唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

張仲武伝

2019-04-12 10:12:16 | Weblog
幽州節度は唐朝と離れ、直接蕃地接しているため、唐に協力的であることと、
若年者や無能な帥を認めない雰囲気があった。
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張仲武伝
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仲武は范陽の人。幽州将光朝の子。

若くして学に志したが挫折して、武へ転向し幽州節度に仕えた。

薊北雄武軍使に至る。

會昌元年九月.牙将陳行泰が節度使史元忠を殺して自立。

しかし閏九月.行泰も牙將張絳に殺され、絳が自立した。
仲武は唐朝に軍吏吳仲舒を派遣して自分を幽州節度に任ぜられるよう求めた。
[旧唐書では仲武と絳を混同し、絳が賜名されて仲武となったとしている]

十月.宰相李徳裕達は唐朝を尊重する姿勢と、その方略を認め、撫王紘を遙領幽州節度大使とし、仲武の兵馬留後就任を認めた。

仲武は絳を逐い、二年正月.檢校工部尚書兼御史大夫幽州節度副大使知節度事幽州大都督府長史.蘭陵郡王となった。

五月.回鶻帝国が崩壊して唐の北邊を荒らしたため、仲武は唐朝に協力してこれを伐って、貴族千餘人民三萬人を降した。
加檢校兵部尚書兼東面招撫回鶻使。

九月.東面招撫回鶻使となり奚や契丹を誘い回鶻主流を潰滅させた。

三年.唐朝が昭義劉稹を伐ったときは、回鶻残党の警戒にあたった。
河東節度使劉沔とは回鶻征討の功を争い不仲であった[唐朝は配慮して沔は義成に転任させた]。
二月.檢校尚書右僕射。

大中元年二月.検校司徒同平章事に至る。

五月.奚北部及山奚を破った。

三年四月.鎭に卒した,謚曰莊。