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中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

『アメリ』

2010-03-02 16:00:00 | 映画日記
「アメリ」を見ました。
内容については、Wikipediaに詳しく書かれています。
ストーリーが分かっても、観る楽しさは減らないと思うので
読んでいただければと思います。

ちょっとだけ内容を書きますと、

孤独な世界に育ったアメリは、
空想することで、
楽しい気持ちを味わうという生き方をしてきました。

ですがある時、アメリは家で以前の住人の古い宝箱を見つけます。
アメリはその人について空想します。
そしてこれをその人に届けたらその人はどんな気持ちになるだろう…と
空想します。
そして届けてみようと思いつきます。

それは成功し、空想のターゲットとなっていた
現実の見知らぬ男性をとても幸せな気持ちにさせます。

この結果を知ってアメリは、
「突然、世界と調和がとれたように」感じます。

そこからアメリは、人が幸せになる様子を空想し、
その空想を現実にしてしまうような仕掛けを次々に行います。
そして実際にその仕掛けがうまくいって
皆が幸せになっているのを観て、微笑んでいます。

でも、そういう関わり方で、
人と実際につながることができているわけではないことを
彼女は知っています。
部屋に戻り鏡を見ては毎日、
「人との関係が結べない」自分の顔をじっと見つめます。

この時、アメリにはつながりたいと思う男性がいました。
その男性とつながろうと試みるのですが、
どうしても肝心なところでつながることから逃げてしまう。

そんな中で、アメリの心の中の2つの声が
連続する2つの映像として映し出されます。
そのシーンがとても印象に残りました。

★映像1:同じアパートに住む老人との対話
(アメリは、老人に「ある娘の話」として
 自分の恋の状況を打ち明けていました)
老人 「本当に好きなのか?」
アメリ「ええ」
老人 「ならば娘は今こそ本当の危険を冒さねば」
アメリ「娘もそう思ってるわ、だから今、作戦を練って」
老人 「それが好きらしいな、作戦が」
アメリ「ええ」
老人 「だがちょっと卑怯だ、だから娘の視線がつかみにくいんだな」

★映像2:ある男の演説シーンのような場面(空想?)
「不当な干渉だ、赦し難い!
 アメリの自由だ!
 夢の世界に閉じこもり、
 内気なまま暮らすのも彼女の権利だ!
 人間には人生に失敗する権利がある!」

グッサリきました。

これらは恋をめぐる話でしたが、恋にかぎらず、
映像2のような論理を盾に、
心ある声に背を向け、耳をふさいでいた経験、ありませんか?

私にはあります。
その時、私を理解してくれる声は映像2のものでした。

誰かが光ある方へ手をひいてくれようとしても
それでも光はまぶしすぎるからイヤだと、その手を拒む時。
今の閉じた世界が幸せではないと感じながらも
それ以上の苦しみが怖くて
幸せを求めない事でなんとか安定を得ようとする時。

でも、、、

そんな世界に住んでいる人でも、
心の底では幸せになりたいと思っているのではないでしょうか。
たとえ、幸せに手が届きそうなことが
今の苦しい状況を越えるほどの不安を与えていたとしても。

もしも目の前にある幸せとつながることに脅えてしまっている人は、
どうぞアメリの勇気をもらってください。

そして、今、幸せを感じることができている人は、
どうぞアメリの勇気と幸せに乾杯してあげてください

『ぼくの大切なともだち』

2010-02-12 06:00:00 | 映画日記

学生が授業のコメントで引用していた映画
『ぼくの大切なともだち』を見ました。

骨董商を営むフランソワという中年男性が、
ある日、仕事仲間との食事の席で
「他人に関心がない」ということを指摘され、
「君には友達がいない」と言われます。

「そんなことはない!」とフランソワは反論するのですが、
その場にいた誰も、彼を友達と見なしてくれていません。
(確認して「違う」と直接言うあたり、フランスなのでしょうか…)
しかし、フランソワは「自分には友達がいる」と言い張ります。
すると、「じゃあ、10日以内に紹介して」と、
彼に友達がいるかいないかの"賭け"が始まってしまいます。

フランソワは自分に友達がいると思っているのですが
誰も友達と見なしてくれていない事実に次々と直面します。
リストを作って「友達」に当たるのですが、
相手からは罵倒さえ飛び出す始末。
誰も彼を友達だと言ってくれません。
彼は「友達を作るにはどうしたらいいんだ?」と
悪戦苦闘していきます。

しかしこの時点では彼は、
「友達がいない」ことに本当に悩んでいるのではなく、
「友達がいないと賭に負ける」から困っているだけなんですけどね…

そんな中、タクシー・ドライバーのブリュノに出会います。
ブリュノはとても感じがよくて、誰にでもすぐ話しかけられる。
彼のそんな姿を見て、彼についていけば
友達を作るコツがつかめると考えるわけです。

ブリュノはタクシー・ドライバーの仕事をしながら
車にフランソワを乗せて、彼の話を聞いてあげたり
実践(?)を見守ったりしています。

そんな彼を支えようとしてくれている時点ですでに
ブリュノは友情を示してくれているんですけどね・・・。

ようやくブリュノの友情にフランソワは気づいていくのですが
しかし、彼がなぜそんなに友達を求めたかというと、
賭に勝ちたかったから。
彼の関心はやはり「どうすれば友達だと認めさせ賭に勝つか」。
その目でブリュノの友情を査定しています。

さて、ブリュノはというと、フランソワからは友達の達人と
思われていたにもかかわらず、彼自身、孤独でした。
「誰とでも仲良くなれるって事は誰とも仲良くないってことだよ」
と彼は言います。
でもフランソワと違い、
ブリュノはその孤独を感じながら生きていた人でした。
だから彼にとってフランソワは、かけがえのない大切な友達だったのです。

物語の後半では、その気持ちの違いが浮き彫りになるのですが、
ブリュノはそういう気持ちの違いがあるなんて思っておらす
(フランソワも実は思っていない、というか考えていない)
その気持ちの違いが顕現化した時に、互いにショックを受けるのです。
それぞれが違う方向で…。

こういう背景の部分って、実際には目に見えません。
見えないけど、相手を信頼することで、
友情を成り立たせているところがあるのでしょう。
だから相手に対して笑顔を向ける事ができるし、信頼することができ、
そして相手もそれを受け止めて笑顔を向けてくれて信頼してくれる。
そして「友情」を感じる。

その友情が真か偽かはわかりません。
だって真偽の基準もよくわからないし、
おそらく真偽の基準がもし存在するなら、
それはやはり目に見えないものでしょう。
また、どっちから始まったかも分からない。
でも、感じられる友情は、感じられるままに・・・
そして大事に感じ続けていたいものです

大切な過去、大切な未来

2009-08-23 13:22:39 | 映画日記
映画日記です。心理学の話ではありません。

今更ですが、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観ました。

Part1はかなり前に観ていたのですが、Part2とPart3を
最近になってようやく観ました。
それに先立ち、Part1も改めて楽しみました

この映画では、1985年を生きる科学者(発明家?)のドクと高校生のマーティが、
ドクの発明したタイムマシーン(デロリアン)に乗って
1955年の世界、そして2015年の世界、1885年の世界に時間旅行します。

ハラハラしたり、イライラしたり、切なくなったり悲しくなったり、
驚かされたり、笑わされたり、ハッピーな気持ちになったり
多くの感情を動かされる映画でしたが、のみならず、
なんだか人生そのものに対しての幸せな気持ちもじんわり
わいて来ます。


ドクは繰り返し、
「未来を知り過ぎちゃいけない」
「過去を変えちゃいけない」と言います。
でも、これはとても難しい注文です。
まず、その欲求を抑える事は難しい。
また、それを一生懸命我慢しても、タイムトラベルするという行為自体が、
未来を知ってしまい、過去を変えてしまう行為なのです。

過去に旅をしたとき、ドクとマーティは、
意図していないのに過去の世界に容易に影響を与えてしまいます。
その小さな変化は現在を大きく変える事になってしまい、
今ある現実がなくなってしまう。

となると、今ある現実というのは、そんな些細な出来事で
大きく変わったかも知れない可能性を大きく含んでいることに
気づきます。
それら多くの可能性があった中で、
それでもこの現在だけが、唯一、現実として成り立っている。
そしてその現実の中に私も、今の私として生きている。
なんだかじんわりと、現実というものが愛しいものに思えてきます。

ではなぜ未来を知りすぎてはいけないのでしょうか。
現実問題として、私達は未来を知らないために、
迷ったり失敗したり遠回りしたりしてしまいます。
未来を知らない私達は、それしか為す術を知りません。
せいぜい、未来を想像し、予測を立てるくらいしかできません。
でも予想通りの未来が訪れるかというとそうとは限らない。
未来を知っていれば、予測がはずれてあわてたり、
後になって決断を後悔したりする事もないでしょう。

なのに未来を知りすぎてはいけないのです。

なぜでしょう?

端的に言うと、
未来を知ってしまうと、現在が崩れるからです。
未来というのはあらかじめ決まっているゴールではありません。
未来を知らない私たちが、その見えない未来に向かって、現在を生き、
そしてその結果として未来が現れる。
でもその時、未来を知っていたら、
おそらく知らない時と同じようには現在を生きられなくなります。

どう崩れるのでしょう?
考えられるところを、3つの観点から説明しましょう。

第1に、意識状態が変わり、考え方が変わるということです。
何かを知ってしまうことは、その人の意識状態を変えます。
特に、自分に関する事柄は重要情報ですから、
自分について何か重要なことを知ってしまうことは、
時には、その人のモノの見方や考え方まで変える影響力を持ちます。

モノの見方や考え方が変われば、多くの場合、行動も変わります。
となると、もはやそれ以前の自分とは同じではいられません。
未来を知らなかった時と同じように現在として生き、
その後の未来へと向かう現在を全うするということは、
未来を知らないことによって支えられているのです。

だから、未来を知りすぎてはいけないのです。

第2に、知ってしまった未来に注意が固着してしまうという点です。
未来を知ってしまうという事は、それによって
現在を規定される事につながります。
未来を知ってしまうと、その未来に規定され、
あるいはあえてそれ以外の未来を作ろうとして、
結果としていずれにしても「知ってしまった未来」に
束縛されて現在を生きる事になってしまう。

未来は変わっていいのです。
でも、未来を知ってしまうと、自由に未来を作る事ができなくなる。

だから、未来を知りすぎてはいけないのです。

第3に、おそらくこれが、映画の中の大きな主題となっていると思うのですが、
未来はこれから作られるものであるということが
忘れられてしまうという点です。
そもそも未来は、知るべき事象としては存在していないのです。
だから絶対的に知る事はできないのです。
知りたいと思っている限り、どこかにすでに「未来」が存在している
という前提に立たざるを得ません。
そうなると、「未来はこれから作るものである」
という前提は否定されてしまいます。

だから、未来は、そもそも知る事のできないものなのです。


過去がほんの少し変わっただけで現在が変わるというならば、
現在がほんの少し変わるだけで未来もおそらく変わるでしょう。
「過去にとっての未来」である「現在」は、
「未来にとっての過去」だからです。

未来を知らないからこそ私達は、
失敗しても懲りずに未来を思い描いたり、
未来に向かってがんばったりすることもできます。
その現在が、結果として、大切な未来になっていきます。
そしてその現在は、未来の私にとっての大切な過去になっているのです。

『笑の大学』

2008-03-20 22:50:20 | 映画日記
DVDで笑の大学を見ました。
「笑の大学」って、劇団名という設定だったのね、知らなかった。

戦時下において、座付きの喜劇作家が検閲官の許可を得ようと
必死に脚本の修正を重ねます。
検閲官はねちねちといやらしく脚本の修正を要請するのですが、
いつの間にか検閲官も巻き込まれ、作家と検閲官の共同作業により、
件の喜劇脚本はどんどんおもしろくなっていく。

検閲官が笑いたい気持ち、楽しい気持ちを必死に隠して
厳しいポーズを取り繕うさまは見ていてなかなかキュートです。
脚本がおもしろくなると思ったとき、あるいは、上映できるかも
しれないと希望がもてたときの作家の表情もとてもいい!
許可をめざしてがんばれー!

許可が下りたと思った時、心の近さを感じた作家は心情を吐露してしまう。
「どうして笑ってはいけないのでしょうか。こんな時代、おかしい」と。
おっと、それは調子にのりすぎなんじゃ…と思ってしまいました。。。
検閲官、そんなの聞いたら苦しむよー(>_<)

案の定、取り調べる側の検閲官の心はその言葉に凍り付きます。
「私たちは台本を作ることに夢中になってしまい、互いの立場を忘れていた」
「聞きたくなかった!!」とくり返す検閲官。そして、
「一カ所でも笑える箇所があったら不許可」。
つまり、「笑えない喜劇」がお題。
これが「最後の知恵比べ」だと検閲官は言います。
検閲官、きっと本当に聞きたくなかったんだろうなと思います。
心情を吐露することが互いの絆を壊しちゃうこともあるんだな…。

しかし、それでも、最後のシーンまで見たとき、そのやりとりは、
2人の関係にとってやはり大事なステップだったんだなと思いました。

ラストを見たとき、検閲官が最後に出したお題
「笑えない喜劇」というのは、実はこの映画のことではないか…と
思ったりもしました。
この構造が、とてもうまい!!
もちろん単純に「笑えない喜劇」というよりは、
「笑いだけではない喜劇」という感じでしょうか…。
テーマ自体は、結構重いのですよね、ここに描かれた人間関係も状況も。
そのことに最後の最後で直面させられます。

*****

三谷幸喜作品はおもしろいです。
ねちねちとしたやりとりで笑わせてくれますが、
大きな流れもちゃんとあって。
しかけがうまいなーと思います。
最初に見たのは『ラヂオの時間』でした。
もうこれは何度も見まして、そのたび大笑いして、セリフも覚えたほどです。
「は~い、こちらハインリッヒ」の下りは秀逸♪

『誰も知らない』

2008-03-12 10:18:55 | 映画日記
先日、カンヌ映画祭で話題になったこの映画をDVDで観ました。
http://www.kore-eda.com/daremoshiranai/

新しい家に引越すシ-ンから始まるのですが、
ス-ツケ-スから小さい子どもが出てくるところで
まずかなり衝撃を受けてしまいました。
しかも元気に飛び出してくるのです。

う-む。。。
とても象徴的なシ-ンだったように思いました。

物語は淡々とその一家の日常をつづっていきます。
いくらでもドラマチックに装飾できるような出来事も、
ただただ淡々と、主人公の心象風景のリズムに合わせるように、
感情のト-ンも距離感も保たれたまま、進んでいきます。

その見守り方と内容との波長が絶妙、
離人感を伴いつつの茫漠とした衝撃が、なんだか尾をひいているようです。

『マラソン』

2007-12-16 23:43:22 | 映画日記
だいぶ以前に、研究仲間に勧められてそのままになっていた映画
『マラソン』をDVDで見ました。
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id322454/

明日から精神障害についての説明に入るので、そこで使えるかな?という
邪心も入り交じりながら。

主人公は自閉症をもつ男性。コミュニケーションがなかなかとれず
若い母親は、大きな不安をかかえながらも、必死になって彼を育てます。
母親の夢は「息子が自分より1日早く死ぬこと」。

その中で、彼が一生懸命になれるもの、「走る」を見つけます。
彼の俊足は母親の生き甲斐となり、マラソン出場を夢見るようになります。

しかし、母親の一生懸命さにかかわらず、周囲は
「マラソンで障害がなおりますか?」「何か変わったんですか?」。
母親は「息子は走ることが好きなんです。走っている時だけは
他の皆と一緒なんです。」と主張するが、
「息子さんが好きなんですか?お母さんがそう決め付けているだけでは?」と
言われてしまう。

気づけば家族は崩壊していた。
弟は暴行で警察につれられ、迎えにきた母親への怒りをぶつける。
父親はとうの昔に家を出ている。
そして頼みの綱の息子(主人公)はというと、母親がそんなに悩んでいても
まったく意に介さない。。。

一生懸命やっても報われず、やればやるほど無力感に襲われる母親。
彼女自身も自問自答し始める。
自分が必死になってやってきたのは間違いだったのだ、
つらいと言わせないように条件づけ、彼の表現を奪っていた。。。
そう思った母親は、息子にマラソンを禁じる。

-------------

私は、自閉症のドラマとしてより、自閉症を抱える家族のドラマとして見ました。
自閉症といってもその障害の程度などはさまざまですし、
映像化したりするのは非常に難しいように思います。

最悪な時には、「彼らは純粋だ」というメッセージだけに落ち着く。
それだけならまだしも、「純粋である」とすることが無敵の価値のように
とりあげられ、それは当然受け入れるべきものとみなされたり、
その価値を軸に考えられなくなったときの自分を
恐ろしい罪悪感をもってとらえてしまったりすることがあるように思う。

でも、不安だったりいやになったり「どうして自分だけが」と思うこと、あると思う。
一生懸命、迷いなくやっているように見えても、不安でいっぱいだったりする。
そして、その一生懸命さを周りにわかってもらえなくて意固地になってしまうし
その信念に執着したりもするのだと思う。

障害を考える、というのは、その本人の理解は当然のこと、
それを受け入れることに時間がかかっている家族を含めてなされることだと思う。

残念ながら、90分授業の中でこの映画をうまく使う構成が見えなかったので
授業では使いません。
また、この映画だけから、自閉症のイメージを作るのもどうかな、と
思ったりもするので…。

でも、機会があったら是非、見てみてください。
障害理解にも役立つところはありますし、
色々感じるところはあるのではないかと思います。
もちろん、「自閉症はこうだ」、「自閉症の家族はこうだ」という
一般化はやめてほしいですけど(cf. 『レインマン』)、
世界を広めるきっかけになるようには思います。

研究者としての私個人のチャンネルから感想を言うと、
相互作用が成立するってどういうこと?とか、
意思を持つってどういうこと?ということについては
大いに考えさせてくれる映画であるように思いました。