ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】聖書の名句・名言

2009年01月22日 08時03分15秒 | 読書記録2009
聖書の名句・名言, 千代崎秀雄, 講談社現代新書 880, 1987年
・聖書といえばその昔、通読を試みて全く歯が立たなかった覚えがあります。そんな私にとっても易しく読める入門書。「こんなにハジけてるのも珍しい」というくらいユーモアたっぷりです。他の入門書を読み比べたことはありませんが、聖書の "ことば" を易しく噛み砕いて説明している点ではかなり優れた書ではないかと思います(しかし現在絶版)。「聖書のつまみ食い」に好適。裏を返せば、「聖書の全体を俯瞰したい」という用途には不向きかもしれません。
・「聖句の引用は、特記したもの以外はすべて『新改訳聖書』によった。」p.4
・「人間は「ことば」によって、生かされもするし、ダメにもなる。人間にとって「ことば」とは、このうえもなく重要なものだ。」p.7
・「常識的には、人間が地上に出現してはじめて言語が発生した、と考えられている。だが聖書では、「ことば」の起源を "人間ではなく"、神におく。  人類誕生以前に「ことば」があった。ということは、この「ことば」の背後に存在する「理性・意思」が、つまり「人格」があった。その神秘的な人格は《神とともにあった》のみか、神そのものでさえあった――というのが、ヨハネ福音書の書き出し。つまり、「ことば」の神的起源!」p.8
・「心の食物、それは「ことば」である。――という命題は、比較的理解しやすいであろう。  人は「ことば」を摂取して、人間として成長していく。その「ことば」の良否が、その人の人格形成を左右する。」p.10
・「聖書は教会の専有物ではない。一般にもよく読まれる。しかし、新約聖書のひろい読み程度で、旧約聖書となると最初の書、創世記あたりはマアそれなりにおもしろいが、第三の書レビ記に入ることには、"もうアカン、歯が立たない" と投げ出すかたが大部分。」p.14
・「したがって、この本でとりあげることばは、かならずしも一般に知られているものばかりではないことを、ご了承いただきたい。個々の、断片的な名句の紹介というよりは、なるべく聖書の全体像が把握されるように、その線にそって「人をいかすことば」をクローズアップすることが、この小著のねらいである。」p.15
・「創世記の創造記事をみるとき、そこにみられるいちじるしい特徴は、神による創造のみわざが、ただ神の「ことば」のみによってなされる、という点である。  《仰せられた。するとそのようになった》と、創造記事にはこの句がくりかえされる(創世記一9ほか)  神の「ことば」は必ず成る――ここには、神の全能に対するとともに、神の誠実に対する信仰、信頼が表明されている。」p.20
・「現代ふうに表現すれば、ご自身が生きた人格である神は、人格的存在として人間を創造され、「ことば」によって人間が神とまじわり、ほかの人間と交流(コミュニケーション)をもちうるものとして造られた――ということになろう。」p.22
・「人間だけは、自分の行動を選びとる自由がある存在であり、それにしたがって<責任>がともなう。この<自由>と<責任>は、とくに「ことば」によって明確になる。人間が人格的存在であるとは、このようなことをいう。」p.24
・「俗に「知恵の木の実」などとあやまり称されて、これを食べるまえの人間は "無知の幸福" の状態だった、といったふうなシタリ顔の解説もあるようだが、これも聖書への誤解の一例。命名の件は、右の怪説のあやまりをあきらかにする。  この木のただしい名は《善悪の知識の木》である。」p.27
・「とくに、重要な立場にある人の言葉についてこれをやられると、おそろしい結果を生じる。あやまったことがらが権威づけられる。そして、人を生かすはずのことばが、人を殺すことばに改悪されてしまう。  "輸血は罪だ" などということを、そのへんのオッサンがいっても、だれも相手にしないから問題はおこらないが、"輸血は罪だと、聖書がそう教えている" などと真剣に主張するのを聞くと、ホントかしら、と、まどわされる人も出てくる。」p.31
・「《主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」》 (創世記 四9)  そうとうにひねくれている。この前後の聖書の記述を読むと、非常に簡潔なかわいた文章ながら、カインの性格のねじけぶりがアリアリと出ている。」p.38
・「聖書を読むと人間理解が(自己理解もふくめて)深まり、また、人間理解が深まることで、よりいっそうよく聖書がわかってくる。」p.38
・「神がみずから名のる固有名詞、それは「わたしはある(I am)」だという。奇妙というか、軽いというか。  日本の神々だと、(中略)おもおもしい漢字がつらなり、荘重なかんじをあたえる。それにくらべて、「わたしはある」という名前は!  だがこれは、わたしたちが軽くかんじるような軽い名前ではない。」p.55
・「(旧約とは、旧(ふる)い「契約」の意味)」p.60 この何気ない注釈が本書中、一番の衝撃でした。「旧約・新約の "約" とはどういう意味か?」考えたこともありませんでした。
・「聖書における契約とは、神とイスラエルの間の、愛の関係の法的表現と理解してよい。」p.61
・「日本語でも元来、「言」は「こと」と読んだ。その下に "小さいもの、軽いもの" を意味する「は(葉、端)をつけて「言葉」となったのだそうである。」」p.81
・「神をほんとうに愛するものは人を愛する。そういう人は悪をおこなわない。いな、おこなえない。  親を愛する子は、親を苦しませない。親にふかく愛されていることを知る子は、そうなる。」p.84
・「「空の鳥を見よ」――これも、かなり知られている聖書の名句だが、やはり山上の説教のなかの一説。(中略)自然に接するとき、人は何かを心に感じ、心を生かされる(リフレッシュされる)ことをおぼえるものだ。同じ鳥でも、カゴのトリや、ヤキトリでは、そうはいかぬ。空を飛び、木の枝にさえずる鳥の姿を見ることが大切である。大都会に住む人でも、心がければこれは実行できる。まったくタダで、しかもまことにすぐれた心身の健康法である。」p.126
・「人間は生来、天動説信奉者である。自分を中心に宇宙がまわっている、と考えることを好む。この「自己中心性」こそ、罪の根源だと聖書は教える。自己中心性に生きるありかたを、聖書では「罪人」という。そして、人間はだれも、生来的に罪人なのだという。」p.146
・「イエスの「ことば」は、私たちの心の奥底にひそむドス黒いものを浮かびあがらせる。そして、それを殺す。とくに、私たちの常識に挑戦し、読むものに抵抗を感じさせるような「ことば」ほど、そのはたらきが強烈である。」p.186
・「「言」も「言葉」も「ことば」も、区別なく同じ意味で一般にはつかわれるが、聖書を読んでみると、区別してつかう必要を感じさせられる。」p.188
・「《イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」》 (ヨハネの福音書 一四6)」p.194
・「《神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである》 (ヨハネの福音書 三16)  もし、旧新約聖書66巻の全内容をたった一つの文章にまとめるとしたら――。  それは、右のヨハネの福音書三章一六節であろう。これこそ、聖書のなかでも最大の「人を生かすことば」といえる。それは私がいうのではなく、ほとんど絶対多数の牧師が、神父が、大多数のクリスチャンが、一致して認めているところなのだ。」p.201
・「《天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない》 (マタイの福音書 二十四35)」p.206
・「川柳は俳句より八百倍もむずかしい、と語ったのは内田百氏だが、この場合の "八百" は、なにしろ百鬼園氏のことだからウソ八百とかけことばになっている可能性が大きい。  それでも、川柳は俳句とちがって、「作者が誰だかそんなことは問題にすることもいらない」「うまいのほど作者が忘れられ、川柳だけがはっきり頭に残る」とは、百先生の名言である(『百鬼園先生よもやま話』旺文社文庫 22ページ)。」p.213
・「《あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか》 (コリント人への手紙I 一五32)  これは、まちがいなく聖書のなかにあることばだが、まちがえてはいけない。このような生活態度は、聖書が奨励するものではなく、むしろ反対で、きびしく戒めているのである。」p.214
・「人を殺すことばでなく、人を生かすことばを、日常生活の、なにげないひとこまのなかでも語れる人が、この日本の社会にひとりでも多くなることを――。」p.221

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