同時に働いています。
ですが、幻覚になると、刺激がないところから、みたいものの
輪郭を描いていくということについては、
もう少し勉強してからまた書いてみたいと思います。

さて、ここでメインにしたいのは実は(2)の問いでした。
(2)なぜ、その出会いでその人が変わる事ができたのか
です。

なぜ、それが可能だったのでしょう。
なぜ、その出会いでその人が変わる事ができたのでしょうか。
それなら修行の最初で睡眠不足になってみて、
手っ取り早く幻覚を見たら良かったのでしょうか。
 
私は自己形成過程についてずっと悶々と考えているわけですが、
人が変わるその瞬間というのは、突然やってきたように見えても、
やはりそれまでに“レディネス”を調える時間が
あったのではないかと考えています。

人はどんな場合であっても
以前とまったく同じであることはできません。
時間の流れと共に我々も変化し続けているからです。
ただし、それが自覚できるかどうかはまた別の問題で、
自覚できないレベルで、私たちは日々、変化を遂げています。

だからどんな瞬間もかけがえがない二度とやってこない一瞬なんですよね。
でもそのことになかなか気づかないもんです。

墓守修行の人の場合も、おそらく、日々と共に
どんどんその人は変わっていっていたのでしょう。
つまり、日々の時間を重ねる中で、大きく変化するレディネスを
調えていったのではないかと考えられるわけです。

ただしそれは、本人には自覚されない変化だったのでしょう。
本人はそれまでの自分の変化は分からないので
おそらく、仏様に出会った瞬間を劇的に変化した
大きな転機ととらえるのでしょう。
ですが、やはり、その瞬間に至るまでは、
大きく変化するレディネスを調える時間があったのではないか、
それが調わなければ、そのような大きな変化は起こらないのではないか、
私はそう考えています。

ただ、それをどう可視化するのか、
また、レディネス形成を促すことは可能なのか、など、
わからないことだらけです。

今日はわからないことが多いです、ということに
終始してしまいましたね。

修行の話は今回で終わりですが私はまだまだ修行が足らないようです。