2日目の朝
チェックアウトして荷物をホテルに預け、まずは市電で元町に向かう。
本日は末広町で下車した。
まずは市電通りに面した「相馬株式会社」の建物を写真に収めた(左下写真)。ガイドブックによると「米穀商の相馬商店の店舗として大正2年(1913)に建てられた。下見板張りの壁やルネッサンス風の屋根や窓が印象的な木造2階建て。今も不動産業の社屋として現役」とある。
基坂を登ってふり返った景色が右下写真である。
坂を上がる途中の左側に「函館市旧イギリス領事館(開港記念館)」がある。
旧イギリス領事館 門からの眺め 裏庭から函館山を見る
旧イギリス領事館 部屋の中 部屋から裏庭を見る
左上の写真で双眼鏡で外を眺める背の低い人は、リチャード・ユースデン領事のようである。
説明によると、ユースデンは幕末時代にイギリス外交官として日本に着任し、最後は函館のイギリス領事を務めたようです。『歴代のイギリス領事の中で、特に市民に親しまれ、函館に大きな足跡を残したのがリチャード・ユースデン領事です。身体が小さかったため「豆コンシロ(consule=領事)の愛称で呼ばれ・・・』
基坂を登り切ったところが元町公園であり、さらにその上に、函館山を背にして「旧函館区公会堂」が建っている。
元町公園から函館山を背にして公会堂 公会堂近景
下の写真は「四天王像」とある。左から今井市右衛門、平田分右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の四氏で、いずれも1836~1922年の間を生きた人たちだ。明治の函館は旧藩がなかったので、市民は受敵に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをしたという。その方向付けをしたのがこの四天王であったらしい。
左下写真は、元町公園内に建っている「旧北海道庁函館支庁庁舎」である。中は写真歴史観になっている(右下写真)。
基坂の頂上付近、山に向かって右側に「ペリー提督来航記念碑」が建っている。
ペリー提督は1854年、開港される函館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて函館に来航したのだ。函館市が国際観光都市として発展する礎になったと評価されている。
基坂を下りたところに、「函館市北方民族資料館」がある(左下が外観写真)。アイヌ民族についての資料が展示されている。来館者は少なく、中はしんとしている。写真撮影はエントランス近くの部分のみ可である(右下写真)。
市電で函館駅まで戻る。
次の目標は「函館朝市」である。その一角の「どんぶり横町」で昼食にする。ガイドブックの記事から「馬子とやすべ」を選んだ(左下写真)。海鮮丼もの(写真撮影を忘れた)といかそーめんを注文する。右下写真がいかそーめんである。水相に泳ぐ活きイカをその場で料理したものだという。皿に盛られたイカ足部分は、触れるとびくびく動く。
次は五稜郭である。
ホテルで荷物を受け取り、市電に乗り、五稜郭公園前で降りた。まず荷物をコインロッカーに預けなければならない。近くの薬局に寄ったときに聞いたら、「丸井今井にあるでしょう」ということで、行ってみるとデパートであった。そこのコインロッカーに荷物を預けて五稜郭に向かう。結構な距離、歩かなければならない。
五稜郭にはタワーが建っている(下の写真)。ガイドブックに「まずは五稜郭タワーから五稜郭の全体像をつかんで橋を渡り・・・」と書いてあったので、タワーに登った。ガイドブックを読んでいなかったらタワーに登らなかったかもしれない。
しかし、このタワーは正解である。五稜郭は、地面を歩き回っただけではその全体の五角形を一望にすることができない。タワーから見てはじめて、五稜郭の全体を把握することができるのである。下の写真にあるように、換算28mmの広角でも全体が写らないぐらいに広がっていた。
左下写真の橋を渡って中央五角形の領域に入る。石垣の高さは低い(右下写真)。
五稜郭の中央に建っているのが函館奉行所庁舎である。
この函館奉行所庁舎、今年の春に再建され完成したばかりだ。
函館奉行所という役所は、1854年に日米和親条約によって函館が開港したときに設けられた役所である。当初は現在の元町公園に奉行所が置かれた。
しかし、港湾から近く防備上不利であったことなどから、内陸のこの地に奉行所を移すことになった。そうしてできあがったのが五稜郭である。奉行所という役所のために、ヨーロッパの城塞都市を参考として西洋式の土塁が建設されたのである。そこで、五稜郭の中心部には当然ながら“奉行所”の機能を果たすための建物が設置された。
五稜郭は明治維新後の函館戦争の舞台となった後、奉行所庁舎を含むほとんどの建物が解体され、大正時代以降は公園として一般に開放された。
今回再建された建物は、当時の奉行所庁舎全体のおよそ1/3にあたる約1000平方mの建物であり、復旧工事は平成18年から4年かかりで行われた。全国から結集した宮大工などの職人による日本伝統建築の匠の技により、当時の姿が再現されたという。
五稜郭であるが、港の奉行所という役所機能を果たすだけのために、なぜこんな大規模な星形五角形の防備施設を設ける必要があったのだろうか。
ヨーロッパにおいては、とっくの昔に大砲が主要兵器となり、もし堅固な防備を必要とするのであれば、大砲の集中攻撃を受けても破壊されない要塞が必要となっていた。イスラム勢力と闘ったコンスタンチノープルにしろロードス島にしろ、そうであった。ところがこの五稜郭については、高性能の大砲で砲撃されたらあっという間に破壊されるような石垣しか設けられていない。
おそらく、小銃で武装した歩兵の攻撃のみを対象として計画されたのであろう。そうであれば、“ヨーロッパの最新の思想に基づく要塞”とは称してほしくない。
当初の目論見では「海上の軍艦からの砲撃を避けるために内陸に設置した」と言うことらしいが、函館戦争に際しては、新政府軍の軍艦からの砲撃が五稜郭に届いてしまったらしい。また、再建された奉行所庁舎の屋根には塔が建っているが、この塔が海上の軍艦から視認できたために砲撃の目標とされてしまった。これでは笑い話である。
下の写真は奉行所内に展示してあったエンフィールド銃である。
幕末に使われた西洋からの輸入小銃としては、ミニエー銃とスナイドル銃を記憶している。ミニエー銃は先込め(前装)、スナイドル銃は後込め(後装)のようだ。当然、前装よりも後装の方が弾丸の装填が早いので有利である。
ウィキで調べると、“エンフィールド銃は前装のミニエー銃の一種としてスタートし、その後、改造によって後装のスナイドル銃となった”ということらしい。日本ではエンフィールド銃は幕末に大量に輸入され、戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であったらしい。
こうして五稜郭散策が終わった。このあと、市電の五稜郭公園前まで歩いて戻り、丸井今井で荷物を受けとるとともにティールームで一休みした。
そして市電に乗って、本日の宿泊地である湯の川温泉に向かった。
戻る 続く
チェックアウトして荷物をホテルに預け、まずは市電で元町に向かう。
本日は末広町で下車した。
まずは市電通りに面した「相馬株式会社」の建物を写真に収めた(左下写真)。ガイドブックによると「米穀商の相馬商店の店舗として大正2年(1913)に建てられた。下見板張りの壁やルネッサンス風の屋根や窓が印象的な木造2階建て。今も不動産業の社屋として現役」とある。
基坂を登ってふり返った景色が右下写真である。
坂を上がる途中の左側に「函館市旧イギリス領事館(開港記念館)」がある。
旧イギリス領事館 門からの眺め 裏庭から函館山を見る
旧イギリス領事館 部屋の中 部屋から裏庭を見る
左上の写真で双眼鏡で外を眺める背の低い人は、リチャード・ユースデン領事のようである。
説明によると、ユースデンは幕末時代にイギリス外交官として日本に着任し、最後は函館のイギリス領事を務めたようです。『歴代のイギリス領事の中で、特に市民に親しまれ、函館に大きな足跡を残したのがリチャード・ユースデン領事です。身体が小さかったため「豆コンシロ(consule=領事)の愛称で呼ばれ・・・』
基坂を登り切ったところが元町公園であり、さらにその上に、函館山を背にして「旧函館区公会堂」が建っている。
元町公園から函館山を背にして公会堂 公会堂近景
下の写真は「四天王像」とある。左から今井市右衛門、平田分右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の四氏で、いずれも1836~1922年の間を生きた人たちだ。明治の函館は旧藩がなかったので、市民は受敵に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをしたという。その方向付けをしたのがこの四天王であったらしい。
左下写真は、元町公園内に建っている「旧北海道庁函館支庁庁舎」である。中は写真歴史観になっている(右下写真)。
基坂の頂上付近、山に向かって右側に「ペリー提督来航記念碑」が建っている。
ペリー提督は1854年、開港される函館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて函館に来航したのだ。函館市が国際観光都市として発展する礎になったと評価されている。
基坂を下りたところに、「函館市北方民族資料館」がある(左下が外観写真)。アイヌ民族についての資料が展示されている。来館者は少なく、中はしんとしている。写真撮影はエントランス近くの部分のみ可である(右下写真)。
市電で函館駅まで戻る。
次の目標は「函館朝市」である。その一角の「どんぶり横町」で昼食にする。ガイドブックの記事から「馬子とやすべ」を選んだ(左下写真)。海鮮丼もの(写真撮影を忘れた)といかそーめんを注文する。右下写真がいかそーめんである。水相に泳ぐ活きイカをその場で料理したものだという。皿に盛られたイカ足部分は、触れるとびくびく動く。
次は五稜郭である。
ホテルで荷物を受け取り、市電に乗り、五稜郭公園前で降りた。まず荷物をコインロッカーに預けなければならない。近くの薬局に寄ったときに聞いたら、「丸井今井にあるでしょう」ということで、行ってみるとデパートであった。そこのコインロッカーに荷物を預けて五稜郭に向かう。結構な距離、歩かなければならない。
五稜郭にはタワーが建っている(下の写真)。ガイドブックに「まずは五稜郭タワーから五稜郭の全体像をつかんで橋を渡り・・・」と書いてあったので、タワーに登った。ガイドブックを読んでいなかったらタワーに登らなかったかもしれない。
しかし、このタワーは正解である。五稜郭は、地面を歩き回っただけではその全体の五角形を一望にすることができない。タワーから見てはじめて、五稜郭の全体を把握することができるのである。下の写真にあるように、換算28mmの広角でも全体が写らないぐらいに広がっていた。
左下写真の橋を渡って中央五角形の領域に入る。石垣の高さは低い(右下写真)。
五稜郭の中央に建っているのが函館奉行所庁舎である。
この函館奉行所庁舎、今年の春に再建され完成したばかりだ。
函館奉行所という役所は、1854年に日米和親条約によって函館が開港したときに設けられた役所である。当初は現在の元町公園に奉行所が置かれた。
しかし、港湾から近く防備上不利であったことなどから、内陸のこの地に奉行所を移すことになった。そうしてできあがったのが五稜郭である。奉行所という役所のために、ヨーロッパの城塞都市を参考として西洋式の土塁が建設されたのである。そこで、五稜郭の中心部には当然ながら“奉行所”の機能を果たすための建物が設置された。
五稜郭は明治維新後の函館戦争の舞台となった後、奉行所庁舎を含むほとんどの建物が解体され、大正時代以降は公園として一般に開放された。
今回再建された建物は、当時の奉行所庁舎全体のおよそ1/3にあたる約1000平方mの建物であり、復旧工事は平成18年から4年かかりで行われた。全国から結集した宮大工などの職人による日本伝統建築の匠の技により、当時の姿が再現されたという。
五稜郭であるが、港の奉行所という役所機能を果たすだけのために、なぜこんな大規模な星形五角形の防備施設を設ける必要があったのだろうか。
ヨーロッパにおいては、とっくの昔に大砲が主要兵器となり、もし堅固な防備を必要とするのであれば、大砲の集中攻撃を受けても破壊されない要塞が必要となっていた。イスラム勢力と闘ったコンスタンチノープルにしろロードス島にしろ、そうであった。ところがこの五稜郭については、高性能の大砲で砲撃されたらあっという間に破壊されるような石垣しか設けられていない。
おそらく、小銃で武装した歩兵の攻撃のみを対象として計画されたのであろう。そうであれば、“ヨーロッパの最新の思想に基づく要塞”とは称してほしくない。
当初の目論見では「海上の軍艦からの砲撃を避けるために内陸に設置した」と言うことらしいが、函館戦争に際しては、新政府軍の軍艦からの砲撃が五稜郭に届いてしまったらしい。また、再建された奉行所庁舎の屋根には塔が建っているが、この塔が海上の軍艦から視認できたために砲撃の目標とされてしまった。これでは笑い話である。
下の写真は奉行所内に展示してあったエンフィールド銃である。
幕末に使われた西洋からの輸入小銃としては、ミニエー銃とスナイドル銃を記憶している。ミニエー銃は先込め(前装)、スナイドル銃は後込め(後装)のようだ。当然、前装よりも後装の方が弾丸の装填が早いので有利である。
ウィキで調べると、“エンフィールド銃は前装のミニエー銃の一種としてスタートし、その後、改造によって後装のスナイドル銃となった”ということらしい。日本ではエンフィールド銃は幕末に大量に輸入され、戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であったらしい。
こうして五稜郭散策が終わった。このあと、市電の五稜郭公園前まで歩いて戻り、丸井今井で荷物を受けとるとともにティールームで一休みした。
そして市電に乗って、本日の宿泊地である湯の川温泉に向かった。
戻る 続く
140年ぶりに再建されたという函館奉行所庁舎も、屋根の天辺に塔のような櫓があり、なかなか風格のある建物です!
春の桜の季節に函館に行ったら、最高に綺麗でしょうね!!