奔馬 豊饒の海(二), 三島由紀夫, 新潮文庫 み-3-22(2417), 1977年
・三島由紀夫、最後の大作『豊饒の海』シリーズ全四部のうちの第二部。舞台は第一部より約20年後とのことですが、その第一部『春の雪』を読んだのが3年以上も前のことで、その話の筋など全くどこかへ霧散してしまいました。しかし、そんな状態でも読み進むうちに著者の巧みな話術によりおぼろげながらその内容を思い出し、特に不自由を感じず読み通すことができます。また第一部だけを見ると、単なる悲恋話にしか思えませんでしたが、第二部を読んでみると意外な方向に話が進み、初めて著者が描かんとする全体像が見えた気になります。「う~~ん、そうきたか……」と作中の "本多" と一緒に、読み手のこちらまでもが戦慄。
・「三十八歳とは何たる奇異な年齢だろう! 遠い昔に青春が終わってしまって、その終ったあとから今までの記憶が何一つ鮮明な影を宿さず、そのために却っていつも、青春と壁一重隣合せに暮らしているような気がしつづけている。隣の物音はたえず詳さにきこえてくる。しかし、もはや壁には通路はないのである。」p.8
・「人は共通の思い出について、一時間がほどは、熱狂的に話し合うことができる。しかしそれは会話ではない。孤立していた懐旧の情が、自分を頒つことのできる相手を見出して、永い間夢みていた独白をはじめるのだ。おのがじし独白がつづけられて、しばらくすると、急にいまの自分たちは語り合うべき何ものも持たぬことに気づく。二人は橋を絶たれた断崖の両岸にいるのである。」p.61
・「それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取ってそれを静止させ、すべてを一枚の地図に変えてしまったことだろう。それが裁判官というものであろうか。彼が「全体像」といううときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一巻の絵巻物、一個の死物にすぎぬではないか。『この人は、日本人の血ということも、道統ということも、志ということも、何もわかりはしないんだ』と少年は思った。」p.123
・「いつも死を考えているので、その考えが彼を透明にして空中に泛ばせ、世間から宙吊りにして歩かせ、この世の事物への嫌悪と憎しみをすら、どこかで稀薄にさせているように思われた。それを勲は怖れた。獄の壁のしみ、血痕、尿臭などが、もしかした、そんな稀薄さを癒やしてくれるかもしれない。自分には獄が必要なのかもしれない。……」p.138
・「死ねばすべては清められますが、生きているかぎり、右すれば罪、左すれば罪、どのみち罪を犯していることに変りはありません」p.196
・「紙芝居屋は拍子木を叩きながら、勲をちらと見た。勲は自分が、今温めたばかりの柔らかい初心な牛乳の皮みたいに見られているのを感じた。」p.229
・「勲は以前、剣道部の熱心な部員であったころ、たまたま道場を訪れた名高い剣道家の福地八段に稽古をつけてもらって、その水のような構えに圧せられて、しゃにむに撃ちかかったところを外されて、思わず退いた瞬間に、面金の奥から静かな嗄れ声で、こう言われたことがあったのを思い出した。 「引いてはいかん。そこに何か 仕事 があるでしょう。」」p.294
・「そのときから酔いがはじまった。酔いは或る一点から、突然、奔馬のように軛を切った。女を抱く腕に、狂おしい力が加わった。抱き合って、檣のように揺れている自分達を勲は感じた。」p.315
・「万人が愚かだと思う決断を自分に下したあとの、この心身の爽快、この胸裡の温もりを何にたとえよう。それも分別ざかりの今日になって!」p.327
・「このレコードは久しく聴かれなかった。そこで愉しい音楽を聴こうと思われた宮は、冒頭に弱音のホルンで吹かれるティルの主題を耳にされるや否や、自分はレコードの選び方をまちがえた、今自分が聞きたいと思った音楽はこれではない、という感じを即座に持たれた。それは陽気な悪戯気たっぷりなティルではなくて、フルトヴェングラーが拵えた、淋しい、孤独な、意識の底まで水晶のように透いて見えるティルだったからである。」p.338
・「権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があった。野蛮人が病気よりも医薬を怖れるように。」p.353
・「勲はとうとう避けとおしてきた言葉に行き当たった。『血盟自体が裏切りを呼ぶのだろうか』 ……これは最もぞっとする考えだった。」p.353
・「「それはいつのことです」 「それを今考えていたのでございますが、二十年あまり前に来たことがあるような気がします」 「二十年前に、飯沼が、女連れでですか」 と検事が思わず言ったので、傍聴席には失笑が起った。 老人はこんな反応には少しもかまわず、執拗に繰り返した。 「はい。左様です。どうも二十年あまり前に……」 この証人の証言能力の有無はもはや明らかだった。人々は北崎の耄碌を嗤っていた。本多もはじめはその一人だったが、老人が「二十年あまり前」という言葉を、ふたたび生真面目に口にしたとき、今までの嘲り笑いが突然戦慄に代わったのである。」p.395
・「彼は被告と証人の間に、この戦いを提起することを望んだのである。すなわち、勲の考える純粋透明な志の密室を、思いつめた女の感情の夕映えの紅で染めなすこと。相手の世界をお互いに否定しさるほかはないほど、相互のもっとも真実な刃で戦わせること。この種の戦いこそ、勲が今までの二十年の半生に、想像だにせず、夢見ることさえなく、しかも或る「生の必要」から必ず知らねばならないところの戦いだった。 勲は自分の世界を信じすぎていた。それを壊してやらねばならぬ。なぜならそれはもっとも危険な確信であり、彼の生を危うくするものだからである。」p.407
●以下、解説(村松剛)より
・「『豊饒の海』の着想は『浜松中納言物語』によると、三島氏はのちにみずから書いている。四部作をつらぬいている軸は、まさに「確乎不動の現実に自足」しようとする考え方への、夢のがわからの挑戦である、といってよい。」p.448
・「勝利を収めたのは勲だった。夢こそが現実に先行するのであり、実在とは身命を賭けた詩であると、作者はこの一行に託していっているように見えるのである。」p.454
?しんい【瞋恚・嗔恚】(連声で「しんに」とも)仏語。三毒(貪毒・瞋毒・痴毒)、十悪などの一つ。自分の心に違うものを怒りうらむこと。一般に、怒りうらむこと。瞋。しんね。
?しっぴ【櫛比】 すきまなく並んでいる、くしの歯。また、くしの歯のように、すきまなく並ぶこと。
?いしゃ【慰藉】 苦しみなどを慰めいたわること。
?どうとう【道統】 儒学を伝える系統、学派。
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【本】春の雪 豊饒の海(一)(2007.4.14)
・三島由紀夫、最後の大作『豊饒の海』シリーズ全四部のうちの第二部。舞台は第一部より約20年後とのことですが、その第一部『春の雪』を読んだのが3年以上も前のことで、その話の筋など全くどこかへ霧散してしまいました。しかし、そんな状態でも読み進むうちに著者の巧みな話術によりおぼろげながらその内容を思い出し、特に不自由を感じず読み通すことができます。また第一部だけを見ると、単なる悲恋話にしか思えませんでしたが、第二部を読んでみると意外な方向に話が進み、初めて著者が描かんとする全体像が見えた気になります。「う~~ん、そうきたか……」と作中の "本多" と一緒に、読み手のこちらまでもが戦慄。
・「三十八歳とは何たる奇異な年齢だろう! 遠い昔に青春が終わってしまって、その終ったあとから今までの記憶が何一つ鮮明な影を宿さず、そのために却っていつも、青春と壁一重隣合せに暮らしているような気がしつづけている。隣の物音はたえず詳さにきこえてくる。しかし、もはや壁には通路はないのである。」p.8
・「人は共通の思い出について、一時間がほどは、熱狂的に話し合うことができる。しかしそれは会話ではない。孤立していた懐旧の情が、自分を頒つことのできる相手を見出して、永い間夢みていた独白をはじめるのだ。おのがじし独白がつづけられて、しばらくすると、急にいまの自分たちは語り合うべき何ものも持たぬことに気づく。二人は橋を絶たれた断崖の両岸にいるのである。」p.61
・「それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取ってそれを静止させ、すべてを一枚の地図に変えてしまったことだろう。それが裁判官というものであろうか。彼が「全体像」といううときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一巻の絵巻物、一個の死物にすぎぬではないか。『この人は、日本人の血ということも、道統ということも、志ということも、何もわかりはしないんだ』と少年は思った。」p.123
・「いつも死を考えているので、その考えが彼を透明にして空中に泛ばせ、世間から宙吊りにして歩かせ、この世の事物への嫌悪と憎しみをすら、どこかで稀薄にさせているように思われた。それを勲は怖れた。獄の壁のしみ、血痕、尿臭などが、もしかした、そんな稀薄さを癒やしてくれるかもしれない。自分には獄が必要なのかもしれない。……」p.138
・「死ねばすべては清められますが、生きているかぎり、右すれば罪、左すれば罪、どのみち罪を犯していることに変りはありません」p.196
・「紙芝居屋は拍子木を叩きながら、勲をちらと見た。勲は自分が、今温めたばかりの柔らかい初心な牛乳の皮みたいに見られているのを感じた。」p.229
・「勲は以前、剣道部の熱心な部員であったころ、たまたま道場を訪れた名高い剣道家の福地八段に稽古をつけてもらって、その水のような構えに圧せられて、しゃにむに撃ちかかったところを外されて、思わず退いた瞬間に、面金の奥から静かな嗄れ声で、こう言われたことがあったのを思い出した。 「引いてはいかん。そこに何か 仕事 があるでしょう。」」p.294
・「そのときから酔いがはじまった。酔いは或る一点から、突然、奔馬のように軛を切った。女を抱く腕に、狂おしい力が加わった。抱き合って、檣のように揺れている自分達を勲は感じた。」p.315
・「万人が愚かだと思う決断を自分に下したあとの、この心身の爽快、この胸裡の温もりを何にたとえよう。それも分別ざかりの今日になって!」p.327
・「このレコードは久しく聴かれなかった。そこで愉しい音楽を聴こうと思われた宮は、冒頭に弱音のホルンで吹かれるティルの主題を耳にされるや否や、自分はレコードの選び方をまちがえた、今自分が聞きたいと思った音楽はこれではない、という感じを即座に持たれた。それは陽気な悪戯気たっぷりなティルではなくて、フルトヴェングラーが拵えた、淋しい、孤独な、意識の底まで水晶のように透いて見えるティルだったからである。」p.338
・「権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があった。野蛮人が病気よりも医薬を怖れるように。」p.353
・「勲はとうとう避けとおしてきた言葉に行き当たった。『血盟自体が裏切りを呼ぶのだろうか』 ……これは最もぞっとする考えだった。」p.353
・「「それはいつのことです」 「それを今考えていたのでございますが、二十年あまり前に来たことがあるような気がします」 「二十年前に、飯沼が、女連れでですか」 と検事が思わず言ったので、傍聴席には失笑が起った。 老人はこんな反応には少しもかまわず、執拗に繰り返した。 「はい。左様です。どうも二十年あまり前に……」 この証人の証言能力の有無はもはや明らかだった。人々は北崎の耄碌を嗤っていた。本多もはじめはその一人だったが、老人が「二十年あまり前」という言葉を、ふたたび生真面目に口にしたとき、今までの嘲り笑いが突然戦慄に代わったのである。」p.395
・「彼は被告と証人の間に、この戦いを提起することを望んだのである。すなわち、勲の考える純粋透明な志の密室を、思いつめた女の感情の夕映えの紅で染めなすこと。相手の世界をお互いに否定しさるほかはないほど、相互のもっとも真実な刃で戦わせること。この種の戦いこそ、勲が今までの二十年の半生に、想像だにせず、夢見ることさえなく、しかも或る「生の必要」から必ず知らねばならないところの戦いだった。 勲は自分の世界を信じすぎていた。それを壊してやらねばならぬ。なぜならそれはもっとも危険な確信であり、彼の生を危うくするものだからである。」p.407
●以下、解説(村松剛)より
・「『豊饒の海』の着想は『浜松中納言物語』によると、三島氏はのちにみずから書いている。四部作をつらぬいている軸は、まさに「確乎不動の現実に自足」しようとする考え方への、夢のがわからの挑戦である、といってよい。」p.448
・「勝利を収めたのは勲だった。夢こそが現実に先行するのであり、実在とは身命を賭けた詩であると、作者はこの一行に託していっているように見えるのである。」p.454
?しんい【瞋恚・嗔恚】(連声で「しんに」とも)仏語。三毒(貪毒・瞋毒・痴毒)、十悪などの一つ。自分の心に違うものを怒りうらむこと。一般に、怒りうらむこと。瞋。しんね。
?しっぴ【櫛比】 すきまなく並んでいる、くしの歯。また、くしの歯のように、すきまなく並ぶこと。
?いしゃ【慰藉】 苦しみなどを慰めいたわること。
?どうとう【道統】 儒学を伝える系統、学派。
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