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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】神社の由来がわかる小事典

2009年10月06日 22時01分54秒 | 読書記録2009
神社の由来がわかる小事典, 三橋健, PHP新書 469, 2007年
・神社の定義、歴史、祭神、参拝、建築などについて300頁ほどでコンパクトにまとまった書。巻末に『神社略年表』と索引を収録。
・最近多く訪れるようになった神社についての知識を得たく、本書を購入。このように明確な目的を持って本を買うのは久しぶりのこと。本書により大雑把なことは分かったが、普段から抱く小さな疑問にはあまり答えてくれず、少々不満が残る。「新しい土地に神社を作る時の手続きは?」、「場所の決め方は?」、「言い出しっぺは誰?」、「建設業者はどこにいる?」、「賽銭の行方は?」などなど。「明治以前には神社と寺院の違いはそれほど明確ではなかった」という記述が意外だった。
・書中で紹介される、紀元前を含む古より伝わる由緒ある大きな神社の数々を見ていると無性に行きたくなってしまう。
・「このように、神社といっても多種多様であるので、「神社とは何か」と問われても、これに答えるのは容易ならぬことである。」p.16
・「神社を古くは「もり」と称した。そのことは、『万葉集』に「神社」の二字を「もり」と読んでいることからも明らかである。」p.20
・「「さかき」は神の占有する聖なる空間と人間が住む俗なる空間の境に植えられた境木(境を示す木)である。」p.26
・「「やしろ」という語の意味は諸説がある。一般にいわれているのは、「やしろ」は「や」と「しろ」からなっており、「や」は「弥(永遠に)」であり、「しろ」は「知り」「領り」の古い名詞形で、「域」「代」「代」という意、つまり「やしろ」とは神が領有する地で、そこへは神以外のものが立ち入ることのできない一定の区域である。  また、一説に「やしろ」は「屋代」ともいわれる。「屋」は「建物」のこと、「代」は「そのものの代わりのもの」という意味で、実際に建物を必要としないのであり、「建物の代わりのもの」があればよいとの説である。」p.33
・「なぜ神社のご神体は見ることができないのか、なぜ神前や鳥居などにしめ縄を張ってあるのか、なぜ斎垣(いみがき)をめぐらしているのか、さらには鳥居が建っている理由、榊とそれにつけられた木綿(ゆう)や白香(しらか)、四手(しで)、そして狛犬などの意味を知ることは、所詮、神社の本質を問いただすことになる。」p.34
・「神社(もり・やしろ)も同じことで、人間や鳥獣がみだりに踏み込むことを厳禁とした聖地である。これが神社の本質であり、そのような神社の本質は古代から現代に至るまで不変である。その本質を守るため、神社には榊・しめ縄・鳥居・玉垣などが設けられ、ご神体の披見も厳禁してきたのである。」p.36
・「さほど神社に関心のない人々にとっても、わが国に、いったい全体、どのくらいの数の神社が祭られているのか、その総数を知りたいのは共通的な要素であるらしい。」p.43
・「翌明治27(1894)年は19万802社、同28(1895)年は19万753社と減少を続けたが、同29(1896)年には19万1999社と再び増加した。以後、増減を繰り返すが、同35(1902)年に19万6398社と最高潮に達している。おそらく、これは日本の歴史上でもっとも多い神社数であると思われる。  ところが、それ以降、神社数は減少を続けるのである。その大きな原因は、明治末年の神社合祀によるものである。」p.49
・「そして昭和21(1946)年2月2日に神祇院が廃止され、翌3日には神宮(伊勢神宮)を本宗と仰ぎ、全国の神社を統合包括する宗教法人神社本庁が設立された。そのとき、神社本庁に所属した神社数は8万7218社である。  それでは現在はどうかといえば、詳しい調査報告がなされている。平成14(2002)年7月に神社本庁が発行した『全国神社名簿』によると、全国の神社の総数は7万9116社とある。」p.50
・「ちなみに、神社と寺院の数を比較すると、神社のほうがやや数が多いようである。」p.51
・「神社の格式、すなわち社格は、律令制度下において神祇制度が整備されるに伴って確定されていった。古くは『日本書紀』崇神天皇7年の条に「天社・国社」を定めたとあり、これを社格の始まりとする見方もある。(中略)しかし、このような社格制度は昭和21(1946)年2月に廃止された。」p.59
・「つぎに神名と神号、そして社名と社号について述べておこう。例えば、稲荷大明神、稲荷明神、稲荷神を例として説明すると、「稲荷」が神名、「大明神」「明神」「神」が神号である。神号はその神に与えられた尊称としての呼び名である。(中略)つぎに社名と社号へと視点を移すと、例えば、東京大神宮、熱田神宮、諏訪大社、北野神社、天満宮、稲荷社などさまざまな神社がある。この東京、熱田、諏訪、北野、天満、稲荷を社名といい、大神宮、神宮、大社、神社、宮、社を社号という。」p.60
・「神社の起源については諸説があり、いまだ定説をみない。」p.64
・「ところで、『御成敗式目』は全51ヵ条からなる。第1条には「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」とあり、続いて「神は人の敬ふに依りて威を増し、人は神の徳に依りて運を添ふ、然らば即ち恒例の祭祀陵夷を致さず、如在の礼奠怠慢せしむること莫れ、云々」と述べている。このように神社に修理を加え、祭祀を怠らず執行すべきを第一としている。さらに、神は人が崇敬すればおのずから威勢も強くなり、人は神徳によって運を開くと述べ、恒例の祭祀がすたれないよう、ここに神いますがごとく清浄にし、供物を怠ることがないように祭祀にいそしむべきと定めている。  また、第2条では「寺塔を修造し、仏事を勤行すべき等のこと」と記し、「寺社異なりと雖も、崇敬是れ同じ」と述べている。この条には、寺院と神社とは異なる存在であるが、それらに対する崇敬は同じとある。  つまり、敬神と崇仏とを衆人に示し、それによって国を治めていくことを根本思想としたのであり、その精神は江戸時代に至るまでみられた。」p.85
・「明治元(1868)年、明治政府は神仏分離令を公布した。これによって各地で神官・国学者らが中心となって廃仏毀釈運動が湧き起こり、神社の中の仏像や仏具類が破壊された。」p.88
・「明治時代になると、行政基盤を氏神・氏子区域としたことから、それが制度として固定化する。それ以前の徳川幕府が寺請制度・檀家制度を採用していたのに対して、明治政府はそれに代わる戸籍把握方法として積極的に氏子制を採用した。そして、この制度は国教としての神道を教化するための連動システムとしても機能した。」p.97
・「稲荷神を祭る稲荷神社は、神社の中でもっとも多く、その総数は未詳であるが、四万社以上といわれている。屋敷神や企業神としての稲荷社を含めるとそれこそ無数ということになる。」p.117
・「稲荷神の稲荷は「稲生(いねな)り」の意と説明されるように、稲の神である。」p.118
・「稲荷神のつかわしめ(神使)を狐とすることは広く知られているが、その理由は必ずしも明らかでない。一説に、稲荷神として祭られた食物神の御饌津神(みけつかみ)を「三狐神(みけつかみ)」と解釈したことによるという。」p.120
・「天神は雷神のことであるが、天神信仰といえば、菅原道真に対する信仰を意味する場合が多い。道真は一般に「天神様」と呼ばれている。」p.121
・「ちなみに、雷が鳴りだしたら、自分のところへ落ちないように「くわばら、くわばら」と唱えるのは、道真の屋敷跡が桑の原になっていて、そこだけは落雷したことがないという説話に基づく一種の呪文である。」p.122
・「「祈年」の「年」は、豊年の「年」と同意であり、その年の穀物がみのること、つまり「稔」の意味である。」p.136
・「しかしながら、死者の国は生者の国でもある。そのことは熊野が死んでよみがえる聖地と信じられてきたことからも明らかである。これは換言すれば「生きながらにして死ぬということ」であり、これが熊野信仰の本質といえよう。」p.175
・「しかも熊野神社は秋田県から沖縄県まで散在しており、その数は3000社を超えるといわれている。」p.179 室蘭の隅っこにも『熊野神社』あるのですが。。。
・「神社を参拝するには、一定の作法がある。神社参拝は神社へ参拝しようと思い立ったときから始まる。(中略)鳥居の前では軽く首を垂れて一礼をするのが作法である。神職の間では、これを揖(ゆう)といっている。(中略)賽銭を入れ、鈴を鳴らし、拝礼を行なう。拝礼はまず一揖(いちゆう)(一回軽くおじぎをする)をし、つぎに二拝(二回深いおじぎをする)、二拍手(二回手を打つ)、一拝(もう一回深いおじぎをする)をするのが標準的な参拝の作法である。」p.210
・「現在の神社の参拝作法は、二拝・二拍手・一拝が一般的である。つまり二回おじぎをしたあと、二回柏手を打ち、最後に一回おじぎをするのである。このような作法の中での柏手の意味は、両手(左手と右手)を合わせて打つことにより心を統一し、神に敬意を表することにあるといえよう。さらにいえば、柏手を打つことにより左と右という対立する世界を打ち消して一つの世界に入るのである。 ところで、両手のことを左右手(まて)という。したがって、両手を開くのは「まて」から「かたて」になってことを意味している。しかし、これでは「かたこと」つまり不完全な世界であるので、それを完全な「まこと」の状態にするために柏手を打つのである。これが柏手の真義であると思う。」p.218
・「鳥居が日本古来のものか、外来のものか、それが定まらないため鳥居の起源はより複雑となる。」p.233
・「鳥居の形式は大別すると、神明(しんめい)鳥居と明神(みょうじん)鳥居、その他に分類できる。」p.233
・「千木(ちぎ)や賢魚木(かつおぎ)の本儀は、まだ十分な説明がなされていない。今後は建築面だけでなく、神道思想からの考察が必要であろう。」p.240
・「狛犬は左右一対であり、向かって右が口を開けた阿形、左が口を閉じた吽形の「阿吽」形式が一般的である。狛犬と寺院の山門に置かれている仁王とは相通ずるものがある。また「子取り」と「玉取り」で対をなしている狛犬もある。前足で子どもあやしているのが「子取り」、玉(まり)を押さえているのが「玉取り」である。」」p.241
・「繰り返して述べてきたように、『万葉集』では「神社」の二字を「もり」と読んでいる。このことからも神社と森とは一体の関係にあることがわかる。また、神社の「森」を「杜」とも書く。この「杜」は閉ざされた場所を意味しており、そこは必ずしも樹木を必要としないのである。人間がたやすく足を踏み入れることを禁じられた聖地、そこが「杜」であり、これが「神社(もり)」の本義なのである。」p.242
・「仏像に性別はないが、神像には人間と同じように性別がある。」p.251
・「最後に、先師が常に口にしておられた言葉を引用しておくことにする。  神道を研究するのに、だれも神道家・神道学者のそれからはじめるようであるが、それは手っ取り早い方法であるかもしれないものの、これだけではいけないので、神社の研究を詳審にして、そこにうかがれる一般民衆の神道信仰を把捉しなければならない。神道家・神道学者の所説は、要するに一流・一派のドグマに過ぎず、一般の民衆の神道信仰とは常に大きく乖離していることを知っておかねばならない。それと同時に、『古事記』『日本書紀』を、従来の学説にとらわれることなく、一般の民衆の心を心として、自分自身でじかに読むことである。」p.267
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【本】殉死

2009年09月29日 22時00分31秒 | 読書記録2009
殉死, 司馬遼太郎, 文春文庫 し-1-37, 1978年
・"軍神" 乃木希典の生涯を小説風にまとめた書。『要塞』、『腹を切ること』と題した小編の二部構成。
・その名は度々目にしていたが、どのような人物なのかほとんど知らずにいたところ、ボンヤリとしていた知識がクッキリと明確になった。日露戦争における旅順攻防戦の悲惨な戦場の描写が強く印象に残る。
・「乃木希典(のぎまれすけ)――日露戦争で苦闘したこの第三軍司令官、陸軍大将は、輝ける英雄として称えられた。戦後は伯爵となり、学習院院長、軍事参議官、宮内省御用掛など、数多くの栄誉を一身に受けた彼が明治帝の崩御に殉じて、その妻とともにみずからの命を断ったのはなぜか。"軍神" の内面に迫って、人間像を浮き彫りにした問題作。」カバー
・「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美の中に置き、劇中の人として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できるというのは、どういう体質であろう。」p.21
・「余談だが、この時期、一般の感覚としては――山県有朋でさえ――軍旗はさほど尊貴なものとはしていなかったであろう。第二次大戦での降伏によって日本陸軍は終焉したが、いわゆる帝国陸軍の特徴のひとつは軍旗を異常に神聖視し、あたかもそこに天皇の神聖霊が宿っているがごとくあつかったことであった。この精神的習慣はおそらく乃木希典から始まったであろう。」p.22
・「その感情は、後になるにしたがって明治帝にも自然通じてゆき、明治帝にとっても乃木希典がまるで鎌倉時代の郎党であるかのような、そういう実感をもつようになり、そのことが乃木にも伝わり、乃木を感動させ、かれをして近代日本のなかでは稀有といっていい古典的忠臣にしていった。」p.23
・「「貴官は、いつ軍服をぬぎます」  と、乃木はデュフェに質問したであろう。  「寝ニ至ルマデ脱ガズ」  と、デュフェは答えたにちがいない。」p.32
・「が、乃木少将だけは一変した。紬の着物も着ず角帯も締めず、料亭の出入はいっさいやめ、日常軍服を着用し、帰宅しても脱がず、寝るときも――乃木式といわれ、死にいたるまでひとを驚嘆せしめたことだが――寝巻を用いず、軍服のままでいた。」p.34
・「「自分の生涯は、山田の案山子である」と、しばしばこの時期での乃木希典は洩らしている。」p.35
・「乃木希典はおそらく筆者(わたくし)の考えていたような、自分の能力に疑いをもつというようなことは、あるいはなかったかもしれない。そのように考えを修正してみると、筆者の私(ひそ)やかな期待ははずれたにしても、別な乃木希典をあらたに知る思いがし、なおこの書きものを(いや、思考を)続けてゆく気持をとりなおした。」p.37
・「要するに司令官と参謀長の関係は、そのような機能関係にあり、すぐれた参謀長を得れば司令官はねむっていても作戦は進行してゆく。」p.50
・「が、旅順は一日でおちなかった。それどころか、その後百五十余日をついやし、六万人の血を流させるはめになった。目算をこれほど外すというのは、それが無能のゆえであるとすれば、これほど悲惨な無能もないであろう。」p.61
・「乃木はもともと死のなかに唯一の華やぎを求める思想家――それも士規七則的な――であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる底の行者であったが、この旅順の柳樹房のときほど死への焦れをもったことはなかったであろう。」p.72
・「乃木のその誌的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。」p.92
・「死は自然死であってはならないという、不可思議な傾斜が乃木希典においてはじまったのは、よほど年歴がふるい。かれは最後にその意思的な死を完成させるのだが、むしろこの傾斜がかれの生きつづけてゆく姿勢を単純勁烈にささえていたともいえるのではないか。」p.99
・「自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治以前までうけつがれてきたごく特殊な思想のひとつであった。希典はその系譜の末端にいた。いわゆる陽明学派というものであり、江戸幕府はこれを危険思想とし、それを異学とし、学ぶことをよろこばなかった。この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、ときに主観をもあわせつつ物事を合理的に格物致知してゆこうという立場のものではない。陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動をおこさねばならず、行動をおこすことによって思想は完結するのである。」p.110
・「かれら陸海軍将星の軍服は当然ながらすべて拝謁のための美麗な礼服を着用していた。しかしながら乃木希典のみは泥と硝煙のしみついた戦闘服のまま帝の前に立っていた。このあたりが乃木希典のふしぎさであろう。広島の宇品に凱旋してからすでに四日になり、服を着かえる余裕は十分にあった。しかしながらかれは戦闘服のままでいた。  ――戦場からすぐ駆けつけた。  というところをこの郎党は帝にお見せしたかったのであろう。」p.126

?じゅんじゅ【純儒・醇儒】 真の儒者。
?ろぼ【鹵簿】 儀仗を具備した行幸・行啓の行列。律令制では、行幸のみにいったが、明治以後は、行啓にもいい、公式のものと略式のものとがある。
?きっきゅう‐じょ【鞠躬如】 身をかがめおそれつつしむさま。
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【本】ウィトゲンシュタイン入門

2009年09月23日 22時02分43秒 | 読書記録2009
ウィトゲンシュタイン入門, 永井均, ちくま新書 020, 1995年
・注目している哲学者について、注目している著者が解説した書。書かれている内容はさっぱり理解出来ないが、これまで読んだウィトゲンシュタインの関連書よりもその思想によりはっきりと触れることができ、生々しい感触が味わえる。その難解な文章を読み進むのは、激辛カレーを脂汗流しながら食べ進むかのような感覚。読み応えあり。
・「この本は、ウィトゲンシュタイン哲学の入門書である。あたりまえのことを言っていると思われるかも知れないが、そうではない。まず第一に、この本は「哲学」の本であって、人物紹介の本ではない。そして第二に、この本は入門書であって、解説書や概説書ではない。(中略)その意味で本書は、本質的に「哲学」の本なのである。私はウィトゲンシュタインの哲学の妙技を紹介することを通じて、哲学がどんなに魅力的なものか、一度も「哲学」をしたことがない人に、何とか伝えたいと思った。しかし、とりわけウィトゲンシュタインの哲学は、彼と同じ問いをみずから持ち、彼と同じように徹底的に考えてみようとする人しか受けつけない、という側面を持つので、それは至難のわざであった。」p.7
・「こう言うと、読者の皆さんは驚かれるかも知れないが、哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなのである。重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否か、にある。優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。」p.9
・「デカルト、バークリー、シュティルナー、キェルケゴール、フッサール、大森荘蔵ら、その問題に関係がありそうな「哲学」の本を読んでは、かゆい足の上から掻いているような物足りなさを感じていた私は、自分が本当に知りたい問題は「哲学」では扱われていないのだ、となかば諦めかけていた。だが、このような錚々たる面々が最も重要な(と私には思われた)問題を取り逃がしているように見えることが不思議でならなかった。そのとき、あの顔見知りのウィトゲンシュタインさんが、実は私がいちばん知りたかったことをすでに論じていたことを知ったのである。」p.14
・「それは、かんたんに言えば、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いであった。」p.15
・「私が何よりも感動したのは、「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」という最後の一文である。私の解するところでは、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどすべてが、陰に陽に、この洞察に支えられて成り立っている。」p.20
・「超越論的主観とは、素材としての世界に意味を賦与することによって世界を意味的に構成する主観である。(中略)ウィトゲンシュタインは、そのような主体をまったく想定していない。イメージ的に言えば、むしろその逆の主体を考えた方が近いだろう。つまり、すでに「机」「地球」「恋愛」「日本」「永井均」といった意味に満ちた世界に対して、一挙に実質(それが実現するための素材)を賦与することによって、形式としての世界を現実のこの世界(=私の世界)として存在させる主体、というようにである。」p.24
・「つまり『論理哲学論考』とは、沈黙すべきものを内側から限界づけ、そのことによってそれに正当な位置を与えるために書かれた書物なのである。彼にとって、本当に重要なのは、明晰に語りうることがらにではなく、沈黙しなければならないことがらにあったのである。」p.48
・「まず何よりも、「多摩川の上流に大雨が降った」という文は、多摩川の上流に大雨が降ったという事態の表現としてしか理解できない。そしてまた逆に、多摩川の上流に大雨が降ったという事態は「多摩川の上流に大雨が降った」という文の理解を通してしかとらえられない。独立に把握できる二つの事象の間に成り立つのではない、このような関係を、内的関係というのである。  それでは、内的と言われるこの独特の関係は、いったい何によって成り立っているのか。「論理形式」を共有することによって、というのがウィトゲンシュタインの答えである。」p.53
・「一 世界とは、そうであることのすべてである。
一・一 世界は、事実の全部であって、物の全部ではない。
一・一一 世界は、諸事実によって、そしてそれがすべての事実であることによって、決定されている。
」p.54
・「ウィトゲンシュタインの主張を、簡単に要約すれば、こうである。  事態とは、諸対象(事物、物)が特定の仕方で結びついてできたものである。事態には、現に成立している事態と、現に成立してはいないが成立可能な事態があり、現に成立している事態が事実と呼ばれる。また、要素的な事態が結びついてできた複合的な事態は状態と呼ばれる。そして世界とは、対象ではなく事実(成立している事態)を全部集めたもののことである。事態には成立している事態と成立していない事態があるが、事態は相互に独立であるから、ある事態が成立している(いない)ということから、他の事態が成立している(いない)ということを、推論することはできない。また、対象が対象でありうるのは、他の対象と結合して事態を構成しうる限りにおいてでしかない。」p.56
・「肖像画であれ、地図であれ、楽譜であれ、およそ現実(人物、地形、音楽)を記号的に表現し直そうとすれば、その記号的表現は現実の写像でなければならない。そして、われわれはそれが写像であることを、像そのもののうちに端的に読み取る。たとえば肖像画は実在の人物の像だが、その写像関係それ自体を再び絵に描くことはできない。かりにできたとしても、もしそういうことをするのであれば、今度はその絵とそれが写像しているものとの関係を描かねばならなくなるだろう。われわれの記号活動は、どこかで必ず、写像関係の外に出てその写像関係それ自体を写像することができない(できてはならない)地点に達する。言語はそうした写像の一例にすぎない。」p.59
・「名辞は対象を指示する。要素命題は(要素的)事態の成立を主張し、複合命題は複合的な事態、つまり状態の成立を主張する。つまり、一般に命題は事実がいかにあるかを語る。」p.60
・「できるならば事実を正しく記述する真なる文を作り、さもなくばせめて事実を誤って記述する、有意味ではあるが偽なる文を作ること――『論考』のウィトゲンシュタインにとって、これこそが言語の本来の姿なのであった。」p.63
・「子どもが言葉を持つようになるのはどうしてか、という問いに答えがないのも、実は同じ理由からである。しかし、言語学者も、心理学者も、そして現象学者も、この問いに答えようとし、言語の背後にそれを可能ならしめる何かを想定することによって、問いに答えたと思いこむ。だが、ほんとうに難しいのは、問いに答えることではなく、答えがないこと、あってはならないことを、覚ることなのである。」p.66
・「思考の表現である言語に限界を設定することは、その目的のための手段であるにすぎない。限界設定は言語の内部からのみなされうるからである。  それゆえ、その趣旨に従うならば、世界の形式そのものであるがゆえに語りえない「先験的(トランスツェンデンタール)」なものと、世界の外にあるがゆえに語りえない「超越論的(トランスツェンデンタール)」なものとは、当然区別されねばならない。つまり『論考』のなかには、二種類のトランスツェンデンタールなものが、したがって二種類の語りえぬものがあることになる。」p.76
・「言語による表現の可能性こそが、意図、予期、願望等々の志向的なはたらきを、はじめて可能にするのである。人間が自己自身を志向的に捉えて生きる動物であるのは、人間が言語を持つ動物だからである。これがウィトゲンシュタイン独自の洞察であり、言語ゲームというアイディアの中核を形づくる発見でもある。」p.124
・「彼が渾身の力を込めて到達しようと努力している地点は、ほとんどの読者や解釈者が、始めから何の問題もなく到達してしまっている地点なのである。」p.139
・「時計の比喩で言えばこうだ。この時計の針の先には「今」という時刻(!)が表示されているに違いないが、独我論者が問題にしたいのは、普通の時計の針が指すような特定の時刻でもなければ、この時計が指すような今一般でもなく、「この今」なのである。だが、それは語りえないのだ。そして、ウィトゲンシュタインはただ一人ここで、これを最後に、それが語りえないゲーム(Endspiel)を実践しているのである。もしそのゲームが人に理解されるとすれば、それは何を意味するのだろうか。ウィトゲンシュタインはこの問いに答えていない。」p.143
・「言葉の意味を定めるのは、言葉を使う人の心に浮かぶものではなく、むしろ生活の形態である。だから、「もしライオンが言葉を話したとしても、われわれはライオンの言うことがわからない」(『探求』446頁)。」p.151
・「ウィトゲンシュタインは「哲学者はいかなる観念共同体の市民でもない」と書いた。哲学者は「哲学」なる観念共同体の市民でもなければ、また「反哲学」といったそれの市民でもない。まさに「そのことが、彼を哲学者たらしめるのだ」と。」p.206
・「ウィトゲンシュタインは、思想の値段は勇気の量で決まると言った。これは私にとって、心から共感できる言葉である。しかし、なぜ勇気が必要なのか。それは、思想にはどんな交換価値も拒否する部分が、つまりそもそも値札をつけることができない部分があるからである。(中略)私自身にとって、法外な値段がつく思想家は今のところウィトゲンシュタインとニーチェの二人だけである。彼らは、他の人も別の仕方で語った、人間にとって重要な真実を、彼らなりの仕方で語った人たちなのではない。他の人がまったく語らなかった、彼らがいなければ誰も気づかなかったかもしれない、まったく独自の問題をただ一人で提起した人たちなのである。」p.210
・「すべては言語ゲームなのであり、倫理も芸術も宗教もその一形態以外の何ものでもない。それを超えるものは<無い>のだ。だから、ウィトゲンシュタインは倫理や芸術や宗教を語りえぬものの側に置いた、などということはできない。まさにその意味において、後期において、すべては言語ゲームになったのである。」p.216
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【本】若さに贈る

2009年09月15日 22時00分02秒 | 読書記録2009
若さに贈る, 松下幸之助, 講談社現代新書 74, 1966年
・パナソニック(旧松下電器)の創始者である松下幸之助から世の若者へ宛てたメッセージ。自身の丁稚奉公の体験談から話は始まり、仕事一筋の青年時代を経て、話は『世界』にまで及びます。「血の小便を流すような努力を」、「仕事に命をかけろ」と言われても、今では少々時代錯誤の感もありますが、その口から出る言葉にはやはり、聞く人の耳を傾けさせる重みがあります。
・書店にて出版社としてよく見かける『PHP』の文字ですが、その母体の創設が、同著者によることを初めて知った。
・本書は現在絶版で、PHP文庫に出版社を変えて出ています。
・「老年には老年の喜びがあり、生き方があると、むかしの賢者はいっています。けれどもわたしは、いつまでも若くありたい。青年期のごとくありたい。そして、そうできるはずだと信じているのです。」p.11
・「わたしが座右の銘として仰ぎ、維持しようとしているものを、あなたは労せずして現にもっているのです。あなたの毎日は、そういう尊い日々です。かりそめにもおろそかにすることがあっては、まずあなた自身の損失であり、そして世の中の損失です。」p.14
・「砂糖は甘く、塩は辛い。それはだれでも知っています。しかし、それは議論したり、考えたりしてわかるのではない。その甘さ、その辛さを知るには、まずひとくちなめてみることです。体験の尊さはここにあります。(中略)しかし今日、体験を抜きにした、空疎な議論がなんと多いことか。」p.23
・「わたしは小さな町工場をつくり、小さな形で商売を始めましたが、終始一貫、わたしの仕事は公正明大であることを心がけ、そしてその実行に努めてきたと、わたし自身いうことができます。」p.36
・「このカメラマンのような熱心さ、つまり、一時間という与えられた時間を最大限に、まちがいなく生かすために、一時間半前から準備し、そして、集中的スピードで仕事をする。それは戦場をかけ回るばあいとまったく変わらない、いのちがけの仕事ぶりであり、これでなくては、アメリカではやっていけないのです。アメリカが日本にくらべて、ひとり当たり十倍の生産をし、そして十倍の収入をえている原因も、そういうところにあるのにちがいない。」p.45
・「苦労して積み上げていくのが、結局は、ものごとを早く確実に成就する道であるという道理は、あらゆることにあてはまる。――このことをしっかり腹におさめるべきだと思います。」p.64
・「すこしオーバーないい方かもしれないが、一人前の商人になるまでには、二度や三度は小便が赤くなる経験がいるのだ。」p.67
・「そうした、家康とは持ち味のちがうひとが、そのままそっくり家康のまねをしようとすれば、必ず失敗するでしょうし、じっさいからいっても、そっくりまねることなど、できるものではありません。また、家康以上の資質を備えたひとがいて、自分も家康をまねて、と考えてやったところで、必ずしも成功するとはかぎりません。むしろそこには、失敗の危険性のほうが多い気がします。」p.78
・「社会の繁栄と安定――それはお互いが、各個人が適性に立つということに、その基礎があります。適材が適所に生かされるほど、より高い社会が招来されるのです。そしてそれこそが、あなたもわたしも、みんなが、よりしあわせに生きる最良の道だと思います。  くり返しますが、ひとは適性がとらえた仕事にわがいのちをかけるべきです。」p.85
・「まず、これから世の中に立って仕事をしていくには、自分をよく見きわめ、自分の適性を知らなければいけない。そして、それに対して徹底的に忠実であること。名誉とか、利欲にからんで目がくらんではならない。そのようなことに心を動揺させないだけの信念をおもちなさい。そうすれば、その仕事がなんであれ、あなたはじゅうぶん生きる。世にもし成功ということがあるとするならば、それが真の成功への道である――。  つまり、あなたは、自分にもっとも適した仕事を通じて社会に貢献することができ、自分のためになり、そして、失敗とか過誤をおかさなくてすむのです。」p.87
・「いのちをかける――それは偉大なことです。あなたの人生観を根本的に変え、もののほんとうの価値というものを認識させてくれる。いのちがけのひとでなくては、人間の生命の真の価値を知ることは困難だとわたしは考えています。」p.98
・「感謝する心とこわさを知る心とを忘れてはならないということです。」p.112
・「すべてに感謝しながら、こわさを知る謙虚さを持し、そうして着実に前進への努力をつづける――あなたの真の力はそうしてこそ養われていくといえましょう。」p.117
・「お金というものは、もうけようとやっても、なかなかもうかるものではない。」p.121
・「この世に必要な物を、ただにひとしい水道の水のように豊富にすれば、わたしたちの貧苦はなくなるであろう。そうすると、わたしの使命は、水道の水のように、豊富で価値のある電気器具をつくり出すことだ。現実にはなかなかそうはいきませんが、この世の理想としては、物資をただにひとしくなるほどあふれされることだと考えたのです。」p.127
・「わたしは、いま書いたように、まったく平凡な出発をしました。だれでも、わたしと同じ境遇・状況では、そうせざるをえないような、ごくふつうのことをしたのです。そういう出発をして、今日こうなっているのは、わたしに運があったからだと思うのです。」p.128
・「つまり、わたしたちは、自分の意志だけではどうにもならない、さまざまな条件のもとに各自が生まれ、生きていると思います。そこでわたしは、つい最近もある大学で講演したさい、いちばん偉い人間とはどういうものか、あなた方はどう思うか、わたしは、いちばん偉い人間というのは、運の強い者だ、といったのです。」p.128
・「あなたの成功・不成功というものは、与えられた10%の範囲を努力するかいなかということです。90%は自分の力以外の力の作用であると信じれば、けっしてうろたえることはなくなります。」p.131
・「ここで注意をうながしたいのは、自分は運がないとか、運が弱いとか、自分で自分の不幸を捜すような愚は避けてほしいということです。あなたは、現在ここにこうして育ち、生きている――それだけでも、相当な運があるのです。」p.133
・「頭はそれほどよくなくても、つぎつぎとすぐれた創意くふうをしていくひとがあります。そうさせるものは、そのひとの熱意です。賢いひとの考えよりも、しばしば、まとをついたアイディアを生む。」p.144
・「「あなたは外国へも行かれる。それが困る。もしあんな眼鏡をかけて行かれると、日本には眼鏡屋がないのかと思われる。その程度に、日本を評価されてしまう。わたしはそれを防ぎたくて、あの手紙を差し上げたのである。  わたしはこの言葉を聞いて、商売気を抜きにした広い視野と考え方を教えられました。そして、このひとは世界一の眼鏡屋さんだと思いました。」」p.156
・「わたしは思うのです。金も物も自分のものと思うから奇妙な欲が出る。責任ある預かりものだ。むだに使ってはならない。それを有効に使い、社会にそれを返すことによって責任は軽くなり、われわれの住む社会が成り立っていくのだ――。」p.159
・「ひとは、もともと責任を問われるところに、ひととしての価値があるのだと思います。責任を問われることが大きければ大きいほど、それだけ価値が高い、ということがいえましょう。ですから、責任をとわれることろに、生きがいもあろうというものです。責任に生きがいを感じる――これはひじょうにだいじなことのように思われます。」p.168
・「民主主義は、ひとに依頼する主義ではない、ということを、まずあなたは知らなければいけません。あなたみずからの使命をはっきり自覚して、そして、義務を遂行していく責任をもつ――そういうことが根底におかれているのが真の民主主義だと思います。」p.171
・「物価が上がることは政府も困り、事業家も困り、商店も困り、国民全体が困る。仕事がしにくいし、暮らしは苦しくなる。しかし、民主主義だということで、三晩も徹夜して話し合いがつかないような審議をしたり、自分の権利を主張することだけに集中して、最初からけんか腰で相対し、順調に運んでいいはずの交渉や取り引きを長びかせたりというようなむだをしていたのでは、物価は上がらないわけにはいかないといわなければならないでしょう。国民お互いが日常しているすべてのむだが、物価を上昇させている。  物価のこと、経済のことはすべて、天然現象ではないのです。それは人為であり、つまりところは、あなたやわたしたちみんなの、心の問題だと思います。心の持ち方でどのようにもなることです。」p.177
・「ヒトはサルから進化したものだといわれてもわたしは信じない。人間ははじめから人間だったとおもうのです。サルはサル、ウマはウマ、タイはタイ、ヘビはヘビ。最初からそうだったとおもっています。人間は最初から人間であって、これからも永遠に人間であると信じています。」p.181
・「高い道徳の復興――これが戦争を起こさないための大きな条件です。高い道徳が優位をしめているところ、国家間に戦争は起こらない。」p.184
・「本来、ひとはみな、対立しながらしかも調和しているのです。  すべてのひとが、それぞれに対立し、それぞれの力をいっぱいに発揮しながら、しかも全体として調和していく。これはまた、宇宙そのもの、存在そのものの姿だと思います。」p.186
・「わたしは、第二次世界大戦が終わった直後、廃虚と人心混乱、政治の貧困を眼のあたりにしつつ、このままでは日本の復興も再建もとうてい望めない――という公憤に発して "PHP" の研究を始めました。(中略)PHPとは、Peace and Happiness through Prosperity の略で、これを邦訳すれば、「繁栄によって平和と幸福を」ということになります。ここで繁栄というのは、単に物質的な豊かさのみをいうのではなく、精神的な豊かさ、すなわち「心も豊か、身も豊か」な姿をいうのであります。」p.190
・「人間はみずから神を創造し、その創造した神に教えを乞うてみずからを高め、高まった自分をさらに高い神にもっていく――こうした営みをする人間。それは、神そのものであるかのようなことを考えます。とても羊を知るように簡単にわかる相手ではありません。」p.198
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【本】札幌の秘境

2009年09月08日 22時02分17秒 | 読書記録2009
札幌の秘境, 青木由直, 北海道新聞社, 2009年
・以前訪れた『エドウィン・ダン記念館』にて、前著『札幌の秘境100選』の紹介パネルを見かけ、「こんな本があるのか」と興味を持ち、後日調べてみるとつい最近新刊が出ているということで早速購入。一般的な観光地とはひと味違った札幌の見どころスポットである『秘境』が多数紹介されているオールカラーの立派な本です。カメラを片手に人気のない場所をウロウロする、まさに私のためにあるような本。私のようにただ訪れて写真を撮るだけでなく、その施設、史跡、土地についての取材がきちんとされているので、非常に参考になります。興味深い場所がたくさん掲載されていますが、中でも一番興味があるのは八剣山の山頂。機会があれば登ってみたいところ。
・パラパラとページをめくって写真を拾い読みする分にはストレスは感じないが、文章を読み出すと、そのテンポが重く途端にペースが落ちてしまう。もうちょっと軽快に読めたらと思います。
・複数地点をテーマに応じて一つの章にまとめる形の構成ですが、一地点につき、1~2ページの読み切り形式の方がすっきりとして良いような気がします。前著の『100選』は未見ですが、もしかするとそうなっているのかも。
・巻末の地図と各記事との連絡が非常に悪い。ページ番号の情報も入れるべき。
・書中の写真と、所々にはさまれる五七五の今後のレベルアップに期待。
・著者はもと北大工学部の教授とのことで、知合いの知合いあたりにいそうな気が。
★参考リンク:ブログ『秘境100選 Ver2』
http://hikyou.sakura.ne.jp/v2/
・「「秘境」という言葉からイメージするものは、人跡未踏の地、人里離れた山奥、桃源郷 etc、と考えられるけれど、ともかく人間で溢れる都市の対極にあるものである。したがって、「都市の秘境」は言葉自体に矛盾を含んでいる。この矛盾したところが、都市秘境シリーズ本の売りになっている。情報の溢れる時代、ネーミングは大切である。  秘境を、まだ見たことのない思いがけない場所、と解釈すると、都会でもそのようなところがある。」p.2
・「本書で追い求めている都市秘境は、次の三条件に合うような場所や対象である。 (1)意外な場所(対象)で、大都会札幌で、こんなところにこんな場所や物があったのかを満たすもの。 (2)無料で自由に見ることができるもので、無料ということは秘境がビジネスの対象外で広義の公共性があること。 (3)考えさせられる背景があることで、単に足を踏み入れたことのない場所ではなく、歴史や世の中の仕組みが働いて思いがけないものが顔を出してくるようなもの、を取材の対象にしている。」p.2
・「現在では、牧草地に牧草をロール状にしてラッピングしたものをよく見かけるようになっていて、これはいわば可搬型のサイロである。飼料作りにこの方式が普及し、建物のサイロに置き換わって来ている。」p.22
・「二、三ブライダル・チャーチのステンドグラスを見せてもらったが、なるほど豪華なものである。ただし、写真撮影はご遠慮願うとか言われ、商品の安売りにつながるようなことはご法度、というこの種のビジネスの原理が顔を出してくる。」p.26
・「国道36号線で月寒羊ヶ丘の辺りにさしかかると、札幌ドームの巨大な銀色に輝く屋根が見えてくる。冬の季節なら、雪の山がそこにあるかのようである。ドームの高さが68mであるから、東区のモエレ山の62mよりは高くなり、山と錯覚しても、間違いと言下に言い切れない。」p.30
・「ホーレス・ケプロン、クラーク博士、エドウィン・ダンらの北海道開拓に貢献したお抱え外国人はさすがに祭られてはいない。」p.34
・「開拓神社の例祭は八月十五日で勇壮な神輿渡御が行なわれる。この例祭日は、蝦夷地を北海道と改称した日にちなんで定められた。なお、北海道の名称は、祭神の一人の松浦武四郎が明治政府への建白書で、「北加伊道」「海北道」「海東道」「日高見道」「東北道」「千島道」の六案を出していて、紆余曲折のうちに北海道となっている。」p.35
・「寺の境内に入るところに門がある。この門は普段は閉まっていて、脇の入口から出入りしている場合がほとんどである。折角の門なのにどうしてかと疑問に思っていた。この疑問への解答として、寺門が開くのはその寺の住職が新しくなって寺へ入る時で、その住職が死んだ時にも寺門から外に出る、という説明を耳にした。」p.38
・「日登寺の仁王像は朱塗りの上半身裸体に青色の衣をまとっている。ガラスのケースのお陰か、色は褪せていないようである。しかし、ガラスのケース内では、門から寺に入り込む敵に対して身動きがとれないのではないかと思ってしまう。ここはやはり普通の山門の仁王像のように、風雨にさらされるものにして置く方がよいとも思われる。」p.41
・「米国マサチューセッツ州立農科大学長であったW.S.クラーク博士が、創立されたばかりの札幌農学校の教頭として赴任し、第一期生の薫陶にあたったのは1878(明治9)年七月から翌年の四月までの足掛け十ヶ月である。130年以上前に短期間滞在した外国人教師が、今なお北大のシンボルとしてあるのは、他の大学には例をみないものであろう。」p.54
・「石川啄木は、1907年(明治40)年9月14日から27日まで札幌に滞在した。時に21歳である。この二週間ほどの滞在であるにもかかわらず、札幌には啄木の像や歌碑が散見され、今でも人気の歌人である。」p.58
・「都市の境界にはこのような異なる性質の場所が隣り合わせのところが見られる。石狩川沿いの江別市と当別町の境界には江別の廃棄別処理場があり、一方当別町側には田園地帯が広がっている。都市が厄介物を処分するのを都市の境に設定すると、往々にしてこのような状況が生まれる。」p.66
・「北海道開拓時における災害の一つはイナゴ(蝗―トノサマバッタ)の大発生である。イナゴは、大発生すると性質が変化して空を飛ぶようになる。これを飛蝗(ひこう)と呼んでおり、1880(明治13)年十勝地方に発生した飛蝗は、日高山脈を飛び越えて石狩の地までも達している。」p.67
・「山の定義がはっきりしないのだが、国土地理院が定めた三角点があり、"山" の名前がある場所を山にしてよいようである。この条件に当てはまれば、高さは山の定義の条件には入らない。」p.102
・「おいらん渕の河床には、ここが海底であった頃の生物の大型化石が埋まっているはずなのに、誰も未だ見つけていないそうである。太古の生き物が未発見の化石となってここに埋まっているのかと、先生の地球の歴史の話に、おいらんの身投げ伝説は雲散霧消する。」p.137
・「標本のようなものは、蒐集家にとって宝物でも、他人にとってはガラクタにしか見えない場合も多い。蒐集家あるいは研究者は、いずれはその蒐集物を手放さねばならない時がきて、それが公共施設に、吹き溜まりのように溜まっていくようである。」p.157
・「かつて、札幌は全国屈指のリンゴの生産地で、リンゴ園があちら、こちらにあった。特に平岸にはリンゴ園が集まっていた。(中略)しかし、札幌の都市化も手伝って、市街地からリンゴ園は消滅してしまった。」p.158
・「SLについた名前のA、B、C、D、Eは連結された駆動輪の個数を意味していて、Bは二個、Cは三個、Dは四個の駆動輪が連結したタイプを意味している。」p.164
・「土木遺産とは、第二次世界大戦以前に造られた土木施設や構造物で、現在も利用されている貴重なものと認められたものである。」p.168
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【本】寺田寅彦随筆集 第一巻

2009年09月01日 22時10分09秒 | 読書記録2009
寺田寅彦随筆集 第一巻, (編)小宮豊隆, 岩波文庫 緑37-1, 1947年
・寺田寅彦が新聞や雑誌に寄稿した短編集。全五巻のうちの第一巻で、全24編収録。
・同著者の著作を手にするのは初。前々から気になる存在でしたが、その本がようやく日の目を見ることに。
・冒頭の『どんぐり』では、背負い投げで投げ飛ばされたような衝撃を受ける。寺田寅彦の文章のいろいろな要素が濃縮された名作だと思います。
★青空文庫『どんぐり』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card827.html
・「甲板の寝台に仰向きにねて奏楽を聞いていると煙突からモクモクと引っ切りなしに出て来る黒い煙も、舷(ふなばた)に見える波も、みんな音楽に拍子を合わせて動いているような気がする。どうも西洋の音楽を聞いていると何物かが断えず一方へ進行しているように思われる。」p.36
・「市庁の前で馬車を降りてノートルダームまで渦巻の風の中を泳いで行きました。どこでも名高いお寺といえばみんな一ぺん煤でいぶしていぶし上げてそれからざっとささらで洗い流したような感じがしますが、このお寺もそうです。ほかの名高い伽藍にくらべて別に立派なとも思いませんが両側に相対してそびえた鐘楼がちょっと変わった感じを与えます。」p.79
・「国にいた時分「スチュディオ」か何かに載せたドガーの踊り子のパステル絵を見て、なんだかばかげたつまらないもののような気がしましたが、その後バレーというものも見、それからドガーの本物の絵も見てから考えてみると、とにかくこの人の絵はこういう一種の光景、運動、色彩、感じというようなものをかなり真実に現わしたものだと思いました。」p.84
・「芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念をいだいているかのように見える人もある。(中略)科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。  夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。」p.86
・「また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する理論的の径路を組み立てたものである。(中略)この直感は芸術家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。」p.91
・「もし世界じゅうの人間が残らず盲目で聾唖であったらどうであろうか。このような触覚ばかりの世界でもこのような人間には一種の知識経験が成立しそれがだんだんに発達し系統が立ってそして一種の物理的科学が成立しうる事は疑いない事であろう。しかしその物理学の内容はちょっと吾人の想像し難いようなものに相違ない。」p.95
・「物理学者と素人と異なる所は普通人間にも存するこのような感覚をはなれた見方をどこまでも徹底させて行く点にある。」p.100
・「神社や寺院の前に立つ時に何かしら名状のできないある物が不信心な自分の胸に流れ込むと同じように、これらの書物の中から流れ出る一種の空気のようなものは知らぬ間に自分の頭にしみ込んで、ちょうど実際に読書する事によって得られる感じの中から具体的なすべてのものを除去したときに残るべきある物を感じさせるのであった。」p.119
・「ただその間に不断にいだいていた希望はいつか一度は「自分のかいた絵」を見たいという事であった。世界じゅうに名画の数がどれほどあってもそれはかまわない。どんなに拙劣でもいいから、生まれてまだ見た事のない自分の油絵というものに対してみたいというのであった。」p.140
・「そういうふうに考えてみると、単に早取り写真のようなものならば技巧の長い習練によって仕上げられうるものかもしれないが、ある一人の生きた人間の表現としての肖像は結局できあがるという事はないものだと思われた。」p.156
・「そうしてみるとわれわれが人の顔を見るときに頭の中へできる像は決してユークリッド幾何学的のものではないと思われる。ただある、割合に少数な項目の、多数な錯列(パーミュテーション)によっていろいろの顔の印象ができている。その中に若干「相似」を決定するために主要な項目の組み合わせがあってこれだけが具備すれば残りの排列などはどうでもいいのだろう。この主要の組み合わせを分析するという事はかなりおもしろいしむつかしい問題だろうと思ったりした。」p.160
・「たとえば人間が始まって以来今日までかつて断えた事のないあらゆる闘争の歴史に関するいろいろの学者の解説は、一つも私のふに落ちないように思われた。……私には牛肉を食っていながら生体解剖(ヴィヴィセクション)に反対している人たちの心持ちがわからなかった。……人間の平等を論じる人たちがその平等を猿や蝙蝠以下におしひろめない理由がはっきりわからなかった。……普通選挙を主張している友人に、なぜ家畜にも同じ権利を認めないかと聞いて怒りを買った事もあった。」p.172
・「近ごろ、アインシュタインの研究によってニュートンの力学が根底から打ちこわされた、というような話が世界じゅうで持てはやされている。これがこういう場合にお定まりであるようにいろいろに誤解され訛伝されている。(中略)力やエネルギーの概念がどうなったところで、建築や土木工事の設計書に変更を要するような心配はない。  アインシュタインおよびミンコフスキーの理論のすぐれた点と貴重なゆえんはそんな安直なことではないらしい。時と空間に関する吾人の狭いとらわれたごまかしの考えを改造し、過去未来を通ずる大千世界の万象を四元の座標軸の内に整然と排列し刻み込んだ事でなかればならない。夢幻的な間に合わせの仮象を放逐して永遠な実在の中核を把握したと思われる事でなければならない。複雑な因果の網目を枠に張って掌上に指摘しうるものとした事でなければならない。」p.194
・「生命の物理的説明とは生命を抹殺する事ではなくて、逆に「物質の中に瀰漫する生命」を発見する事でなければならない。」p.200
・「現代の多くの人間に都会と田舎とどちらが好きかという問いを出すのは、蛙に水と陸とどっちがいいかと聞くようなものかもしれない。」p.208
・「それには都会の「人間の砂漠」の中がいちばん都合がいい。田舎では草も木も石も人間くさい呼吸をして四方から私に話しかけ私に取りすがるが、都会ではぎっしり詰まった満員電車の乗客でも川原の石ころどうしのように黙ってめいめいが自分の事を考えている。そのおかげで私は電車の中で難解の書物をゆっくり落ち付いて読みふける事ができる。宅にいれば子供や老人という代表的な田舎者がいるので困るが、電車の中ばかりは全く閑静である。このような静かさは到底田舎では得られない静かさである。静か過ぎてあまりにもさびしいくらいである。  これで都会に入り込んでいる「田舎の人」がいなければどんなに静かな事であろう。」p.209
・「今の自分から見るとこれらの画家は実にうらやましい裕福な身分だと思う。世の中に何がぜいたくだと言って、このような美しく貴重な自然を勝手自在にわが物同様に使用し時には濫費してもいいという、これほどのぜいたくは少ないと思う。これに匹敵するぜいたくはおそらくただ読書ぐらいのものかもしれない。」p.242
・「ところがある心理学者の説を敷衍して考えるとそういう作用が起こるので始めて「笑い」が成立する。笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではないという事になる。  私が始めてこの説を見いだした時には、多年熱心に捜し回っていたものが突然手に入ったような気がしてうれしかった。」p.269
・「以上にあげた特殊な「笑い」の実例を見ると、いずれも精神ならびに肉体に一種の緊張を感じるべき場合である。もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力が無意識の間に断続する。たとえばやっと歩き始めた子ねこが、足を踏みしめて立とうとする時に全身がゆらゆら揺れ動くのもこれと似たところがある。そういう断続的の緊張弛緩の交代が、生理的に「笑い」の現象と密接な類似をもっている。従って笑いによく似た心持ちを誘発し、それがほんとうの笑いを引き出す。とこういうような事ではないだろうか。」p.269
・「それで案内記ばかりにたよっていてはいつまでも自分の目はあかないが、そうかと言ってまるで案内記を無視していると、時々道に迷ったり、事によると滝つぼや火口に落ちる恐れがある。これはわかりきった事であるが。それにかかわらず教科書とノートばかりをたよりにする学生がかなり多数である一方には、また現代既成の科学を無視したために、せっかくいい考えはもちながら結局失敗する発明家や発見者も時々出て来る。」p.280
●以下、『後語』小宮豊隆 より。
・「寅彦の書くものには、寅彦の芸術感覚と科学感覚とが至るところに光彩を放っている奥に、真に芸術家であるとともに真に科学者である高い「人間」が座を占め、人生批評であるにしても社会批評であるにしても、世界的に自由であり、現実的に剴切でありながら、常にそれが大きな愛で包まれているところに、大きな魅力があるという事も、恐らくだれでも知っている。ただ私に不思議に思われる事は、寅彦の書くものの中の、峻厳な批評的精神が、科学的精神がとかく見落とされ勝ちである事である。これは寅彦の書くものは、いわば筋金の通った柔らかな手といった感じを持っているところから、読者はその柔らかな肌ざわりを味わう事だけで満足してしまうためではないかと思われるが、しかしこれは真に寅彦の書くものを味わうゆえんではない。寅彦の真骨頂はむしろその筋金にあると言っても、決して過言ではないのである。寅彦は科学も芸術もともに人生の記録であり予言であるところに、その本質を同じくすると言っている。」p.304

?がいせつ【剴切】(「剴」は斧(おの)や鎌(かま)、また、それをものに近づけて切ること)よくあてはまること。非常に適切なこと。「剴切な格言」
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【本】脳の手帖 ここまで解けた脳の世界

2009年08月25日 22時02分06秒 | 読書記録2009
脳の手帖 ここまで解けた脳の世界, 久保田競 他, 講談社ブルーバックス B-605, 1985年
・「脳」についての入門書。例えば「脳はなぜ頭にあるの?」というような素朴な疑問に専門家が答える形式での一問一答が計104問。巻末には筆者等による対談やさくいん付き。文章は二段組のレイアウトで約300ページに渡ってみっちりと書かれているので、なかなかの読み応えです。ただし、既に20年以上前の本なので多少古臭さを感じる内容も。「脳についてほとんど分かっていない」という点では今も昔も変わりませんが。
・執筆陣:久保田競、塚原仲晃、鳥居鎮夫、岩村吉晃、松波謙一、三上章允、松村道一、沢口俊之、渡辺京子、松沢哲郎、有国富夫、市邨孝雄。
・本のカバーは上手くするとイラストが立体視できるという変わりダネ。
・「本書「脳の手帖」は、誰もが興味をもつ脳についての素朴な疑問の中から104問をえらんで、現在の脳研究のレベルで、脳を研究する専門家としての立場から、多くの人が理解できるよう解答に挑戦したものです。」p.5
・「1980年頃から脳についての一般書が数多く出版されていますが、その中の一つに本書を加えたいと思ったのは、脳について間違ったことが書かれすぎているからです。研究成果を間違いなく伝えることにたいへん努力しました。」p.6
・「は脳の中にあるのではなく、脳の特別な働きの作用そのものです。」p.15
・「脳という漢字を分解すると「月」は内臓器官をあらわし、「凵」は頭蓋で、「ツ」は頭髪で、「メ」が脳なのです。」p.15
・「それにしてもどうして脳の特別な働きが心として自覚されるのでしょうか? この点は現代の脳研究の現状では全くわかっていません。脳が働くことと心をもつこと――両者の関係は今後の脳研究に残された大きな問題のひとつです。」p.17
・「前進する動物の場合、体の前端にある口の周囲がもっとも刺激を受けやすく、当然そこにいろいろな感覚器が集中します。一方、神経系というものは、外部からの刺激に対応して適切な反応を起こす指令を出すところですから、神経管の前端も発達し、膨らんできて脳となったわけです。」p.18
・「自然は、ある単純な性質のものが多数集まるとき、それぞれの単純な性質からは考えられなかったような新しい性質を作り出します。原子の集合がタンパク質や脂質などの高分子化合物を、高分子化合物の集合が生命を作り出すのは、その一例です。」p.19
・「人間では左右の脳は異なった働きをしていて、正常の人間でも左右の脳が独立に働くことが考えられます。ガザニガは一つの脳に二つの心があると考えている学者の一人です。私たちの生活では左右脳がバランスよく働いているのが普通ですが、ときに、独立して働くことはありそうです。」p.24
・「脳は神経という電線がはりめぐらされた電気回路=コンピュータのようなものだと考えることもできますが、「化学機械」としても、とらえることができます。脳は電気信号と化学信号の両方を使った神経を媒介して働く複雑なシステムであるという見方が重要です。」p.33
・「運動神経は、直径が太いか、細いかによって、活動電位の伝導速度が変わるのです。運動神経が細いと活動電位の伝わるスピードがおそくなります。」p.38
・「神経はいくら使っても、つまり活動電位を運ぶ回数がふえても、伝導速度が速くなることはありません。筋肉を使う練習をしても変わることはありません。運動神経がにぶいということはないのです。」p.39
・「脳にある細い血管、つまり毛細血管は、脳以外のあらゆる器官、例えば、腸管や筋肉の血管と異なり、血液の中から神経細胞にとって有用なものだけを選んで神経細胞に届けるという際立った働きをしています。」p.50
・「体の中で熱を生産する臓器(器官)として一番大切なのは、骨格筋です。それは、体の半分を占めるほどに、その量も多いのです。」p.73
・「カラテ・チョップも全く同じ理屈で、この頚動脈洞の圧受容器に強い衝撃を与え、心臓反射を激しく起こさすのです。血圧が瞬間的にひどく下がり、脳へ血液がいかなくなるために、大の男も一瞬気を失いふらふらとして倒れてしまうというわけです。」p.89
・「幼児の遊びをみても女の子は静かにするママごと遊びを好みますが、男の子は筋肉を使う荒っぽい遊びを好みます。この違いは思春期の性ホルモンの働きではなく、最近の研究では脳の働き方が幼児のときから男女で違うから起こるのであるとされています。男性と女性の脳の形の違いは、実は胎児のときからすでに存在するのです。」p.117
・「ヒトの大脳は右半球と左半球の二つから成り立っています。そして、左の大脳(左脳)は身体の右側を支配し、右の大脳(右脳)が身体の左側のことを司っています(交叉支配)。なぜ、そうなのかといわれても、大昔、脊椎動物が現れた時からそうなのだから仕方ありません。謎です。脳の大不可思議の一つです。ついでに申し添えれば、昆虫など無脊椎動物では、右の脳が右の体、左の脳が左の脚や体を支配しています。この方がまともだと私なども考えます。」p.121
・「ヒトとチンパンジーの言葉の能力の差は、語から文を構成することができるかどうか、そのあたりにありそうです。」p.126
・「小脳の特徴は、「小脳は時計だ」といわれるように、運動にとって必要な正確な時間を作ることにあるようです。」p.145
・「個人個人の人間がする特有な行動傾向のことを性格といいます。人格という意味も、ほぼ同じ意味で使われています。あえて違いをいうとすれば、性格は他人との傾向の違い、人格はその人の統一とれた傾向のことをいうときに使われます。」p.160
・「ではなぜ、断眠ができないのか。神経細胞は、体の細胞と違って壊れたら再生しないという性質があるので、眠りは脳を保護する安全装置の役割をしているためです。断眠中、脳波を記録して調べると、極めて短時間、睡眠脳波が、目を開けていても出ることが見つかり、これを「マイクロスリープ」と呼んでいます。断眠中には、このマイクロスリープが頻発してくるので、厳密な断眠は事実上不可能なのです。」p.174
・「頭が良いというのは、ある条件で、解決しなければならない問題があるとき、その時にくる外からの刺激や、過去に記憶したことから、次にとるべき行動を正しくえらんで、実行できる人のことです。記憶している量が多いほど、行動を選ぶときに参考にできる記憶の量が多くなります。」p.185
・「「天才の心理学」という本を書いたドイツの精神医学者クレッチマーによると「天才」とは、積極的な価値感情を、広い範囲の人びとに、永続的に、しかも稀にみるほど強く、よび起こすことのできる人格のことです。」p.190
・「パブロフの発見が画期的だったのは、適当な方法を用いれば、本来無関係だった刺激と反応が新たに "連合される" ことを初めて示した点にあります。これは学習の一種です。学習とは、生まれながらに備わっていなかった反応や行動を生まれた後に獲得することだからです。」p.193
・「現代の狼少女ともいわれているジーニーは、一歳ころまで普通に育てられたアメリカ娘でした。一歳半になったとき、精神異常の父親がジーニーを一部屋に閉じこめて、ベッドにくくりつけてしまいました。ジーニーはそのままの状態で13歳まで育てられました。父親が一日に一回やってきて、食事を口の中へ流しこみます。ジーニーが声を出すと、父親はなぐりつけるのでジーニーは声を出さなくなりました。13歳になったときジーニーは病院へつれてこられることになったのですが、声をかけても、返事もせず、眼をあけて、じっと話す人の方を見つめているだけでした。もちろん言葉は全くしゃべれません。しかしまわりの人たちが、言葉の特訓をはじめたところ、一年で数百の単語をおぼえ、少しは言葉をしゃべれるようになりました。」p.196
・「シェーには幼児の頃から、"共感覚" と呼ばれる現象がありました。共感覚とは、音を聴くと色や形が見えたり、においを感じたりする現象で、その脳内メカニズムは不明です。たとえば、シェーは、50ヘルツの音を聴いた時、次のように報告します。「暗い背景に赤い舌を持った褐色の線条が見えます。その音の味は甘酸っぱく、ボルシチに似ていて、味覚が舌全体をおおいます」と。」p.211
・「交通信号も赤や青でゴー・ストップを示していますが、これも手の図形を使った方がよい。なぜ赤だと止まるのかと考えてみるとよくわからなくなります。赤は動脈を表わし、青は静脈を表わし、中性のヨーロッパでは外科医の標章でした。これを利用したものでしょうか。」p.220
・「ポルトマンによると、ヒトは生後一歳になって、他の哺乳類の新生仔に匹敵する発育状態になります。つまり、ヒトは一年ほど早く産まれてしまうのです。」p.226
・「巨大でいびつな頭部と子どものような体つき――未来人はそんな姿をしているのかもしれません。」p.228
・「ヒトの足は他の霊長類とはかなり趣を異にしています。いいかえれば、ウシやウマの脚に近くなった、むしろ退化したわけです。ただ、この場合、ヒトは足が退化した分を、脳の進化という形で取り戻しています。」p.230
・「いったんコンピュータが人間の頭脳を超えたと思われる分野では、コンピュータが独り歩きを始めるでしょう。コンピュータの出す答えが正しいかどうか、もはや人間には判定がつかないでしょうから。」p.235
・「つまり、脳の回路の形成には、神経細胞の分裂――増殖よりもむしろその死が重要と考えられます。回路をつくるのに神経細胞の数が増えては困ったことになってしまいます。」p.236
・「心とは活動している脳の働きの一側面です。心を総合的にとらえることは難しいのですが、心には知、情、意の三つの側面があるということは、一般に認められています。(中略)コンピュータについても、この三つの側面を検討することが必要です。」p.239
・「脳が論理的には完全でない、ごく大まかなシステムであることこそが、脳の創造性の原点である、というアイデアから、論理的には多少ルーズなコンピュータを作ろうとしている研究者もいます。」p.242
・「人間では筋肉の使い方が経済的です。哺乳類の中で、一定の距離を移動するのに使われるエネルギーが、体重あたりいちばん少なくてすみます。しかも時速六キロまでは歩いた方が、それを超えると走った方がエネルギーが経済的です。」p.244
・「脳移植の実験は今世紀の初めごろ(1917年)、ダンがすでに試みていて、脳の一部が他の脳に移植できることを最初に報告しましたが、画期的なのは1976年のビョルクランドたちの実験です。彼らは新生仔のラットの脳の一部を大人のラットの脳に移植し、それが大人の脳内で生きつづけていることを明らかにしたのです。」p.245
・「脳の移植は胎児や新生仔の未熟な脳の一部を移植したときに可能で、そして移植片とホストの脳との間には不完全な神経回路ができるわけです。」p.246
・「脳全体を移しかえるというのは、とても無理な話ですが、一部の脳の働きを回復させるため、またはよくするためにも移植技術は使われそうです。」p.248
●以下、『脳研究の最前線から(対談 塚原仲晃 久保田競)』より
・「人間がつくるんじゃなくて、自然がつくり上げた脳を研究してたという時代から、今度は人間が手を加えて新しい脳をつくって、それを研究するという時代に変わりつつあるということですね。」p.258
・「脳の研究というのは最終の科学研究の一つのフロンティアです。」p.261
・「脳研究が最後のフロンティアといわれるわけですが、最後のフロンティアといわれる中で、最後まで残る問題は一体何であろうかということを考えてみますと、一つは心のメカニズムということだと思います。言い換えれば脳の最高次の働きとして、心、つまり知・情・意があるわけで、その脳内の機構が将来の目標として存在するということはまず異論のないところだと思います。  これは人間は何であるかというのを脳研究の立場から答えることであります。そういう問題を解くことがやはり脳研究の終極の目標であるというふうにいえると思います。」p.264
・「脳研究者の数ですが、アメリカでは二万人位、ヨーロッパ全体では三千人位、日本では二千人位ですね。それ位の割合でやってまして、やはり非常に新しい考え方、すばらしい成果はやっぱりアメリカが多いですね。」p.266
・「日本の脳生理学では非常にいい研究の伝統があった上に、偉い先生が出てきて弟子をたくさんつくったということが、日本のレベルが高いことにつながってるのだと思うんです。」p.270
・「わかりやすくいいますと、大脳というのはいろんなものをつくり上げていく、ある意味でいえば、粘土をこねて、たとえば彫塑にする。小脳のほうは、こっちからのみでもってまわりを削っていって、ある像をつくる。削るほうは小脳で、何かつけ加えてパターンをつくるのは大脳だといえます。」p.271
・「神経細胞の働きとしては大分わかってきたのですけれども、これからはいろんな物質のかかわりですね。それがどういう風に神経細胞の働き方に関与するかということですね。たとえばいろんなアミンやペプチドが伝達物質や修飾物質として絡んでいる、それがまだよくわかってないですね。」p.273
・「いま現在で、脳研究の最先端のところで一番注目されている分野はなんでしょうか、ここが一つこえられるとまたさらに脳研究が進む、そんな突破口になるような研究は何でしょうか。
塚原 「記憶」の研究ではないかと思います。
」p.276
・「だから、そういう脳の負担を何とかして軽減するようなものを人類が手にしない限りは、必ず情報洪水で人間の脳は参ってしまうでしょう。そういう意味のニーズがあるわけです。だから脳の機能、特に記憶とかのメカニズムがわかれば、そこから人間の能力をグレードアップすることが期待できるわけです。かなり夢物語的な感じはするんですが。」p.277
・「「日本人は創造性がない」といういい方は、ぼくは間違ってると思います。ただ、たとえばノーベル賞をもらう位の非常に重要な自然科学の原理を見つけるようなことでは、確かに外国人に劣っていたかも知れない。(中略)たとえば安い自動車をつくる、小型自動車をつくるとか、新幹線をつくる、そういうのをどうして創造性といわないんだって、最近「ネイチャー」という自然科学者のための週刊誌が日本人の態度を皮肉って書いてありましたけどね。日本人は、自らが創造性がないんだと卑下して、ドライブをかけるという傾向があるんじゃないですか。もっと自信を持たなきゃと思います。」p.281
・「研究費を税金から引き出すという意味では、日本では最近まで物理の人が一番努力してますよ。化学の人がその次でね、生物学関係はあまりやってこなかった。医学関係は別の所からお金が入ってきてましたのであまりやって来なかった。」p.286
・「たった1.5リットルの水っていう表現があるんです。要するに、脳を構成しているのは、組織からいいますと、ほとんど水なんです。重さにしても、大体1.5キログラムですね。その水がいろいろのことをやってるんですよ。結局、この世の中の文明をつくったのは、1.5リットルの水なんですね。」p.289
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【本】デパートを発明した夫婦

2009年08月18日 22時01分00秒 | 読書記録2009
デパートを発明した夫婦, 鹿島茂, 講談社現代新書 1076, 1991年
・19世紀のパリにて、ブシコー夫妻によって創始された "デパート" という商業形態について。それは単なる "新しいタイプの商店" というに留まらず、後の世界経済に計り知れない影響を及ぼした。
・デパートの起源、なんて考えたこともありませんでしたが、なかなか興味深く読みました。「とにかくターゲットは女性」である点が印象的です。日本では近年、"デパート" の業態がだんだんと立ち行かなくなってきているようですが、人々の上昇志向が「まあ、この辺でいいや……」と頭打ちになってきたということでしょうか。『質より価格の時代』。それを発明したブシコーなら、立て直すアイディアをまだまだ持っていそうな気もしますが……デパートの命運やいかに。
・「なぜか、昔からデパートが大好きなのである。とにかく、何の用事がなくとも無料で中に入れて、好き勝手に商品を見てまわれるところが素晴らしい。(中略)いまでも、デパートにいると子供のときの幸せな気持が甦ってくる。なにしろ、ありったけの贅沢を「無料」で見せてくれるのだから、こんなにありがたいところはない。世界各地から運ばれた豪華絢爛たる品々を拝観させていただいて、ほんとにお金を払わなくていいのだろうかという気分にさえなってくる。(中略)まったく、デパートは無料の劇場だ。」p.7
・「こんなわけで、ブラチスラヴァのデパートに入った私は、一つの結論に達せざるを得なかった。すなわち、デパートとは純粋に資本主義的な制度であるばかりか、その究極の発現であると。なぜなら、必要によってではなく、欲望によってものを買うという資本主義固有のプロセスは、まさにデパートによって発動されたものだからである。  したがって、ソ連が本気で資本主義経済の導入をおこないたいなら、一見本末転倒のように見えても、まず第一に、強引にでも西側に劣らぬほど品揃えの豊富な豪華デパートを作って、必要の経済から欲望の経済への移行を図り、国民のたんす貯金を吐きださせることだろう。一時的に猛烈なインフレが起きようとも、いったん欲望の原理に基づく消費のサイクルが生れてしまえば生産は自然に追いついてくるはずだ。(中略)あらかじめ、ここで極言をしてしまえば、デパートを発明したこのブシコーこそが資本主義を発明した者なのである。」p.11
・「これに対し、フランスの個人商店では、いまでも入店自由の原則はない。店に入るときには、私邸を訪問するときと同じ心構えで、まず「こんにちは(ボンジュール・ムッシュー(マダム))」ときちんと挨拶しなければならない。そればかりか、買い求める品物のイメージを明確に心に描いておかないと、「何をお求めでしょうか?(ク・デジレ・ヴー)」と店員が近寄ってきたときに、しどろもどろになって、不審な目つきで睨まれることになりかねない。  つまり、店に入ってから買うものを決めるということは許されないのだ。」p.15
・「しかしながら、王政復古期も後半にさしかかる頃になると、こうした状況にも徐々に変化が現れるようになる。すなわち、マガザン・ド・ヌヴォテ(流行品店)と呼ばれる新しいタイプの商店が登場して、一種の商業革命をひきおこしたのである。  マガザン・ド・ヌヴォテとは、ヌヴォテつまり女物の布地などの流行品を販売する衣料品店を意味したが、このマガザン・ド・ヌヴォテはそれまでのどの商店とも異なる画期的な販売方式を採用していた。」p.17
・「ブシコーのデパート戦略とは、驚異(メルヴェーユ)による不意打ちで、消費者を放心状態に投げ込むことにあったのである。」p.27
・「つまり、それまでは、長期の手形を使う必要上、仕入れ先を固定することが要求されていたのだが、この義理がなくなったのである。その結果、複数の納入業者に仕入れ価格を競争させることが可能になり、仕入れ価格が低下したのみならず、品質と価格の点でヴァラエティに富む商品を取り揃えることができるようになった。」p.39
・「薄利多売方式の当然の帰結としてもたらされたこうした大量買い付けは、商業と工業の関係自体をも変容させることになる。つまり、商店に対する工場や作業場の優越は否定され、大規模店、とりわけパリのデパートが織物工場や作業場を支配するという構図ができあがってくるのである。」p.40
・「季節の谷間の二月、九月にはレース、香水、造花、絨毯、家具、陶磁器、漆器など、季節とは無関係の商品を選んで大売出しをおこなって、年に一度スポット・ライトを当てるように心がけ、常に商品の回転率を高める工夫をしている。現代のデパートでは扱い品目もはるかに増えているが、基本的には、ブシコーが<ボン・マルシェ>で作りだしたこの年間売り出しスケジュールが洋の東西を問わず踏襲されている。  ひとことで言えば、回転効率を高めるためのデパートの年間大売り出しラインナップの基本的コンセプトは、すでにこの時代に完全に確立されていたのである。」p.51
・「たしかにこの商品については、一枚につき何サンチームか損を蒙るだろう。だが、それは私の望むところなのだ。損は出る、しかし、そのあとは? もし、女という女をこの店に引き寄せ、こちらの思いのままに扱うことができたら、女たちは山と積まれた商品を見て、誘惑され、正気を失うはずだ。そして、よく考えもしないで、財布を空にするだろう。いいかね君、要は女たちの欲望に火をつけることだ。そのためには、女たちの気にいるような画期的な商品がひとつ必要なのだ。こうして、いったん女たちの欲望に火をつけてしまったら、ほかの店と同じような値段の商品もたやすく売ることができる。」p.54
・「ブシコーのこうした誠実第一の商法を、装われた誠実さだといって非難する者もいたが、実際には、それが装われたものであるか否かはほとんど関係がなかった。なぜなら、「誠実さ」こそが、<ボン・マルシェ>でもっとも確実に売れる「商品」だったからである。」p.60
・「薄利多売方式、バーゲン・セール、テーマを絞った大売り出し、目玉商品、返品可といった、ブシコーが<ボン・マルシェ>で生みだした販売方法は、すべて、ひとつの大きな原則に基づいていた。すなわち、多種類の商品が多量に売れるということである。しかし、この原則が貫徹されるためには、絶対的な条件が必要となる。それは、多種類の商品を多量にならべておくことのできるスペース、すなわち巨大な店舗である。」p.62
・「ムーレは、客が店から出たときに、目が痛くなるようなディスプレイをしなければならないと主張する。そして、実際、客はこの強烈な色彩に吸い寄せられたように絹生地売り場に殺到してくる。」p.87
・「ブシコーが発明したあらゆる商法は、あらかじめ結論を出してしまえば、ただひとつの方法にいきつく。それは、女性の中に眠っていたすべての欲望を目覚めさせることである。」p.90
・「「女をつかまえたまえ。そうしたら、世界だって売りつけることができるだろう」」p.96
・「すでに、デパートの誕生と同時に、必要による盗みではない病理的な万引きが発生していたわけだが、これは、裏を返せば、デパートの女性誘惑戦術がそれだけ巧みだったことを物語ってはいないだろうか。欲望の喚起されないデパートでは、万引きもまた起こらないからだ。」p.98
・「この頃(1903年)には、まだフランスにはサンタクロースは存在せず、贈り物は親か親類が元旦にあげることになっていた。サンタクロースは第一次世界大戦のあと、アメリカのデパートから輸入されるのを待たなければならない。さすがのブシコーもサンタクロースまでは発明できなかったようである。」p.116
・「当時は、ブルジョワ家庭ではどんな貧しい所帯でもたいてい料理女中がいて、食料品の買い物はこの女中が受け持つことになっていたので、<ボン・マルシェ>には当然、食料品売り場はなかったが、(いまでもフランスのデパートでは食料品は付属のスーパーでしか扱っていない)」p.125
・「ようするに、「アジャンダ」には、全編を通じて、「アッパー・ミドルたらんとする消費者は、すべての面で<ボン・マルシェ>を利用することによって、その理想を実現しなさい」という教育的な命令が、現代のコマーシャル戦略も顔負けの巧みさですべりこませてあるのである。」p.126
・「こうした馴れ合いの宣伝記事をフランス語ではレクラムというが、ブシコーは、たとえそれがレクラムであろうとも消費者は純然たる広告よりはレポート記事のほうを信用することを承知していた。」p.129
・「結局のところ<ボン・マルシェ>の集客戦術は、たとえ買う気がない客でも、とにかく店に呼んでしまえという、こうした原則に基づいていたが、ブシコーは1872年に新館を開店させたとき、この原則をさらに一歩推し進め、デパート内に、待合室を兼ねた読書室を設けるという、およそ並の商人では思いもつかない独創的なアイディアを打ち出した。(中略)女性客というのは、なぜか、デパートに行くのには二人連れを好むくせに、買い物は一人でしたがるものなので、連れをその間待たせておける場所があるというのはまさに願ってもないことなのである。」p.131
・「ブシコーが打ち出した文化戦略の極めつきは、<ボン・マルシェ>の大ホールを一瞬のうちに音楽ホールに変身させておこなう、クラシック・コンサートだった。(中略)1873年、ブシコーは、従業員の情操教育も兼ねて、閉店後に、大ホールでクラシック・コンサートをおこなうことを思いついた。といっても、そのオーケストラはすべて<ボン・マルシェ>の従業員のミュージシャンからなっていた。」p.137
・「現代の日本のデパートでは、買い物以外の目的でやってくる女性客がまずめざす場所といえば、おそらく、トイレと喫茶室が一、二位を占めるのではなかろうか。(中略)実は、ブシコーは新館の設計の際、この点も抜かりなく計算に入れていた。(中略)いまでもパリはその傾向が残っているが、十九世紀には、女性が町中で利用できるようなトイレといったらほとんど皆無に等しかったから、<ボン・マルシェ>の清潔なサニタリー・スペースは女性客にとってはまさに砂漠のオアシスに等しいものと感じられていたに違いない。」p.141
・「カタログの郵送はもちろん無料で、総カタログのほか、売り場別、あるいは大売り出しのカタログもあった。1894年の冬シーズンだけでも、150万部のカタログが発送された。(中略)<ボン・マルシェ>のカタログはモダン・エイジのライフ・スタイルを教えてくれる教科書、つまり「ポパイ」や「Hanako」の元祖として、準アッパー・ミドルの階級の者たちにもっとも熱心に読まれていたマガジンだったのである。」p.148
・「<ボン・マルシェ>が打ち出したデパート戦略の大部分は、ブシコー夫妻の合作の結晶であり、デパートは、ブシコー夫妻によって「発明」されたのである。」p.157
・「<ボン・マルシェ>が他のデパートと異なっていた最大の特徴は、それぞれの売り場(1882年の時点で36)が、<ボン・マルシェ>という連邦を構成する共和国のように完全に独立した機能を持っていたことである。売り場には一人ずつ売り場主任が置かれ、仕入れ、販売の両面で、別個の店舗のように、すべてを取り仕切っていた。」p.160
・「<ボン・マルシェ>においては、配達員、ボイラーマン、ボーイなど現業部門の従業員を除くと、上は取締役から下は平の店員まで、すべて固定給プラス歩合給の給与システムを採用していた。<ボン・マルシェ>が大きく躍進した原動力は、薄利多売方式とならんで、この歩合給システムにあったと言っても決して言いすぎではない。」p.164
・「模範的な店員とは、客がどんなにわがままなことを言っても、常に笑顔で礼儀正しく応対し、客が気持ちよく買い物できるような雰囲気を作り出すことのできる店員であり、その任務とはあくまで、客が納得のいく買い物のできるよう手助けをすることである。  そのため、ブシコーは、店員が客に自分のほうから商品を勧めることは禁止していた。(中略)原則としては、商品それ自体に価値を語らせるというのが、ブシコーのモットーであった。」p.169
・「店員とは、極言すれば、客が店員の存在を意識せずに気持ちよく買い物ができるようにするための「完璧なる接客機械」でなければならないのである。  これは、商売とは客と店員の一対一の真剣勝負だとする従来の考え方とはまったく逆をいく商業哲学であり、店員の役割とは、商品と客を結びつけるハイフンのような補助的なものにすぎなくなってしまっている。」p.175
・「かくして、一生を雇われ人として終わることをあらかじめ覚悟したうえで、ヒエラルキーを昇ることだけを励みに、会社のために人生を燃焼させる人間、すなわちサラリーマンが誕生することになる。<ボン・マルシェ>は、「消費者」を作りだしたばかりか、「サラリーマン」まで作りだしたのである。」p.185
・「ひとことで言えば、顧客の意識が上昇したその分だけ、店員の意識も上昇させてやらなければならないのである。」p.198
・「ひとことでいえば、デパートの肉体労働者は、店員のエリート意識を覚醒させるために、経営者が意図的に屈従を強いた存在にすぎなかったのである。」p.208
・「インフレのなかった十九世紀においてはベース・アップという発想自体が存在せず、給与生活者の給与は、昇進がないかぎり何年たっても同じだったのである。」p.210
・「彼が発明したデパートという商業形態にあっては、家族的な配慮によって従業員をひきとめ、娘と経営権を相続するという餌でやる気を引き出すという従来の方法は不可能になっていたのである。従業員がデパートで働く目的はただ、金を得るということ、これだけでしかない。」p.222
・「いいかえれば、<ボン・マルシェ>は、超近代的な販売システムと利益循環システムによって運営されているにもかかわらず、基本的には、「ブシコー夫妻と三千人の子供たち(ブシコー夫人が没した1887年の店員の数)の店」と表現するのがもっともふさわしいのである。(中略)創業者の名前をいまだに掲げているデパートは、パリでは唯一この<ボン・マルシェ>だけである。」p.225
・「近代という時代を作りだすのにあずかって力あった数多くの発明発見の中で、商業の天才ブシコーによっておこなわれたデパートという発明はものを買うというもっとも人間的な行為を百八十度転倒してしまったという点で、まさに革命的な意味を持っている。すなわち、デパートにひとたび足を踏みいれた買い物客は、必要によって買うのではなく、その場で初めて必要を見いだすことになったのである。」p.228
・「消費者に、より豊かなハイ・ライフという目標を設定してやって、そこに到達するよう叱咤激励してやること。実は、この教育的な側面が存在しなかったら、<ボン・マルシェ>の本当の意味での発展はありえなかったはずである。」p.230
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【本】遺伝子診断で何ができるか

2009年08月11日 22時02分48秒 | 読書記録2009
遺伝子診断で何ができるか 出生前診断から犯罪捜査まで, 奈良信雄, 講談社ブルーバックス B-1222, 1998年
・遺伝子の専門家ではなく、白血病研究が専門の著者による遺伝子入門書。タイトルに「遺伝子診断」の言葉は使っているが、それに特化した内容というわけでもなく、遺伝子のイロハから記述している。特に目新しさを感じる部分もなく、専門家の手による書ではないだけに、「関連書を10冊読んで1冊にまとめた」感は否めない。
・「クローンとは、元来は一つの木の枝から出てきた小枝の集団をさす。それが嵩じて、生物学ではまったく同じ遺伝子をもつ細胞同士や、個体同士をクローンといっている。」p.21
・「血液型とは、血液細胞の表面の膜にある糖鎖抗原のタイプを示すものだ。  血球表面上にある糖鎖の末端部分にフコースとガラクトースがあるとO型である。これにアセチルガラクトサミンがついたらA型で、もう一つガラクトースのついたものがB型である。」p.23
・「1997年8月、父親がO型(遺伝子型はOO)で、母親がB型(遺伝子型はBO)という両親からA型の子が生まれたという発表があった。(中略)原因は、血液型を決める遺伝子が変化したことによる。」p.25
・「ヒトの生命の設計図といえるDNA暗号文をすべて理解すれば、あらゆる生命現象がたちどころに解釈できるかもしれない。三五億年の生物進化の歴史もたどれよう。病気の原因もわかるだろう。」p.41
・「DNAという材料をまず刻むのに使うのが、制限酵素という道具である。(中略)塩基がずらずらと並んだDNA。いくら短くしろといわれても、制限酵素というハサミは、絶対にデタラメに切ったりはしない。決まった塩基配列しか切らないすぐれものなのだ。」p.94
・「切断されたDNAの断片を、元通りに接着する働きをするのが、DNAリカーゼという酵素である。あとで出てくる、遺伝子組み換えになくてはならない道具だ。」p.95
・「DNAは、熱を加えたりすると、二本鎖がほぐれる。熱をさますと、またくっつく。これをアニーリングという。このときには、当然、相補的な相手とくっつく。相補的な核酸同士がくっつくことを、ハイブリダイゼーションという。」p.106
・「これまで、DNAなりRNAを調べる方法や、使い方を見てきた。だが、自然にある素材だけでは、検討は十分ではない。もしもそっくりのコピーをたくさん作りあげ、それを調べたり使ったりできれば、はるかに作業ははかどる。しかも、正確さだって増すはずだ。  この要望に応えるのが、PCR(ポリメラーゼ・チェイン・リアクションの略)法という、コロンブスのタマゴ的な発想だ。」p.110
・「すでに遺伝子組み換えという言葉はこれまでにも登場した。ここであらためて説明しておくと、切断した遺伝子を、異なる遺伝子につなぎこむことをいう。」p.113
・「「ヒト」は、人間の種を表すホモ・サピエンスの和名である。かたや、「人間」は、過去数百万年前の先祖や近縁種を含め、二足歩行をする霊長類の一群をさす。」p.123
・「このように、研究対象とする遺伝子によって、推定年代が違ってしまう。これからわかるように、ある日突然に一人の新人がさっそうと登場したわけではないのだろう。新種の形成は、集団の人口を維持しながら、少しずつ新しい血をもつ集団へと移行していったに違いない。」p.131
・「つまり、病気というのは、遺伝子で規定される患者個人の素因を基に、いくつもの環境因子が加わって起きるものと考えてよい(5・1図)。」p.152
・「ガンとは、ある一個の細胞が突然に過剰の増殖を開始し、無制限に増え続けて起きる病気だ。本来あるべき正常の細胞を邪魔者扱いにする。さらに、転移して、いろんな臓器にも障害を与える。こうして、人間を死に追いやる。」p.165
・「遺伝子診断技術が急速な発展をとげる今こそ、社会のコンセンサスを得る作業にすぐにでも取りかからねばならない。  こうした作業は、残念ながら日本は苦手だ。何か問題が浮上してはじめて、あわててルールを作る。この体質は、近い将来になっても、そうかんたんには直るまい。  その点、合理的なアメリカでは、さっそく法律作りに取りかかっている。」p.211
・「そんな中で、これぞ本当によくわかるという解説書がある。それは、コンピュータの専門家とか、ソフトウェアの開発者が書いたものではない。その分野の人が書いた本こそが、じつはやっかいな代物なのだ。汗水流してパソコンを使いこなしたユーザーの代表が、自らの惨憺たる経験を披露して書いた入門書がある。これなら、よくわかる。(中略)遺伝子を解説した書物も、書店によく並んでいる。が、パソコン入門書と同じく、けっこう難解なものがほとんどだ。(中略)筆者は、もともと分子生物学者ではなく、内科医だ。風邪の人も診察すれば、高血圧症のおばあさん、糖尿病のおじいさん、胃ガンや白血病の患者さん、何でもござれのしがない医者だ。  と、同時に、ガンがどうして発病するのか? ガンはどのようにして発見するのが効率的か? はたまた、最適の治療法は? これらを研究する研究者でもある。(中略)ガンの研究をするには、分子生物学や遺伝子工学の知識がなくては始まらない。ガンが遺伝子の病気であるからだ。」p.213
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【本】フランケンシュタイン

2009年08月04日 22時00分57秒 | 読書記録2009
フランケンシュタイン, メアリ・シェリー (訳)森下弓子, 創元推理文庫 532-1, 1984年
(Frankenstein; or, The Modern Prometheus. by Mary Shelly 1831)

・「フランケンシュタイン」と聞くと、思い浮かぶのは藤子不二雄作のマンガ、『怪物くん』に登場する「フンガー」としか言わない怪物 "フランケン"。そんな風に誰しも、その怪物に対する何らかのイメージがあるのではと思いますが、その「フランケンシュタイン」の名は、実は原作においては怪物の名ではなく、それを作り出した人物の名前であることを知る人は多いかもしれません。しかし、実際にその原作を手にとって、著者は女性であること、作品の発表は今から約200年前である、怪物を生み出す人物は大学に通う学生(若者)である、怪物は人間以上に細やかな感性を持ち、頭脳明晰でその動きも俊敏であることなどなどまで知る人は少ないのではないでしょうか。かく言う私も、以上挙げたような点について誤解していました。そして、ここまでトンデもない小説だとも思っていませんでした。もっと広く読まれてもいい、歴史的名作だと思います。
・鉄腕アトムのように人間とは見分けのつかない機械仕掛けの人造人間を、果たして「人間」と呼べるのか。いくら精巧に創ったとしてもこれを人間と呼ぶことに抵抗を覚える人は多いでしょうが、では、もし100%人間の生体組織を用いて創った人造人間なら? 人間との違いは、その命を吹き込んだ者が、"神" であるか "人" であるかのただ一点。「人間とは何か?」という大きな難問をはらんでいる作品です。
・巻末に作者の年譜付き。
・「先に申したとおり、わたしはいつも、自然の秘密をきわめたいという熱い憧れで一杯でした。現代の知者たちの刻苦精励と驚くべき諸発見にもかかわらず、わたしはきまって、不満な飽き足らぬ気持で勉学からさめるのでした。サー・アイザック・ニュートンは自分のことを、まるで真実という未探検の大海原のふちで貝殻集めをしている子供のような気分であると告白したといいます。自然科学の各分野でわたしが知っているニュートンの後継者たちなどは、子供のわたしから見てさえ、同じ作業に精出している初学者としか思えませんでした。」p.52
・「「この学問の古い時代の教師たちは、不可能を約束し、何ひとつ実現しなかったのであります。現代の権威はほとんど約束をしない。金属を金銀に変えることはできないと、また生命の霊薬は幻想であると、承知しているのであります。これら科学者たちの手は泥いじりのためにのみ造られ、目は顕微鏡やるつぼをのぞくためにのみ造られていると見えるかもしれない。だが彼らこそ実際に奇跡をなしとげてきたのです。彼らは自然の深奥を看破し、自然の隠れ家における営みを明らかにする。彼らは天にも昇ってゆく。血液の循環が、われわれの呼吸する空気の性質が、すでに明るみに出されております。科学者の得た力は新しく、ほとんど無限と言ってもよい。天のいかずちを支配することも地震を真似ることも、不可視の世界に本物そっくりの影を造ってみせることさえも、できるのであります」  これが教授の言葉でした――いえ、これがわたしを滅ぼすために発せられた宿命の言葉だった、と申しておきましょう。」p.62
・「科学の魅力は、味わった人でなければ想像もつかぬものがあります。他の学問なら、今まで他人がやったところまでは行きつけるが、その先はもう知るべきことがありません。しかし科学の研究にはつねに発見と驚異の糧があるのです。」p.66
・「わたしがとりわけ興味を惹かれた事象のひとつは、人体の構成、および生命をあたえられたあらゆる生き物のそれでした。わたしはよく自問したものです。生命の根源はどこにあるのか? それは大胆な問いでした。」p.67
・「昼も夜も信じられぬような苦心と疲労をかさねたすえに、わたしは発生と生命の原因を解き明かすことに成功した、いえ、それどころか、この手で無生物に生命を吹きこむこともできるようになったのです。」p.68
・「人生の出来事はさまざまだと言っても、人の心くらい変わりやすいものはありません。ほぼ二年近くも、無生物のからだに生命を吹きこもうという一年で励んできたわたし、そのためにはわれとわが身の休息も健康もとりあげ、中庸をはるかに越えて熱い望みを抱きもした。それが、なしおえた今、美しい夢はどこへやら、息も止まる恐怖と嫌悪で心は一杯でした。」p.75
・「傷ついた鹿がぐったりしたからだをひきずって、踏み入るものもないどこかの藪へ這入ってゆき、そこで身をつらぬいた矢をじっと眺めて、そして死んでゆこうとする――ほかならぬそれがわたしの姿でした。」p.126
・「忘れるな、おまえは自分よりも強くこの身を創った。身の丈はまさるし、関節はしなやかだ。だが、おれはあんたに刃向かうような真似はしたくない。この身はあんたの被造物、そちらさえ当然果たすべき役割をつとめてくれれば、生まれながらのわが主、わが王に、おとなしく従順にだってなるつもりだ。おお、フランケンシュタイン、他の者すべてに公正で、おれひとりを踏みつけにするのはやめてくれ。この身こそ、あんたの正義を、いや、あんたの情と愛をさえ受けてしかるべきなのに。忘れてくれるな、おれはあんたの被造物、あんたのアダムであるべきなのだ。だがこれでは、悪行をおかしもせぬのに喜びから追われた堕天使だ。幸福はいたるところに見えるのに、自分ひとり閉めだされて、どうにもできない。自分は優しく善良だった。みじめさがおれを鬼にした。幸せにしてくれ、そうすれば徳に立ちかえろう」p.134
・「心にはっきりとした観念はなく、何もかもがごっちゃだった。光と、飢えと、渇きと、闇を、自分は感じた。耳には無数の音が鳴り響き、四方からいろんなにおいがやってきた。はっきりとわかるものといったらあの明るい月ただひとつだったから、自分は嬉しい気持でじっとそれに目を向けた。  「何回か昼と夜とが入れかわり、夜の光がだんだん細くなるころには、自分の五感それぞれの違いがのみこめてきた。」p.138
・「この優しい人々が不幸だというのはなぜだ? 気持のよい家はあり(と自分の目にはそう見えた)、あらゆる贅沢品も持っている。寒ければ暖まる火があるし、腹ぺこならばうまいご馳走がある。すばらしい服も身につけている。そしてなにより、おたがい同士一緒にいて話ができ、毎日、愛情と親切のこもったまなざしを交わすことができるではないか。あの涙の意味は何だ? 本当に苦痛のあらわれなのか? これらの疑問を初めは解くことができずにいたが、たゆまぬ注意と時間とが、最初謎のように見えたものをいろいろ自分に解き明かしてくれた。  「かなりの期間が過ぎてやっと、自分はこの愛すべき一家の心労の種のひとつを発見した。それは貧乏だったのだ。」p.147
・「「そのうちさらに重大な意義のある発見をした。この一家はおたがいに経験や気持を意味のある音声で伝えあう方法を持つことに気づいたのだ。しゃべる言葉が聞いた者の心と顔に、喜びや苦痛、笑みや悲しみをもたらすことがあるのを知った。これこそ神のわざだ。自分もそれを知りたくてたまらなかった。だがそのためにする試みは、いつも挫かれてばかりだった。」p.148
・「「この人々の完璧な姿かたちに自分は感嘆したものだ――その優美さ、その美しさ、繊細な肌の色。だがこの自分の姿を透明な池のなかに見たときの恐ろしさは! 一瞬自分はぎくりと身をひいた。鏡に映ったのが本当にわが身であるとは信じられなかったのだ。そして自分が現実にこのとおりの怪物であると納得するにいたったときには、落胆と屈辱のにがい思いがこみあげてきた。おお! だがこのみじめな奇形の致命的な結果を見にしみて知るのはまだ先のことだった。」p.151
・「だがこの自分は何者だ? 自分の創造のことも創り主のことも、自分はまったく知らなかった。ただ金もなければ友もなく、財産らしいものもないことは知っていた。そのうえおれは、恐ろしく醜悪で嫌悪をもよおす姿かたちをさずかっている。性質さえも人間並みとは違っている。人よりも敏捷で、粗末な食べもので食いつなぐことができるし、極端な暑さ寒さにもそれほど害を受けずに耐えられる。体格は彼らをはるかにしのいでいる。まわりを見ても、自分のようなものは見えもしないし、聞かれもしない。それでは自分は怪物なのか。大地のしみ、人はみなおれから逃げだし、誰もがおれを打ち棄てるのか?」p.158
・「「ある夜のこと、通いなれた近くの森で、食べものを集め庇護者たちに薪を持って帰ろうとしていた自分は、地面に革の旅行鞄があるのを見つけた。なかには衣類が数点と数冊の書物が入っていた。自分は夢中で獲物をつかみ、それを納屋に持ち帰った。さいわい書物は自分がこの家で初歩を学んだ同じ言語で書かれていた。それは『失楽園』と『ブルターク英雄伝』の一巻そして『若きウェルテルの悩み』とからなっていた。この宝を持つ嬉しさはたとえようもないものだった。これらの物語を読むために、友人たちがふだんの仕事に精出しているあいだじゅう、たゆまず学び頭を働かせた。」p.167
・「『この身が生を受けたその日が憎い!』苦しさのあまりにおれは叫んだ。『呪われた創り主よ! おまえまでがむかついて顔をそむける、そんなおぞましい怪物を、なにゆえに創りだしたのだ? 神は哀れんで人をみずからの姿に似せ、美しく魅惑的に創りたもうた。だがこの身はおまえの汚い似姿で、似ているからこそいっそう身の毛もよだつのだ。サタンには仲間の悪魔どもがいて、崇め、勇気をあたえてくれた。だのにおれは孤独な嫌われ者なのだ』」p.171
・「天使のような彼らの顔が慰めの微笑をふりまいた。だがしょせんはみな夢の話。悲しみをなだめ、思いをわけあうイヴはいない。自分はひとりだ。創り主にうったえたアダムの願いが思い出された。だがおれの創り主はどこにいる? 彼はおれを捨てたのだ。そこで自分は苦しさまぎれに彼を呪った。」p.172
・「おれを哀れんでくれぬ人間に、こちらが哀れみをかける理由があるなら、教えてくれ。」p.190
・「フランケンシュタインが哀れだった。哀れさはつのって恐怖になった。わが身がぞっとするほど憎かった。だがこの生命と言うに言われぬ責め苦との両方を創りだしたその男が、大胆にも幸福を望もうとしていると知ったとき――おれの上には不幸と絶望を積みかさねておきながら、彼ひとり、この身が永久に閉めだされている恩恵から感情と情熱の喜びを得ようとしているのを知ったとき、無力な嫉妬とにがい憤怒が、おれを飽くことのない復讐欲で満たしたのだ。」p.292
●以下、解説「『フランケンシュタイン』の過去・現在・未来」新藤純子より
・「そして、ゴシック小説がイギリスの小説史では比較的マイナーな存在として扱われるのと同様、『フランケンシュタイン』もまた、文学史上ではマイナーな作品として見られている。実際、誰もが言うことだが、フランケンシュタインの名を知らぬ者はないが、原作を読む者は欧米でもまれなのである。」p.300
・「進化論は神の否定につながり、そこから人間による生命創造の可能性も、当然、生まれてくるであろう。進化のプロセスがわかれば、人は神にかかわりうるのではないか。『フランケンシュタイン』は人が神にかわって生命を造ってしまう話である。そして、こうして生まれた新人類(怪物)は、やがて子孫を増やして人間を滅ぼすかもしれない。なにしろ、怪物は容姿以外はすべて、人間より勝っているのだから。この、人は神にかわりうるか、という問題は、DNA革命の現代おいて、今までになく現実的な問題になってきている。」p.301
・「『フランケンシュタイン』を読み解く鍵としてよくあげられるのは、孤独のテーマ、知識を得ることに関する主題、科学者の責任の問題、ウォルトン=フランケンシュタイン=怪物の間の対応関係とドッペルゲンガー、などなどであり、これらが先程の語りの構成によって効果的に表現されている。」p.304
・「どちかがどちらだかわからない、ということに関連して、この小説は、人間の二面性、科学の二面性をも示唆しているように思われる。フランケンシュタインの周囲の人々はみな善良な人々である。が、怪物の出会う人々はことごとく残酷で野蛮だ。フランケンシュタインのまわりには善良な人々が、怪物のまわりには悪人がいたのだろうか。そうではない。同じ人間が、善良さと残酷さを同時に持ち合わせているのだ。」p.312
・「最初に述べたように、『フランケンシュタイン』は小説の歴史の上ではマイナーな存在である。これまで述べてきたさまざまな要素も、芸術品として完全に昇華させられているわけではない。それぞれの要素は二百年近くたった現代の読者にとっても多くの示唆に富み、予言に満ちているが、全体的な完成度はと言えば、今一歩と言わざるを得ない。だが、この小説の真価はそれ自体の完結、古典としての完成度にあるのではなく、それ自身がひとつの可能体であり、さまざまな "子供たち" を作り得る、その可能性にあると言えるだろう。実際に、フランケンシュタインの子供たちは作者と原作の手を離れて、さまざまな方向に進んで行った。ひとつは映画へ、もうひとつはSFへ。」p.314
・「『フランケンシュタイン』の中に描かれたさまざまな要素は、必ずしもSFのテーマと限定できるものではないのだが、その後のSFの中に非常によく取り入れられている。なかでも、科学者が自分の造った人造人間に殺される、人間が自分の造ったものに復讐されるというモチーフは、ロボットもののSFのひとつのパターンとなってしまった。」p.317
・「ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、何から何まで人間と同じように造られた意識のめざめという点で、また、登場人物の幾人かにドッペルゲンガーの要素が見られる点で、『フランケンシュタイン』の主題をひきついではいるが、それらは類似の段階にとどまっている。むしろディックのこの小説が秀れているのは、人間とアンドロイド、適格者(レギュラー)と特殊者(スペシャル)、本物の動物と機械の動物、機械じかけの共感と本物の共感といった、幾重にも重なる本物とにせもののパラレルを通して、いったい、どれが本物でどれがにせものかわからなくなってしまうほどの、その卓越した叙述である。」p.321
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