唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

李叔明/鮮于叔明伝

2019-04-27 12:10:21 | Weblog
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李叔明/鮮于叔明伝
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叔明は字晉、閬州新政の人。本は鮮于氏で豪族であった。

兄の仲通は天寶末に楊國忠の党として京兆尹、劍南節度使。

兄弟とも学問に励み、施しをした。

明經に合格し、楊國忠の劍南節度判官。

乾元元年七月.司勳員外郎として漢中王瑀に従い回紇に使いする。
回紇の非礼を糺させる。

復命し司門郎中となる。

東都が回復し洛陽令として再建にあたる。

商州刺史上津轉運使。
加金商均房等州觀察使を加えられる。

京兆尹.御史中丞に進み、治績を上げる。

疾をもって辭し太子右庶子。

崔寧の乱時、卬州刺史兼禦史中丞充邛南招討都團練使。
加御史大夫

大暦三年五月.乱が収束し、東川節度使遂州刺史.御史大夫に進み、梓州に移治する。

十二年八月.叔明の出自に疑いが生じ、これを嫌って賜姓を請う。

十三年七月.檢校工部尚書。

建中元年五月.吐蕃が掠龍州,陷扶、文、遠三州、叔明が撃退する。
功により檢校戶部尚書。

山東梁崇義の乱に派兵し、荊門に破る。檢校尚書左僕射。

朱泚の乱に德宗皇帝が興元に逃れた時、これを支援し太子太傅.封薊國公。
東川は叔明の二十年間の統治で安定していた。

貞元二年三月.病により入朝し尚書右僕射となる。

その後太子太傅致仕。

貞元三年十月.卒し諡曰襄。

道、佛教が民政を乱す害を嫌っていた。
殖財し莫大な資産を築いていたが、没後数年で子孫が使い果たした。
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