不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劉巨容伝

2019-04-18 10:12:41 | Weblog
------------------------
劉巨容伝
------------------------
巨容は徐州の人。旧唐書には伝はない。

咸通十年.州大將であったが龐勳の乱の時、途中に唐朝に降り浙東埇橋鎮遏使となる。

乾符四年閏二月.浙西將王郢が反して両浙を荒らし明州を攻めた時,
巨容は郢を敗死させ、功により明州刺史

楚州團練使。

黃巢の亂に際して、蘄黃招討副使。

檢校右散騎常侍山東行軍司馬[節度使李福]

乾符六年十月、巢が荊南を陥し、山南東道節度使になり巢を防ぐ。

十一月.江西招討使曹全晸と荊門關を守り、巢を大破潰滅させる。[旧紀では廣明元年三月]
加檢校禮部尚書。

諸將は巢を追撃し誅殺しようとしたが、巨容は
「唐朝は危難らあうと我々武官を優遇し恩賞を与えるが、事が済むと誣告して陥れる。賊が残存しているほうが我々にはいいのだ」と言って追撃を止めた。諸將もまたそうだと思った。
これは龐勳の乱の時、武官の招討使康承訓は辛苦して鎮圧したにも関わらず、文官の宰相らにその失態を追及されて左遷された記憶によるのだろう。当時宦官・文官達はも無学な武官をのように蔑視する傾向があった。

巢の乱は再び盛んとなり兩京を陥れ、巨容は南面行營招討使兼天下兵馬先鋒開道供軍糧料使、檢校司空,封彭城縣侯と昇進した。

巨容は吏治に明るく、僖宗皇帝がいる劍南との交通を保っていたが、
中和四年十一月.興元を逐われた山南西道節度使鹿晏弘[忠武軍出身で自立]と、反乱していた蔡州秦宗權[忠武軍出身]將趙德諲に挟撃されて敗北し成都へ奔った。

龍紀元年.実力者宦官田令孜は、巨容に黄金を作る術[詐欺師申屠生による]を強請し、応じることができるはずがなく、族滅させられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする