超芸術と摩損

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【参院選】教育問題という名の「社会問題」を直視せよ~和田中元校長 藤原和博氏に訊く

2010-07-05 01:38:53 | 新聞から
Infoseek 内憂外患編集部

 7月11日に投開票となる参院選。各政党がそれぞれ主張を出している。不景気が続く昨今、軒並み経済成長や税制に目が向き、教育については「高校無償化」の話以外、目を引くものはない。
 しかし、教育現場が多くの問題に直面していることは周知のところだ。この「教育現場で起こっていること」について、そして大きな目で見た「教育問題」について、杉並区立和田中学校で「土曜寺子屋」などを展開してきた元校長の藤原和博氏に話を訊いた。

教育格差の裏にある、収入格差・地域差
――東京と大阪の教育現場に携わる藤原さんですが、収入だけでなく地域間の教育格差を感じられることはありますか?
藤原 大阪府では生活保護世帯が多い現状があります。全校生徒のうち約3割が中国残留孤児の子孫という地域もあります。
 日常生活では中国語を使っているため、日本語の問題を読み解くことすら難しいというケースがあります。
 群馬県や愛知県など在日外国人が多い地域も同様の問題を抱えているでしょう。現場の先生が取り出し授業(習熟度が低い子どもを対象にした補習)を行ったりしていますが、それでは追いつかないのが現状です。
 子どもが減ったことによる問題もあります。1学年1クラスの単学級の場合、イジメなどの問題が起こるとクラス替えによる対策が取れません。学校の統廃合が進めばこういった問題は減少していくと思いますが、地域によってするべきことは異なり、公教育が一律に行えない状況が全国にあります。
――解決策はありますか
藤原 教育の場合、法律や制度を変えればすぐに効果が現れるとは限りません。法律や制度を変えるよりも効果があるのは、校長に民間人を据えることです。というのも、昨今の学校で起こる問題は「社会問題」だからです。これは学校の中でのみ育ったような校長先生には解決が難しいように思います。
 和田中でも、「父親に虐待されている子ども」「片親が外国人で社会的に適応できず、子どもの情緒が不安定になっている」などの問題を持つ子どもが40名あまりいました。なかにはてんかんという病気を持った子どももいました。
 そうなると、子どもに発作が起きたとき、先生がすぐに座薬を入れる、などの処置をしなければなりません。どの子どもにそうした緊急事態が起き、どうやって対応するべきか、先生同士で情報を持っていなければ対応できません。この1つの例から見ても分かると思いますが、これは学科教育の問題ではなく、医療であり、福祉であり、教育の問題なのです。
 学校の中で起こっているから「教育問題」と誤解されがちですが、そうではありません。社会の問題は、社会で解決しようと思わなければ解決不可能です。だからこそ学校の中だけで育った校長先生ではなく、社会にこなれた民間出身者が必要なのです。
 現在、公立中学校の就学区域は約10,000学区ありますが、半数は民間から校長先生を登用するべきだと考えています。私はこれによって、義務教育の大半の問題が解決できると考えています。

校長が教育界とそれ以外のつなぎ役に
藤原 キャリア(職業)教育についても同様のことが言えます。学校で企業の人を招いて、授業をしてもらうこと自体はいいのですが、「どうやったら子どもが分かってくれるか」ということを企業の人たちは分からないでしょう。分かりやすくする翻訳者が必要です。企業と学校が共同で教材開発することも必要でしょう。
 キャリア教育だけでなく、消費者教育や食育も同様です。例えば、「中国から輸入した冷凍の餃子の中に毒物が混入していた」という事件がありました。これを教えるにあたって、「今の中国と日本の関係はどうなっているか」など、背景をわかって指導するか、道徳を教条的に教えるか、ではまったく違います。

教科の教育だけを教えるところではなくなった学校現場
藤原 しつけなど、本来学校だけが負うべきでない教育指導まで学校に求められている、という感はあります。昔は父母が厳しかった、という声もあります。兄弟や姉妹、歳の離れた友だちから、遊びの中で「社会的な作法」を学ぶ場所がなくなったことは大いに影響しているでしょう。
 最近では学校で「シャツはズボンの中に入れなさい!」など、基本的なことを教えなければいけない状態になってきました。いったんこういったルールが崩れると結構大変です。特に、中学生はパワーがありますから、指導が難しくなることもあります。
 最近は家庭のフォローが足りない、と思うことが多々あります。例えば、九九を覚えさせる、ということ。昔ならば「どんなに貧乏でも義務教育の知識は何が何でも身に付けされる」という気合がありました。
 それは、計算ができればおつりをごまかされない、漢字が読めれば工場に勤めたときに解説書が読める、リーダーなどの要職に早く着ける、といった利益に直結していました。今は全体が豊かになったからか、親も子も教育に対して危機感がありません。
 また、ここ15年ほどの間に、自分が一番可愛いという「自分の気持ち至上主義」がはびこり、親が子どもを放っておくような現状があります。申し訳ないけれど、3割程度の家庭では子どものフォローができておらず、そのうちの約1割は完全に破綻しているような状況です。

本当は、家に帰したくない子どももいる
藤原 実は、家に帰したくないような子ども、もいます。家庭に帰すと必ず問題を起こすような子どもたちです。そうなってしまうと学校が寄宿舎になりますね。
 親元に帰すたびに子どもが虐待されるような環境にあったとしても、今の日本では親元から分離させることができません。事件が起きていないため、予防手段が取れないのです。もし入れることができるとすると、それは刃傷沙汰になったときくらいです。
 例えば、東京では児童相談所の職員1人が200件くらいの問題を抱えるオーバーフローがおきています。
「あそこの家庭はいずれ問題が起こるから」といっても、児童の一時保護所には入れられません。
 明らかに首に絞められたようなアザがあっても、分離できません。本人も虐待をされている、とは言いません。仕方がないので、私はポラロイドで写真を撮り、児童相談所の係員に「これでもし、この子になにか起こったらあなたの責任だからな!」とつきつけたことがあります。
 それでも動かないのです。
 やがて、その子どもが夜、徘徊してコンビニで万引きをするようになりました。その現場を見つけたコンビニ店員は、1度目は、悪いことだということを諭して帰らせたため、事件にはなりませんでした。
 私はその情報を懇意にしている別の学校のPTA会長から聞き、また万引きをしているところを目撃したら通報してもらうよう、コンビニ店員に協力してもらいました。そうすれば、一時的に保護所に連れて行くことができるからです。その子は明らかに精神的に不安定な状況だったんです。
 そうした子どもの場合は、思春期外来で診てもらうのですが、この診療ができる先生の数は限られています。普通に診てもらいに行くと3ヶ月待ちは当たり前です。子どもは表現が豊かではないので、診断に手間や時間がかかります。でもこっちはまってられません。危ないからです。
 だから、事件を起こしてでも大きな精神的な病院で、診察の順番を繰り上げてもらうしかないのです。究極の選択です。こんな状況はどこかおかしいでしょう?
 子どもに問題があるのではなく、そうした状況が問題なのです。
 親を呼んで精神病院に連れて行ったこともあります。これにはベテランの先生も「そんな校長は20年来始めてだ」と言って、感動していました。他の校長もたぶんやっていないのでしょう。
 でも、こんなことを学年主任や担任に任せられません。たらい回しにされ、対応が遅れる場合すらあります。
 ただ、もし私企業で部下にそうした問題を抱えた人間がいたらどうでしょう? マネジメントとして、普通は病院に連れて行きます。
 教員の置かれている現状を、教員自身は語らないし、メディアも報道しないけど、現実にあるわけです。しかも、そうしたことに一生懸命対応している先生の姿は報道されず、学校で問題が起こったら学校の責任になる、という具合です。

責任の所在が分かりづらい環境
藤原 一方で、モロに学校の問題であるにも関わらず、責任があいまいなところもあります。学校の問題は校長と教育長の責任の下にある、とすべきです。
 大阪府の子どもの学力が低いことに驚いた橋下府知事。なかでも一番怒ったのは「だれが責任者?」というと、だれも手を挙げなかったことです。
 教育長というのは特殊な立場です。知事は政治的なパワーバランスによって誕生する場合があります。
 もし、知事がそうした思想的バックボーンを持って誕生した場合、4年に1度知事の改選がある度に、教科書の選定など教育方針が変わることはまずいですよね。教育の一貫性を保つために、知事と同格の教育長が必要になります。ただ、いまは当初の目的が薄れ、ただ生き残るためだけになってしまっているように感じます。
 大阪府には府の教育長がいますが、教員任免権しかもっていません。市町村の学校の設備や教材を決めるのは、市町村の権限です。もっと言うと、小中学校の設置者は市区町村なので、障害児教育や給食の内容、教科書の採択など具体的なことは市町村が決めます。政令市についてはまた別に任免権をもっています。大阪府の場合、大阪市と堺市は政令市なので、ここは府が手を入れられません。
 例えば、大阪の教育改革の例を挙げて説明しましょう。学力調査の結果を公表することになり、府で教員の意識改革をしたところ、小学校の算数の学力が大阪府下では、全国平均を超える事態になりました。順位も6~7位ほどあがったのです。ただし、このくらいの成果は先生が本気になればできます。教育効果は長い時間がかかる、といいますが、本当はそうではありません。
 学力調査に真剣に教員が取り組みだけで違います。「こんなのは関係ない」と言って問題を配るか、「最後まで真剣にやりなさい」というのでは子どもの取り組み方が違います。市町村のレベルで点数が公表され、どこでどういった無責任があるか突き詰める、と言って、机間巡視をして、ちゃんと見直ししなさいよ、と教育的指導をし、最後まで取り組ませる。いい加減にしないだけで絶対に平均点は挙がります。
 これはこの先、子どもたちが仕事をするようになっても、最後まで手を抜かないでやりぬく意思を持つ上で重要な訓練でもあります。
 和田中の場合は学力調査の前に過去問題を解かせるなどしていました。先生たちの意識がちょっとでも変わることで、20点は変えられないけれど、5点や10点は変わります。

タブーを超える~大阪府の教育改革
藤原 大阪では学習の習熟度が上の方の子(いわゆる出来る子)を伸ばすことがタブーとされていました。これを変えるようにしました。
 5段階評価の成績表で4~5を取っている子を6にあげるような教育をするということです。土曜日に3コマ増やせば、子どももだんだん違ってきます。英語でもテニスでもなんでもいいのですが、自分に成長感があると、誰かに教えたくなるのが人間です。子どもは特にそうなんですね。そうすると、その子たちが授業中や休み時間に分からない子に教えるようになります。
 分からない子は授業が終わって「先生、ここが分かりません」なんて聞ききません。分からないことが放っておかれてしまうのです。でももし隣に教えてくれる子がいれば、その子にとっても教える子にとっても強い信頼関係が生まれます。もっとやりたい、という子はどんどんやらせればいいんです。そして、出来る子と出来ない子を組ませるのです。
 英語ではスキット練習といって、2人を組ませて「Hi, Jim」とかいうロールプレーをしますよね。あれは2人とも出来ない子だと地獄のようですが、片方が良く知っている子なら、その子が教え始めるんです。
 普通、中学の英語の指導要領では1000ワードを3年かけて教えます。ちなみに、英検3級に合格するためには3000ワード程度が必要とされています。この英検3級を持つ子が和田中にはたくさんいました。
 先生はこれによって、格段に授業が楽になります。なぜかというと、先ほど、スキット練習などで出来る子が出来ない子に教えるようになる、とお話しましたが、まさにここで出来る子がミニ先生として活躍するのです。
 ベテランの先生はまず真ん中レベルの教材を解かせ、生徒の学習レベルを把握します。そして、それぞれに適切な教材を与えます。1つのクラスでも習熟度別に教えるわけです。ミニ先生がクラスの半分になると先生は本当に楽です。先生の教材という縦の糸と生徒同士の横のつながりによって、全体の習熟度の引き上げにもなります。
 私は就任して、先生の前で「現場で気づいているかもしれないけれど、上の子を伸ばせば下の子のためにもなるって知ってるでしょ?」 と言いました。これを実践してもらったんです。
 これは子どもにとっても良いことです。教えることで誇りになり、まだあいまいなこと、理解できていなかったことに気付きが生まれます。
 上の子を伸ばさないと、公立学校の成長はありえないです。1人の先生ができることなんて限られているんです。子どもたちのネットワークのなかで、ミニ先生を増やさないといけません。これは情報処理の問題と同じで、ホスト処理か分散処理か、ということです。

本当に学校で身につけさせるべきことはなにか
――公立の学校で教えるべき範囲はどこまででしょうか
藤原 教育基本法の受け売りで「人格の完成」というようなことを言う先生がいます。しかし、「ちょっとまって。まずは学力と体力を押さえていくことが大切でしょ」と思いますね。
「心」は日々の学級運営の中で培われるものです。「人への思いやりを勉強する」といって、授業中に「思いやれ」と言っても思いやりの心が身に付くとは思えません。「心のノート」なんてものができるのはおかしなことです。
 思いやる心などは結果として集団生活の中で会得するものです。カネさえあれば、学力も体力もつくかもしれないけれど、心の問題だけは人との間に生まれるものです。特に公立の学校には貧乏な子どもや障害を持つ子どもなど、様々な子どもがいます。多様にいることで学べることはあるのです。

学習の内容をどうするか
藤原 情報処理と情報編集力。これを身に付けることが重要です。情報処理能力、というのは100マス計算などで得られる力のこと。そして、自分の知識経験を組み合わせて問題解決をはかるのが情報編集力です。
 先生の役割は「出来ないことを出来るように、わからないことをわかるように」することです。
 そして、結果としてよい習慣、例えば朝8時に学校に来ることや、朝読書で少しでも集団で本を読むこと、それを積み重ねることです。3年で1冊も読まないか50冊読むかは大きな違いがあるでしょう? でも、集団でやっていれば、義務としてでもやるわけです。こうした良い習慣を付けることが大事です。

政治と教育
藤原 例えば和田中で私がしたことは、目の前の子どもを「法律を守りながら、できることをすべてやって」授業をした、というのが改革の本質です。
 例えば1時間50分の授業時間を45分にして、あまりの5分をまとめて1週間で32コマを増やしました。これを英数国の時間に当てたのです。そうすると、当然反復の時間が増えることで学力が上がります。
 指導要領には50分換算で何コマ実施しなさい、とされているけれど、その1コマの時間の長さは指定されていません。これは学校の校長権限で定めることができます。この取り組みは実際に学力に効果も見られたのですが、私が講演会でいくらしゃべったとしても全国には普及しないでしょう。これを普及させるためには政治の力が必要です。
 また、団塊の世代がもうすぐ第二の人生を始めますが、そのなかで地元に戻るのが100万人くらいと考えます。そういう人のパワーを教育現場で使うのです。
 彼らは子育てもローンも終わっているはずなので、生きがいを持ちたいと思うでしょう。それを教育の現場で実現させるのです。また、教員になりたい大学生を集めることもしましょう。それを実験的に学校地域支援本部、として始めました。この取り組みによって、学校が身近になることにより、地域とのつながりが出来始めます。
 これについては、文科省の初等中等教育局と生涯教育局が予算をとって、50億円のもと、全国で波及しています。特に大阪府は大きく予算を取りました。大阪市と堺市を除くとすべての学校に学校地域支援本部が設置されることになったのです。
 いい実践を取り上げて、全国スタンダードにするにはやっぱり政治の力が必要です。

「新しい公共」とは何なのか?
藤原 学校支援地域本部が全国に広がっていますが、これは農村部など地域社会が残っているところには必要ないかもしれません。むしろ、これはコミュニティが崩壊している都市に必要なものなのです。
 最近政治家が「新しい公共」という言葉をよく使いますよね。私は、学校を核とした地域社会の再生こそが「新しい公共」の実態だと思うのです。子どもも大人もそうですが、地域のコミュニティが崩壊しつつあるいま、どこで公共心を養うのか。どこにもありません。
 和田中の「土曜寺子屋」などの取り組みは、表面的に見れば子どもたちが学んでいるように見えるでしょう。ですが、それは地域社会における大人の学びなのです。純粋に教育に関わることで、社会にどう繋がっていくか、ということを学ぶわけです。
 こうして、貢献する人がいることで、モンスターペアレンツがいなくなったり、地域・保護者からのクレームがなくなった、というところもあります。学校をよくすることを当たり前のようにやっていく、ということをもっと投資しないといけないと思います。
 ではなぜ「コミュニティ」が必要か、という疑問があるかもしれません。
 日本は今、発展社会から成熟社会になってきています。
 産業が発展したイギリスやフランスも同じでしたが、成熟社会になると地域はおろか、家族でさえもだんだん「みんな一緒」から「みんな別々」になっていきます。
「この大学に行って、この会社に行って、このくらいの給料をもらって」という一般的な幸せのモデルがあれば、人はそれを信じて進んでいける。でも、これからの子どもたちを含めて、私たちはそうした一般的な幸せではなく、幸福論を別々に持つようになるのです。凄く恐ろしいことです。
 例えば、コンビニと電子レンジによって「食」が個別になったり、企業も細分化する。それは効率がいいので、それを止めることはできません。そうして繋がりがだんだん希薄になっていく。
 欧米では、問答無用で「孤独感」という恐怖を救うために国家が「宗教という道具」を導入したわけです。教会がつなぎとめて、教会が戸籍を作るわけです。現実社会で失敗しても、教会のコミュニティの中でまた新しい立場を持つ、という具合です。このように、教会が中心となって、生涯学習を地域社会がやるわけです。
 では、日本はどこがやるか、が最大の問題です。もし戦争がなければ、神社宗教がやっていたのでしょう。祭によって男女を引き合わせる結婚や、寺子屋での学習などがそうです。しかし、いまさら神社にそんな力はありません。酷いところでは後継者難で、カミサマも信じないような人間に資格を取らせて派遣している現状です。
 いま日本の一番の問題は「バラバラになる個人を誰がつなぎとめるのか」ということです。仲介手段をどこにもつか、ですね。
 日本では携帯電話のメール機能が非常に良く使われていますが、それもつながりを知りたいからでしょう。欧米に置き換えて考えると、携帯電話のサービスを提供する会社が宗教の代わりになっているわけです。それでも本当に繋がっているのかどうか、分からない。この孤独感であり恐怖をぬぐうには、宗教なり哲学でなければならないわけです。
 神道が先に述べたような現状、一方日本の仏教は死後のお世話しかしてくれない。となると、生きることを教える宗教はキリスト教くらいしかない。しかし、キリスト教が日本に入ってきてから500年近くたとうとしているのに、普及率は1%程度です。そうなると、地域コミュニティを再生させるためには学校を核に進めるしかない、というのがわたしの意見です。
 学校にちょっとマネジメント能力のある校長を入れ、「村長」を生むことで大人と子どもが一緒に学ぶ接点を作る。それを学校のなかで一番価値の出る授業の時間で育む、ということが必要です。
 実際にそれを実現するのが文部科学省なのかどこなのか分かりません。もしかすると今の省のあり方が間違っているのかもしれません。ただ、教育を語るにおいて、こうした成熟社会が抱える問題を分かった上で、「教育どうする?」という話をしなければなりません。
 義務教育の劣化は、教員の能力低下や日教組の問題でもなく社会の問題です。繋がる、という機能をどこにもたせるか、です。
 子どもの事件がおきればすぐ「人を思いやる心がないからだ! 道徳を増やせ」、とか骨を折ったりする子が増えたら「体力低下が原因だ! 体育を増やせ」という人がいますね。しかしそれは、本質を見られていない証拠です。分からない人がやることでめちゃくちゃになるけれど、この話が分かる人がいれば、教育は変わります。

Infoseek 内憂外患
2010年06月25日 10時00分
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