
墓地の正式な名前は中原、東原墓地というそうです。ここは土佐藩(四国)からの開墾の移民の墓地です。なぜ、ここに片岡巌のお墓があるのかというと、妻、和子(にぎこ)つまり僕のひいばあちゃんの家の出身の墓がここに有ったからでしょう。
片岡巌の墓石の裏には妻和子にぎこによる略歴が記されています。
全文は以下の通りです。
第一代
従七位勲七等 片岡巌
白河阿部藩士片岡直寛の
三男 父兄に従い棚倉開墾に
移住す 長じて仙台歩兵第四聯隊に
入営 台湾守備隊に編入 渡台後 憲兵となる転じて法院通譯となり台北或いは台南の地で勤む 此聞 台湾風俗誌
外数種を著述す 大正十三年高等官七等
に叙せられ高等法院通譯に補せられしも病気の故を以って退官 後ち 司法代書を業として晩年は失明をするに及びては口述に以って 改訂 民事訴訟法台湾実例書式を変集将に出版せんとするや病重く終に昭和五年二月七日台北市に於いて五十五歳を以って永眠す。
昭和七年八月 片岡和子 建立
出生東白河郡の塙だということが
こないだ楊承淑教授から送って頂いた台湾総督府類纂の資料で分かりました。
今回白河市役所に途中寄り道したんですが、残念ながら塙は役場が違うようで
なにも手掛かりは得られませんでした。
しかしながら、前々から考えていた片岡巌の生まれた頃が幕末戊辰戦争の時期と十年と変わらず重なることや、新撰組沖田総司が白河阿部藩の出身で有る事がわかりました。
郡山の街は大きな街ですが、明治になってから拓けた当時の新興都市です。
また、棚倉は塙から北に数十キロ、と大変近く、
周辺に行けばなにか台湾へ行く前の学歴などがわかるかと思います。ただ準備と時間が必要です。
また台湾風俗誌を当時の日本人警察官がみんな読んでくれていたら、片岡巌の死後一年以内におこった霧社事件はなかったかも知れません。片岡巌も大変悲しんだでしょう。
霧社事件の事を扱った映画、今月上映のセデックパレ早く観たいです。
すごく興味あります。
また日本の戊辰戦争についても歴史の教科書で習う事ではなく自分達の歴史として同じ目線で見る事が必要で有ると考えます。少なくとも片岡巌は相対的に台湾をすごく観ていたと思います。