池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

夢と人格

2021-07-24 08:45:17 | 日記
 二人は無言で橋に向かって歩いていく。平日の河川敷にはほとんど人影がない。野球のグラウンドもサッカーのグラウンドも空っぽだった。
「ねえ…」
「なに?」
「早期退職のこと、まだあの女に話していないでしょ」
「どうしてわかるんだ?」赤城原はびっくりして理絵を見た。理絵はくすくす笑った。
「わかるわよ、そりゃ。仕事でもないのに昼間っから背広を着込んでカバン持っているんだもの」
「そうか。そう言われればそうだな」
「打ち明けるつもり?」
「もちろん黙ったままにするわけにはいかんだろう。タイミングを見て話すつもりではいるんだが」
「まだ話さない方がいいわ」
「どうして?」
 理絵は再び無言になった。下を見ながら何かを考えている様子だったが、やがて顔を上げ、強い口調で言った。
「パパが早期退職して何か新しいことを始めるって聞いたら、あの女は百パーセント離婚を要求するわ」
「そうかなあ」
「間違いない。そうなったらパパの退職金は半分になるわよ」
「本当に離婚することになったら、ある程度やむを得ないだろう。彼女は働いているわけでもないし。おまえだって相手から慰謝料をふんだくろうと言うんだろう?」
「私の場合は、明らかに私が被害者よ。パパの場合はまったく違うわ。パパの方が被害者だわ」
「どういう意味だい?」
「あの女ね・・・ぜったいに外に男を作っているわ」
「どうしてわかる?」
「女の直感よ」
「直感で物事を決めつけるわけにはいかないよ」
「ちょっとした証拠もあるの。いままで黙っていたけど、私が大学生で仙台から帰省していたとき、突然男から電話がかかってきたことがあった。私が受話器を取ると『成実?』って訊いてきたわ。『母は外出しています』と答えると、すぐに電話を切ったわ」
「それが浮気の証拠か?」
「だって他人の奥さんに向かって呼び捨てする男がいる、愛人以外で?」
「成実のお父さんだったかもしれないじゃないか」
「そんな老人の声じゃなかったわ。中年男の声よ。それも嫌らしい感じの」
「・・・」
「だから打ち明ける前にそれをしっかり調べて黒白をはっきりさせた方がいいわ。黒ならそのまま離婚すればいい。場合によっちゃ相手の男から慰謝料をもらうこともできるわ。白だったら、おとなしく慰謝料を払って別れればいい。それから新しいことにチャレンジしても遅くない」
「・・・」
「私がパパだったら、絶対にそうする」
 湿気を含んだ強い風が何度も通り抜けていった。土手の若草が揺れている。橋の向こうでは、黒い雲が低い位置を移動していた。今夕からまた雨になりそうだった。
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