私は、二〇〇〇年前に、イスラエルのベツレヘムという町に生まれ、キリスト教の
聖書に録されているとおり、人はかく生きるべしと、神と人とのつながりにおいて、
神々の愛から隣人への愛、人びとの愛から全人類への愛へと広がる形で、愛の
尊さとそのあり方を説いて歩き、その過程でまた、科学的には無知であった人
びとに信仰の対象として唯一絶対なる神ヤーウェ、すなわちエホバを崇め、また
己の中にある神性、すなわち善である所の人間性を、天なる鏡に写された姿として、
"天国は貴方がた一人一人のうちにある”と述べました。
歴史の流れとして見ると、私の時に初めて、ギリシャ哲学からインド哲学のなかで
説かれた大自然の普遍的な性格や法則、すなわち、宇宙あるいは仏教では
梵(絶対者=宇宙の根源)と呼ばれるものと比較して、個人あるいは我(真実我
=個人)をのべたものから、個人個人の観点に立って、神を主観的・客観的に
説くものに代わりましたが、説きおこすところは同じでした。人間としてのあり方
を詳しく説いたのです。
さて、その愛というのは、男女の愛や友愛の域を超えた神の愛、アガペー(無償
の愛=与えるのみの愛であり、報酬を求めね愛)なのです。言わずともそれは、
慈悲を伴うものでなければなりません。'神は愛なり’と私が述べ、キリスト教は
愛の教えであると、人々は信じていますが、慈悲の心や、行いについて、たとえ
を通じてはっきり説いており、また神の愛とは慈悲であり、愛でなければならない
のです。慈悲を伴わぬ愛は自己愛(自己に対する愛や欲望)の延長にしか過ぎ
ません。それは、相手に求める愛であって、与える愛ではないことはお解かり
でしょう。自分をあいすることはもちろん大切です。よい意味での自己愛、自らが
持っている人間としての尊厳、神の子としての悟り、そういうものを知って、隣人
を己のごとくに愛せよ、と説いたのです。それは奴隷が未だ用いられている時代
で、人間の尊厳についての意識が低かったからです。
その次に説いたなかで重要なことは、地上に神の国を作ることの必要性でした。
なぜならば、ご存知のようにその頃の人びとは、無知な者や闘いしか知らぬ
武骨な者が多く、野蛮な行為をなんとも思わず、また学者は律法に縛られ、戒律
で人を裁き、神の心という計り難い、どのような者にも分け与える愛や、平和を
求める柔和な心、慈悲心と等しく、許す心、気持ちなどを知らぬものでした。
そのような人々が真の神の国、すなわち天国と同じ秩序と平和と調和と光で、
満たされた場所を地上に作るのは、なんと困難な問題でしたでしょう。自分の
心のなかにある神と等しくなれる心、真我は善なる心であることなど、振り返って
見たこともない人が多かったのです、。
ですから、私は、神の国を作るためには、どのような人が相応しいかを悟らせる
ために、山上の垂訓と呼ばれるものを説きました。(イエス・キリスト言)
─『天国の扉』イエス・キリスト 千乃裕子編著 たま出版
宇宙的天上人からのメッセージ掲載 より
■クリスマス・イブなのでイエス様のメッセージを取り上げてみた。
20世紀に現れたイエスの新たなメッセージを考えて見ることができる・・・
彼は、異星人の転生らしい。系図をたどると際限がなさそうだが、わかっている
のでは、エル・カンタルーネ王の次男、エル・ビルナビル・カンタルーネ様が
イエスの体に入り、転生をしたといわれている。転生輪廻は、合体した人と
新しい自分という生命体が一緒に一生を育つようになっている・・・そして、
亡くなったとき、また、二つに分かれる。
エル・カンタルーネ王は統一王国ベー・エルデ星の王である。
エル・ビルナビル・カンタルーネ=M45メシヤからの養子、五人兄弟の次男。
聖書に録されているとおり、人はかく生きるべしと、神と人とのつながりにおいて、
神々の愛から隣人への愛、人びとの愛から全人類への愛へと広がる形で、愛の
尊さとそのあり方を説いて歩き、その過程でまた、科学的には無知であった人
びとに信仰の対象として唯一絶対なる神ヤーウェ、すなわちエホバを崇め、また
己の中にある神性、すなわち善である所の人間性を、天なる鏡に写された姿として、
"天国は貴方がた一人一人のうちにある”と述べました。
歴史の流れとして見ると、私の時に初めて、ギリシャ哲学からインド哲学のなかで
説かれた大自然の普遍的な性格や法則、すなわち、宇宙あるいは仏教では
梵(絶対者=宇宙の根源)と呼ばれるものと比較して、個人あるいは我(真実我
=個人)をのべたものから、個人個人の観点に立って、神を主観的・客観的に
説くものに代わりましたが、説きおこすところは同じでした。人間としてのあり方
を詳しく説いたのです。
さて、その愛というのは、男女の愛や友愛の域を超えた神の愛、アガペー(無償
の愛=与えるのみの愛であり、報酬を求めね愛)なのです。言わずともそれは、
慈悲を伴うものでなければなりません。'神は愛なり’と私が述べ、キリスト教は
愛の教えであると、人々は信じていますが、慈悲の心や、行いについて、たとえ
を通じてはっきり説いており、また神の愛とは慈悲であり、愛でなければならない
のです。慈悲を伴わぬ愛は自己愛(自己に対する愛や欲望)の延長にしか過ぎ
ません。それは、相手に求める愛であって、与える愛ではないことはお解かり
でしょう。自分をあいすることはもちろん大切です。よい意味での自己愛、自らが
持っている人間としての尊厳、神の子としての悟り、そういうものを知って、隣人
を己のごとくに愛せよ、と説いたのです。それは奴隷が未だ用いられている時代
で、人間の尊厳についての意識が低かったからです。
その次に説いたなかで重要なことは、地上に神の国を作ることの必要性でした。
なぜならば、ご存知のようにその頃の人びとは、無知な者や闘いしか知らぬ
武骨な者が多く、野蛮な行為をなんとも思わず、また学者は律法に縛られ、戒律
で人を裁き、神の心という計り難い、どのような者にも分け与える愛や、平和を
求める柔和な心、慈悲心と等しく、許す心、気持ちなどを知らぬものでした。
そのような人々が真の神の国、すなわち天国と同じ秩序と平和と調和と光で、
満たされた場所を地上に作るのは、なんと困難な問題でしたでしょう。自分の
心のなかにある神と等しくなれる心、真我は善なる心であることなど、振り返って
見たこともない人が多かったのです、。
ですから、私は、神の国を作るためには、どのような人が相応しいかを悟らせる
ために、山上の垂訓と呼ばれるものを説きました。(イエス・キリスト言)
─『天国の扉』イエス・キリスト 千乃裕子編著 たま出版
宇宙的天上人からのメッセージ掲載 より
■クリスマス・イブなのでイエス様のメッセージを取り上げてみた。
20世紀に現れたイエスの新たなメッセージを考えて見ることができる・・・
彼は、異星人の転生らしい。系図をたどると際限がなさそうだが、わかっている
のでは、エル・カンタルーネ王の次男、エル・ビルナビル・カンタルーネ様が
イエスの体に入り、転生をしたといわれている。転生輪廻は、合体した人と
新しい自分という生命体が一緒に一生を育つようになっている・・・そして、
亡くなったとき、また、二つに分かれる。
エル・カンタルーネ王は統一王国ベー・エルデ星の王である。
エル・ビルナビル・カンタルーネ=M45メシヤからの養子、五人兄弟の次男。
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