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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術

2010年03月16日 18時30分59秒 | 読書記録
ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術, 立花隆, 文春文庫 た-5-15, 2003年
・立花隆が本について語った、前出『ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎論』の続編。内容は大きく分けて三部構成。まずは、本についてのあれこれ、タイトルにもある速読術についても語った約90ページに渡るやたらと長い序文。速読術については、要は "新聞の見出し読み" なので特に目新しさは無い。次に本編の『私の読書日記』。数多くの新刊書が紹介されているが、自分と重なったのは(未読だが)ワールドロップ『複雑系』の一冊のみ。最期のオマケとして『「捨てる!」技術』なる本への痛烈な批判の文章を掲載。槍玉に挙がった本には気の毒だが、"書上で他人を批判する" その方法の一例として興味深い内容。
・ブログ記事の文字制限により、文字に着色が出来ず残念。
●序 宇宙・人類・書物
・「本書は、「週刊文春」にいまも連載中の「私の読書日記」の1995年11月30日号から2001年2月8日号までの約五年分をまとめたものである。」p.12
・「以前、『ぼくはこんな本を読んできた』の中でも述べたことだが、この読書日記は、私の個人的な読書生活(仕事上のあるいは趣味上の)をあるがままに記録したものではない。私はこれを独特の新刊案内のつもりで書いている。」p.12
・「やはり書店というのは、一国の文化の最前線の兵站基地みたいなものだから、そこでの物流(情報流)を見ていると、一国の文化、社会の全体像がよく見えてくる。  いってみれば、書店の店頭というのは、一国の文化、社会の現状を伝える最高のメディアなのである。」p.15
・「「いかにも書評らしい書評」とは、要するにその本に対して同じフィールドの専門化がもっともらしい評価を偉そうに書きつらねている書評である。(中略)私が書評に求めるのはもっぱらその本が読む価値があるかどうかの情報である。(中略)書評子にできることは、読む人の邪魔にならない程度の参考意見を述べる程度のことでしかない、と私は思っている。」p.17
・「新刊本が取り次ぎから書店に配本され返本されるまでの、平均店頭滞在期間はわずか五、六十日程度」p.18
・「世の中ヒマ人と忙しくて仕方がない人(いろんなグレードがあるが、ゆっくりメシを食うヒマも十分にとれないのが日常的、という人が本当に忙しい人)とどちらが多いかといったら、ヒマ人のほうが多い。」p.21
・「本を読む喜びはいろいろあるが、やはり、思わずヘエーッと心の中で驚きの叫びを上げてしまいそうになる一節に出会ったときの喜びがいちばん大きいのではないだろうか。この本には、そういう小さなヘエーッが何百冊分もこめられているから、情報量が相当に多い本になっている。」p.23
・「どうしてもという状況に迫られると、人間普通ではとても読めないようなスピードで読むことができるものである。」p.25
・「一般的にいって、読むこと自体を楽しもうという本は、速読しないほうがいい。ゆっくり読んだほうが、楽しい時間がより長くなる。速読が可能でかつ速読したほうが得なのは、読むこと自体を楽しむ本ではなく、情報が沢山つまった、多少専門的な内容の本で、書かれている情報の読みとりそのものを目的とする参考資料のたぐいである。」p.26
・「理系のカルチャーと文科系のカルチャーの間にはいろんな意味で大きなちがいがあるが、この情報伝達の様式のちがいと、それによる効率のちがいが、最も大きなちがいの一つである。」p.27
・「大事なことは本を読むときに、逐語的に文章を読み、逐文章的に本全体を順次読んでいこうとしないで、本全体の構造がどのようにできているか、その流れだけをとりあえずつかもうとすることである。」p.29
・「つまり本の読み方を細部の読みから全体の読みへという通常の順序とは全く逆に、粗雑な「つかみ」から、少しずつ細かな把握へと、読みの方式そのものを変更してしまうわけである。  これは音楽的な読みから、絵画的な読みへの転換といい変えてもよい。」p.33
・「要するに、絵画的読みの本質(音楽的読みとの最大のちがい)は、全体像を常に見すえながら、読みの深さ、読みのテンポを自在に変えていくことにある。」p.35
・「「じっくり読み」の価値がない本までじっくり読むことは、時間と脳のキャパシティを無益に浪費すること以外の何ものでもない。」p.37
・「これからの時代、人間が生きるとはどういうことかというと、「生涯、情報の海にひたり、一箇の情報体として、情報の新陳代謝をつづけながら情報的に生きる」ことだ」p.40
・「言葉をかえていえばそれは定説がくつがえることに対応する能力ともいえる。だから、定説でないことに対して強い関心を持つことは、人間の柔軟な適応力を養う上で最重要なことである。」p.46
・「小出版の世界というのは、毎年百社新しい会社が設立されて、一年たつとそのうちの一割しか残っていないというような世界なのである。」p.53
・「つまり、書店や図書館は、人類文化の全体を大宇宙とすれば、その全体像をできるだけ写しとった中宇宙として、形成されているのである。人は自分の小宇宙を作ることを、書店や図書館に行って、何冊かの本の読者となり、その本の数だけの小世界の住人となる経験を積むことからはじめるわけである。  どれだけ多くの本を読み、どれだけ多くの小宇宙の住人となり、自分をどれだけ多くの他世界存在者にしたかによって、その人の小宇宙の豊かさがきまってくる。」p.56
・「円本時代の話を長々と書いたのは、日本の出版界が、この時代を境に全くその性格を変えたからである。今日の出版業界の基本的な体質は、この時代にできあがったといってよい。  それまで、本は数千部作って売れればよいという世界で、売れてもせいぜい数万部にとどまっていた。それが一挙に数万部は当り前、当ったら数十万部という大量生産、大量販売の時代に入ったのである。」p.69
・「本の将来を考えると、ノン・リスキー・ビジネスの方向での、ある可能性がこれからもっと拡大していくだろうと思う。それは電子出版、電子流通の可能性である。(中略)デジタル・コンテンツの時代になって、ますます紙の本の価値が再認識され(中略)むしろ、紙の本の世界はますます栄えていくと思う。」p.74
・「将来の本のもう一つの予想される方向性は、すでに多くの本においてその方向性がはっきり出ているが、ヴィジュアル化という方向である。必ずしもヴィジュアル主体の本にするということではなく、ヴィジュアルな要素をできるだけ取り入れた、わかりやすい本にするということである。」p.78
・「言語使用は思考の絶対必要条件だろうか。思考のすべては言葉によってなされているのだろうか。言語を使わなければ人間は考えることができないのだろうか。  決してそうではあるまい。もしそうだとしたら、人間は言語能力の獲得以前は何も考えていなかったことになる。」p.82
・「さて、最後に一言総括めいたことをいっておけば、私は書物というのは、万人の大学だと思っている。どこの大学に入ろうと、人が大学で学べることは量的にも質的にもごくごく少ない。大学でも、大学を出てからでも、何事かを学ぼうと思ったら、人は結局、本を読むしかないのである。大学を出ようと出まいと、生涯書物という大学に通いつづけなければ、何事も学べない。」p.87
・「最後に、いかなる本を読む場合でも忘れてはならない忠告を一つ。  本に書いてあるからといって、何でもすぐに信用するな。自分で手にとって、自分で確かめるまで、人のいうことは信じるな。この本も含めて。」p.87
●私の読書日記 1995.11~2001.2
・「コロネット作戦では、まず、百八十日間にわたる艦砲射撃と空爆で防御陣地を徹底的に叩きのめし、ロケット弾とドイツのV1型誘導爆弾で猛攻を加え、枯葉剤で植物を丸はだかにした上で、九十九里浜と相模湾に上陸して、東西から東京に迫るというものだった。日本側は数百万人の死傷者を出し、アメリカ側も数十万人の死傷者が出ると予測されていた。  第三の原爆もどこかで使われることになっていた。  もし八月十五日に戦争が終わっていなかったら、原爆、毒ガス、生物兵器、枯葉剤で、日本は文字通りハルマゲドン状態になっていたのである。」p.96
・「なぜアメリカは、世界に自分たちの価値観を押しつけるのか。世界のどこかで衝突があると、なぜアメリカはすぐに軍隊を出動させ、「世界の警察官としてふるまおうとするのか。  その根底には、自分たちは神から選ばれ使命を与えられた特別の民であるという選民思想がある。どんな使命かというと、この世に正義と平和をもたらし、悪に満ちた世界を神の意に沿う世界に作り変えていくというものである。アメリカがやることは神の意だから、すべて正しいのである。」p.111
・「そのころヒトラーはパーキンソン病の末期症状で、いつも震えており、筋力が低下し、感覚と知覚もそこなわれていた。バランス感覚を失って、ペンで署名することもできなかった。二、三十メートルの距離すらまともに歩けず、しょっちゅう口の両端からよだれをたらしていた。  末期の総統地下壕は、爆撃で生活維持昨日がほとんど失われ、使えるトイレがひとつしかなく、換気設備がダウンしていたので地下壕全体がトイレの臭気でムンムンしていた。軍部への通信回線も機能を失っていて、軍を指揮することなど全くできなくなっていた。情報も入らなかった。最後の頃は、BBC放送のニュースが最も頼りになる情報だったという。」p.137
・「これまで、地上の生物はすべて、植物による光合成をもとにした太陽光をエネルギー源とする食物連鎖の上に生態系を作っていると考えられていたが、深海底には、チューブワーム以外にも、熱水噴出ガスをもとにする生物がいろいろいて、太陽光と全く無縁の生態系が成立しているということがわかってきた。  熱水系の生物に関しては、まだわからないことがいろいろあるが、こちらの方が、実は地球の本当の生命の起源に近いのだという説が生まれている。」p.139
・「人間というのは、健康のためなら、相当怪しげなものにも平気で金を投じるものである。昭和八年発行の『売薬部外品の製造と販売法』という本には、「ボロイ金儲け!! 若しも世知辛い此世の中にボロイ金儲けが、実在するとすれば、売薬こそ真に其の名を恥しめぬものでなくてなんであろう」と書かれているという。」p.148
・「これほどの伝説にとりまかれ、これほど日本中に足跡があるのは、役行者以外には、空海ぐらいだろうが、実は空海は役行者の生まれ変りだという説がある。いや、それだけではない。役行者は聖徳太子の生まれ変りで、聖徳太子、役行者、空海はみな同一人物で、実は、「菩薩の権化」であるともいう。」p.154
・「日本はこの半世紀間に、二度にわたって国家経営を根本的に誤り、国をほとんど破産状態におとしいれた。一度目は戦争によって、二度目はバブル経済によって。しかし、二度とも、ときの国家指導者から、このような真摯な自己批判自己反省の弁は全く聞かれなかった。日本は指導者が無反省ですむ国だから、またいずれ劣悪な指導者によって国が危うくされるだろう。」p.186
・「(『ピエール・ベール著作集』法政大学出版局)全八巻で、トータルページ数一万一千二百ページ、重さ十六・三キログラムである。定価は全部合わせて二十二万五千円。一週間ばかり買おう買うまいか考えて、思い切って買ってしまった。ヨーロッパ思想史に感心を持つ者としては、これは欠かせない本なのである。作者、訳者、出版社がこの本に注いだ情熱とエネルギーと時間を考えたら、この価格でも決して高くないと思った。」p.196
・「編者のいう通り、現代の教育は成功事例を教えることに偏りすぎている。本当は成功事例より、失敗事例のほうが、はるかに学ぶところが大きい。我々はもっともっと失敗を学ぶべきである。」p.199
・「日本は、現場のマイナス情報がトップに伝わらない国であると同時に、あらゆる角度から可能性を検討した上での総合的戦略がたてられないためにバカげた大ポカを国家的にしでかしてしまう国なのである。」p.208
・「人の場合でも、たまたま特定の物質による汚染で、女性ホルモンに大量にさらされてしまったという事例があるが、その被害者の女性から、母性本能を失って子育てを放棄してしまう女性が出たりしたし、男女とも、不安症、神経性食欲不振(拒食症)、強迫神経症、強い鬱状態、免疫異常などがあらわれているという。  最近の世相に目立つ、一連の社会病理学的現象は、一般にストレスのせいなどといって片付けられがちだが、実は、こういう要素も相当影響しているのかもしれない。」p.213
・「平安時代を本当に理解しようと思ったら、当時の人々がいかに陰陽道を重んじていたかを知らねばならないとよくいわれる。」p.224
・「たとえば、<チヨダ>と呼ばれる公安警察の闇組織のことである。<チヨダ>というのは、スパイ工作や、盗聴といった非合法捜査をになう秘密組織である。表向きはこれは存在すらしていないことになっているが、実は公安のエリート中のエリートが選抜されて配属されるウラ組織なのである。(中略)小杉巡査の一件も含め、オウム事件の消えた謎の部分は、結局、この公安警察のヤミの部分とどこかでからんでしまっているのである。」p.252
・「宗教改革も、世界の終りが切迫していると感じていた改革者によってなされた。たとえば、ルターはこう叫んでいた。  「最後の日は戸口まで来ている。いまこの世に残された時間は掌ほどの大きさもない。『黙示録』の最後の封印が破られようとしている。われわれの子孫たちが聖書の記述の結末を目にするだろう、いやもしかするとわれわれ自身が目撃者になるかもしれない」  イギリスのピューリタン革命を起したクロムウェルも、近代科学の祖となったアイザック・ニュートンも、世界の終末が近いと思い、週末の日までの計算に熱中していた。」p.305
・「(吉田満『戦艦大和ノ最期』)この簡潔で濃密な文章は、近代日本語散文の傑作中の傑作である。文語体の格調の高さ、内容の悲劇性、ほとんど昭和の平家物語といっていいくらいだ。」p.338
・「通産省は、インバース・マニュファクチャリング(逆工場)こそ、未来の産業構造の中核をなすべきシステムであるとして、強力にその流れをバックアップしている。」p.346
・「(保坂正康『昭和陸軍の研究』朝日新聞社)最近、歴史を知らないバカとしかいいようがない連中が、戦争をしたり顔で論じ、それに若い人々が影響を受けたりしているようだが、そういう若い人に、この本を読めといってやりたい。」p.348
・「同じように、世界のあちこちに、意味不明だが、蜃気楼としてあらわれたときの形を宗教的に解釈すると意味を持ってくる巨大絵、巨大線刻、巨大建造物が沢山あるという。」p.368
・「でも、カエルなんてちょっとやそっと消えたってどうということないじゃないかという人には、「リベット抜き説」を紹介したい。  飛行機からどんどんリベットを抜いていくと、最期はバラバラになって墜落する。カエルを地球生態系という飛行機のリベットの一つと考える。つまり、カエルくらい消えても飛行機は順調に飛ぶ。しかしさらに数個リベットが抜けるとガタつきが激しくなり、もっと抜けていくと、生態系全体があるとき突然崩壊してしまう。」p.417
・「トッパン印刷が同社の小石川ビルに作った印刷博物館(館長粟津潔)が出色の博物館だという評判を聞いて、ちょっと見てくるつもりで出かけたら、その内容に圧倒されて、三時間もかけて徹底的に見ることになってしまった」p.421
●『「捨てる!」技術』を一刀両断する
・「そういう観点から見るとき、私はこの本を全く評価しない。ほとんどカスみたいな本だと思っている。「捨てる技術」を使うなら、まっ先に捨ててしかるべき本だと思う。カスみたいな本がベストセラーになることは決して珍しいことではないから、それはそれでよいのだが、この本に書かれているような、ものの見方、考え方が、よきものとして、社会的にもてはやされるのはよくないと思っている。」p.431
・「やっぱり資料は生きているんだと思った。資料は生きた自分の一部なのである。いってみれば、資料は外部空間においた自分の脳の一部、メモリーの一部なのである。生身の自分と全く離れたところに持っていってしまうと、メモリーも死に、それに応じて自分の一部も死んでしまうのである。  人はたしかにメモリーベース・アーキテクチャーなのである。メモリーは、その人の本体である。人格の相当部分がメモリーの中にある。それは、資料だけでなく、記憶がやどったモノの中にもある。」p.441
・「どうしてこの著者は、そのようなものの見方に対して、「それ(聖域不要論)はあなただけの価値にすぎない」という立場もあるのだということに気がつかないのだろう。「他人の "とっても便利" は私の "じゃま"」ということには気がつくのに、どうして、「"他人のじゃま" は私の "大切"」ということもあるのだということに気がつかないのだろう。」p.446
・「要するに、本音は、消費社会のモノの呪縛にとらわれた生活をもっともっと楽しくつづけたいということなのだ。  そのための便法としての「捨てる」なのであって、そこには瀬戸内寂聴さんが共感をよせるような要素、つまり、モノへの執着を本質的に断とうというような要素は全くないのである。」p.449
・「どういう意味において誤っているのかといえば、生命史の流れにおいても、人類史の流れにおいても、よきものを作ってきたのは、常に「捨てない派」だったということである。よきものは捨てない派が作るストックから生れてきたのである。常に無用とも思えるほど過剰なストックの中から、未来(次の時代のにない手)が生まれてきたということである。」p.451
・「ヒトが他の生物とちがう最大のポイントは何かというと、それ以前の生物のほとんどがエネルギー・フローの流れの中にとどまり「手から口への生活」をしていたのに対して、はじめて本格的にストックを作り出して利用する、ストック依存型生物となったことである。」p.452
・「人類社会は、「捨てない」ことを基礎原理として、それによって形成されるストック中心の社会として発展してきたのである。それによってヒトは個体中心動物から、社会性動物へ変ったのである。」p.454
・「そういう目でこの本をあらためて読み直してみると、この本は一種の強迫神経症にかかった人が書いた本だということがよくわかる。  この本は冒頭いきなり、  「捨てなきゃいけない――これが、現代に生きている私たちにとっての至上命題だ」ではじまる。「――しなきゃいけない」という観念に強くとりつかれてしまうことが強迫神経症だから、正に強迫神経症の定義通りの症状なのである。(中略)「強迫観念→現実との相克→ジレンマの拡大→ブチ切れ→発作的行動→快感→快感行動の習慣化→異常行動の心理的合理化」という具合に、強迫神経症の典型的な転帰をたどっている。そう思って読むと、この本の中核をなす、捨てるテクニックと称するくどすぎるメモも、神経症の患者がよく書くパラノイア的メモと読めるだろう。」p.455
・「彼女のいうような、「みんなあたしのようにブチ切れて、どんどん捨てましょう。捨ててスッキリ快感を持って、楽しい消費生活をつづけましょう」という生き方の選択は正しくないと思う。  これはまるで、便秘症の人があるとき下剤をかけたらスッキリ快感を得たので、みんな毎日下剤をかけてスッキリしようと呼びかけているようなものである。」p.457
・「結局のところ、現実策は、「捨てなきゃねえ」と「捨てられない」のジレンマに悩みつつ、自分に可能な限度で捨てつつ生活していく、著者のお母さんの生活スタイル(キャパシティが許せる限度で持ち、心理的に許せる限度で捨てる)しかないと思う。それが現実にみんながやってくることだろうが、それでいいのだと思う。そういうジレンマに悩みつつ、ぐずぐず生きていくのが人間として正しい生き方なのであって、著者のようにブチ切れて、すぐにじゃんじゃん捨てはじめるほうがおかしいのである。」p.458
・「人はその持っているモノとともに、そのモノに喚起される形でポテンシャルな過去と未来を記憶と構想という形で同時にひきずっているのである。人間存在というのは、そのような時空と次元(リアルとポテンシャル)を超えた広がりとしてある。その意味で、そのようなモノもその人の一部なのだ。  「捨てる技術」を安易に行使して、モノをどんどん捨てていくことは、そのようなポテンシャルを切り捨てるということなのだ。自己を切り落すということなのだ。」p.461
・「個体だけではない。社会も無駄な部分をいっぱいかかえたポテンシャルの高い社会のほうがよりよく生きることができるのである。個人の生だって同じことだ。『「捨てる!」技術』なんかに騙されずにゴテゴテしたものを引きずったまま生きる人生のほうがはるかにいい人生なのである。」p.463

《チェック本》
・エリザベス・M・トーマス『猫たちの隠された生活』草思社
・朝日ジャーナル編『大江戸曼陀羅』朝日新聞社

《関連記事》
【本】ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎論(2006.12.6)
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【本】コミュニケーション力

2010年03月09日 18時00分26秒 | 読書記録
コミュニケーション力, 齋藤孝, 岩波新書(新赤版)915, 2004年
・自らの "コミュニケーション力" に自信が無く、このような題の書にひかれる傾向が有る。しかし本書を開いてみても、著者の "コミュニケーション力" を人間の至上のテーマとする持論が歯切れよく展開されていてなかなか興味深い内容ではあるが、自らの "症状" とはどうも上手く当てはまらない。自己分析してみると、「コミュニケーション力に自信が無い」とは言い換えると「世間話が出来ない・話が続かない」ということで、まだ一対一ではどうにかなるが三名以上になるとお手上げといった状態。何か話を思いついても、既に話題は別なところへ飛んでいるという場面に多々遭遇する。一対一では自分の言葉を相手が待ってくれるために会話が成立するが、三名以上ではその会話の流れに乗れずに取り残されてしまう。この事から、問題なのは話のネタが無いわけではなく、『話のテンポが遅い』ことが "コミュニケーション力" に不満を抱く主な原因と考えられる。酒が入るとある程度饒舌になるところを見ると、『頭の回転が鈍い』のとはまた別な話で、何らかの心理的障壁が問題になっているのではないか。子供の頃はなんともなかったのに、中学に入った頃からだんだんと今の傾向に近づいてきたこともそれに関連しているものと思われる。結論:『心理的障壁を取り除き、会話のテンポがみるみるアップ!!』 求めるのはそんな本。
・「コミュニケーションとは何か。それは、端的に言って、意味や感情をやりとりする行為である。一方通行で情報が流れるだけでは、コミュニケーションとは呼ばない。」p.2
・「意味と感情――この二つの要素をつかまえておけば、コミュニケーションの中心を外すことはない。」p.3
・「コミュニケーション力とは、意味を的確につかみ、感情を理解し合う力のことである。」p.4
・「論理的な能力を駆使して、論点をごまかし、相手を言い負かすことは、習熟してみればさほど難しいことではない。」p.9
・「本当に求められている能力は、相手の言いたいことを的確につかむ能力である。要約力と言ってもいい。」p.10
・「向き合って唾を飛ばし合い戦い合うイメージではなく、斜め四五度で向き合い、相手を半分見つつも、もう半分の意識では供に未来を見ている。前方を供に見ながら、対話を積み重ねる。その斜め四五度のポジショニングが、コミュニケーションの基本型である(図2参照)。」p.13
・「理想的なコミュニケーションとはどういうものか。私は、クリエイティブな関係性だと思う。クリエイティブとは、新しい意味がお互いの間に生まれるということである。」p.13
・「対話力がある人と話すと、アイディアが生まれやすい。そうした人を会話のパートナーにして、クリエイティブな対話の感覚を積み上げていくことが、コミュニケーション力向上の王道である。」p.17
・「文章を書くという作業は、自分自身と対話する作業である。自分でも忘れていることを思い出し、思考を掘り下げる。」p.18
・「すなわち、コミュニケーション力とは、一言で言えば、「文脈力」なのである。」p.22
・「文脈力のある人間は、話の分岐点を記憶している。したがって会話の迷子になることはほとんどない。対照的に文脈力の足りない人は、迷子になると戻れないか、迷子になったことさえも気づかない。まして対話の相手が道に迷っているときに、手を取り案内することなどはできない。  私が考えるコミュニケーション力の中心は、この文脈力である。通常、日本人は日本語で会話ができていると思っている。しかし、そのレベルにははっきりとした差がある。」p.29
・「文脈力をつけるにはどうしたらよいのか。文脈力があまりなくとも、文脈をつかまえた会話をするにはどうしたらよいのか。この二つの問いに対しては、同じ一つの答えを用意できる。  それは、会話の最中にメモをとることである。」p.30
・「総じて、文脈力がある人ほどメモを大事にする。文脈力があるからメモをとらなくてもいい、ということではない。メモを重要視することが、すでに文脈力を重視していることを意味しているのだ。これに対し、自分の話題ばかりを自己中心的に話し続ける人は、ほぼ例外なくメモの習慣がない。」p.33
・「会話の最中にメモをとるのに、私は青・赤・緑の三色が入っているボールペンをつかう。黒は基本的に用いない。色の分け方は、こうだ。相手の話の中で、「まあ大事」だと思ったところを青、「すごく大事」だと思ったところを赤でメモする。緑は、自分がおもいついたことをメモする。  こうすることで、相手の話を取り外すことは少なくなる。要約することもできやすい。」p.35
・「私は個人的に、ある人がぼけているかどうかの判断基準として、相手と話を絡ませて会話を続けることができるかどうかという点をチェックポイントにしている。」p.43
・「コミュニケーション力をはかる基準としては、話す相手が幅広いという基準も挙げることができる。誰か特定の人間としか話せないとなると、コミュニケーション力は低い。」p.44
・「誰とでもすぐに世間話ができる。これは重要なコミュニケーション力である。」p.45
・「家族であるからには、コミュニケーションする、いわば義務がある。経済的に完全に独立しているのならば、一人暮らしをすればいいわけだが、経済的に親に依存している以上、親とはコミュニケーションする義務がある、と私は考える。」p.50
・「近年、コミュニケーション力の全体が衰えてきているというわけではない。著しく衰退しているのは、身体次元のコミュニケーションなのである。」p.98
・「「エネルギーは、出せば出すほど湧いてくる」  これは私がつくった標語のようなものだ。コミュニケーション力のある人は、子どもの頃思い切り遊んできた人ではないか、と思うことがある。どことなくエネルギーが外に向かって放たれているのだ。」p.125
・「私は教師を仕事にしているが、基本的に心がけているのは常に上機嫌でいるということだ。叱るときでさえも上機嫌である。」p.128
・「コミュニケーションの基本かつ奥義は、「沿いつつずらす」ことである。」p.136
・「偏愛マップを使ったコミュニケーションを行ってみると、コミュニケーションが苦手な人などいないと思えてくる。まったく何の難しさもない。人と人は、ちょっとした工夫さえあれば笑顔で楽しく誰とでも話ができるものなのだ。」p.139
・「「人の話を聞いたという証は、その話を再生できるということである」――この原則を共有することで、コミュニケーション力のレベルは桁違いに高くなるはずである。」p.146
・「「すべてのトラブルは、具体的なアイディアによってのみ乗り越えることができる」――一度そう考えてみることで、考え方や会議の質は格段に変わる。あれこれと議論することでは、現実は変わらない。」p.153
・「「ネガティブな意見を言っている暇があったら、アイディアを出せ!」  これを標語にして日本中の会議室の壁に貼りつけたい――まじめにそう思っている。」p.156
・「日本人のプレゼンテーションの弱点は、本題に入るまでに手間取るということだ。前置きが長い。」p.164
・「コメント力の向上は、現代社会では重要な課題である。コミュニケーションの場においても、実はコメント力が大きな比重を占める。」p.168
・「優れたコメントの基本は、目の付け所のよさである。他の人が見ていそうもないポイントに目を光らせる。それが瑣末なことであっても、それなりにおもしろいコメントになる。ましてそれが本質にかかわるポイントであれば、他の人の目を開かせることになる。「ああ、そう言われてみればたしかに」と感心させることができれば、名コメントだ。」p.169
・「「具体的かつ本質的」というのが、いいコメントやいい質問の基本的な条件だ。」p.173
・「自分一人ですべてやりきってしまい「心の自給自足経済」に入ってしまっている人は、コミュニケーションの必要が少ない。欠けていたり、過剰で始末に困っていたりと、心の過不足があるからこそ、コミュニケーションがおもしろくなるのだ。」p.179
・「隙のない人と話しているのは意外につまらない。上司や先生と言われる立場にある人は、弱みや隙を見せまいとして、かえってコミュニケーションの機会を減らしている。」p.180
・「コミュニケーションを通じて、人は生きる意欲を湧かせている。コミュニケーションこそが、生命力の源なのだ。川が、流れることによって川であるように、人は感情や意思を他と交流させることで人であり続けられる。コミュニケーションという営為は、人間の根幹をなしている。」p.202
・「エネルギーにあふれた反応のいい身体と、文脈力のある知性。この二つの柱があれば、コミュニケーション力は万全だ。」p.205
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【本】R62号の発明・鉛の卵

2010年02月23日 19時29分15秒 | 読書記録
R62号の発明・鉛の卵, 安部公房, 新潮文庫 あ-4-9(2203), 1974年
・安部公房の短編集。『R62号の発明』、『パニック』、『犬』、『変形の記録』、『死んだ娘が歌った』、『盲腸』、『棒』、『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』、『鍵』、『耳の値段』、『鏡と呼子』、『鉛の卵』の計12編収録。全体的に星新一のショートショート的香りのする作品群。とは言ってもどれも昭和30年(1955年)前後の、星新一よりも早い時代のものですが。
●『R62号の発明』
・「Rというのはロボットの略字だと言った草井の言葉が、草むらに逃込んだ蛇のしっぽのようにちらついた。」p.16
●『変形の記録』
・「文明人ほどよく笑い、原始的な人間ほどよく泣くと、誰かがいったような気がするが、まあよろしい。」p.89
●『死んだ娘が歌った……』
・「東京には、数えきれないくらいの人がいて、数えきれないくらいの町があるのに、どの人もどの町も、見分けがつかないほどよく似ていて、いくら歩いても、同じところにじっとしているような気がして、ちょうど海のような町なのです。どこにいても、いつでも、みんなが道に迷っているのです。」p.104
●『盲腸』
・「ある新学説の試験台として、Kが自分の盲腸のあとに羊の盲腸を移植する手術をうけてから、ちょうど三ヶ月目のことだ。」p.124
・「「猿の群の中で、はじめて人間になったものは、いったいどんな気持がしただろうか、私はよく、その最初の人間について考えたりする」」p.135
●『棒』
・「落ちるときそうなったのか、そうなって落ちたのかは、はっきりしないが、気がつくと私は一本の棒になっていた。太からず、細からず、ちょうど手頃な、一メートルほどのまっすぐな棒切れだ。」p.145
●『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』
・「私らが生きたままの君たちに食慾を感じるだなんて……いいかい、私らが君たちを食用に供するのと同じように君たちはブタや牛を食べるね。しかし君たちだって生きているブタに食慾を感じたりすることはないだろう。むしろ、同じ生物としての愛情をさえ感じるはずだ。私らの君たちに対する感情だって同じことなんだよ。ソーセージや切身になった君たちと、生きている君たちとを、同じにあつかうほど私らは無神経ではないからねえ」p.156
●解説(渡辺広士)
・「小説というフィクショナルな装置で作者が実行しているのは、今日の人間が疑わずに持っている諸観念の大胆な検証ということである。それを目的として、大胆な未知数と関数関係を立て、方程式を見出してそれを解いていく装置と道筋が、安部公房にとっての小説なのである。」p.291
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【本】知の編集術 発想・思考を生み出す技法

2010年02月17日 18時00分05秒 | 読書記録
知の編集術 発想・思考を生み出す技法, 松岡正剛, 講談社現代新書 1485, 2000年
・興味ある本について検索をかけると、同著者のブログがひっかかることが度々あり、どういう人物なのかと気にかかっていたところ、今回その著作を初めて読んでみました。
・本書の主張は「人間の営みは全て "編集" だ」というもの。著者自らが発案した「編集工学」を紹介する内容です。世の中をこういう角度から見る見方もあるのかと、かなり興味深い論が展開されているのですが、「面白そう。さて、自分もやってみよう」となると途端に手が止まってしまいます。やはり新たな技術を取り入れるのには、それなりの訓練が必要。そんな人のためには、なんと "学校" まで開設しているというのだから至れり尽せりです。
★ISIS編集学校 http://es.isis.ne.jp/
・「このように、われわれのまわりにはさまざまな情報がいっぱい満ちていて、その情報がハダカのままにいることなく編集されているのですが、では、どのように編集されているかというと、これがなかなか取り出せません。  そこで、これらをいくつかまとめて取り出して、その取り出した方法をさまざまな場面や局面にいかすようにしてみようというのが、「編集術」になります。また、そのようなことをあれこれ研究して、そのプロセスを公開することを「編集工学」(エディトリアル・エンジニアリング)といいます。」p.7
・「このような時代と世代をこえて伝わる文化的なるものの伝承性や波及性を、最近は「文化遺伝子」とか「ミーム」(meme)ということがある。」p.19
・「そこで文脈の編集を自分でやってみる。変化をつけてみる。隠れた文脈を発見したり、新たな文脈を挿入してみるわけである。私がとくに勧めるのは、新たな句読点を打ってみることだ。」p.22
・「編集の基本的な技法のひとつに「情報の地と図をつくる」ということがある。  「地」(ground)というのは情報の地模様のことで、「図」(figure)というのは情報の図柄のことをいう。情報といっても、そこには地模様もあれば図柄もあって、これらが組み合わさって情報になっている。」p.27
・「『知の編集術』などという、いささか実用書のようなタイトルがついているために、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』や野口悠紀雄さんの『「超」整理法』のようなノウハウを期待される読者も多いかもしれない。  それはおおいに期待してくださって結構である。そういう面もある。ただし、編集術は整理術ではない。情報を創発するための技術なのである。」p.37
・「私は二十一世紀は「方法の時代」になるだろうと考えている。ここで「方法」といっているのは、「主題の時代」ではないという意味だ。」p.38
・「世の中では、方法はおおむね縁の下に隠れ、だいたいは主題や主人公のほうが前面に出ているものなのだ。私は主題や論題そのものよりも、その主題を支える方法やその論題の見えかたのほうにずっと関心があったのだが、ふつうはこういうことはない。私の見方はながらくマイナーだったのだ。」p.44
・「こんなことを書くと結論めくが、編集でいちばん大事なことは、さまざまな事実や事態や現象を別々に放っておかないで、それらの「あいだ」にひそむ関係を発見することにある。そしてこれらをじっくりつなげていくことにある。(中略)私はこのような方法こそが、これからの人間の認知や意識のしくみにとっても、産業界や教育界にとっても、また自分の創発的な能力を開拓するためにも、かけがえのないものになりうるとおもっている。つまり私は本書を語っていくなかで、「方法が世界の内実そのものだ」ということを伝えてみたいのである。」p.46
・「遊びの本質は編集にある。  ということは、逆に、編集の本質も遊びにあるということなのである。」p.57
・「カイヨワもホイジンガも「現代文明が遊びの喪失によって堕落している」ということを指摘した遊学者であった。しかし私は、カイヨワの見方やホイジンガの見かたには、まだ「情報」というものが欠けているとおもう。遊びは情報ゲームであって、したがって情報編集ゲームでもあるからだ。」p.63
・「動かない知識や止まっている思想というものは、それは情報ではない。そういう情報は死んでいる。知識や思想を動かしているとき、そこに編集がある。」p.79
・「ある量の情報内容をなんらかの方法でできるかぎり短く集約することを、編集工学では「キーノート・エディティング」(要約編集)という。いわゆる「まとめ」「概括」という作業だ。」p.98
・「では、もっと簡潔に要約するにはどうしたらいいだろうか。  箇条書きにしてみることだ。箇条書きは法律の条文のようで、味も素っ気もないようだが、キーノート・エディティングの王道である。短文がならび、文節が明確になり、なんといってもメッセージが順番に見えてくるのがよい。この順番性が大きい。」p.101
・「専門家に聞いたところでは、ラーメン屋をラーメン屋っぽくなくすると、とたんに流行らなくなるらしい。なぜだかわからないが、赤い暖簾に白ヌキで○○ラーメンと染め抜かないと、とたんに客の足が遠のくのだと聞いた。」p.107
・「編集術とは、われわれがどのように世界とかかわるかという「方法」に目を凝らそうという、いわば「気がつかなかった方法を気づくための方法」というものである。  もうすこし突っこんでいえば、世界をすべからく情報世界とみなし、その情報を「すでに編集されている部分」と「編集されにくかった部分」とに分け、その両者を串刺しにして通観できる方法を自在に明示化してみようというものだ。」p.156
・「編集もオリジナリティにこだわらない。むしろ何がオリジナリティかを疑っている。だいいち、オリジナリティなど信奉していたら、編集は一歩も前に進まない。」p.210
・「新聞のヘッドラインというものはたいへんよくできている。プロの編集術とはどういうものかもわかる。まさに要約編集術のお手本といってよい。ただし、いくら新聞を毎朝毎夕見ていても、その編集術はわからない。」p.214
・「だいたい見当がついたとおもうが、ともかく「柔らかい編集」をこころがけることである。ゆめゆめ正解を求めるものではないし、最初からオリジナリティを発揮しようなどとはおもわないことだ。」p.224
・「世の中にしばしば「速読術」めいたものが出回っているが、私はあまりお薦めしない。  私もかなりのスピードで読書をするので、ときどきその手のノウハウ本を読んでみるが、一部をのぞいてほとんどノウハウにならないようなことばかりが書いてある。なかで、まだしもましなのは具体的に長めの文章が載せてあって、これをいろいろ算段して読むようになっているものだが、それも結局は何度も集中した読みかたをしていれば、だんだん速くなるという原則にもとづいている。」p.226

《チェック本》
・米原万里『不実な美女か貞淑な醜女か』新潮文庫
・板坂元『日本人の論理構造』講談社現代新書

?とひ【都鄙】 1 都会と田舎。また、それぞれに住む人やその風俗。または、国中。国。   2 特に京都と鎌倉をさしていう。
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【本】死ぬ瞬間 死とその過程について

2010年02月04日 22時01分09秒 | 読書記録
死ぬ瞬間 死とその過程について, E.キューブラー・ロス (訳)鈴木晶, 中公文庫 キ-5-1, 2001年
(ON DEATH AND DYING, Elisabeth Kubler-Ross,1969)

・"死" を間近に控えた主にガン患者へのインタビューと、そこから得られた知見について。それまで病院においても忌避とされてきた "死" に対して正面から向きあうことで話題となり、後には終末医療に関わる者にとっての "聖書" とまで呼ばれるようになった本。自身、各種の本を読んでいて、「一番頻度が高いのではないか」と思われるほどあちこちで引用されているのを見かけ、ずっと気になっていた本だったが、購入から3年以上経ってようやく陽の目を見ることに。しかし、直後にその内容が骨身に沁みる状況に陥ろうとは、本書を手に取った時には夢にも思わなかった。なんというタイミング。なんという偶然。
・このような本を読んだからといって、死への恐怖が拭われるかというと……とてもムリムリ。
・「私はこれまで二年半にわたって瀕死患者と関わってきた。この本はその経験の初期のころについて語ることになる。この経験は、それに関わったすべての人にとって有意義で、教えられるところの多いものだった。この本は、瀕死患者をどう扱うかという教科書として書かれたものではないし、瀕死患者の心理の包括的な研究を目指したものでもない。この本はたんに、患者を一人の人間として見直し、彼らを会話へと誘い、病院における患者管理の長所と欠点を彼らから学ぶという、刺激にみちた新奇な経験の記録にすぎない。」p.6
・「危険から守られることを祈るのではなく、
恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。
痛みが鎮まることを祈るのではなく、
痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。
人生という戦場における盟友を求めるのではなく、
ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。
恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、
ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。
成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、
自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、そんな人間になれますように。
ルビンドラナート・タゴール  『果実採り』より
」p.13
・「過去を振り返り、昔の文化や人間を研究してみて驚くのは、死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり、今後もつねにそうでありつづけるだろうということである。精神科医の立場からすると、それはよく理解できる。そのような考え方がどこから生まれるかといえば、私たちは無意識のうちに「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだ。」p.15
・「私たちは種々の束縛からかなり解放され、科学や人間についての知識を得たおかげで、自分自身も家族も、よりよい方法、手段で死の準備ができるようになったかもしれない。しかし、反面、人が自分の家で安らかに尊厳をもって死ぬことができる時代は過去のものとなった。  科学が発達すればするほど、私たちはますます死の現実を恐れ、認めようとしなくなる。それはなぜなのか。」p.22
・「たぶんこういう質問が出るはずだ――「私たちは人間性を失ったのだろうか、それとも、人間性を増したのだろうか?」本書でその審判を下すつもりはないが、答えがそのどちらにせよ、患者の苦痛、それも肉体的苦痛ではなく感情的苦痛がより大きくなったことは確かである。患者の要求は何世紀も前から変わっていない。変わったのは、それを満たす私たちの能力のほうである。」p.26
・「矛盾するように聞こえるかもしれないが、社会が死を否認する方向にすすんだのにたいし、宗教は、死後の生、すなわち不死を信じる人びとを多く失い、その意味で死を認める方向へとすすんだのである。」p.34
・「絶望し苦悩している患者を見ただけで逃げだしたりせず、みんなが協力すれば、そうした失われた機能の多くは活用できるのだ。私が言いたいのは、患者を機械に縛って植物状態にしておくのではなく、彼が人間らしく生きる手助けをすることによって、人間らしく死ぬ手助けができるということである。」p.42
・「経験から、討論がじつに多くの目的に役立つことがわかった。なかでも、死を他人事と考えるのではなく、じぶんにも現実に起こりうるものとみなさなくてはいけないのだということを、学生たちに気づかせるうえで大いに役立った。さらに、討論が死に対するアレルギーを軽減するための有意義な方法であることもわかった。しかしこれは長くて苦しい過程である。」p.50
・「どれだけ生きられるかはだれにもわからないと率直に言うべきだ。あと何か月とか何年とか具体的な数字を示すのは最悪の対応で、どんなに精神的に強い患者に対しても行うべきではない。」p.55
・「自分はいつでも死ぬ覚悟ができていると公言する者も含めて、患者ならだれでも希望を捨てない。私たちのインタビューで明らかになったことは、すべての患者がもっと生きられるという可能性を信じていたことだ。どんなときでも、もう生きる望みはない、という者は一人もいなかった。  どのように告知されたかと患者に質問してわかったことは、はっきりつげられたかどうかにかかわらず、自分が致命的な病気であることを患者全員が知っていたということである。」p.56
・「したがって以上を要約すれば、問題は「患者に告げるべきか」ではなく、「患者にどう告げるべきか」でなければならない。」p.64
・「私たちは死に瀕している患者に百人以上にインタビューをしたが、ほとんどの人は不治の病であることを知ったとき、はじめは「いや、私のことじゃない。そんなことがあるはずがない」と思ったという。」p.68
・「結局、死に対する自分自身の強迫観念にきちんと対応してきたセラピストだけが、患者が迫りくる死に対する不安と恐怖を克服するのを粘り強く愛情をもって助けるという役目を果たすことができるのだ。」p.81
・「このような状況に置かれたときにいちばん惨めなのは、金持ち、成功をおさめた人、支配欲のつよいVIPだろう。自分の人生を快適にしてくれていたものを失ってしまったからだ。私たちは死ぬときにはみな同じなのだが、O氏のような人はそれを認めることができない。最後までそれと戦い、死を人生の最終結果として謙虚に受けとめるチャンスを逃してしまう。彼らは拒絶と怒りを爆発させるが、それによってだれよりも絶望的になってしまうのだ。」p.97
・「患者 個人レベルの話をしているのではありません。とにかく看護婦たちに、痛みに対する理解がないのです。
医師 痛みの問題があなたにとって、いちばんのもんだいなのですね。
患者 そうですね、私が知っているガン患者にとってはそれ以上の問題はありませんでした。
」p.112
・「健康であれば、人を必要とすることもありません。怖いのは一人で死ぬことではなく、拷問のような痛みなのです。髪の毛を引きむしりたくなるほどの痛みです。あまりにおっくうで何日もお風呂にもはいらなくても平気なことがありますよね。そんなふうに、だんだん人間らしさを失うような気がするんです。」p.119
・「つまり、私は本当の宗教をもっていなかったんです。他人の信仰を語っていたにすぎなかったのですね。」p.123
・「だって、人はいつ牧師を必要とすると思いますか。夜だけですよ。夜こそ人はひとりぼっちで苦しみに立ち向かい、闘わなければならないんです。そういうときにこそ牧師さんに来てもらいたいのです。たいていは、夜の十二時ごろから、そうですね……。」p.179
・「前述したように、患者たちは、黙って話を聞いてくれる人がそばにいて、怒りを吐き出し、行く末の悲しみに泣き、恐怖や幻想を語るように促されると、すんなりと死を受容するものである。私たちは、患者がこの受容の段階に到達するまでにどれほどの試練を要し、やがて双方向のコミュニケーションが成立しなくなる「エネルギー喪失(デカテクシス)」にいたるかを認識しておくべきである。」p.202
・「死について語るのを避けることは患者にとってより有害であると私は確信している。時間を割き、時を見計らって患者の傍に座り、話を聞いてあげたり気持ちを分かち合ったりすることのほうが、患者にとってずっと助けになる。」p.238
・「この本を読んだ末期患者の家族や病院関係者が、死に臨む患者の暗黙の訴えかけにもっと敏感になれば、それだけでこの本は役割を十分に果たしたといえるだろう。」p.238
・「患者の死後、家族に対して神の愛を語ることは残酷だし不適当である。家族のだれかを失ったとき、とくに覚悟する時間がほとんどなかった場合、人は怒り、絶望する。このような感情は表に出させてやらなかればならない。」p.289
・「読者にお伝えすることができないのは、こうした会話の中で当事者たちが実際に経験する部分だ。そこには、患者と医師、医師と牧師あるいは患者と牧師、それぞれの間に流れていく、言葉によらない会話が数多くある。ため息、うるんだ目、微笑み、手の動き、うつろな目、大きく見開いた目、伸ばされた両手……どれもこれも言葉以上にその気持ちを伝えてくれるものである。」p.297
・「医師 医者が余命を教えるなんてできないことは、ご存知ですよね。医者にだってわかりませんしね……確かに、患者のためを思ったつもりで、だいたいのことを言ってくれる医者もいるかもしれませんが、それを聞いたためにひどく落ち込んで、それからは一日として楽しく生きられないという患者もいるんですよ。」p.321
・「医師 残念なことを伝えるには、冷淡でつきはなした態度をとるしかないこともあるんです。
母親 それもそうですが。お医者さんはこういうことで感情的になっていられないし、感情的になるべきではないのかもしれません。それでも、言い方ってものがあるような気がします。
」p.342
・「牧師 でも頼られるばかりではなくて、あなた自身が悩みを打ちあけたり、慰めてもらえるような相手はほしくないのだろうか、ってときどき思うんですが。
患者 慰めが必要だなんて思いませんわ、牧師さん。それに同情なんて、まっぴらごめんです。同情されるべきだなんて、思っていないのですから。私にはこぼすようなつらいことは、何もなかったという気がします。
」p.390
・「このミーティングで、彼女たちは、末期患者の看護がいやでたまらないと口々に言った。目の前で死なれると、患者が看護婦たちに面当てをしているように思えるので、そうした腹立たしさも入り混じっていた。  なぜこのような気持ちになるのか、この看護婦たちは理解するようになっていった。そして今では、末期患者を苦痛にあえぐ人間として扱い、同室のさほど重体ではない患者に対する以上に行き届いた看護ができている。」p.412
・「私が言わんとすることは、動機や理由は異なっていても、セミナーに対する患者の反応はすべて積極的であった、ということである。」p.424
・「患者たちから学んだことを簡潔にまとめてみると、私から見ていちばん印象的なのは、自分の病気について知らされているいないにかかわらず、患者はみな病気が重いと気づいていたことである。しかし必ずしもそれを医師や家族に話すわけではない。」p.428
・「このセミナーでもっとも驚くべき点は、死そのものについてほとんど話さなかったことだろうと、ある学生が論文に書いている。死は死にいたる過程が終わる瞬間にすぎない、と言ったのはモンテーニュではなかったか。患者にとって死そのものは問題ではなく、死ぬことを恐れるのは、それに伴う絶望感や無力感、孤独感のためであるということがわかった。」p.435
・「これまで述べてきたことからわかるように、末期患者には非常に特別な要求がある。それは、私たちが座って耳を傾け、それが何なのかをはっきりさせれば満たされる。おそらくもっとも重要なのは、こちらにはいつでも患者の不安を聞く用意があると伝えることだろう。死を迎える患者と向き合うには、経験からしか生まれないある種の成熟が要求される。不安のない落ち着いた心で末期患者の傍らに座るためには、死と死の過程に対する自らの姿勢をよく考えなくてはならない。」p.438
・「私たちはつねづね、末期患者だけの集団療法が必要ではないだろうかと思っている。患者たちは寂しさや孤独感を共有していることが多いからだ。病院で末期患者に接する仕事をする人びとは、患者同士が相互に影響を与え合っていること、重篤患者同士の会話の中には互いにとって助言となることが多く含まれていることにはっきりと気づいている。」p.444
・「「言葉をこえる沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情をもった人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏やかな停止であることがわかるだろう。人間の穏やかな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中のひとつが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。」p.448
・訳者あとがきより「原書のタイトルを直訳すれば、『死とその過程について』となる。死とは長い過程であって特定の瞬間ではない、というのが著者の基本主張である。しかし『死ぬ瞬間』という邦題はすでに人口に膾炙しており、変更は混乱を招くことになると判断し、原題は副題として掲げることにして、タイトルそのものは旧邦題を踏襲した。」p.450
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【本】呼吸の奥義 なぜ「吐く息」が大切なのか

2010年01月27日 22時00分48秒 | 読書記録
呼吸の奥義 なぜ「吐く息」が大切なのか, 永田晟, 講談社ブルーバックス B-1313, 2000年
・呼吸のイロハについて。"奥義" などと仰々しい文句がタイトルについているが、内容は至って平凡。呼吸の仕組み、スポーツと呼吸、健康と呼吸などをテーマに浅く広く語られている。最終章の『呼吸運動のトレーニング』に興味があったがちょっとした紹介にとどまり、物足りない内容。しかし、これをきっかけに "呼吸" に興味を持つことに。
・深呼吸の方法の「まず吐くこと」には目からウロコ。また、「全身に金粉を塗ったままにしておくと皮膚呼吸が出来なくなって死んでしまう」という俗説も信じ込んでいた口でした。
・「私はこれを機会に、気功の動作を分析し、その効果と機序について少しずつデータを積み重ねてきた。こうして、息を吐き出しつづけることは、とくに副交感神経が優位に働いて自律神経系のバランスを改善し、さらに高次脳神経機能の鎮静化をまねくことがわかってきた。  さらに、正しい呼吸法はストレスに強い心身をつくることも知った。」p.3
・「この「酸素を取り入れ、炭酸ガスを排出するはたらき」が「呼吸」である。  したがって一口に「呼吸」といっても二種類ある。まず、肺のなかで体外の空気(酸素)と体内の血液中の炭酸ガスとを交換する「肺(外)呼吸」。もう一つは、体内の各臓器や末端の組織(末梢組織)で、毛細血管中の血液と細胞との間でおこなう「組織(内)呼吸」である(1-1)。  この内外の呼吸を合わせ、酸素や炭酸ガスを中心としたガス(気体)循環と流れの過程を総称して「呼吸」と定義している。」p.16
・「皮膚呼吸では、水に溶けこんでいる空気との間でガス交換をする動物もいる。ヒトでは皮膚呼吸はおこなわれていないが、湿布や貼り薬、塗り薬でもわかるように、皮膚を通した吸収や代謝は見られる。」p.16
・「胸郭を囲む骨組みの前後・左右の動きによって、胸郭の容積を増減させるのが胸式呼吸である。これに対して横隔膜を収縮して短く(押し下げる)したり、ゆるませて長くする(押し上げる)ことによって胸郭の容積を上下方向に増減させるのが腹式呼吸である。」p.24
・「血液中のガスの酸素構成比率は動脈血では約19~20パーセント、静脈血では約13~15パーセントになる。この差の4~7パーセントが、末梢の組織や臓器で消費されたことになる。あまり効率はよくないといえる。」p.50
・「シドニー・オリンピックで金メダルを獲得したマラソンの高橋尚子選手は、普段の心拍数が一分間で約35だという。一般人は約70だから、その半分。つまり一回の拍動で二倍の血液を送り出せるようになっている。」p.57
・「筋力のコントロールは、本来、中枢神経の支配、すなわち意識的なはたらきである。しかし息を止めることで、筋収縮が自律神経にも支配されるようになり、意識して出せる力(心理的限界)以上に筋肉が収縮し、パワーを発揮するのである。」p.59
・「もう一つわかったことは、ブラッドシフトが起きることである。これは、血液が全身にまんべんなく巡るのではなく、心臓や脳など重要な部分に集中する現象で、これによって酸素消費量を極端に少なくできる。」p.74
・「最大の瞬発力を出そうとしたり、技をしかけようとする直前は、すべて息を吐く状態(呼息相)で、決して息を吸う状態(吸息相)ではない。」p.84
・「合気道は古い柔術の流れをくむもので、さまざまな流派の技を取り入れながら発展し、昭和19年に合気道と称するようになった。」p.85
・「つまりあくびによる自然な深呼吸は、ガス交換を促すためというより、笑筋の筋紡錘から、脳へ覚醒のシグナルを送ることが目的のようである。」p.123
・「深呼吸というと、空気をたくさん吸い込むことだと思ってしまいがちだが、これは間違い。健康と自律神経機能のバランス(安定性)から見れば、むしろ空気を吐き出すことが大切である。つまり新鮮な空気を体内に取り込むことでなく、体内の酸素濃度の薄い空気を吐き出し、結果として外気を取り込むことにつながるのである。  伝統医学としての気功やヨーガの深呼吸も、すべて息を吐くことが強調されている。」p.152
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