ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

今のわたしたちは、宇宙の進化の法則によって作られました

2016-09-11 18:50:30 | 知恵の情報
人は、意識そのものですから、変化します。人は何か「出来上がってしまったもの」
でもなければ、最終的に完成したものでもありません、。進化する可能性を内側に
秘めているものです。今のわたしたちは、宇宙の進化の法則によって作られました。
そして、未来の自分に変化しつつあるのです。

今の自分は、自分が考える一つひとつの思考によって作り変えられていきます。
一つひとつの経験が、自分の性格に影響を与えます。なした努力は、一つひとつ
が自分の精神性を変えていきます。ここに、自分が堕落してしまう秘密が隠されて
いるのです。逆に、思考を正しく選ぶためにこの「人は変化するという法則」を活用
するならば、力と救いを手に入れることにもなります。

生きるということは、思考し、行動することです。思考し、行動するということは、
変化することです。思考の本質をよくわかっていない人は、よく変化したり、悪く
変化したり、あてもなく変化し続けています。しかし、思考の本質がわかってくると、
上手に変化のプロセスを進めて、よい方向だけむけるようになるのです。

自分の思考をまとめあげたものが、自分という人間になります。思考と、その人が
同じものであるということについては、、決して例外がありません。思考を足したり
引いたりした結果として変化が起こります。その数学的な法則だけが変わらないの
です。

「人は意識そのものである」「意識は思考から成り立っている」「思考は変化するもの
である」とするならば、「思考を意図的に変えれば、人は変わるのだ」ということに
なります。

─『「意志」と「人生」の法則』 Light on Life's Difficulties ジェームズ・アレン
 KKベストセラーズより

核実験、核開発は地球温暖化の原因であることをまだ世界は気づかないか!!

2016-09-10 17:21:45 | 知恵の情報
我々は、南極や北極の氷解の主な原因を,工場や自動車の排気ガスまたは、大規模な森林火災
などによる二酸化炭素の過剰放出に求めている。しかし、核実験等による放射能汚染に、その
大きな原因があるとしている。これが如何に重大な結果を地球にもたらすのか・・・

「南極と同じく北極は氷で覆われている。多くの核爆発は、北半球で行われているので、
その塵である放射性元素は、南極より北極に落ち着く。
放射能が磁気を反撥することは、よく知られている。そこで北極に放射性元素がふると、
北極の磁場の影響で温度が上がり、氷冠が溶けて北極の質量の減少をもたらす。

溶けた氷は、全海洋に分布する。

一方の極での質量の減少は、遠心力に影響して地軸の傾きを変える。
これが起きると、太平洋、南太平洋に大陸が現れる。新大陸の質量が海水面を
変化せしめ、標高の低い国々に洪水を起こす。現在の海流の方向も変わり、異なった
環境条件を与える。
惑星は、微妙な組織体である。一つの変化が多くの変化を引き起こす。生命の生物学
的条件さえも変化する。

北極の質量変化は地軸傾角の減少を生じる。大陸を形成する遠心力を生じさせるのは、
地球の自転である。

北半球の大陸の存在があることから、現在の地球傾斜角の23度が生じている。
傾斜角が変わると、それに従って、適当なバランスが回復されるまで、大陸が別の
場所に現れる。幾つかの大陸が現れるだろう。そうなるとロシア北部、グリーンランド、
カナダ北部は消滅するだろう。

北極が解氷する程の高温に達するまでは、この過程はゆっくりと起こるけれど、それからは
一夜のうちに起こりうる。

これは、地球を鳴動させる、恐ろしい大地震によってもたらされる。都市は廃墟となり、
地球にはあちこちに、大きな亀裂がはしる。影響は、悲劇的である。
私の出来る忠告は、少なくとも南極の放射能が均衡するように、南北両極が同程度の
解氷をするような措置をとることである。これは、過度の質量不均衡を防ぎ、地球の
螺旋運動に影響がなくなる。
北半球の海洋が異常に暖かくなるのに気づいたら、北半球での核爆発を中止しなさい


この資料を読むと、核実験などは、もってのほかだし、原発も稼動中には微量の放射能が
実は、でていると聞く。ながく、稼動していれば、大気に少しづつ放射能がたまってくるに
違いない・・・
(現在は、稼動していないのが多いので助かっているが、原発の排熱も問題になっている。)
温排水によって海に捨てられる熱量はどれぐらいになるだろうか。2010年7月現在、
商業用原子炉54基の合計で4911・2万キロワットの「電気出力」を持っている。
その二倍の約一億キロワットの膨大な熱で加熱しているのが原発だということになる。
この熱量を言い換えると、日本全体では、毎日、広島に投下された原爆100個に
相当する巨大な熱量で海を過熱しているのである。広島の原爆は、一瞬で町を
焼き尽くして、跡形もなく消し、14万人の命を奪ったが、それが毎日100個であれば
どうなるか。これで海の生態系がこわれないはずがない。誰にでもわかることだ。
(『二酸化炭素温暖仮説の崩壊』広瀬隆著 集英社新書より抜粋)

温暖化が二酸化炭素が原因だなどといっていられない。
核所有、核実験、原発の廃止を考えなくては。核競争時代に異星人が核を持っている国に
警告してきた理由がよくわかる。(『ラムー船長から人類への警告』久保田寛斎 たま出版)
北極の氷が溶けているニュースを聞くたびこの資料を思い出す。大丈夫なのか地球は・・・

西洋人は、神への恐れを「宇宙の法則」に置き換えて恐れなくてはならない。
「法則」はおごった人間が使うこともできるが、最終的には寄り添わなければ因果律から
審判がくだる。

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これを以前に載せたが、北朝鮮の動きをみるとまた、思いだされてくる。原発のはっきりし
ない政策もそうだが、もっと科学者は、放射能の特性を研究しなければならない・・・
あるいは、先進国の世界の一パーセントの金権裏権力の連中は、すでに気づいているのかもしれない。
オバマを通して火星移住の問題も提起されているし、いざとなったら、火星へ逃れるつもり
だろう。アメリカの経済の赤字は、こうした、表に出ない火星移住開発の資金などに使われて
きたのかもしれない。


どんな成功も、どんな失敗も、それを招くのは自分自身の思いです

2016-09-08 18:23:11 | 知恵の情報
どんな成功も、どんな失敗も、それを招くのは自分自身の思いです。
この世界は、「原因と結果の法則」に支配されており、すべては自分に責任があります。
強さも弱さも、清らかさも卑しさも、それをもたらすのは自分自身であり、それを
変えるのも自分です。

あなたを取り巻く環境は、他の誰でもなく、あなた自身が創ったものであり、苦しみも、
喜びも、あなたのなかからうまれたものです。
つまり、人はみずからの思いそのままの存在であり、思いが変わらなければ、何も
変わりません。
たとえ、自分より弱い人を助けようとしても、弱い人がみずから助かりたいと願い、
みずから強くならなければ、助けることはできません。
弱い人は、他人の強さにあこがれるだけでなく、自分自身の努力によってそれを
手に入れなければなりません。みずからの状況を変えられるのは、自分だけなのです。

苦しみを与える人も、与えられる人も、本当はどちらも同類です。相手を苦しめている
ように見えて、実は自分を苦しめているのです。
もし真の理解があれば、苦しみを与える側のゆがんだ強さにも、与えられる側の
弱さにも、例の法則が働いていることがわかるでしょう。

また、真の愛があれば、それぞれの苦しみを知り、どちらも責めないでしょう。そして、
真の思いやりがあれば、どちらも温かく受け入れるでしょう。
弱さを克服し、自分本位な思いをすべて捨てた人は、苦しみを与えることもありません。
彼らは自由です。

─『すべて、思いのまま!7つの黄金法則』 ジェームズ・アレン 三笠書房

デール・カーネギーやナポレオン・ヒル、ノーマン・ピールが学んだ原点の著作。
何冊もだしているが、彼の分析は、すばらしい、進化論を受けてのものだと私には
読み取れるがどうだろう。
この世界の根源の法則というものを体感でわかった人だと思う。
「自然の法則」を「正しい法則」と捉え直すこと。そこには、人間が生きる生き方を
こめて「正しい」としている。それは、単なる「自然の法則」ではない。この意味合いが
わかることが大事だと思う・・・

もしも美しいまつ毛の下に、涙がふくらみたまるならば・・・ ベートーヴェン

2016-09-07 18:44:35 | 知恵の情報
もしも美しいまつ毛の下に、涙がふくらみたまるならば、それがあふれ出ないように、
つよい勇気をもってこらえよ。通る小道が、あるいは、高くなり、あるいは低くなり、
正しい道の見きわめがたいこの世のお前の旅路において、お前の歩みはたしかに
坦坦たるものではなかろうが、しかし徳の力は、つねに正しい方向へお前を前進
せしめるだろう。(手記)

つねに行為の動機のみを重んじて、帰着する結果を思うな。報酬への期待を
行為のバネにとする人々の一人となるな(手記)

ベートーヴェン(1770~1827)
苦しい境遇、さらには失聾という困難にも屈せず、数多くの不朽の名曲
を遺した天才的作曲家。九つの交響曲は有名。

─『一日一言 -人類の知恵ー』桑原武夫編 岩波新書から

彼の最後の言葉「喜劇は終わった」という言い方に、逆な意味を感じ、彼の人生を
眺めてみるとき、悲しみ、また、その不屈の意志、哲学がこの手記のように生き
たんだなとひとときを、思いめぐらせる・・・

 

平等観と差別観

2016-09-06 18:41:10 | 知恵の情報
人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。これを
平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」というときに、たとえ酒屋
の小僧でも、寒いときには苦しいと観ずるのを平等観というのであります。
それを自分は寒がりであり、恥ずかしがり屋であるから、自分は特別に苦しい
というのを差別観という。この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に
障壁を高くするときに、ますます人と妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに
憎悪するのである。またたとえばわれわれは、眼が横に二つついていることは
平等であるが、その眼のつきぶりが実に千変万化であって美人もできれば
醜人もできる。これが差別である。

だからわれわれはただこの差別のみを強調して見ずに平等と差別と両方面
を正しく批判するときに、「事実唯真」を認めることができて、いたずらに自己
中心的な小我にとらわれて、強迫観念になるようなことはないのであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社


事実唯真
本当の大悟徹底は、恐るべきを恐れ、逃げるべきを逃げ、落ち着くべきを
落ち着くので、臨機応変ピッタリと人生に適応し、あてはまっていくのをいい、
人間そのものになりきったありさまをいうのである。

心悸亢進でも、梅毒恐怖でも、当然恐るべきを恐れ、注意し用心すべきをする
のが、「事実唯真」である。恐るべきを恐れてはならないというのを「思想の矛盾」
といい、悪智といい、それはけっして人間の心情の事実ではないのである。

人を気軽に便利に幸せにするためには・・・

2016-09-05 18:11:26 | 知恵の情報
およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、
気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいことになる。
これに反して、人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、
間抜けと見下げられても、そんなことは、どうでもよいというふうに、大胆になれば、
はじめて人からも愛され、善人ともなるのである。つまり自分で善人になろうと
する理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が
悪人になれば、かえって善人になるのである。

たとえば人にご馳走をするときでも、人が少々下痢していても、まあどうぞどうぞ
と、無理強いに親切の押し売りをしようとする、これに反して、人に腹を損なわせ
ないように、無愛想をして、自分が悪人になることは、なかなか困難んであるので
ある。

私どもがこの老年になっても、まだ大人げもなく、自分が人からほめられたい、
悪人と思われたくない。それで自分で、いろいろな理屈をつけ、自ら弁護し、自ら
欺き、人をも欺いていることが多い。たとえば、私が人の悪口をいったり、あるい
は腹立ちまぎれに、叱ったりする。それをわがままとはいわずに、これは君らの
ために忠告するとか、人を治すためだとか、いろいろに理屈をこじつけるのである。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

人間を好きになることかもしれない。人は、人に警戒をもつ。しかし、自分だけでは
生きられないと悟ったとき、周りの人に寛容になれて、情が湧くのではないか。
私は、大病をして病院に入院したことがあるが、看護士さんの世話になり、日々
働く姿を見て、他者への意識が変わったことがある。自分が動けないときそれを
助けてくれたときの経験の感謝は計り知れない・・・
人と助け合わなければならないと理解できたとき、自然に周りの人の面倒をみたく
なる、やさしくしたくなる。

自己の中に「正しい法則」をどう生かすか

2016-09-04 17:33:37 | 知恵の情報
判断の基準は自然の中にあると以前申し上げました。
宇宙の法則が愛で、すべてのものを生かし、あらゆるものが生かされるもの、そして
いかなるものにも終わりがあり、終わりの中に始まりが息づいている、この世界です。

しかし生かし生かされるというのは、殺し殺されているということにもなります。他に
必要であるという必要性から、それは、愛だとみなされているのです。

正しい法則は宇宙の法である、それを悟れ、というのではありません。それを自己
の中にどう生かすかが大切なのです。判断基準としての自然の法則も判断の基準
としては原始的なものです。なぜなら人間は自然のなかに存在するとは言え、
自然とは一線を画した生物です。憎しみも喜びも悲しみもあり、それ故に愛を意識
できる存在です。自然の法則をそのままあなた方の中に適用してしまうと弱者の
存在など許さず、いかなる慈悲も愛もない世界となるでしょう。

慈悲は誤り多い人間に再び立ち直る機会を与えるものです。むざむざ痛い目に
あおうとしているところを救う心です。

宇宙の法則を体得し悟るのが偉大なのではありません。宇宙の法則をふまえて、
どう役に立てるかかが問題なのです。

自然の中の人間の存在にとって、何が真理かということ、どう生きてゆくのか、
その方向性は何か。人間は一人では生きてはゆけません。社会にとってどういった
ことが尊重されるべきか、こういったことも考えて、宇宙の法則をとらえなおして
みて下さい。

─『J I 』J I 出版 エル・ラファルライエル 口述筆記 土田展子より

これは、1980年代に日本に現われていた、天上(異次元)からのメッセージと
いわれるものです。
天からのものであるか、そうでないか、胡散臭いか、その内容から、どう考えるか。
読む人にその品格、教養や、倫理観や、判断力が突きつけられています・・・
正しい法則の認識は、19世紀に現われたジェームス・アレンの主張と同じようです。
彼も進化論が出たころですから、物事の真理をみつめそこに自然の法則が働いて
いることに気がついた人でしょう。日本でも、何人かの気づいている人がいたでしょうが
1980年代に高橋信次~千乃裕子の流れで正しい法則が伝えられています。

個人的な狭い範囲に閉じこもった小我と大我

2016-09-03 18:30:11 | 知恵の情報
正しき人生観というものは、各人勝手わがままのものではない。必ず万人に共通
であり、人の好意の模範であり、人生向上の指導であらねばならない。これに対
する要件は、まず小我を離れ、自己の気質を没却した底のもので、いわゆる大我
の境涯に立ってのことでなければならない。こうなるには常に人生を観察批判する
に当たり、我も宇宙の一生物であり、社会における一個人であるとして、自己と
外界との関係を客観的に観なければならない。すなわち我から観た他と他から観
た我とが第三者から見て共通の観方でなければならぬ。そうでなければ人間
共通の真理ではなくて、我一人の好き嫌いから起こる勝手な都合である。


なお自覚によって、自分の卑劣な心を、衆人の前に告白するのは、けっして
たんに自分の気晴らしというのではありません。この自覚の喜びから、衆人
をも啓発して、この幸福を分かち、互いに研究して修養を高めようとする心持
であります。この喜びのために、たんに自分の恥ずかしいという殻に閉じこもる
という態度を捨てて、衆人と同じ心に溶け入って、小我から発展して、大我と
なった状態ともいうことができるのであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

{参考}
しょう‐が〔セウ‐〕【小我】
1 仏語。凡夫の我。また、個人的な狭い範囲に閉じこもった自我。「―にとらわれる」⇔大我。
2 インド哲学で、差別界の自我。他と区別した自我。⇔大我。

だい‐が【大我】
《「たいが」とも》
1 仏語。真如の永遠なる自在の働き。狭い見解や執着から離れた自由自在の悟りの境地。⇔小我。
2 インド哲学で、宇宙の本体としての唯一絶対の精神。⇔小我。

ぼんぷ【凡夫】
1.普通の平凡な男。
2.仏 煩悩(ぼんのう)にとらわれて迷いから抜け出られない衆生(しゅじょう)。「―のあさましさ」



通常、自我といわれる意識は、他の対象と区別して意識される自己であります。つまり、他人と自分
の関係の中で、はじめて自分が意識される自分です。その意味で、生まれたばかりの赤ん坊は、まだ
自我の意識にめざめていません。三月、半年とたって、はじめて親と自分、つまり、周囲の対象の
なかで、自分の存在を自覚するわけです。
自我という言葉は非常に抽象的で誤解をまねきやすい。したがって、これを偽我、善我、真我の
三つに区分して考えた方が理解が早い。

偽我:
対象のなかの自分をより強く意識し、このため自己本位に流れ、自分中心に生活してしまう自分で
あります。俗に、エゴともいい、他人の幸を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分です。

善我:
この世の中は自分一人では生きてはいけない、みんなと手をとり合い、愛に生きなければならない。
各人めいめいが勝手なことをいって生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の
相互作用の関係の中で生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首を自分がしめてしまう
ことがわかります。助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方こそ、自分を生かし、みんなを生かす
ことだと理解する自我です。

真我は、こうした相対の関係(相互関係のなかで、他を生かしてゆくこと)から離れて、人と自分と
は本来一つのもので、別々ではない、現われの世界では別々でも、神(宇宙)の子としての心は一
つであり、そうして、すべての万物は、神(宇宙)の心の中で生かされ、生きている、という自覚の
自我です。この場合の自我は、大我というものであり、慈悲と愛一筋に生きるものです。
宇宙即我、それは、真我の現われです。

シットはわが身を亡ぼす

2016-09-02 18:21:22 | 知恵の情報
中年で未亡人となった安江は、一人息子の正一の成長を唯一の生きがいとして、
無事大学を出させ、就職も一流会社へきまり、やれやれとひと安心した。そして
この上はよい嫁を持たせれば、これで母親としての役目はすむと安江の次の
目標は嫁探しであった。知人の誰彼から紹介があって、候補者も四、五人あった。
親孝行な正一は自分の意思を母親が代行してくれるものとして、嫁選びは
母親の意見で決まってしまった。多くの候補者からよりぬいたのだから、さぞ
よいお嫁さんで母親はこれで楽隠居ができる、と当人も世間もそう思ったので
ある。

ところが安江は日がたつにつれ原因不明の不安に襲われだした。と同時に
立派な嫁であるはずの嫁の欠点がやたらに目につきはじめたのである。
なぜだろうか?安江は無意識のうちに正一を嫁にとられない防御から、いち
ばん取り柄のない嫁を選んでしまったのである。原因不明の不安はこんな
ところに原因があった。その自責のあらわれが、嫁さんの欠点発見ということ
になって、ついに嫁さんは離婚というはめになった。

正一君は、母親の嫁選びにもう信をおかなくなり、こんどは職場の女性と
恋愛結婚してしまった。安江は前よりも一層不安であった、明らかにシット
という苦しい衝動で嫁と対抗しなければならない。が、しかし新しい嫁は
バカではなかった。そういう姑の対抗意識を巧みにかわして母親を孤独に
させない心づかいをした。たとえば洗濯物を干すにしても、自分ら夫婦の
ものは並べないで、その真ん中へ姑のものを干して、のけ者にされたと
いう感情を未然に防ぐ、といった具合である。

シットとは、愛されることの欲望が満たされないときに生ずる激しい自己愛
である。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より

人の気持ちを察知するということはとても大切なことだと思う。
相手にシットを抱かせないということは、すばらしい・・・