ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】知性はどこに生まれるか ダーウィンとアフォーダンス

2007年06月16日 22時28分38秒 | 読書記録2007
知性はどこに生まれるか ダーウィンとアフォーダンス, 佐々木正人, 講談社現代新書JEUNESSE 1335, 1996年
・タイトルを一読しただけでは内容がわかりずらいかと思いますが、人間を含む生物の新しい捉え方・考え方である『アフォーダンス』について、進化論でお馴染みのダーウィンの遺した生物の観察記録を例にとって解説したものです。と、こんな説明でもわかりずらいし、読んでみてもやっぱりわかりずらい。そんな少々特殊な概念について。
・分野は違えど、前出『考える脳 考えるコンピューター』と共通していると感じられる箇所が随所にあり。
・「生きるもののするあらゆることは、それだけ独立してあるわけではない。行為があるところには、かならず行為を取り囲むことがある。まわりがあって生きもののふるまいがある。」p.24
・「だからこの場合ミミズが一年間動き回ってかきまぜた土の量は1000トン!にもおよぶことになる。ミミズはどこでもダーウィンが予想した以上にすごい力で「大地をかきまぜている」。」p.35
・「ダーウィンは動物の行為を機械の動きにたとえることが大きらいだった。彼は自分の眼で、ミミズの動きが、いつも同じようにしか動かない機械の動きとはことなることを確かめることができた。」p.47
・「反射、概念にしたがう行為、試行錯誤。19世紀においてもすでに、行為についてはこれら三種の説明が代表的であった。その事情は残念ながら20世紀末の現在においてもほとんど変わっていない。だいたいこの三つの説明を使い分け、組み合わせてきたのが、行為の理論の歴史である。」p.53
・「ぼくら人間を含めてあらゆる動物がこの世界でしていることは、原理的にミミズの「穴ふさぎ」と同じである。人間もミミズもカブトムシも、いましている行為が利用できることをまわりに探し続けている。そういう存在なのだ。」p.59
・「ミミズが穴ふさぎに使ったこと、カブトムシが起き上がりに使ったこと、ぼくらがかくれんぼに使ったことは、こういうものですというふうに「絵」には描けない。それは発見されるまでどのようなことであるか予想できない。「反射」「試行錯誤」「概念」という既成の枠組みでは、行為だけにある創造性が説明できない。」p.60
・「その名前をジェームズ・ギブソン(1904-1979)という。彼はダーウィンが見ていたこと、つまり環境にあって行為が発見している意味にはじめて独特の名を与えた。  アフォーダンスである。  英語の動詞アフォード(afford)は「与える、提供する」などを意味する。ギブソンの造語アフォーダンス(affordance)は、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、それはぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味である。」p.61
・「生態心理学(エコロジカル・サイコロジー)の中心にあるアイディアは、エコロジカル・リアリズム(生態実在論)とよばれる。それは生きもののまわりに潜んでいる生きものにとっての意味をまず第一に考え、それを中心にして動物の知覚や行為について考えてみようという主張である。」p.63
・「アフォーダンスはフィジカルであり、バイオロジカルでもあり、サイコロジカルなことである。物であり、生きものに関係しており、そしてぼくらが「こころ」とよんでいる環境と行為との関わりのプロセスの中心にあることである。生態心理学をはじめることは、だから、物理学と生物学と心理学との間に今ある高い垣根を越えようとすることでもある。」p.64
・「脳とはおそらく、環境の「絵のようなイメージ」を浮かべるところではなくて、環境と持続して接触する全身のシステムの一部なのである。脳にあるのは世界の「地図」ではなくて、世界との関係を調整する働きの一部なのである。」p.116
・「生きている動くシステムはこのように環境によって予期的に制御されている。」p.119
・「結果から行為を説明することは、人類の歴史を「未開から文明への進歩である」と考えたり、動物のしていることやその形態に起こる変異を「ある目的に近づくためである」と考えたりすることに示されるように、変化の起こっているところに、そこにあること以外のもの、「意図」や「目的」や「方向」のようなことをもちこむことである。行為についての多くの説明は現在でもこの誤りを犯している。」p.142
・「おそらく20世紀の心理学は、19世紀にダーウィンが執拗な観察という実践で示した、発達ということをどのように見るべきかについてのメッセージをとらえそこねていた。だから見ることよりも、理論にもとづく議論が先行してしまう。  ダーウィンのメッセージはシンプルである。まず、あらゆる行為は、ギゼリンがブルート・ファクツとよんだこと、テーレンがイントリンジック・ダイナミクスとよんだことからはじまるということ。そしてブルート・ファクツはまわりにあることに出会い、多様なことが変化としてあらわれる。ぼくらが行為に観察できることは「はじまり」と「まわり」と「はじまりからの変化」しかない、ということである。」p.154
・「実際に生きものに見ることができるのは「はじまり」が「まわり」に出会って「変化」するということだけである。細胞からぼくらのつくる文明まで、発達には、はじまりと、まわりと、変化ということ以上のことも、それ以下のこともない。」p.155
・「変化のともなう由来から分離されないこととして、どこかに事前にあることではなく、あらわれてくることとして意図を再定義すればよい。その時に意図は誰か(神や脳)のものではなくて、あらわれてくるそのままのことを指す言葉になる。ありもしない変化の原因ではなく、変化のすごさそのものを指す言葉になれる。  ダーウィンがしようとしたことはこのこと、つまり変化が起こるシステムと意図とを分離しないことだった。」p.157
・「つまり行為をするということは、いつもどこかの「曲がり角」に差しかかり、角の向こうにあることを見る、というようなことなのである。」p.186
・「それにしてもアフォーダンスはわかりにくいし、わかってもらいにくい。」p.195

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