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パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

レイチェル・リンド

2020-06-26 23:37:09 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
赤毛のアンで最初に登場する名前は、レイチェル・リンドです。前のエントリーに出てきたトーマス・リンドの妻です。面倒見が良くて、勤勉な近所の奥さんなのですが、率直にものを言ってしまう人物です。アンと最初に会った時に、アンの容姿をあからさまに形容してアンを激怒させます。アンのことを、やせっぽちでみっともない、そばかすがひどくて髪がニンジンのように赤いと言ってしまったのです。英語の表現では、”terrible skinny and homely” “such freckles” “hair as red as carrots” です。Homely という表現は、私の大学の教授は、ありていに言えば器量が悪い、ブスだという説明をしていました。しかし、アンを最も怒らせたのは、彼女の赤毛への言及であったと思います。アンはレイチェル・リンドの前で地団駄踏んで、彼女に言い返してしまいます。

さて、この婦人のレイチェル(Rachel)という名前は、聖書的な名前です。聖書に登場するレイチェルは、日本語の聖書ではラケルと表記されるます。聖書に登場するレイチェルはどんな人物なのかを確認してみたいと思います。少し長くなりますが、お付き合いください。

レイチェルは二人姉妹の妹でした。彼女が最初に登場した時は、父親の羊の世話をして共同の井戸に連れてくるところでした。そこで、彼女は後に夫となり、イスラエル12部族の始祖となる、アブラハムの孫であり、彼女の従兄弟にあたるヤコブに出会います。女性がそういう仕事をする記録は他にも有りますが、通常は男性の羊飼いがする仕事だと思われますし、男性たちに順番を取られたりすることもあったようですので、それなりに芯の強い女性であったと思われます。

ヤコブはこのレイチェルに、心を奪われます。ヤコブはレイチェルの父親であり自分の伯父であるラバン(Laban:レイバン)の家で一月ほど働きました。ラバンは親類だからと言ってただ働きさせるわけにいかないので、どんな報酬が欲しいかと聞きます。そこでヤコブは、レイチェルと結婚させて欲しいと願い出て、七年間働くという条件付きで、聞き入れられるのです。創世記29章17節には、「ラケルは姿も顔だちも美しかった。」と述べられています。姉のレア(Leah:リア)については、目が弱々しかったと断り書きがしてあります。中東の人にしては目が小さかったり細かったりしたのかもしれません。"Leah was tender eyed; but Rachel was beautiful and well favoured." (King James Version)

レイチェルはこのようにして将来の夫と出会うのですが、私の印象ではその生涯はあまり幸せではなかったように思います。いくつかのエピソードをご紹介しましょう。

レイチェルの夫となるヤコブは、母親も祖母も美人であったことが聖書に記されています。ですから、ヤコブも美男子であったろうと思われます。近縁で信頼がおける上に外見も整ったヤコブとの結婚を、レイチェルもそれなりに期待して約束の七年間を過ごしたのではないかと思います。ところが、彼女の父親のラバンは酷い男で、結婚の日の夜、レイチェルを止めて、姉のレアを送り込んだのです。いくら父親の権限が大変強かった時代と地方とは言え、これはレイチェルにとっても耐え難いものであったと思われます。(レイチェルは父親を恨んでいたと思います。後にヤコブが故郷に引っ越す時に、父親の家の守り神の像を盗んでいます。)当然、翌朝になれば露見することです。ヤコブも抗議しましたが、ラバンは妹が姉より先に嫁ぐ習慣は無いからと、言い捨て、直ぐにレイチェルをやるからもう七年働けと言いました。姉のレアは自分が選ばれなかったことを悔しく思っていたかもしれませんが、ヤコブの妻になれたことは喜んでいたようです。こうして、この姉妹は生涯のライバルになるのです。

レイチェルにとって次に辛かったことは、姉のレアには子供が生まれるのに、自分には子供ができないことでした。当時は子宝に恵まれることが結婚した女性の幸せでしたから、感情が抑えきれずに夫のヤコブにも子供を授けてくれるようにと怒りをぶつけています。ヤコブにも辛いことであったと思います。ようやくレイチェルが妊娠したのは、レアが七人子供を産んだ後でした。

レイチェルにようやく生まれた子供はJoseph, ヨセフです。彼の物語はJoseph: King of Dreamというタイトルでディズニー映画(アニメ)にもなっています。ヤコブにとって、本命であったレイチェルから生まれた息子ということで、大変可愛がられて、兄達には与えられない綺麗な上着を着せられていたりしたことから、兄達の反感を買い、ヨセフは外国に売り飛ばされてしまいます。兄達は、彼が野獣に食い殺されたことにしていました。ヤコブがたいそう悲しんだことは記録されていますが、レイチェルへの言及は有りません。しかし、レイチェルの悲しみも当然相当なものであったはずです。

レイチェルの不幸はここで終わりません。次の子供を妊娠するのですが、お産が重くて命を落としてしまうのです。この悲劇の女性としてのイメージが、イエス・キリスト誕生の時にヘロデ大王がベツレヘム近辺の二歳以下の男の子を殺すように命じることの預言となるエレミヤ31章15節で比喩的に彼女の名前が出てくる所に重なっています。

さて、赤毛のアンのレイチェル・リンドに話を戻しましょう。聖書のレイチェルは美しい女性として描写されていますが、こちらのレイチェルは太って豪快ながら面倒見の良い婦人という設定になっています。モンゴメリは、マシュー・カスパートの時と同様に、聖書の人物像とはほぼ反対のキャラクター設定をしてその対比を楽しんでいたのかもしれません。

第9話では、先に述べたように、彼女はアンを激怒させてしまいます。彼女を引き取ったマリラ・カスパートはレイチェルに対して「口が過ぎたと思う」と意見します。そこで彼女が「子供を十人育て上げ、二人亡くした」(”I’ve brought up ten children and buried two”)者として厳しく育てた方が良いと思うという助言をして帰っていきます。つまり、彼女は子沢山であったことになります。この部分も聖書のレイチェルとは反対の状況になっています。彼女の言葉は、多分、十人は育って独り立ちさせたが、二人はその前に亡くしたということでしょうから、全部で十二人産んだことになるということだと思います。モンゴメリは、イスラエル十二部族を連想させる十二人の子供を産んだ女性に、辛い境遇で二人の息子しか産めなかったレイチェルの名前を与えることで、その無念のイメージをを少しでも軽くしてあげたいと思ったのかもしれません。

ちなみに、聖書のレイチェルのもう一人の息子は Benjamin、ベンジャミン と言います。日本語の聖書ではベニヤミンという表記になります。 聖書的な意義としては、ヤコブとその家族が、ラバンの酷い仕打ち、家族の不和、不幸の中でも神の守りが有ってイスラエル十二部族が成立したという部分に有ります。

マシュー・カスパート(トーマス・リンドと併せて)

2020-06-17 01:12:52 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
赤毛のアンに最初に会った人物は、マシュー・カスパートでした。孤児院から男の子を引き取ることにして、駅まで迎えに行ったのに、女の子がいたということで、相当驚いたと思われますが、取り合えず家に連れていく間のアンのおしゃべりに、何かを感じて、アンをそのまま引き取ってもいいのではないかという意思表示をします。アンの父親のような存在となるマシューは、プロットの上でも大事な役割を担っていました。

さて、このマシューという名前は、聖書に由来する名前です。Matthewと綴られますが、日本語の聖書ではマタイと表記されます。聖書に登場するマタイの人物像をご紹介した後に、マシュー・カスパートとの比較をしてみたいと思います。

聖書に出て来るMatthew、マタイは、イエス・キリストの12弟子の一人です。イエスの弟子となる前は、収税人をしていました。収税人はローマ帝国の権威の下で、様々な税金を徴収するのが仕事でした。ローマに収める分の金額が確保できていれば後はどんな取り立てをしてもかまわなかったようで、必要よりも多く取り立てて私服を肥やす者が多かったということで、同胞(ユダヤ人)から大変嫌われていました。

聖書の記述から判断すると、彼はガリラヤ湖、もしくはガリラヤ湖につながる道路の通行税を取るのが仕事であったようです。ガリラヤ湖は、イエス・キリストが屋外で人々に神の国の教えを伝えた場所ですから、マタイの耳にもその教えがそれとなく入って来たのではないかと思います。そして、おそらく、そのような教えに従って生きることができたら良いのにという思いが芽生えていったのではないかと思います。

ある日、彼にとって劇的なことが起こります。なんと、イエス・キリストが彼に向って、「私について来なさい。」と言ったのです。当時、皆がその話を聞きたがった宗教的な教師が、同胞に嫌われていた収税人の自分に、弟子になりなさいと言ったのですから、それは衝撃的であったと思われます。そして、彼は直ぐにイエスについて行くことにしたのです。

このマタイは、新約聖書の最初の巻である、マタイによる福音書を書き表しました。ユダヤ人に対して、イエス・キリストが彼らの伝統に照らしても正統な救い主であるということを示すために書き表わされたとされています。収税人になるだけの教養があり、そういう著述をするだけの能力にも長けていたのだと思われます。

このマタイとマシュー・カスパートとを対比させると、どんなことが考えられるでしょうか。マタイは今風に言ってみれば、税務署に務めたことが有り、数字に強く、著述もできる教養の有る人物というイメージになると思います。一方、マシューは朴訥な農夫です。しかも、悲しいことに、彼は第37話で、ショック死してしまいます。全財産を一つの銀行に預けていたのですが、その銀行が経営不振で倒産してしまったことを、新聞で知ってのことでした。マタイは金勘定がわかる人物でしたから、そのような財産管理はしなかっただろうと思います。マタイとマシューは考えて見れば、正反対の人物と言えるかもしれません。

しかし、私には、モンゴメリはこの二人にまつわる共通点を二重、三重に織り交ぜてその名前を選んだのではないのかなという思いが有ります。聖書のマタイは財産は有ったかもしれませんが、人々に嫌われていて、親しく迎え入れてくれる人は同じ収税人仲間しかいませんでした。彼は人に望まれない悲哀を理解していました。そこが、誰にも望まれないかもしれないという悲しみや絶望を経験した赤毛のアンに重なります。しかし、当時は人々に大人気のイエスという教師が彼を招いて弟子にしたのです。彼は大変喜んで宴会を催したことが聖書には書いてあります。マシューとマリラの兄妹の家に迎え入れられると分かった時のアンの喜びと、マタイの喜びを、モンゴメリは重ねて見ていたのではないかと思うのです。そして、このマシューに、マタイを招き入れるイエスと同じような役を与えたのではないでしょうか。マシューが、当初アンを引き取ることに反対して「あの子が私たちの何の役に立つのですか。」“What good would she be to us?”というマリラに、「でもなあ、わしらが、あの子の役に立つかもしれんよ。」“We might be some good to her,”という部分は、イエスが嫌われていたマタイを受け入れて特別な12弟子に加える部分と、マシューがマリラにも役立たずと思われるアンを引き取ることを考えさせる最初のきっかけとなっている部分が重なるように思います。

一方、後にはマタイは福音書を書き表し、キリスト教の宣教拡大に貢献しています。アンはマシュー亡き後のマリラを助けて家を支えます。そのような複雑なつずら織のような人間模様のプロットが、モンゴメリがマシューという名前を選んだ背後には有るような気がするのです。


聖書には、このように、望が無いと思っていたところに差し伸べられる神の手という理解が有ります。私たちは時代の成り行きに対しても自然災害に対しても無力です。自分の魂の救済について考えても、それが自分の力や修行で成し遂げられるものではありません。長老教会はカルビン主義ですので、人間の完全な堕落を聖書から読み取ります。その意味するところは、人類は自らの能力をもって神を見出したり、神の基準に到達することは不可能だということです。その意味においては望が無いのです。しかし、神の方から救いの手を差し伸べてくださったと信じ、感謝し、それに甘んじるのです。

マタイの仲間だったヨハネは、次のように述べています。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(新改訳)」 
"We love him, because he first loved us (KJV)".

また、使徒パウロは、同様のことを更に長く述べています。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(新改訳)」
"For when we were yet without strength, in due time Christ died for the ungodly. For scarcely for a righteous man will one die: yet peradventure for a good man some would even dare to die. But God commendeth his love toward us, in that, while we were yet sinners, Christ died for us. (KJV)"

このような神の恩寵と恵を、モンゴメリはアンがマシューとマリラに引き取られることになる部分に重ねて見ていたのではないかと思います。そして、それを同様な経験をした聖書のマタイと同じ名前のマシューを通して赤毛のアンに対して示しているかのようです。


ところで、赤毛のアンには、もう一人マシューと雰囲気の近い人物が出てきます。トーマス・リンドという男性で、第一話で「小柄なおとなしい男」”a meek little man”と描写されており、そこでは畑仕事をしています。このトーマスも、聖書に由来する名前です。日本語の聖書ではトマスという表記で出てきます。トマスは「デドモのトマス」という呼び名が有りました。デドモというのは、双子という意味が有るということです。仮説の一つに過ぎないのですが、良く知られているものでは、マタイとトマスが双子だったのではないかというものが有ります。マシューは小柄ではなかったかもしれませんが、その朴訥な感じは、「おとなしい男」と言っても良いのではないかと思います。それで、モンゴメリは、この似た者同士の二人に、双子かもしれない人物たちの名前を当てたのかもしれません。

私、ダイアナを崇拝しているの

2020-06-03 23:05:53 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
前のエントリーに書きました通り、アンとダイアナは親友です。腹心の友という表現が使われていたりします。このダイアナのことは、養父となるマシュー・カスパートが初めてアンに会った日、グリーン・ゲイブルズに向かう途中に紹介しています。その時のマシューが語るダイアナという名前の印象は、「罰当たりな異教徒のように聞こえる」 “There’s something dreadful heathenish about it, seems to me.”というものでした。聖書に慣れ親しんだ人ならば、ちょっとニヤリとする場面かもしれません。

ダイアナというのは、ローマ神話の女神です。狩猟、貞節と月の女神だそうです。聖書にはダイアナは出てきません。その代わりに、ギリシャ神話でダイアナに相当するアルテミスが出てくるのです。アルテミスも狩猟、貞節と月の女神ということなのですが、聖書に出てくるアルテミスは様子が違ってきます。

聖書に出てくるのは、もっと地方色の強いもので、エペソのアルテミスです。ウィキペディアや聖書辞典に出てくるエペソのアルテミスの画像は、多数の卵型の装飾を胸の周りに配置した衣装をまとっています。それは、乳房と理解されることが多く、多数の乳房を持つ豊穣の女神として知られているようです。エペソには立派なアルテミス神殿が有ったということです。天から下ってきたと言い伝えられるご神体が祀って有ったということです。神殿には神殿娼婦がいて、それが性的な乱れにつながったという解説も見出されます。

そんなイメージにつながるわけですから、マシューがダイアナという名前に異教徒のように聞こえるという感想を述べたのも仕方ないことだったのかもしれません。ですから、第15話で、アンがマリラに向かって「私、ダイアナを崇拝しているの。」などと言った時には、マリラは何の反応もしていませんが、ぎょっとするような感じを与えたかもしれません。英文では”I adore Diana.”となっています。adoreという英単語の第一義は「神をあがめる」ということですから、そういう表現も罰当たりな響きが有ったのではないかと思います。そして、この表現が、この直ぐ後の騒動の前触れになっているのではないかと私は思います。

騒動というのは、夏の間よそに行っていたギルバート・ブライスが帰ってきて、久しぶりに登校し、初対面のアンの赤毛を「ニンジン、ニンジン」と言ってからかったことから始まります。怒ったアンは、石板を彼の頭に叩き下ろして割ってしまうのです。当然クラスは大騒ぎになり、先生に叱られたアンは、黒板の前に立たされることになります。この後、アンは何年も(5年ぐらいになるでしょうか)ギルバートと冷たい関係になりました。

なぜダイアナを崇拝しているというアンの発言が、騒動の前触れのように思われるかは、聖書に出てくるエペソのアルテミスに関連する記述を知らないとわかりません。使徒行伝19章23節から41節にその記述は出てきます。 聖書の記述はこちらからご覧いただけます。

エペソでは、銀細工のアルテミス神殿の模型が販売されており、巡礼者が土産に買って帰ったりして、職人達がかなりの収入を上げていました。日本的に置き換えると、例えば、伊勢神宮とか出雲大社のような有名な神社の銀製の模型が大人気で、巡礼者が買って帰るようなイメージだと思います。しかし、使徒パウロがキリスト教の布教、伝道をしたところ、多くの人が改宗したことで、職人たちが危機感を持ち始めたのです。キリスト教は偶像崇拝を禁止していますから、そんな教えが広がれば、アルテミスのお膝元と言えるエペソでは大問題なわけです。銀細工人のデメテリオという人物が、人々を集めてその危機感を訴えたものですから、町中が大騒ぎになりました。人々は二人のキリスト教徒を捕まえて、町の中心に有る劇場になだれ込んで、二時間も「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と叫び続けたそうです。ようやく町の書記が出てきて、引きづりこまれた二人には明確な罪状が無いばかりか、この騒ぎの方がむしろ騒擾罪に問われるかもしれないし、その場合議会は市民を弁護できないと説得して人々を解散させて、ようやく騒動は治まりました。この騒動のせいで、使徒パウロは、三年ほど滞在していたエペソから出ていかなければなりませんでした。

「ダイアナ(アルテミス)を崇拝している」という聖書的イメージがお分かりいただけたでしょうか。アンがギルバートの脳天に石板を打ち下ろすという事件を、エペソの騒動と関連付けるのは大袈裟かもしれませんが、アボンリーという小さなコミュニティーのまた更に小さな子供たちの間の騒ぎとしては、十分それに匹敵する騒動だと言えるのではないかと思います。

アンとダイアナの友情

2020-05-20 16:23:37 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
 赤毛のアンの物語の中心的な役割を果たすものの一つのは、親友のダイアナの存在であると思います。そして、アンとダイアナの友情のアイディアは聖書にヒントを得たものではないかと私は思います。
 聖書の中で特筆すべき友情は、ダビデとヨナタンの友情です。そして、この二組の親友には少なからず共通点が有るのです。引用や説明で少しばかり長くなりますが、ご容赦ください。聖書の引用は、日本語は口語訳、英語はKing James Version からのものです。

アンの容姿
 イスラエル統一王国の二代目の王となるダビデの描写には、アンを思わせる部分が有ります。
1サムエル記16章12節
「彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。」
“Now he was ruddy, and withal of a beautiful countenance, and goodly to look to.”
同17章42節
「ペリシテびとは見まわしてダビデを見、これを侮った。まだ若くて血色がよく、姿が美しかったからである。」
“And when the Philistine looked about, and saw David, he disdained him: for he was but a youth, and ruddy, and of a fair countenance. ”

 「血色がよく」と訳されたヘブル語は、単純に赤い、赤味のさしたという意味です。創世記25章25節で、生まれたばかりのエサウが赤かったという記述に使われています。双子の弟であるヤコブには用いられていないことと、生まれたエサウの全身に体毛が有ったという記述から、髪も赤かったのではないかと考える学者もいるわけです。そういうわけで、ダビデもアンと同様に赤毛だったのではないかと想像する学者もいるようです。(ダビデは若くて血色が良く、頬が赤かったと考える方がより支持されている考えではありますが。)
 もう一つの共通点は、目がきれいで姿が美しかったことです。アンの目や鼻が奇麗であるという記述や、後に背が伸びた時の姿の記述が思い出されます。

 アンは孤児となった自分の人生と、アボンリーでの新しい生活に果敢に挑んで将来を切り開いて行きます。ダビデは敵であり、彼を侮ったペリシテ人の巨人、ゴリアテに信仰をもって果敢に挑んで行き、勝利します。アンの武器はいつも心を駆け巡る豊かな想像力で、ダビデの武器はいつも使い慣れていた石投げでした。ダビデは孤児ではありませんでしたが、息子を呼べと預言者サムエルが父親のエッサイに命じた時に、エッサイはダビデを呼びませんでした。もしかすると家族の中では比較的冷遇されていたのかもしれません。彼は羊飼いとしての経験を積んでいました。そういう苦労人な面も、アンと重なるように思います。

友情の誓いを立てる
 このゴリアテとの闘いに勝利した直後に、初代王のサウル王の王子、ヨナタンはすっかりダビデが気に入ってしまいました。その様子は聖書に次ぎのように記されています。
1サムエル記18章:1節,3節
「ビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。」
“ And it came to pass, when he had made an end of speaking unto Saul, that the soul of Jonathan was knit with the soul of David, and Jonathan loved him as his own soul. Then Jonathan and David made a covenant, because he loved him as his own soul.”
 アンとダイアナが初めて会った日から意気投合して、親友の誓いを立てる様子に重なっているように思えます。もっとも赤毛のアンではアンの方からダイアナに話を持ち掛けていますが、聖書の方はダビデではなく、ヨナタンの方から友情の誓いを持ち掛けているように思われます。ダイアナは、育ちが良い様子で、母親のバリー婦人のことをマリラは気難しいと表現しています。王子であるヨナタンの育ちの良さと、後に気難しい王となるサウル王が重なってくるように思います。

親によって交際がゆるされない
ダビデとヨナタンの友情は生涯続きましたが、実際に顔を合わせて親しく過ごすことができる期間は短いものでした。サウル王は、ダビデに王座を奪われることを恐れて、二人の友情を好ましく思っていませんでした。命の危険を感じてダビデは逃げていきます。この部分が、アンが故意にダイアナをカラント・ワインで酔わせたと思って怒ったバリー婦人が二人が遊ぶことを禁じた部分に重なります。

合図の使用 
サウル王の殺意を知り、ダビデは逃亡しますが、その前に、ヨナタンは父サウル王のダビデに対する気持ちを確認し、それを二人で決めた合図によって知らせる約束をします。

1サムエル記20章20節~22節
「わたしは的を射るようにして、矢を三本、そのそばに放ちます。そして、『行って矢を捜してきなさい』と言って子供をつかわしましょう。わたしが子供に、『矢は手前にある。それを取ってきなさい』と言うならば、その時あなたはきてください。主が生きておられるように、あなたは安全で、何も危険がないからです。しかしわたしがその子供に、『矢は向こうにある』と言うならば、その時、あなたは去って行きなさい。主があなたを去らせられるのです。」
“And I will shoot three arrows on the side thereof, as though I shot at a mark. And, behold, I will send a lad, saying, Go, find out the arrows. If I expressly say unto the lad, Behold, the arrows are on this side of thee, take them; then come thou: for there is peace to thee, and no hurt; as the LORD liveth. But if I say thus unto the young man, Behold, the arrows are beyond thee; go thy way: for the LORD hath sent thee away.”

 ダビデがサウル王の元から逃げ出した後、彼がヨナタンと会った回数は非常に限られていたと思います。聖書の記録では一度しか確認できません。(23:16参照)一方アンは、ダイアナの妹ミニー・メイの命を病気から救い、バリー婦人はダイアナと遊ぶことを許してくれました。二人はそのあと、ろうそくの明かりで送る合図を決めて、その説明が19話に出てきます。ダビデとヨナタンは別れの場面で二人で決めた合図を使いましたが、モンゴメリは、アンとダイアナには親友としての交流が回復した時に合図を決めるようにプロットを書いています。ダビデとヨナタンの友情は悲劇的な展開になりますが、モンゴメリはアンとダイアナの友情を温かく楽しいものとして書くことによって、その悲しい印象を自分の中で明るいものに変えたかったのではないかと想像します。また、アンとダイアナの友情が、ダビデとヨナタンの友情のように深く確かなものだという印象を持たせたかったのではないかと思います。

 ダビデはこの後、神の命令通り、統一イスラエル王国の二代目の王になります。イスラエルの国旗の中心にはダビデの星が据えられていて、ユダヤ人にとっては誇らしい存在です。また、神はダビデの子孫に永遠の王座を約束します。それは実際の地上の王座のことではなく、系図上はダビデの子孫として生まれるイエス・キリストの来臨と天国の統治の預言になっています。

 ヨナタンは王子として忠実に職務をまっとうします。また、神への信仰に立ち続け、ダビデが神に選ばれたことを受け止めていました。必要な時にはダビデと密会して、彼を励ましています。また、これから戦死することがはっきりわかっている戦闘にも勇敢に出かけて行きました。ダビデは親友ヨナタンの戦死の報に触れて、「わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。」” I am distressed for thee, my brother Jonathan: very pleasant hast thou been unto me: thy love to me was wonderful, passing the love of women.” (2サムエル記1章26節)と悲しみの詩を詠んでいます。旧約聖書に出てくる人物で心に留まる人は誰かと問われれば、私はヨナタンの名を挙げたいと思っています。

ハモンドさんに三組の双子がいて良かった

2020-05-13 00:33:21 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
赤毛のアンの中で私にとって印象に残っているエピソードは、アンが親友のダイアナとお茶会をする時に、木苺のジュースと間違えてカラント・ワインを出してしまうというものです。マリラの自家製のカラント・ワインは美味しくて、ダイアナは大きなコップで3杯も飲んで酔っぱらってしまい、気分が悪くなりました。ダイアナはすぐに家に帰ることになってしまって、アンは大変失望します。更に悪いことに、ダイアナの母親はアンがわざと酒を飲ませたと考えて、二人の交流を禁じてしまうのです。

親友との交流を禁じられたアンにとってたいそう悲しい期間は、劇的な終わりを迎えることになりました。カナダの首相が演説をするというので、島の人々は大勢州都に出かけ、マリラやダイアナの両親もいなくなってしまいました。その晩、ダイアナの妹のミニー・メイが重い偽膜性喉頭炎(聞きなれない用語ですが、犬の吠えるような咳が出る上気道感染症だということです。)になってしまいました。頼るべき人がいないダイアナは、アンに助けを求めます。アンは以前親戚に引き取られた時に、三組の双子の面倒を見た経験から、するべきことが分かっていたので、適切な処置をしました。後からマシューが連れてきた医者は、アンがいなければミニー・メイは助からなかっただろうという所見を述べました。

このようなことが有ったので、ダイアナの母親はアンを娘の命の恩人として感謝し、アンに謝り、ダイアナと遊ぶことを許し、上等な茶器を出してもてなしました。こうして二人は再び一緒に遊べるようになりました。

このアンの救援のエピソードには、直接的な聖書の表現は出てきていませんが、作者のモンゴメリの思いの中には、一つの聖書の言葉が有ったのではないかと思います。そして、その原則が、実は赤毛のアン全体に流れている幾つか有るテーマ、もしくは背景の一つなのではないかと思うのです。その聖書の言葉は以下の通りです。

And we know that all things work together for good to them that love God, to them who are the called according to his purpose.<Romans 8:28 King James Version>

私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。<ローマ人への手紙8章28節 リビングバイブル>

それは、夜が明けてからマシューと一緒に家路につくアンの言葉に伺えます。アンは、以前自分を引き取ったハモンドのおばさんに、三組の双子がいたことは良いことだったのだと言い、子供の世話をしていた当時は不満に思っていたことを申し訳なかったという思いをマシューに話します。両親と死別し、親戚に引き取られるという不幸の中で、まだ小さいのに、たくさんの子供の面倒を見なければならなかったことは、その当時は嫌なことであったかもしれませんが、その経験が親友のダイアナの3歳の妹の命を救うことになったのです。そして、それはダイアナとの交流の回復にもつながっていくのです。赤毛のアンの中には、そういう聖書的な逆転の人生、回復の人生のメッセージが繰り返し出て来るように思います。それが、モンゴメリが読者に訴えたかったことの一つなのではないかと思うのです。