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嗣曹王李皋伝
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皋は字子蘭,曹王明の玄孫,嗣曹王戢の子。
蔭位により左司御率府兵曹參軍。
天寶十一載.嗣封して都水使者員外
秘書少監員外。
安祿山反に母とともに蜀へ逃れる。
左領軍將軍
知恵があり孝行で聞こえた。
上元元年.飢饉により俸禄が足りず外官を求めてたが得られず、わざと法に触れ貶溫州長史。
まもなく攝行溫州事。ここも飢饉のため許可をまたず開倉。
加少府監員外。
處州別駕行州事、良政
衡州刺史に進むが、觀察使辛京杲を批判して,貶潮州刺史。
大暦十四年.宰相楊炎により復衡州刺史。
建中元年四月.潭州刺史、湖南團練觀察使に進み、七月.京杲の貪残により引き起こされた王國良の叛乱を鎮撫する。
二年.母の喪で入朝途中、梁崇義の反に会い、
起復左衛大將軍,復湖南觀察使。
ついで加檢校散騎常侍。
三年十月.李希烈が反し江西道節度使洪州刺史兼御史大夫に遷る。
將伊慎、李伯潛、劉旻、王鍔を将として希烈を伐つ。
四年三月希烈將韓霜露を敗死させ拔黄州、蘄州。
三月.舒王元帥前軍兵馬使。
十月.希烈將杜少誠を永安戍に大破し加銀青光祿大夫,進封五/三百戶。
德宗皇帝の興元に進獻。加檢校工部尚書。
伊慎、王鍔を派遣して安州を取る。
興元元年七月.希烈将劉戒虛を應山に破る。
希烈は曹王を警戒して積極的な東都への攻勢ができなかった。
貞元元年三月.江陵尹荊南節度等使へ遷り、希烈将李思登が隨州を以って降る。
乱後、東都へ出て拜母墓。
江陵の堤防を修築し営田。
三年閏五月.検校戸部尚書襄州刺史山南東道襄鄧復郢安隨唐七州節度使。練兵積糧し淮西呉少誠を牽制する。
性勤儉で賞罰必信。物価を安定させ、豪家の横暴を抑えるなど治績があった。
八年三月.暴卒,年六十,贈右僕射。諡曰成。
その死後留後李實に不満で軍乱が起こったが、乱兵も皐の家は荒らさなかった。
嗣曹王李皋伝
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皋は字子蘭,曹王明の玄孫,嗣曹王戢の子。
蔭位により左司御率府兵曹參軍。
天寶十一載.嗣封して都水使者員外
秘書少監員外。
安祿山反に母とともに蜀へ逃れる。
左領軍將軍
知恵があり孝行で聞こえた。
上元元年.飢饉により俸禄が足りず外官を求めてたが得られず、わざと法に触れ貶溫州長史。
まもなく攝行溫州事。ここも飢饉のため許可をまたず開倉。
加少府監員外。
處州別駕行州事、良政
衡州刺史に進むが、觀察使辛京杲を批判して,貶潮州刺史。
大暦十四年.宰相楊炎により復衡州刺史。
建中元年四月.潭州刺史、湖南團練觀察使に進み、七月.京杲の貪残により引き起こされた王國良の叛乱を鎮撫する。
二年.母の喪で入朝途中、梁崇義の反に会い、
起復左衛大將軍,復湖南觀察使。
ついで加檢校散騎常侍。
三年十月.李希烈が反し江西道節度使洪州刺史兼御史大夫に遷る。
將伊慎、李伯潛、劉旻、王鍔を将として希烈を伐つ。
四年三月希烈將韓霜露を敗死させ拔黄州、蘄州。
三月.舒王元帥前軍兵馬使。
十月.希烈將杜少誠を永安戍に大破し加銀青光祿大夫,進封五/三百戶。
德宗皇帝の興元に進獻。加檢校工部尚書。
伊慎、王鍔を派遣して安州を取る。
興元元年七月.希烈将劉戒虛を應山に破る。
希烈は曹王を警戒して積極的な東都への攻勢ができなかった。
貞元元年三月.江陵尹荊南節度等使へ遷り、希烈将李思登が隨州を以って降る。
乱後、東都へ出て拜母墓。
江陵の堤防を修築し営田。
三年閏五月.検校戸部尚書襄州刺史山南東道襄鄧復郢安隨唐七州節度使。練兵積糧し淮西呉少誠を牽制する。
性勤儉で賞罰必信。物価を安定させ、豪家の横暴を抑えるなど治績があった。
八年三月.暴卒,年六十,贈右僕射。諡曰成。
その死後留後李實に不満で軍乱が起こったが、乱兵も皐の家は荒らさなかった。