和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

大神神社

2009年01月21日 | 和州独案内
 大神神社
祭神  大和大物主命を主祭神に、大巳貴神、少彦名神を配す。

摂、末社は狭井神社をはじめ率川神社も含む

 日本最古の神社の一つに数えられる大神神社、三輪や美和とも書く。大和国一ノ宮であり、古代において国家神の役割や軍神の役割を課せられたが、今では本来の地域に深く、深く根ざす奈良を代表する神社です。
 春日大社が団体の観光客の波に飲まれてなかなか静寂を保てない中、ここは地域の信者や講者が根強く支えている気がします。私みたいな一見さんも多いが、二の鳥居前で深々と頭を下げる人たちを見るとこちらも身が引き締まる。
 標高476mの三輪山をご神体として信仰しているために本殿を持たず、現在は寛文四年徳川家綱の造営した拝殿のみとする。ただ江戸時代らしい唐破風付きの向拝を持つ拝殿が余りに豪華なのでそちらに気をとられて本殿の有無は忘れてしまいます。この奥にいわゆる三つ鳥居があり、その先は神官といえども元日の糸堯道祭の時しか入れません。年が変わる午前零時に神火を熾し神前に奉げ、その火を拝殿外の大松明に移して、現在は十九の摂末社を巡り神火を灯す祭りは元日にふさわしく、近在の人々はその火を火縄に移して家に持ち帰り、雑煮の祝い火にすると言います。  

  

 拝殿は西面しており、参拝者は東を向いて神体山を拝す。二の鳥居から伸びる参道は緩くカーブしており、少しずつレベルを上げていく。夕方になると参道の灯篭に灯りが燈るので昼間とはまた違った幻想的な雰囲気になります。
  

 注連縄を渡した三の鳥居で急にレベルがあがり、正面を少しずらして拝殿に到着する。大神神社の参道では「参道効果」は余り感じられず、とても素直に道が作られている。レベル上げは当然のこととして、折れ曲がりも弱く、私にはその辺が素朴で原初的な由縁に感じられるのです。
  

 三輪山そのものが御神体であるため、禁足地として立ち入れないと言うがどうなんでしょうか?役小角以来、霊山と呼ばれる山々に踏み入り、霊験を得ようとするものは後を絶たず、富士山さえ平安時代に末行上人によって踏破されています。山中の伐木を禁ずる令は度々出ており、民衆が薪炭材の入会地として利用できないかったのは事実でしょう。
 現在では、狭井神社脇からのみ入山が許されており、一度登られることを勧めます。地図で確認するに、禁足地の辺津磐座上方を通って谷を横切り、その後は中津磐座を左に見ながら支尾根を登る山道です。道の途中から山頂一帯は、以前の台風被害で大木がことごとくなぎ倒されすっかりその様相を変えています。いわゆる普通の鎮守の森とは樹種が微妙に違うような、ナギの無い春日山に近い雰囲気が無くなり恐ろしく見晴らしが良くなっています。

  

 味酒を三輪の祝がいはふ杉に手触れし罪か君に逢いがたき  万葉集 巻四
 
 この神の特徴に神婚説話があります。後に神武天皇の妃となる媛蹈鞴五十鈴姫命を生んだ勢夜陀多良比売や箸墓で有名な百襲姫命と結ばれ、大三輪氏の祖とされる大田田根子命もこの神の児です。結構お盛んですが人の恋路はきっちり邪魔をする理不尽さは逆に神様らしい。
 理不尽と言えば、百襲姫は夜毎妻問う不思議な男性の姿を一目見たいと日の元で逢う約束をします。男性に言われた通り、朝になって櫛箱を開けてみるとそこには小さな白蛇が入っており、決して驚かないようにという約束も忘れて姫は叫んでしまいます。約束を違え恥をかかされた大神は、今度は姫が辱めを受けようと言い放って山に消えてしまいます。激しく悔いても後の祭りの姫はぺたりと腰を落としますが、その時箸で御女陰を突いて死んでしまいます。
 彼女を葬ったのが箸墓と言う訳で、昼は人が夜は神が大坂山の石を運んで造ったといいます。最近の発掘調査で箸墓に使用された石材が二上火山群の芝山産玄武岩と分かり、二上山のことを指す大坂山の伝承と符合します。
 だからと言って箸墓に眠るのが百襲姫という訳ではもちろんなく、伝承は一片の真実が複雑に絡まっているが故に面白くも難しくもあるんですね。