臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の日経歌壇から(8月15日掲載)

2010年09月01日 | 今週の日経歌壇から
[岡井隆選]

○ 暑いから涼しくなって会いましょう めぐる季節を大人は使う

 お暇な主婦同士の長電話の途中でよく耳にする、お馴染みのセリフである。
 このセリフが出たので、もうそろそろ長電話も終りかと思うと然にあらず。
 電話はそれかれも延々と続き、もう一度同じセリフのご登場の場面とは相成るのである。
  [返] 暑いから涼しくなったら勉強をしましょうなどと子供らも言う   鳥羽省三


○ 紙コップ汚れたままで捨てられるたった一度の出番は寂し  (白井) 毘舎利道弘

 天下に名の知れた、あの毘舎利道弘大和尚様が<日経歌壇>にもご登場になり、相変わらず道学者先生みたいなことを仰せになるのである。
 身についた説教癖はどうにもならないものと拝察されますが、とにもかくにも大変有り難いことではございます。
  〔返〕 盂蘭盆も大和尚様お出ましに十分二万の経文唱ふ   鳥羽省三
 

○ 潜りたる波の杳さと抱かれし父の腕の若さかなしき  (浜松) 鈴木れい子

 幼き日の素潜り初体験の思い出を語って居られるのか?
 先日、これと同じ場面を、大阪に単身赴任している私の息子が二人の孫娘を相手にして展開しているのを、たまたま発見して驚いたことであった。
 たまの休みに大阪から新幹線で馳せ参じ、二人の娘に素潜りの指導をしていたのである。
 その時、息子のパートナー様は、大学時代のご学友様と<ホテル・ニュー大谷>にご会食にお出掛けになられたと言う。
  〔返〕 素潜りのパパの腕を孫たちはなんと思ったことであろうか?   鳥羽省三
      ご会食にお出掛けになるママの顔むすめ二人は何と思った?     々
      血縁の息子ばかりを心配し嫁を難じる俺にてありき         々


○ 電柱の影に添わせて信号の変わるのを待つ猛暑日の午後  (富山) 林 槙子

 この夏の新聞歌壇に掲載された作品に限っても、私は、本作と同趣向の作品に四、五首も出会った。
 だからと言って、それを理由にして、この作品を一瞥するや否や、いきなり「既視感あり」と断じてしまうような識見も勇気も私は持ち合わせてはいない。
 要するにこの作品の存在は、この夏の殺人的な暑さを前にしては、路上を歩く人も交差点に佇むも、身分や老若男女の違いを越えて、わずかばかりの物影を恋い慕うしか無かった、ということの証明に他ならないのである。
 とは言うものの、この夏、この日本列島の東の果の人々から西の果の人々まで、捨て猫が人間の顔を見ると「にゃー、にゃー」と鳴いて施しを強請るが如く、わずか一尺余りの木陰や電柱の影を求めたりしていたかと思うと、私とて失笑を禁じ得ない。
  〔返〕 電柱の作れる影は尺余り就活ルックでその尺余恋ひ   鳥羽省三
      木陰とてその幅わずか半m描き眉染め毛がその半mを    々


○ OB会「どうもどうも」で名が出ない名札をまともに見るわけにいかず  (横浜) 吉村晃一

 <どーも君>という名の漫画の主人公も居るくらいだから、本作の作者・吉村晃一氏は、典型的な日本人なのである。
  〔返〕 「どーも」と言い「どーも」と返し乾杯す<OB・OG>あと無礼講   鳥羽省三


○ ファミレスに入りて問はるる人数に「ひとり」と答へる時の違和感  (新潟) 飯村 哲

 先日、私は五人連れで、ある「ファミレス」に入ったはいいものの、座席に案内されるまで三十分余りも待たせられてしまった。
 その間に、その店に入ってくる単独客は、来店するや否や、ものの数秒も経たぬうちに座席に案内され、のうのうとメニューにありついていた。
 という訳で、多少の「違和感」や居心地の悪さは感じられるものの、お「ひとり」様の味もなかなかのものと、私には拝察されます。
  〔返〕 ファミレスに独りで入る者も居て日本国民内需拡大   鳥羽省三


○ まだ馴れぬ車椅子にて早朝の仁和寺の風光るを見たり  (京都) 泉 順子

 「まだ馴れぬ車椅子にて早朝の仁和寺」までのお散歩。
 移動手段が「まだ馴れぬ車椅子」だけに、目的とする「仁和寺」まで辿り着いた時の達成感は、私たち読者の想像に余るものであったに違いありません。
 無事到着して、「仁和寺の風光るを見た」のは、不可能事を可能ならしめた、本作の作者・泉順子さんへの自然の贈り物であったに違いありません。
  〔返〕 山門をくぐった時の嬉しさと葉桜揺らす風の涼しさ   鳥羽省三


○ 炎帝は列島隈なくしろしめし動いているは蟻と自動車  (茅野) 三井次郎

 この猛暑の最中、「動いている」のが「蟻と自動車」だけならまだしも、生きる為には、死の危険を冒してまでも、万物の霊長たる私たち人間もまた、<蟻とキリギリス>の「蟻」のように、あちこちを歩き回らなければならないのである。
 それだけに、今年の夏を統べる「炎帝」様の厳しいご措置には、私は恨み言の一つも申し上げたくもなるのである。
  〔返〕 炎天を隈なく歩きチラシ入れ一枚三円煙草も吸えぬ   鳥羽省三


○ 小まめなる水分補給にししむらの水の比率のはつかに増さむ  (西宮) 谷口清澄

 今年の夏の若い女性の「ししむら」が妙に気になったのは、彼女らの「小まめなる水分補給」によって、その「ししむらの水の比率」が「はつかに」増したからだったと、この一首に接して納得した私でした。
  〔返〕 小まめなる水分補給の賜物か水もしたたる彼女のししむら   鳥羽省三


○ 自転車の子らが指差し話しゆく畑に横たふ二貫目西瓜  (稲沢) 丸山勝也   

 「二貫目西瓜」と言えば、8㎏弱の「西瓜」である。
 その昔は、8㎏弱どころか、時には10㎏を超える「西瓜」も珍しくなかったのであるが、近頃の西瓜栽培農家は、市場原理に則って一定以上の重量の「西瓜」を栽培しないから、作中の「二貫目西瓜」は、「自転車の子ら」にとってはまさにお化け西瓜だったのである。
 時代によって「西瓜」の大きさや重量が限定され、お化けでも何でも無かった「西瓜」が<お化け西瓜>扱いにされるのが、現代の日本社会なのである。
 評者の目には、現代の日本社会こそ<お化け西瓜>ならぬ<お化け社会>に見えて来る。
  〔返〕 自転車の子らが知らない其のむかし西瓜は天にも地にもごろごろ   鳥羽省三


○ 以下同文のごとき人生さはあれど泰山木の花が見てゐる  (丸亀) 松繁寿信

 評者の心を以ってすれば、この人類史上に「以下同文のごとき人生」などは在り得なかったと断じたい。
 「さはあれど泰山木の花が見てゐる」という下の句から察するに、本作の作者・松繁寿信さんご自身も、ご自分の人生は決して「以下同文のごとき人生」では無かった、と確信を持って居られるのでありましょう。
 それはともかくとして、山中に咲く、あの「泰山木の花」はいかにも、通り過ぎる人の心の中を「見てゐる」ような感じの花なのである。
 作者が本作をお詠みになった動機も、あの「泰山木の花」にご自身の心の奥底を覗かれ、洗われているように感じた点に在ったのでありましょう。
  〔返〕 以下同文の如き総理が続き居て我が日本は転覆寸前   鳥羽省三



[穂村弘選]

○ 占ひの女性睡魔に襲はれて手相は見ざり夢を見てゐる  (鹿児島) 杉村幸雄

 短歌作者の立ち位置は<神の座>であるから、本作の作者は「睡魔に襲はれて手相は見」ずに「夢を見てゐる」「占ひの女性」の「夢」の中まで立ち入り、その奥底まで覗くことが可能なのである。
  〔返〕 そのかみの勉強の虫の八百屋にて「勉強、勉強、キャベツの特売!」   鳥羽省三
 返歌は、武田鉄矢のステージトークをネタにしたものです。

 
○ 訳文で哲学書読むことの非を責められてゐた未明の夢で  (松山) 吉岡健児

 語学コンプレックスを背負ったままで大学で哲学を専攻したら目も当てられない。
 ラテン語に始まり、ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語、中国語、梵語などの外国語をマスターして原典を読みこなして行く過程そのものが、哲学専攻の大学生にとっては<哲学する>ことなのである。
 本作の作者・吉岡健児さんは、ある種の情熱に駆り立てられて大学で哲学を専攻したのであるが、その<情熱>たるや、「デカルトの『方法序説』を小脇に抱えて団地の舗道を歩いていたら、世話好き、変わり者好きのマダムたちの母性本能を刺激するかも知れない」といった程度のものに過ぎなかったから、大学でのゼミに出席する際にも、原典は碌々読まず、翻訳書を読んで済ませていたから、ゼミ担当の教授から再三に亘って、「君、君、原典を読まずに、翻訳書を読んだ程度の知識で、このゼミに顔を出してはいけませんよ。私のさっきの質問に対しての君の答え方は、明らかに岩波文庫の谷川多佳子訳の『方法序説』を通しての答え方であった。要するに、先ほどの君の答え方は、原典のフランス語を邦訳する時に生じた誤差を、不勉強な君が更に誤解してしまってことが、ありありと分かるような性質のものであった。何回も言うようだが、哲学徒は原典を読まなければいけません。フランス語も知らないでデカルトをやってはいけません。」と注意されていたに違いありません。
 かく申す私も、『源氏物語』を通読せずに<源氏物語研究>の講座に出席して、担当の△△△△教授からきつく注意されたことがあり、その時の夢を、七十過ぎになった今もなお見ることがあるのである。
  〔返〕 「総角」は「あげまき」と読むのも知らずして出席していた源氏物語ゼミ   鳥羽省三


○ 豆腐なしで麻婆豆腐は作れない いやひょっとして作れるのかも  (仙台) 間 啓

 焼かない<焼き蕎麦>があったり、ジン抜きの<ジンフィズ>をスナックの女性に強請られたりする今日でも、「豆腐なしで麻婆豆腐は作れ」ません。
 「ひょっとして」もひょっとしなくても、「豆腐なしで麻婆豆腐」は絶対に作れません。
  〔返〕 夏ばてに効くと言うから食べたいなゴーヤ入らぬゴーヤチャンプル   鳥羽省三


○ 遺影を抱く男児はしきりに身じろげり普段の自分に戻りたそうに  (盛岡) 藤原建一

 <ハレ>と<ケ>の違いも知らない「男児」を、俄仕立ての<ハレの場>の主役に祭り上げてはいけません。
 葬式仏教には、お寺の住職に法外なお布施を上げる以外の、何の意味もありません。
  〔返〕 身じろぎで判る坊主の怠け癖ものの十分正座を出来ぬ   鳥羽省三
 

○ 今ここで西瓜の種をとばすのだ社会的には死んでいるけど  (国分寺) 多治見千恵子

 「社会的には死んでいる」はずの鳩山前首相の今回の一連の行動も、本作の「西瓜の種」飛ばしのようなものであったのでしょうか?
 しかも、前言を突然翻して、小沢支援を打ち出して間も無く、モスクワに飛び立った理由が、一人息子の『モスクワの交通渋滞緩和策』という出版物の出版祝いであったとは、驚き呆れてものも言えません。
 私は、彼のモスクワ土産を、<北方四島無条件返還>かと密かに期待していたくらいの鳩山ファンであったのですが、今回の彼の行動には、すっかり失望してしまいました。
  〔返〕 <友愛>や<真義>を口にし馬鹿野郎西瓜の種喰らい鳩は死んじゃえ   鳥羽省三
 


○ 通販でロングのかつらが届くから驚かないでねお金はここに  (東京) 平岡あみ

 夜のお仕事にお出掛け前の美人の奥様が、髪結いのご亭主殿に申し付けているのである。
 その時、競馬場から帰ったばかりで、馬しか興味の無いご亭主殿は、この奥様のお言葉をどんな気持ちで聴いていたのだろうか?
 代金引換の「ロングのかつら」の為の「お金」は無事に佐川急便の配達員の方の手に渡るのだろうか?
 奥様がお出掛けになった後、ご亭主殿は例の「お金」を持って、夜の盛り場にお出掛けになるのではないだろうか?
 などなど、この一首への興味はなかなか尽きない。
 ご亭主殿は、例の「お金」を持って、奥様がお勤めになって居られるスナックのお隣りの居酒屋にお出かけになるに決まっているが、何処へも出掛けない評者の私としては、その「ロングのかつら」を奥様がお被りになったら、ただでさえ目も眩いばかりの奥様が、また一段と眩くなるに違いない、と妄想に耽るばかりなのである。
  〔返〕 奥様はロングのかつら今日負けたあの馬ロングの尻尾なりけり   鳥羽省三


○ 梅雨深き駅舎の裏の木下闇通過電車の窓になつかし  (横浜) 石塚令子

 今になって思えば、この夏の梅雨は雨らしい雨が降った梅雨だったろうか、などといろいろ心配にもなるが、私と同じ県の住人たる、この作品の作者が、かかる内容の作品をご投稿になって居られるのであるから、この猛暑前の一時期には、梅雨の雨が、何処かの「駅舎の裏の木」の葉をたっぷりと濡らし、其処の辺り一帯は「木下闇」となっていたに違いない。
 本作の作者・石塚令子さんは「通過電車の窓」から「梅雨深き駅舎の裏の木下闇」をなつかしいと眺めているのである。
 言わずもがなのことではあるが、人がある風景を懐かしい風景として眺める場合は、その人ご自身が過去に、必ず、それと似たような風景の只中に在った経験を持っている場合が大半なのである。
 本作の作者・石塚令子さんは、過去のある時点に於いて、「梅雨深き駅舎の裏の木下闇」の真っ只中に居て、何方か車中の人を、悔し涙に咽びながら、密かにお見送りになったご経験をお持ちになって居られるに違いない。 
  〔返〕 駅裏の木下闇に泣く我を知らねで彼はハネムーンに発つ   鳥羽省三


○ 「雨がやむまではしあわせでいようね」囁き合って方舟の豚  (伊那) 川合大祐

 「雨がやむまでは」ということは、<洪水が続いている間は>ということである。
 「雨」が止まずに、この<洪水が続いている間は>、彼ら「方舟の豚」どもは、とにもかくにも<殺処分>などという無情の措置に曝される危険が無いから、「『しあわせでいようね』」と「囁き合って」いられるのである。
 それにしても、人間を一様に「方舟の豚」と断ずる、本作の作者の人間観は大変厳しい。
 「雨がやむまでは」、一体どれくらいの時間を指すのだろうか?
  〔返〕 政権が交代したら幸せになれるだろうと方舟の豚   鳥羽省三


○ 絹は一匹箪笥の一棹蝶一頭夢の単位は一炊ならむか  (つくば) 潮田 清

 「一炊」の間に見る私たちの「夢」は、一瞬の間に覚めてしまうに違いない夢である。
 <助数詞遊び>めかした軽い作品ではあるが、「夢の単位は一炊ならむか」という下の句は、人生の儚さを思わせて、なかなかの一首を成している。
  〔返〕 二棹の時代箪笥を積み込んで人生最後の引越しをやる   鳥羽省三

 来たる九月十四日の転居を前にして、「臆病なビーズ刺繍」の更新は、遅々として進みません。
 麻生区から多摩区へと、同じ川崎市内への転居ながら、過去二年間の仮住まい生活から脱して、人生最後の引越しをするのかと思うと、ブログの更新をしている気にはなれないのである。
 正確に言うと、骨董物の二棹の時代箪笥を引越し屋さんの自動車に積み込んでの今回の引越しは、人生最後の引越しと言うよりも、人生で最後から二番目の引越しと言うべきかも知れません。
 人生最後の引越しの際には、二棹の時代箪笥も他の荷物も残したままの引越しになるのでしょう。
  〔返〕 古希過ぎて十八度目の転居なり多摩の生田は青山なるか?  鳥羽省三


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