朔方邠寧軍系、さしたる軍功はないが名将とされた。沙陀を慰撫したことが最大の
功績かも知れない。
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范希朝伝
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希朝,字致君は河中虞鄉人。
建中.邠寧軍の都虞候となり節度使韓遊瓌下。
德宗皇帝の奉天籠城時に功績があり、寧州刺史兼御史中丞。
遊瓌はその人望を懼れて殺そうとしたので鳳翔に奔る。
德宗皇帝は召して左神策軍将とした。
貞元四年.遊瓌が離任すると、邠寧の諸將は希朝を帥とすることを請うたが、希朝は張獻甫に譲り、
寧州刺史邠寧節度副使として補佐した。
六年五月.檢校禮部尚書振武節度使となった。
振武は黨項、室韋等の遊牧民が雑居し治安が乱れていたが、希朝は堡柵を置き、厳密に斥候を派遣し、て厳しく治安を保ち、蕃族も畏れて非法をしなくなった。
また蕃族の牛馬を収奪しなかった。
單于城に植樹し林となした。
貞元十九年十一月.入朝を請い、檢校右僕射兼右金吾大將軍。
永貞元年五月.順宗時.改革を志す王叔文等は宦官より兵権を奪うために、扱いやすい希朝を右神策統軍,充左右神策京西諸城鎮行營節度使とし奉天に鎭させ、実権はその党の韓泰に握らせようとした。
しかし宦官勢力は従わずその政策を骨抜きにした。
憲宗皇帝が即位すると、王叔文等は追放され、元和元年三月.希朝は檢校左僕射右金吾大将軍に戻された。
二年四月.檢校司空朔方靈鹽節度使。
三年六月.吐蕃の支配に苦しんでいた勇猛果敢な突厥の別部沙陀を誘致し陰山府兵馬使として慰撫した。
四年六月.河東節度使に遷り、沙陀もまた随行し、河東節度は強力となった。
五年.成徳王承宗を伐つが、すでに老耄し大きな成果は上げられなかった。
左龍武統軍に移され、太子太保/太傅致仕となった。
元和九年十一月.卒した.贈太子太師。諡忠武,改曰宣武。
当時は名將とされ、漢代の趙充國に比されたが、目立った戦功があるわけではなかった。
功績かも知れない。
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范希朝伝
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希朝,字致君は河中虞鄉人。
建中.邠寧軍の都虞候となり節度使韓遊瓌下。
德宗皇帝の奉天籠城時に功績があり、寧州刺史兼御史中丞。
遊瓌はその人望を懼れて殺そうとしたので鳳翔に奔る。
德宗皇帝は召して左神策軍将とした。
貞元四年.遊瓌が離任すると、邠寧の諸將は希朝を帥とすることを請うたが、希朝は張獻甫に譲り、
寧州刺史邠寧節度副使として補佐した。
六年五月.檢校禮部尚書振武節度使となった。
振武は黨項、室韋等の遊牧民が雑居し治安が乱れていたが、希朝は堡柵を置き、厳密に斥候を派遣し、て厳しく治安を保ち、蕃族も畏れて非法をしなくなった。
また蕃族の牛馬を収奪しなかった。
單于城に植樹し林となした。
貞元十九年十一月.入朝を請い、檢校右僕射兼右金吾大將軍。
永貞元年五月.順宗時.改革を志す王叔文等は宦官より兵権を奪うために、扱いやすい希朝を右神策統軍,充左右神策京西諸城鎮行營節度使とし奉天に鎭させ、実権はその党の韓泰に握らせようとした。
しかし宦官勢力は従わずその政策を骨抜きにした。
憲宗皇帝が即位すると、王叔文等は追放され、元和元年三月.希朝は檢校左僕射右金吾大将軍に戻された。
二年四月.檢校司空朔方靈鹽節度使。
三年六月.吐蕃の支配に苦しんでいた勇猛果敢な突厥の別部沙陀を誘致し陰山府兵馬使として慰撫した。
四年六月.河東節度使に遷り、沙陀もまた随行し、河東節度は強力となった。
五年.成徳王承宗を伐つが、すでに老耄し大きな成果は上げられなかった。
左龍武統軍に移され、太子太保/太傅致仕となった。
元和九年十一月.卒した.贈太子太師。諡忠武,改曰宣武。
当時は名將とされ、漢代の趙充國に比されたが、目立った戦功があるわけではなかった。