人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。これを
平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」というときに、たとえ酒屋
の小僧でも、寒いときには苦しいと観ずるのを平等観というのであります。
それを自分は寒がりであり、恥ずかしがり屋であるから、自分は特別に苦しい
というのを差別観という。この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に
障壁を高くするときに、ますます人と妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに
憎悪するのである。またたとえばわれわれは、眼が横に二つついていることは
平等であるが、その眼のつきぶりが実に千変万化であって美人もできれば
醜人もできる。これが差別である。
だからわれわれはただこの差別のみを強調して見ずに平等と差別と両方面
を正しく批判するときに、「事実唯真」を認めることができて、いたずらに自己
中心的な小我にとらわれて、強迫観念になるようなことはないのであります。
─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社
事実唯真
本当の大悟徹底は、恐るべきを恐れ、逃げるべきを逃げ、落ち着くべきを
落ち着くので、臨機応変ピッタリと人生に適応し、あてはまっていくのをいい、
人間そのものになりきったありさまをいうのである。
心悸亢進でも、梅毒恐怖でも、当然恐るべきを恐れ、注意し用心すべきをする
のが、「事実唯真」である。恐るべきを恐れてはならないというのを「思想の矛盾」
といい、悪智といい、それはけっして人間の心情の事実ではないのである。
平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」というときに、たとえ酒屋
の小僧でも、寒いときには苦しいと観ずるのを平等観というのであります。
それを自分は寒がりであり、恥ずかしがり屋であるから、自分は特別に苦しい
というのを差別観という。この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に
障壁を高くするときに、ますます人と妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに
憎悪するのである。またたとえばわれわれは、眼が横に二つついていることは
平等であるが、その眼のつきぶりが実に千変万化であって美人もできれば
醜人もできる。これが差別である。
だからわれわれはただこの差別のみを強調して見ずに平等と差別と両方面
を正しく批判するときに、「事実唯真」を認めることができて、いたずらに自己
中心的な小我にとらわれて、強迫観念になるようなことはないのであります。
─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社
事実唯真
本当の大悟徹底は、恐るべきを恐れ、逃げるべきを逃げ、落ち着くべきを
落ち着くので、臨機応変ピッタリと人生に適応し、あてはまっていくのをいい、
人間そのものになりきったありさまをいうのである。
心悸亢進でも、梅毒恐怖でも、当然恐るべきを恐れ、注意し用心すべきをする
のが、「事実唯真」である。恐るべきを恐れてはならないというのを「思想の矛盾」
といい、悪智といい、それはけっして人間の心情の事実ではないのである。