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太尉李晟の子孫の中で最も有能。彼が健康であれば魏博が失われるきことはなかった
と考える。
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李愬伝
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愬は太尉晟の子、字は元直。
騎射に通じ、父の蔭位により協律郎、衛尉少卿に至る。
晟の服除後、太子右庶子、少府監。
坊州刺史。
晉州刺史、治績があった。
金紫光祿大夫庶子に復す。
太子詹事,宮苑閒廊使。
当時、淮西吳元濟を伐つかことごとく失敗し、唐鄧節度使高霞寓は大敗、その後袁滋は怯懦で
ひたすら淮西の侵攻を避けるのみであった。
元和十一年十二月.愬は宰相李逢吉に起用を請願し、ついに檢校左散騎常侍兼鄧州刺史御史大夫充隨唐鄧節度使となる
しかし隋唐鄧の軍は淮西軍に対する恐怖心にとらわれ、到底戦闘できる状態ではなかった。
愬は当面防衛に専念すると宣言し、將士家族を撫して安堵させた。
また来降する淮西兵を遇し情報を得て、戦乱に困窮して逃亡してくる淮西民を保護してやった。
淮西は実績なく攻勢にでない愬を軽侮して警戒を緩めていった。
十二年三月.淮西將吳秀琳を文城柵に降す。五月.李祐を捕らえる。
半年、河中鄜坊より二千騎の援兵を得て、小規模な侵攻を繰り返し、小勝を重ねて兵の自信を取り戻し、淮西の驍將丁士良や吳秀琳、李祐を捕らえた。
愬は捕らえた李祐等を優遇し、常に相談役とし淮西の内情に通じていった。
祐等もその恩遇に感激して忠誠を誓うようになった。
時に宰相裴度は李光顏・烏重胤等を率い洄曲に淮西董從質の率いる主力軍と対峙していた。
十月、愬は祐を先鋒として、張柴戍を殲滅し、周囲の道を遮断した。
続命を求める將士に「一気に敵の本拠地蔡州を強襲する」と宣言した。
將士は戦慄したが、愬を懼れて大雨雪の中を急行するしかなかった。
数十年にわたって反乱を続け、一度も敵襲の無かった蔡州は無防備であり、
愬は牙城を陥し呉元濟を捕らえた。
有力な淮西主力軍を率いる董重質もいかんともしがたく、助命され降った。
淮西兵は殺されることなく解体され各軍に分置されていった。
裴度が淮西節度使に赴任し、
十一月.愬は功績により檢校尚書左僕射兼襄州刺史山南東道節度襄鄧隨唐復郢均房等州觀察等使上柱國封涼國公實封戶五百賜一子五品官。
十三年五月.憲宗皇帝は対吐蕃戦略を考え、愬を鳳翔節度使に移した。
七月.淄青李師道が反し、病の兄愿に代わり徐州刺史武寧軍節度使へ移る。
十二月.助命はされたが春州司戸に貶されていた董重質の起用を求めて試太子詹事委武寧軍驅使とした。そして淄青兵を金鄉に破った。
十四年正月.魚台を、二月沂州丞縣を陥した。
十五年九月.淄青が平定され、検校左僕射潞州大都督府長史昭義節度使同平章事に移る。
四月.魏博節度田弘正が成德節度に移鎭すると、愬は魏博節度使として河北の重鎮に赴任した。
長慶元年七月.幽州、成德で乱が起き、弘正が殺されると、愬は魏博兵を激励してこれを伐とうとした。しかしこの時、愬は重病であったため、田布に交代するしかなかった。
九月.太子少保として東都に帰り、十月に卒した。年四十九,贈太尉,諡曰武。
愬は賢明儉約で、晟の子としては最も有能であった。
と考える。
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李愬伝
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愬は太尉晟の子、字は元直。
騎射に通じ、父の蔭位により協律郎、衛尉少卿に至る。
晟の服除後、太子右庶子、少府監。
坊州刺史。
晉州刺史、治績があった。
金紫光祿大夫庶子に復す。
太子詹事,宮苑閒廊使。
当時、淮西吳元濟を伐つかことごとく失敗し、唐鄧節度使高霞寓は大敗、その後袁滋は怯懦で
ひたすら淮西の侵攻を避けるのみであった。
元和十一年十二月.愬は宰相李逢吉に起用を請願し、ついに檢校左散騎常侍兼鄧州刺史御史大夫充隨唐鄧節度使となる
しかし隋唐鄧の軍は淮西軍に対する恐怖心にとらわれ、到底戦闘できる状態ではなかった。
愬は当面防衛に専念すると宣言し、將士家族を撫して安堵させた。
また来降する淮西兵を遇し情報を得て、戦乱に困窮して逃亡してくる淮西民を保護してやった。
淮西は実績なく攻勢にでない愬を軽侮して警戒を緩めていった。
十二年三月.淮西將吳秀琳を文城柵に降す。五月.李祐を捕らえる。
半年、河中鄜坊より二千騎の援兵を得て、小規模な侵攻を繰り返し、小勝を重ねて兵の自信を取り戻し、淮西の驍將丁士良や吳秀琳、李祐を捕らえた。
愬は捕らえた李祐等を優遇し、常に相談役とし淮西の内情に通じていった。
祐等もその恩遇に感激して忠誠を誓うようになった。
時に宰相裴度は李光顏・烏重胤等を率い洄曲に淮西董從質の率いる主力軍と対峙していた。
十月、愬は祐を先鋒として、張柴戍を殲滅し、周囲の道を遮断した。
続命を求める將士に「一気に敵の本拠地蔡州を強襲する」と宣言した。
將士は戦慄したが、愬を懼れて大雨雪の中を急行するしかなかった。
数十年にわたって反乱を続け、一度も敵襲の無かった蔡州は無防備であり、
愬は牙城を陥し呉元濟を捕らえた。
有力な淮西主力軍を率いる董重質もいかんともしがたく、助命され降った。
淮西兵は殺されることなく解体され各軍に分置されていった。
裴度が淮西節度使に赴任し、
十一月.愬は功績により檢校尚書左僕射兼襄州刺史山南東道節度襄鄧隨唐復郢均房等州觀察等使上柱國封涼國公實封戶五百賜一子五品官。
十三年五月.憲宗皇帝は対吐蕃戦略を考え、愬を鳳翔節度使に移した。
七月.淄青李師道が反し、病の兄愿に代わり徐州刺史武寧軍節度使へ移る。
十二月.助命はされたが春州司戸に貶されていた董重質の起用を求めて試太子詹事委武寧軍驅使とした。そして淄青兵を金鄉に破った。
十四年正月.魚台を、二月沂州丞縣を陥した。
十五年九月.淄青が平定され、検校左僕射潞州大都督府長史昭義節度使同平章事に移る。
四月.魏博節度田弘正が成德節度に移鎭すると、愬は魏博節度使として河北の重鎮に赴任した。
長慶元年七月.幽州、成德で乱が起き、弘正が殺されると、愬は魏博兵を激励してこれを伐とうとした。しかしこの時、愬は重病であったため、田布に交代するしかなかった。
九月.太子少保として東都に帰り、十月に卒した。年四十九,贈太尉,諡曰武。
愬は賢明儉約で、晟の子としては最も有能であった。