僕にも友人がいる、
ちゃっかりしているやつもいれば、ずーっと見守っていてくれるような友人。。
多くの友人がいて僕がいる。
片岡巖だって、友達くらいいただろう。
台湾風俗誌を出版するのも友人の勧めだし、
書き上げるのだってきっと一人では書ききれない。
調査は一人では出来ないし。また、風俗誌の定本となったような本もあっただろう。
福島の友人、
明治29年に仙台から台湾に守備隊としてきた時の友人、
憲兵として転々としながらも、通訳として現地の人との友情、人情に触れたこともあっただろう。
また同じような興味を持つような人もいただろう。
台湾日日新報とは、薩摩派の台湾新報と長州派の台湾日報が合併した
最盛期5万部を発行する台湾の最大の新聞で、その新聞を中央の言論だとすると、
片岡の考えは色々な周辺の言論でもあったのでしょうか。
京都出身の森丑之助のような人にもまた片岡巖は、影響を受けただろう。
森は台湾原住民の研究者で、大正期に台湾原住民の研究では日本、台湾に於いて森にかなうものはいない
森と片岡は、手元に決定的な資料は無いが、おそらく、面識は有ったであろう。
片岡1876年生まれ、森も1877年生まれ、
年も近く、どちらかというと、
どちらもあまり恵まれた境遇とは言えない環境から、
新天地を目指して、期待を膨らませた。
若者たちの胸の中に、躍る夢は何だったのだろうか?
通訳としての台湾と日本の架け橋になり、また自分たちの眼でみたものを、公平な立場から伝えようとした。。
日本人と原住民の架け橋となった森丑之助の生涯は、最後は船から身投げをしてしまう。
(大正15年1926年7月)
原因は研究著述出版のための資金援助の打ち切りと、未帰順蕃のブヌン族シブクン蕃を政府の攻撃から安全な場所に移住させようとした「東埔楽園」移住計画の頓挫のための深い鬱病であったと言われる。
人類学のもつ特性、文明批評としての眼。台湾から見た日本。
植民地政策のために安易に命をすてたとは思えない。
政策が政策であったために、自分の命をかけて血を通わそうとした。
それは、まさに武士道とも言えるだろうか、そしてまた台湾原住民の心とも同じと。
その後、痛ましい霧社事件のことを知らずに、
森に続いて片岡も昭和5年にマラリアにて、この世から去っている。
彼らは自らの命をかけて
日本と台湾の架け橋を次の世代にわたして、、。
ちゃっかりしているやつもいれば、ずーっと見守っていてくれるような友人。。
多くの友人がいて僕がいる。
片岡巖だって、友達くらいいただろう。
台湾風俗誌を出版するのも友人の勧めだし、
書き上げるのだってきっと一人では書ききれない。
調査は一人では出来ないし。また、風俗誌の定本となったような本もあっただろう。
福島の友人、
明治29年に仙台から台湾に守備隊としてきた時の友人、
憲兵として転々としながらも、通訳として現地の人との友情、人情に触れたこともあっただろう。
また同じような興味を持つような人もいただろう。
台湾日日新報とは、薩摩派の台湾新報と長州派の台湾日報が合併した
最盛期5万部を発行する台湾の最大の新聞で、その新聞を中央の言論だとすると、
片岡の考えは色々な周辺の言論でもあったのでしょうか。
京都出身の森丑之助のような人にもまた片岡巖は、影響を受けただろう。
森は台湾原住民の研究者で、大正期に台湾原住民の研究では日本、台湾に於いて森にかなうものはいない
森と片岡は、手元に決定的な資料は無いが、おそらく、面識は有ったであろう。
片岡1876年生まれ、森も1877年生まれ、
年も近く、どちらかというと、
どちらもあまり恵まれた境遇とは言えない環境から、
新天地を目指して、期待を膨らませた。
若者たちの胸の中に、躍る夢は何だったのだろうか?
通訳としての台湾と日本の架け橋になり、また自分たちの眼でみたものを、公平な立場から伝えようとした。。
日本人と原住民の架け橋となった森丑之助の生涯は、最後は船から身投げをしてしまう。
(大正15年1926年7月)
原因は研究著述出版のための資金援助の打ち切りと、未帰順蕃のブヌン族シブクン蕃を政府の攻撃から安全な場所に移住させようとした「東埔楽園」移住計画の頓挫のための深い鬱病であったと言われる。
人類学のもつ特性、文明批評としての眼。台湾から見た日本。
植民地政策のために安易に命をすてたとは思えない。
政策が政策であったために、自分の命をかけて血を通わそうとした。
それは、まさに武士道とも言えるだろうか、そしてまた台湾原住民の心とも同じと。
その後、痛ましい霧社事件のことを知らずに、
森に続いて片岡も昭和5年にマラリアにて、この世から去っている。
彼らは自らの命をかけて
日本と台湾の架け橋を次の世代にわたして、、。