武宗會昌年間以降、新旧の唐史の記述は混乱し、矛盾が多くなる。
幽州節度においては実力のないものは君臨できない傾向はますます強くなっていく。
允伸のような長期政権のあとでも簡単に覆されるのである。
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張允伸伝
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允伸、字は逢昌。范陽の人で、曾祖秀,檀州刺史。祖巖,納降軍使。父朝掖と代々幽州軍に仕える。
就任の記述は矛盾している。
[旧唐書.資治通鑑]大中四年九月.節度周綝が卒し、牙軍は牙將允伸を留後とした。
[新唐書]大中四年八月.張仲武の子直方が継承していたが、若年で横暴であったので牙軍に逐われた。押衙兼馬步都知兵馬使であった允伸が牙軍な推されて留後となる。
唐朝は追認し、十一月.檢校散騎常侍節度使、檢校工部尚書に進む。
十三年九月.[通鑑では]同平章事。
咸通四年十一月光禄大夫.檢校司徒兼太傅,封燕國公に進む。
七年三月.兼太保平章事,進封燕國公。
九年正月.加檢校太傅。
十年.龐勳が徐州で反したとき、鎮圧の為派兵を申し出た。
結局派兵はしなかったが、米五十萬斛、鹽二萬斛を軍費に献上した。
十一年六月.特進兼侍中。
十二年正月.疾のため、子簡會を檢校工部尚書兼副大使とした。
十三年正月/二月.卒,年八十八,贈太尉,諡曰忠烈。
勤儉で恭謹であり、治績良く。辺境を守った。
二月/三月.平州刺史張公素が挙兵し簡會を逐った。
幽州節度においては実力のないものは君臨できない傾向はますます強くなっていく。
允伸のような長期政権のあとでも簡単に覆されるのである。
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張允伸伝
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允伸、字は逢昌。范陽の人で、曾祖秀,檀州刺史。祖巖,納降軍使。父朝掖と代々幽州軍に仕える。
就任の記述は矛盾している。
[旧唐書.資治通鑑]大中四年九月.節度周綝が卒し、牙軍は牙將允伸を留後とした。
[新唐書]大中四年八月.張仲武の子直方が継承していたが、若年で横暴であったので牙軍に逐われた。押衙兼馬步都知兵馬使であった允伸が牙軍な推されて留後となる。
唐朝は追認し、十一月.檢校散騎常侍節度使、檢校工部尚書に進む。
十三年九月.[通鑑では]同平章事。
咸通四年十一月光禄大夫.檢校司徒兼太傅,封燕國公に進む。
七年三月.兼太保平章事,進封燕國公。
九年正月.加檢校太傅。
十年.龐勳が徐州で反したとき、鎮圧の為派兵を申し出た。
結局派兵はしなかったが、米五十萬斛、鹽二萬斛を軍費に献上した。
十一年六月.特進兼侍中。
十二年正月.疾のため、子簡會を檢校工部尚書兼副大使とした。
十三年正月/二月.卒,年八十八,贈太尉,諡曰忠烈。
勤儉で恭謹であり、治績良く。辺境を守った。
二月/三月.平州刺史張公素が挙兵し簡會を逐った。