義武軍節度が河北三鎭や淄青・淮西の反乱に同調しなかった価値は非常に大きい。唐朝軍に河北内部に食い込まれた形になり、牽制されて思い切った進攻ができなかったのだ。張孝忠の功績は莫大であり世襲を許されたのも当然だろう。
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張孝忠/張阿勞伝
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孝忠は字も孝忠。蕃族奚の出身で、曾祖靖や祖遜は乙失活の酋長であった。
父謐は開元中に唐朝に帰属した。
孝忠は長身巨躯で勇力をもつて蕃族出身の王武俊と並び称されていた。
また寬裕で親に孝でもあった。
天寶末,內供奉。
安祿山の偏將となり九姓突厥を破り果毅折衝。
祿山、史思明が叛すると従い前鋒となり活躍。
史朝義が滅ぶと、成徳節度李寶臣の将となる。
上元中,左領軍郎將/将軍,左金吾衛將軍同正、試殿中監に進み、賜名孝忠。
飛狐、高陽二軍使を歴任。
寶臣の信任が厚く、その妻妹昧谷氏を妻とする。
易州諸鎮兵馬を統制し十余年。
大暦十年.魏博田承嗣の易州侵攻を撃退。
その後、幽州朱滔の侵攻を防ぐ為に易州刺史として騎兵七千を配属された。
太子賓客兼御史中丞,封范陽/符陽郡王に進む。
寶臣晩年、猜疑し大將を殺す。孝忠も召喚されるが従わなかった。
建中二年.寶臣死後、子惟岳が自立。
幽州節度使朱滔は孝忠を誘い唐朝に帰服させた。
德宗皇帝は喜び檢校工部尚書恆州刺史兼御史大夫充成德軍節度使.賜實封二百戶。として、滔とともに惟岳を伐たせた。恒州に残っていた親族は皆惟岳に殺された。
孝忠は滔と結び、子茂和を滔女と結婚させ同盟を結んだ。
三年.惟岳兵を束鹿に大破した。
王武俊が惟岳を誅し、定州刺史楊政義が帰服し、易定二州を制圧した。
唐朝は成徳節度を分割し、武俊に恒冀を、康日知に深趙を、朱滔には徳棣、孝忠に易定滄を与えた。
二月.定州に義武軍を置き、檢校兵部尚書義武軍節度易定滄等州觀察等使。
その後、朱滔、王武俊、田悅が共に反するが、孝忠は唐朝に忠誠を保った。
そのため三面に敵を受けるが屈しなかった。
孝忠が同調せず、唐朝軍の河東馬燧・昭義李抱眞と連携したため、河北三鎭や淄青・淮西の大反乱も
東都を陥せず唐朝の息の根を止めることができなかった。
檢校左僕射,實封三百戶を加えられる。
孝忠は神策兵馬使李晟、宦官竇文場の支援をうけ、娘を晟の子憑に嫁がせ連携した。,
四年.德宗皇帝が奉天へ逃れると將楊榮國を晟に従わせ支援した。
興元元年正月.同平章事。
滄州は遠隔地のため程日華が自立し、孝忠は補償として每歲以滄州稅錢十二萬貫を与えられることになった。
貞元二年.河北は飢饉となるが、孝忠は勤儉であり耐え抜いた。
三年.検校司空。忠誠に対して子の茂宗に義章公主を妻に与えられた。
五年七月.幽州節度使と私戦して蔚州を攻め。十月.檢校司空を削られた[六年.元に戻った]。
七年二月/三月.卒した,年六十二,追封上谷郡王,贈太傅,再贈魏州大都督,冊贈太師,謚曰貞武。
その功績を評価され子の茂昭に継承が許された。
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張孝忠/張阿勞伝
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孝忠は字も孝忠。蕃族奚の出身で、曾祖靖や祖遜は乙失活の酋長であった。
父謐は開元中に唐朝に帰属した。
孝忠は長身巨躯で勇力をもつて蕃族出身の王武俊と並び称されていた。
また寬裕で親に孝でもあった。
天寶末,內供奉。
安祿山の偏將となり九姓突厥を破り果毅折衝。
祿山、史思明が叛すると従い前鋒となり活躍。
史朝義が滅ぶと、成徳節度李寶臣の将となる。
上元中,左領軍郎將/将軍,左金吾衛將軍同正、試殿中監に進み、賜名孝忠。
飛狐、高陽二軍使を歴任。
寶臣の信任が厚く、その妻妹昧谷氏を妻とする。
易州諸鎮兵馬を統制し十余年。
大暦十年.魏博田承嗣の易州侵攻を撃退。
その後、幽州朱滔の侵攻を防ぐ為に易州刺史として騎兵七千を配属された。
太子賓客兼御史中丞,封范陽/符陽郡王に進む。
寶臣晩年、猜疑し大將を殺す。孝忠も召喚されるが従わなかった。
建中二年.寶臣死後、子惟岳が自立。
幽州節度使朱滔は孝忠を誘い唐朝に帰服させた。
德宗皇帝は喜び檢校工部尚書恆州刺史兼御史大夫充成德軍節度使.賜實封二百戶。として、滔とともに惟岳を伐たせた。恒州に残っていた親族は皆惟岳に殺された。
孝忠は滔と結び、子茂和を滔女と結婚させ同盟を結んだ。
三年.惟岳兵を束鹿に大破した。
王武俊が惟岳を誅し、定州刺史楊政義が帰服し、易定二州を制圧した。
唐朝は成徳節度を分割し、武俊に恒冀を、康日知に深趙を、朱滔には徳棣、孝忠に易定滄を与えた。
二月.定州に義武軍を置き、檢校兵部尚書義武軍節度易定滄等州觀察等使。
その後、朱滔、王武俊、田悅が共に反するが、孝忠は唐朝に忠誠を保った。
そのため三面に敵を受けるが屈しなかった。
孝忠が同調せず、唐朝軍の河東馬燧・昭義李抱眞と連携したため、河北三鎭や淄青・淮西の大反乱も
東都を陥せず唐朝の息の根を止めることができなかった。
檢校左僕射,實封三百戶を加えられる。
孝忠は神策兵馬使李晟、宦官竇文場の支援をうけ、娘を晟の子憑に嫁がせ連携した。,
四年.德宗皇帝が奉天へ逃れると將楊榮國を晟に従わせ支援した。
興元元年正月.同平章事。
滄州は遠隔地のため程日華が自立し、孝忠は補償として每歲以滄州稅錢十二萬貫を与えられることになった。
貞元二年.河北は飢饉となるが、孝忠は勤儉であり耐え抜いた。
三年.検校司空。忠誠に対して子の茂宗に義章公主を妻に与えられた。
五年七月.幽州節度使と私戦して蔚州を攻め。十月.檢校司空を削られた[六年.元に戻った]。
七年二月/三月.卒した,年六十二,追封上谷郡王,贈太傅,再贈魏州大都督,冊贈太師,謚曰貞武。
その功績を評価され子の茂昭に継承が許された。