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李叔明/鮮于叔明伝
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叔明は字晉、閬州新政の人。本は鮮于氏で豪族であった。
兄の仲通は天寶末に楊國忠の党として京兆尹、劍南節度使。
兄弟とも学問に励み、施しをした。
明經に合格し、楊國忠の劍南節度判官。
乾元元年七月.司勳員外郎として漢中王瑀に従い回紇に使いする。
回紇の非礼を糺させる。
復命し司門郎中となる。
東都が回復し洛陽令として再建にあたる。
商州刺史上津轉運使。
加金商均房等州觀察使を加えられる。
京兆尹.御史中丞に進み、治績を上げる。
疾をもって辭し太子右庶子。
崔寧の乱時、卬州刺史兼禦史中丞充邛南招討都團練使。
加御史大夫
大暦三年五月.乱が収束し、東川節度使遂州刺史.御史大夫に進み、梓州に移治する。
十二年八月.叔明の出自に疑いが生じ、これを嫌って賜姓を請う。
十三年七月.檢校工部尚書。
建中元年五月.吐蕃が掠龍州,陷扶、文、遠三州、叔明が撃退する。
功により檢校戶部尚書。
山東梁崇義の乱に派兵し、荊門に破る。檢校尚書左僕射。
朱泚の乱に德宗皇帝が興元に逃れた時、これを支援し太子太傅.封薊國公。
東川は叔明の二十年間の統治で安定していた。
貞元二年三月.病により入朝し尚書右僕射となる。
その後太子太傅致仕。
貞元三年十月.卒し諡曰襄。
道、佛教が民政を乱す害を嫌っていた。
殖財し莫大な資産を築いていたが、没後数年で子孫が使い果たした。
李叔明/鮮于叔明伝
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叔明は字晉、閬州新政の人。本は鮮于氏で豪族であった。
兄の仲通は天寶末に楊國忠の党として京兆尹、劍南節度使。
兄弟とも学問に励み、施しをした。
明經に合格し、楊國忠の劍南節度判官。
乾元元年七月.司勳員外郎として漢中王瑀に従い回紇に使いする。
回紇の非礼を糺させる。
復命し司門郎中となる。
東都が回復し洛陽令として再建にあたる。
商州刺史上津轉運使。
加金商均房等州觀察使を加えられる。
京兆尹.御史中丞に進み、治績を上げる。
疾をもって辭し太子右庶子。
崔寧の乱時、卬州刺史兼禦史中丞充邛南招討都團練使。
加御史大夫
大暦三年五月.乱が収束し、東川節度使遂州刺史.御史大夫に進み、梓州に移治する。
十二年八月.叔明の出自に疑いが生じ、これを嫌って賜姓を請う。
十三年七月.檢校工部尚書。
建中元年五月.吐蕃が掠龍州,陷扶、文、遠三州、叔明が撃退する。
功により檢校戶部尚書。
山東梁崇義の乱に派兵し、荊門に破る。檢校尚書左僕射。
朱泚の乱に德宗皇帝が興元に逃れた時、これを支援し太子太傅.封薊國公。
東川は叔明の二十年間の統治で安定していた。
貞元二年三月.病により入朝し尚書右僕射となる。
その後太子太傅致仕。
貞元三年十月.卒し諡曰襄。
道、佛教が民政を乱す害を嫌っていた。
殖財し莫大な資産を築いていたが、没後数年で子孫が使い果たした。