唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

李澄伝

2019-04-17 10:12:00 | Weblog

----------------------------
李澄伝
----------------------------
澄は遼東襄平人、京兆に移る。隋蒲山公寬の末と称する。

父鎬は清江太守。

澄は武藝により江淮都統李峘の將.試將作監。

建中初,滑州刺史永平軍節度使李勉將。檢校太子賓客兼御史中丞

勉が汴州に移治すると、澄は滑州刺史。

二年十一月.宣武劉洽.神策曲環.朔方唐朝臣等と李納軍を徐州に破った。

四年十二月,李希烈が汴州を陥し、勉を逐った。
澄は降り、希烈の尚書令兼滑州永平軍節度使にされた。

興元元年二月.澄は密かに奉天にいた德宗皇帝に通じて、
檢校刑部尚書兼汴州刺史汴滑節度觀察使に任ぜられた。

澄は歸附を秘し、兵備につとめた。希烈は疑い、養子軍六百人を派遣して警戒した。

希烈が寧陵を攻めて苦戦した時、澄は応援し、わざと敗北して養子軍に罪を押しつけ誅した。

希烈將翟暉が陳州を攻め、十月には汴州が手薄になった。

閏十月.宦官薛盈珍が檢校兵部尚書封武威郡王賜實封五百戶を授け、澄は公に唐朝に復帰することにした。

十一月.希烈は澄に反され、翟暉が大敗して、蔡州に退却した。

澄は宣武軍節度使劉洽と汴州を攻め、希烈將田懷珍は降ったが、澄と洽は功を争った。
鄭州將孫液が澄に通じ、澄子清に鄭州を回収させ、河陽軍節度使李芃將雍顥と争った。
唐朝は清を檢校太子賓客兼御史中丞とし、克寧と改名させ優遇した。

貞元元年三月.澄は檢校左僕射義成軍鄭滑許等州節度使となった。鄭・許州は与えられたが、汴州は劉洽のものとなった。

二年三月.希烈兵を鄭州に破った。

八月.卒,年五十四,贈司空,
克寧は自立しようとしたが宣武劉洽[玄佐]に圧迫され、唐朝が新節度使として董晉を派遣したのであきらめて資材を根こそぎ携えて入朝した。牙軍は乱して剽奪した。

澄は無学非常識で、隴西郡公から武威郡王に進んだが、常に二封を連記して笑いものになっていた。
中国の封爵はヨーロッパの制度と違い、進爵した場合は上級の封爵のみを名乗るものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする