ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】文化としての数学

2009年11月03日 22時09分54秒 | 読書記録2009
文化としての数学, 遠山啓, 光文社文庫 と18-1, 2006年
・日本の数学教育に尽力した数学者によって1956年から1970年の間に書かれた、「文化としての数学」にふれた短文を集めた書。大部分は気楽に読める文章だが、一部、概念的に難しく適当に読み飛ばしてしまった部分もあった。今となってはそう珍しくもない、"数学" を平易な言葉で語ったエッセイだが、1973年の初出当時にはかなり異色で画期的なな本だったのではと思われる。途中、「女性の科学進出」について熱っぽく語る部分などは、今でもそう大きく状況が変ったとは言えないところだが、時代を感じる記述である。
・「数学を人間が創った? どうもなんとなく納得できないな。2+3が5になることは人間がまだこの地球上に出現しなかった何億年もむかしからそのとおりであったろう。だから人間がいなくたって成立っている真理ではないか。それを人間が創りだしたなんていうのは人間の増上慢にすぎない。」そういう風に考えている人は少なくないように思える。  そのような疑問に答えるように努力してみようと思う。」p.10
・「数学は決して素通しの眼鏡ではなく、むしろ想像力というレンズによって組立てられた複雑な光学機械に似ている。それは現実を拡大したり、縮小したりばあいには歪曲したりして、人間の頭脳に投写する。」p.15
・「このようにあらゆる方面に数学が使われるようになった。これはだいたい第二次世界大戦が終わってからの新しい傾向です。ですからさっきみなさんは嫌いな人がたくさん手をあげたけれども、数学を知らないと非常に損をするという、嫌いな人にはまことにお気の毒な世の中になってしまったわけです。ですからひとつ好きになってもらいたいのです。」p.25
・「数学というのは、ほかの学問とは趣を異にしています。簡単にいうと数学には固有の領土というのはないのではないでしょうか。(中略)研究対象でいろいろ課題を決めるというわけにはいかないのです。だから数学は、地球の上に漂っている空気みたいなもので、どこにでも移動できるのです。」p.30
・「数学という学問が最近またひと昔前の物理学のように、いろんなところへ進出していることは事実です。しかし、これは帝国主義ではない、つまり領土を侵略することではないわけで、ちょうどユダヤ人のようば広がり方ではないかと私は思います。ユダヤ人は、昔からいろんな国へいって実権をもっています。数学もいろんな学問の中へ、ポツンポツンとはいっていく、これはさきほどいった数学の性格から当然なことで、ものは違うけれど同じ型の法則をまとめて研究するのが数学だとすると、数学はどんなものの中にでもはいっていけます。」p.31
・「物理学でも、生物学でもわれわれの知らないようなものが、どんどん発見されていますが、それをお互いに話し合わないのは残念なことだと思います。」p.33
・「私の年来の主張ですが、講義は午前中だけにして、午後は好きなことをやったらよい。朝の九時から四時ごろまで講義はありますが、人間の注意力というのはそんなに続かないと思います。」p.34
・「数学嫌いを大量生産したのは99パーセントまで数学教師の責任だと思う。」p.38
・「古代数学の大きな特徴は、「証明」というものがないということだ。(中略)
 つまり古代数学は経験的であったということか。
 そういえるだろう。もう一つ、演繹的でなく、帰納的であった。それが第二の特徴だ。
」p.41
・「 みな幾何学ではないか。ユークリッドもデカルトもヒルベルトも時代の区切りになったのは三つとも幾何学だというのは不思議だ。
 それは必ずしも偶然の一致ではないと思う。幾何学は実在と数理との関係を問題にせざるをえない部門だからだ。
」p.45
・「期せずして構造ということばがとび出してきたが、まさにその構造(Structure)という概念が現代数学の中心概念なのだ。」p.48
・「ブルバキは構造を建築物にたとえているが、それは建築物のように空間的であり静的であり、そして一つの完結したもの、数学的にいうと、未完結で「開いた」思考法も無視することはできないのだ。これはアルゴリズムということばで代表されている。」p.50
・「この三人の大数学者の出身階級をしらべてみるとおもしろい。アルキメデスは貴族の出で、ニュートンは農民、ガウスは煉瓦工の家に生れた。三人のうち二人までが労働者や農民の出身であることは、やはり数学が公平で民主的な学問であることの証拠になっているといえよう。  算数は原理がすこぶる簡単であって、その簡単な原理をよくつかんでそれを系統的に適用していけばよいのだから、別に本をたくさん読む必要はないし、もの知りである必要もない。正直でねばり強い子どもにならできるようになっている。」p.55
・「数学はどのような科学であろうか。  まず最初にあげるべきはその普遍性であろう。数学の命題は世界中のいかなる人間にとってもなんらの差別なく理解できる。」p.64
・「数学という学問の根本的性格の一つとして、「数学は学問的に孤立する危険を常に内包している」ということがいえるだろう。だからこそ、他の学問との連帯性を常に強調しておくことが大切なのである。」p.69
・「あらゆる科学のなかでもっとも抽象的なものは数学であるといってよかろう。ところがその抽象性のゆえに社会のあり方とは関係がないというのは間違いであろう。むしろ抽象的であればあるほどそれは一定の方向性をもち、そのために強い社会性をもつといえるのである。」p.72
・「私は、数学が若干の公理系から導きだされる自律的な体系だと言う見方に反対する。そのような見方にたいして、数学は自然や社会を反映する客観的な知識であると主張したい。」p.79
・「要するに日本では、人間支配の技術だけが尊敬されて、自然支配の技術は軽蔑されているのだ、といえよう。だから数学にかぎらず、自然科学が人間形成などになんのかかわりもない用具であると見る考えは、日本の社会そのものの中に根づよく内在しているといってよい。」p.89
・「この「長方形」という名前は誰がつけたか知らないが、どう考えても拙劣な命名である。  英語やドイツ語はrectangle,Rechteckとなっているから「直角形」というような意味になり、合理的である。辺については長い短いとはなにも言わず、ただ角が直角であることだけを指定しているから、賢明である。  日本語でこれにならおうとすれば、「直角四角形」もしくは略して「直四辺形」、あるいは「直四角形」のほうがまだましであろう。」p.107
・「社会や生産との生きいきした連関を失ったとき、そこには「数学のための数学」とでもいうべき不健康な空気がかもしだされる。唯美主義、知的貴族主義、天才至上主義、孤立主義、その他の病気がそこから発生する。」p.141
・「この四つの時代を分ける大きな標識として、つぎの三つの著作をあげることにする。
(1) ユークリッドの『原論』
(2) デカルトの『幾何学』
(3) ヒルベルトの『幾何学基礎論』

 四つの時代を区分する著作がすべて幾何学にかんするものであることは、一見たんなる偶然であるように見えるかも知れない。しかし、それはたんなる偶然ではない。
」p.149
・「実在は空間的であるばかりではなく時間的でもあるとすると、それに対応する数学もやはり時間・空間的でなければならないだろう。そのような数学はいまのところ生れてはいないが、未来の数学はそのようなものとなるかも知れない。」p.174
・「つまり構造は集合になんらかの相互関係をつけ加えたものである。  象徴的にかくと、つぎのようになるだろう。
  構造=集合+相互関係
 また集合は要素のあいだになんらかの相互関係があっても、それを無視、もしくは捨象してできた概念であるから
  集合=構造-相互関係
 このような構造の考えをはじめて明瞭にうちだしたのは前にものべたようにブルバキであった。ブルバキは構造こそ現代数学の主役であるとみなしたのである。
」p.186
・「ブルバキのいう順序の構造、代数的構造、位相的構造が今日の数学における三つの主要な柱であることは事実である。しかし、そのようなことが永久に続くとは考えられない。  ブルバキは構造を概念の建築物にたとえたが、それはたしかに建築物のように静的で閉じた体系であり、いわば空間的なものである。  したがってそれは時間的変化を包含することはむずかしい。もし数学が時間的に変化する構造を取りあつかう必要がおこってきたら、さらに新しい型の体系をその研究課題として設定しなければならなくなるだろう。  したがって、三つの構造を数学の永遠の研究課題と考えるべきではあるまい。」p.204
・「がんらいあらゆる発見は、偉大であればあるほど、あとからみると、当たり前のように見えてくるものである。集合論もそのような発見の一つであったといえよう。」p.213
・「日本が豊かな国になるためには科学技術を発展させ、少ない原料に高度の加工をほどこすような工業をもつ国になる意外に道はない。もし、日本がアメリカやソ連と対等になろうとするなら、物的資源の不足を頭脳で埋め合わせていくようにしなければならないし、またそれは可能なのである。そのためにはまず大量の科学者技術者が必要になり、どうしても女性の力を動員しなければならないのである。」p.225
・「それではかりに科学をもういちど勉強してみようという主婦がいたとしたら、どういうことから始めたらよいか、について私の意見を述べてみよう。  私なら、その人にまずデカルトの『方法序説』をよむことをすすめるつもりである。」p.226
・『遠山啓――西日のあたる教場の記憶』(吉本隆明)より「遠山さんの<精神の匂い>は、ひとくちにいえば大学の教授の一般的なタイプである、頭のいい坊ちゃんという印象とまったく異ったところからきていた。人間の本性にある怠惰とデカダンスをよく知っていて、それを禁欲的な強い意志で制御した上に数学を築いているというふうに理解された。」p.236

?ぞうじょう‐まん【増上慢】 1 仏語。四慢、七慢の一つ。いまだ悟りを得ていないのに、悟ったとして思い高ぶること。  2 自負してえらそうにふるまうこと。

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