1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月11日・ルヴェリエの計算

2024-03-11 | 科学
3月11日は、音楽プロデューサー、織田哲郎が生まれた日(1958年)だが、天文学者ユルバン・ルヴェリエの誕生日でもある。海王星の位置を言い当てた人である。

ユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエは、1811年、フランスの、イギリス海峡に近いノルマンディー地方のサン=ローで生まれた。父親は政府の役人だった。ユルバンには、3歳年上の姉がいた。
学業成績の優秀だったユルバン少年は、サン=ローのカレッジを16歳で卒業した後、やはり地元であるカーンの王立カレッジで3年間、数学を修めた。
父親は、わが子ユルバンの教育に熱心で、サン=ローの家を売り払って学費を作り、著名な数学者のもとでユルバンを1年間学ばせ、受験の準備をさせた。そのかいあって、一浪したユルバンは翌年、晴れてエコール・ポリテクニークへ入学した。
彼は同校で、「ゲイ=リュサックの法則(または「シャルルの法則」)の発見者ゲイ=リュサックの授業を受けている。
ユルバン・ルヴェリエは、地方の化学教師職の誘いをいくつか受けたが、それらをことわりパリにとどまった。そして、べつのカレッジの教師や数学の家庭教師をしながら、ゲイ=リュサックの下で研究を続けた。
そんなとき、エコール・ポリテクニークのスタッフ職に、ゲイ=リュサック教授の下で働く化学の副教授職と、天文学の副教授職、ふたつのポストに空きが出た。
ルヴェリエは、もちろんゲイ=リュサックの下で働くことを希望したが、そちらのポストには強力な競争者がいて、優秀な化学論文を書いていたその男にポストを奪われてしまった。そこで、ルヴェリエは天文学のほうの教授スタッフになった。天文学は畑ちがいではあったが、彼の数学の力量からすると、なんら問題はなかった。
天文学へ移った年に、ルヴェリエは結婚している。この辺、学問分野よりなにより、とにかく身をかためるために安定した収入がほしかったのかもしれない。
さて、そんな事情で天文学の研究をはじめたルヴェリエのところへ、パリ天文台の監督から、天王星の軌道に関する計算の依頼があった。
太陽系の第7惑星、天王星は、ルヴェリエが生まれる30年前に、英国のハーシェルによって発見されていたが、ケプラーの法則やニュートン力学から計算して得られる軌道と、実際に観測して得られる軌道とにずれがあった。
ルヴェリエはこの問題に取り組んだ。そして、宇宙空間にいまだ発見されていない惑星があり、その引力が軌道のずれを生んでいるとして、その位置を算出し、論文にした。さらに、彼はドイツ天文学のヨハン・ガレに手紙を書き、その位置を観測するよう依頼した。
ガレが天文台の望遠鏡をそちらへ向けると、果たして、天王星よりさらに遠い、第8惑星、海王星が発見されたのだった。
ルヴェリエはそのほかにも数々の業績をあげ、パリ天文台の監督を務め、国内外のさまざまな栄誉を受けた後、1877年9月、パリで病没した。66歳だった。

海王星の発見こそ、ニュートン力学が科学史上に声高らかにあげた凱歌である。
それにしても、化学の道へ行きたかったのに、行けなかった。それでたまたま入ったわき道の天文学で、輝かしい偉業を打ち立てたルヴェリエの人生は、味わい深い。
(2024年3月11日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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3月10日・松田聖子試論

2024-03-10 | 音楽
3月10日は1945年、米軍B29爆撃機344機が飛来した東京大空襲の日だが、歌手、松田聖子の誕生日でもある。

松田聖子は、1962年、福岡の久留米で生まれた。本名は、蒲池法子(かまちのりこ)。蒲池家は柳川城城主の家系で、父親は厚生省の役人だった。由紀さおりの歌声にあこがれる歌好きの少女だった彼女は、ミッション系の高校に進んだ。高校1年、15歳のとき、歌手コンテストに出場。九州大会で優勝し、主催者のレコード会社にスカウトされ、歌手デビューを勧められた。しかし両親が反対し、彼女は高校生を続けた。その後も、東京のレコード会社側はときどき九州の久留米まで出向いて親を口説きつづけたという。
そして高校3年生のとき、彼女はついに芸能プロダクションと契約。上京し、東京都内の高校へ転校した。歌や踊りのレッスンを受けた後、18歳の4月に松田聖子として「裸足の季節」で歌手デビュー。同曲はテレビCMで流れ、続く「青い珊瑚礁」が大ヒット。レイヤードの髪型「聖子ちゃんカット」は若い女性のあいだで大流行した。以後彼女は「夏の扉」「赤いスイートピー」「秘密の花園」「Rock'n Rouge」「天使のウィンク」などヒット曲を量産し、アイドル歌手の頂点に君臨した。

1982年に発売が開始されたCD(コンパクトディスク)の、記念すべき世界初のCD60枚のうちの1枚が松田聖子の名盤「Pineapple」だった。ほかのアイドル歌手の楽曲とちがい、彼女の場合はシングルのB面や、アルバム中の収録曲も広く聴かれた。

松田聖子がデビューしたころ、洋楽ばかりを聴くロック少年で、新しい音楽に飢えていた。当時もデヴィッド・ボウイの新曲はつねに新しかったが、それ以外には海外のロック・シーンに目新しいサウンドがなかなか見つからなかった。そんなときに発見したのが日本の松田聖子だった。彼女の楽曲は、プロの作詞家や作曲家、プロデューサー、ミュージシャンたちが集まって作り上げた音楽産業の一商品である。ボブ・ディラン、ジョン・レノンやボウイの新譜を聴くのとは意味がちがうけれど、松田聖子の音は新しかった。

松田聖子はポップスを歌うために生まれてきた人である。曲の解釈能力と歌唱表現のイメージ喚起力が抜群で、彼女が歌うと、歌を通して「松田聖子」が聴く者の頭のなかへ押し入り、曲の風景をそこへ勝手に作り上げてしまう。作詞家の松本隆が自作「渚のバルコニー」を歌った彼女の「ばかね」というフレーズの圧倒的な説得力に脱帽したというのは有名な話である。
当時の日本のスタジオ・ミュージシャンのセンスや技術レベルは世界最高水準にあった。そこへ、歌うために生まれた稀代のポップスシンガーが加わり、最後のワンピースがはまった。それで世界の最先端、最高品質の音楽が出現した。

松田聖子のデビューアルバム「SQUALL」を聴いたときの衝撃は忘れられない。若い躍動感がスピーカーから押し寄せてくるようだった。そして「チェリーブラッサム」。ぐいぐい引っ張っていく伸びのあるボーカル。それと掛け合うギターサウンドのうねり。日本の歌謡曲が英米のロックを完全消化した瞬間だった。しかもタイトルは日本の象徴「桜の花」。日本のポップスが世界の頂点に達した瞬間の記念碑。それが松田聖子である。
(2024年3月10日)



●おすすめの電子書籍!

『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。


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3月9日・アメリゴ・ヴェスプッチの数字

2024-03-09 | 歴史と人生
3月9日は、推理作家、ミッキー・スピレインが生まれた日(1918年)だが、探検家のアメリゴ・ヴェスプッチの誕生日でもある。「アメリカ」の名の由来である。

アメリゴ・ヴェスプッチは1454年、現在のイタリアのフィレンツェで生まれた。父親は公証人だった。画家ボッティチェルリが子どものころのアメリゴを描いた絵があるという。
叔父にラテン語、ギリシア語、文学、地理学を学んだアメリゴは、大使の秘書官としてフランスに赴任したり、執事になったりした後、37歳のとき、イタリアのメディチ銀行の代理店の監督として、スペインのセビリヤへ赴任した。
43歳のとき、スペイン国王が派遣した西インドへの航海探検隊へ参加するよううながされ、ヴェスプッチは船に乗り込み、大西洋をカリブ海へ向けて船出した。
クリストファー・コロンブスが最初の航海で西インド諸島にたどり着いたのが1492年。その発見の報告をヨーロッパへもたらしたのが翌1493年で、ヴェスプッチたちの探検隊が出発したのは、その4年後だった。ちょうど、コロンブスが3度目の航海に出たころだった。
アメリゴ・ヴェスプッチは、カリブ海沿岸を探検した後、いったんスペインへもどった。そうして、45歳のときにふたたび探検隊の一員として船出し、今度はカリブ海から南へ下り、南米大陸のブラジル北岸の探検をおこなった。
47歳のとき、3度目の探検に出たヴェスプッチは、南米大陸を東岸に沿って南下し、南緯50度の寒い地域まで到達し、引き返した。
ヴェスプッチは49歳のとき、4度目の南米探検に出たが、このときは、さらなる南下は試みなかった。
そのころ、ドイツの地理学者ヴァルトゼーミュラーが、新大陸の入った世界地図を収録した本を出版した。そのとき著者は、53歳だったヴェスプッチに敬意を表して、新大陸に「アメリカ(アメリゴのラテン語形)」と名付け、これが定着した。
4度の新大陸航海を終え、帰国したヴェスプッチはスペインの官吏を務めた後、1512年2月、スペインのセビリヤで没した。57歳だった。

アメリゴ・ヴェスプッチがもたらした数字「南緯50度」は、当時のヨーロッパにとって衝撃だった。というのも、同時代のアジアやアフリカへの探検によって、
・アジアの最南端は、マレー半島の北緯1度。
・アフリカの最南端は喜望峰付近の南緯34度。
ということがすでに知られていたからである。アジアやアフリカの大陸よりも、さらに南まで延びている新大陸があることが、緯度によって示された。

ヴェスプッチは新大陸で見た人々について、こう言っている。
「彼らは王様や政府をいただかず、それぞれが自分の主として生きている。教会や宗教や偶像崇拝をもたない。なんと言えばいいのか、彼らは自然にしたがって生きていて、禁欲主義者というよりはむしろ快楽主義者と呼ぶべきかもしれない」
コロンブスは野蛮人だったが、ヴェスプッチは科学者だった。
(2024年3月9日)


●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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3月8日・水木しげるの感性

2024-03-08 | マンガ
3月8日は、ゴロ合わせで「みつばちの日」。ハチミツをどうぞ、というこの日は、マンガ家、水木しげるの誕生日でもある。「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である。

水木しげる、本名・武良茂(むらしげる)は、1922年、大阪で生まれた。父親は元銀行マンで、保険会社の社員。米軍の通訳もした人だった。茂は小さいころ、父親の郷里である鳥取の境港へ引っ越し、そこで育った。近所の「のんのんばあ」という老婦人から妖怪や物の怪の話や古い伝承を聞かされるのが大好きな少年だった。
画家志望だった茂は、高等小学校卒業の後、大阪に出て、働きながら絵の勉強をつづけた。そうして、21歳のとき、召集令状を受けて出征。陸軍の二等兵として、ラバウルの戦線で戦い、左腕を失った。
戦後は、魚屋、輪タク屋、アパートの大家などをへて、紙芝居を描きはじめ、貸本マンガ作家となり、42歳のとき、雑誌マンガ家としてデビュー。
43歳で「テレビくん」、44歳のとき「悪魔くん」がテレビアニメ化され、全国的な人気を博した。続いて、紙芝居時代から描いていた鬼太郎を主人公としたマンガ「ゲゲゲの鬼太郎」もテレビアニメ化。日本中で知らぬ者はない、妖怪マンガの第一人者となった。
水木はまた、自身の戦争体験を生かした戦記もののマンガや文章を多く書き、戦争の現実を後世に伝える努力を続けた。
晩年は、荒俣宏、京極夏彦らの崇拝者により、妖怪ものの大家として担ぎあげられ、また、妻の武良布枝が書いた自伝『ゲゲゲの女房』がテレビドラマ、映画、舞台化されたことにより、国民的なアイドルになった。
自宅で転倒して頭部を打ち、硬膜下血腫を起こした後、多臓器不全となり、2015年11月、東京都三鷹の入院で没した。93歳だった。

「ゲゲゲの鬼太郎」に親しんで育ったけれど、どちらかというと、水木しげるのマンガよりも、彼のエッセイのほうを多く読んできた。
戦争で兵隊として行かされたパプアニューギニア・ニューブリテン島のラバウルで、軍隊内ではひどい目にあいながら、現地の人々とは彼だけが親交を深め、家族のような仲になって歓待された。復員するとき、かならず帰ってくると約束して、実際に彼は戦後ふたたび訪ねた。
「僕の南方狂は少しも衰えなかった。楽園では、まちがいなく幸福度が高いのだ。生活に欲望のいたちごっこをしているブンメイの日本より、土人たちの方が幸福なのだ。」(水木しげる『ねぼけ人生』ちくま文庫)
戦争を現場で味わった経験から、戦争の悲惨さを伝えなくては、と、マンガを通して、反戦を訴えながら、一方で「人間の幸福とはなにか」というテーマをちゃんと心のなかにもって、楽園を求めつづける空想家。そういう水木しげるの感性に共感する。
(2024年3月8日)



●おすすめの電子書籍!

『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒されるしあわせへの近道、ここにあります。


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3月7日・安部公房の抽象

2024-03-07 | 文学
3月7日は、「ボレロ」の作曲家、ラヴェルが生まれた日(1875年)だが、作家、安部公房の誕生日でもある。

安部公房は、1924年、東京で生まれた。父親は医者で、母親は小説家だった。1歳のとき家族に連れられて満州へ渡り、奉天で中学時代までをすごした。
16歳で帰国。高校卒業後、東京帝国大学の医学部に入り、第二次世界大戦下を学生として過ごし、戦争末期にふたたび満州へ渡り、現地で開業医をしていた父親を手伝いながら、満州で敗戦を迎えた。
日本へもどり、23歳のとき、ガリ版刷りで『無名詩集』を自費出版。
24歳のとき、医者にならないことを条件に東大医学部を卒業。以後、極貧の生活のなかで小説を書いては文芸誌に送り、意気投合した埴谷雄高、岡本太郎らの「夜の会」に入会し、前衛芸術家たちと交わった。
27歳のとき、文芸誌に短編『壁 - S・カルマ氏の犯罪』を発表。この作品が芥川賞を受賞し、安部は流行作家となった。
38歳のとき『砂の女』を発表。この作品はまたたく間に世界数十カ国で翻訳・出版され、安部は一気に国際的作家となり、ノーベル文学賞候補に名を連ねた。以後『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』『方舟さくら丸』『カンガルー・ノート』などの小説を書いた。
小説執筆のかたわら、49歳のころから、演劇集団「安部公房スタジオ」を主催し、演劇分野でも国際的に活動した。戯曲に『友達』『未必の故意』『緑色のストッキング』などがある。
1993年1月、脳内出血の後の心不全のため、東京の入院先で没した。68歳だった。

高校2年生の国語の教科書に安部公房の短編『赤い繭』が載っていた。前衛、実験的、抽象主義で新鮮だった。それから安部公房の作品をいくつか読んだ。なかでも『砂の女』は印象ぶかかった。
「罰がなければ、逃げるたのしみもない」
というエピグラフの掲げられた『砂の女』は、昆虫採集に出かけて、そのまま行方不明になった学校教師の話である。教師の男は、砂に埋もれた村を通りかかり、その村のとりこになってしまう。男はさまざまな手段を使って砂の穴の底から脱出を試みるが、なかなかうまくいかない。
この奇妙な小説の圧倒的な魅力はいったいなんだろう。魔法のような魅力である。よくもこういう象徴的な、寓話的な物語を思いつき、こうまで鮮やかに描けるものだ、と、読んでいくうちに、これは自分のことを書いた小説だ、と感じるようになってくる。でも、どうしてこの作者は自分のことを知っているのだろう、と不気味に感じられる。
『砂の女』は、冷戦下の東欧でも翻訳され、多くの読者を得た。東欧の読者たちは、読んでただちに、これは管理体制の下に抑圧された自分たち市民の姿を描いたものだと理解するらしい。鉄のカーテンの向こうにも、同じように感じる人がいたのである。
安部公房ほどの鮮烈な魅力をもった抽象作家は、今後ちょっと出ないだろうという気がする。すごいセンスだった。
(2024年3月7日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。

●電子書籍は明鏡舎。
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3月6日・ガルシア=マルケスの現実

2024-03-06 | 文学
3月6日は、至上の芸術家、ミケランジェロが生まれた日(1475年)だが、ノーベル賞作家、ガルシア=マルケスの誕生日でもある。

ガブリエル・ホセ・ガルシア=マルケスは、1928年、南米コロンビアのカリブ海沿岸の村アラカタカで生まれた。幼いころから祖母に民話、伝説、恐怖話などを聞かされて育ったマルケスは、4歳のころには、口を開けばでまかせの話を語りだすおしゃべりな子になっていた。家庭は貧しかったが奨学金を得、19歳でボゴタ大学の法学部に入学。このころ、フランツ・カフカの『変身』に触発されて、はじめて短編小説を書いた。
彼が20歳のとき、コロンビアでは野党党首の暗殺が引き金となって、ボゴタ暴動が起きた。それは内戦化して、ボゴタ大学が閉鎖された。マルケスはガクタヘーナの大学へ転学し、当地の新聞社で働きだした。以後、新聞社を転々として記事を書くかたわら、小説を書きつづけた。
27歳のとき、小説『落葉』出版。ただし、印税はまったく入らなかった。
その後、マルケスは新聞記者として、ヨーロッパを転々とした後、29歳のとき、南米へもどり、ベネズエラで雑誌編集にたずさわった。このとき内乱が起き、ベネズエラの独裁者だったヒメーネスが国外へ逃亡した。
30歳のとき、カストロやゲバラらによるキューバ革命が成り、独裁者バティスタが国外へ逃亡した。マルケスは記者としてキューバへ飛び、ハバナの革命裁判に出席した。
33歳のころ、マルケスはコロンビアの通信社のニューヨーク支局員として勤めた後、メキシコへ移り、知り合ったメキシコ人作家の誘いで映画制作にかかわった。そして、ある日、家族をクルマに乗せてアカプルコの海へ出かけた。行く途中、クルマのなかで、長いあいだ温めていた小説についてひらめいた。そうだ、小さいころに聞いた祖母の語り口のように書けばいいのだ、と。海水浴は中止。彼はクルマをUターンさせ、家へもどり、タイプライターを打ちはじめた。それから1年半打ちつづけて『百年の孤独』を書き上げた。この小説は発売されると、たちまちスペイン語圏で「ソーセージのように」売れた。『百年の孤独』は世界各国で翻訳され、マルケスは世界的作家となった。
47歳のとき、独裁者をテーマに据えた『族長の秋』を発表。
54歳のとき、マルケスはノーベル文学賞を受賞した。
晩年は認知症となり、肺感染症のため、2014年4月、メキシコシティの自宅で没した。87歳だった。

マルケスの『百年の孤独』にはこんな描写が出てくる。死んだ登場人物の流した血が野を越え山を越え、延々と流れ流れていって、肉親の家に届き、その死を伝える。これなどは、泉鏡花が描く江戸の振袖火事の描写に通じる。

マルケスの「魔術的リアリズム」についてずっと昔、米国の雑誌のインタビューで、たしかマルケスはこういう意味のことを語っていた。
「中南米の国で、かつて国内に疫病が流行ったことがあった。そのとき独裁者は言った。『わたしはその原因を知っている。国内の街灯に赤いカバーが付いていないせいだ』。全国の街灯にいっせいに赤いおおいがつけられた。そんなことがしょっちゅうなんだ。それが南米の現実なんだ(自分のは、魔術的じゃなくて、中南米のリアルそのものなんだ)」
昨今の日本の政治状況を思わせ、とても笑えない、異常な現実である。
(2024年3月6日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。

●電子書籍は明鏡舎。
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3月5日・パゾリーニの過剰

2024-03-05 | 映画
3月5日は、中国の政治家、周恩来(ヂョウオンライ)が生まれた日(1898年)だが、映画監督、ピエル・パオロ・パゾリーニの誕生日でもある。

ピエル・パオロ・パゾリーニは、1922年、イタリアのボローニャで生まれた。父親は軍人で、母親は小学校教師だった。ピエルには3つ年下の弟がいた。
7歳から詩を書きだし、フランスの詩人アルチュール・ランボーに傾倒する文学少年だったピエルは、高校時代にはサッカーに熱中するスポーツ少年でもあった。大学で文学を専攻したパゾリーニは、母親から北イタリアの言語であるフリウリ語で書いた詩集を19歳のときに出版し、第二次大戦中は母親とともに疎開先のフリウリで教師となって子どもたちを教えた。
戦時中、ピエルが23歳のとき、パルチザンに参加していた弟が戦死。
戦後の25歳のとき、イタリア共産党に入党。27歳のとき、母親とともにローマの貧民街引っ越した。貧しい生活のなかで、パゾリーニは小説を書き、33歳のとき、小説『生命ある若者』を発表。イタリア・ネオリアリズムの新進作家として注目されるようになった。詩や小説きょ執筆と並行して、映画脚本も書くようになり、34歳のころには、フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』の脚本を共同執筆。39歳のとき、初の監督作品「アッカトーネ/乞食」で映画監督としてデビュー。以後、「奇跡の丘」「アポロンの地獄」「王女メディア」「デカメロン」「カンタベリー物語」「アラビアン・ナイト」「ソドムの市」などを撮った後、1975年11月、ローマ郊外の海岸で、パゾリーニは惨殺された遺体となって発見された。53歳だった。
当初、男色関係にあった少年による痴情のもつれによる殺人とされていたが、死後30年たった2005年になって、自首した少年が自白を翻し、じつはファシストによる謀殺で、自分が脅されていたことを告白した。

映画評論家の淀川長治が生前、こういう意味のことを言っていた。
「フェリーニやヴィスコンティは『映画の神さま』で、ゴダールやパゾリーニは『映画の悪魔』である」
「神さま」も「悪魔」も、ものすごく個性的な作品を撮る人たちなので、一般受けを求めるテレビの映画番組では、彼らの映画はめったにお目にかからない。

パゾリーニの短編小説を読んだことがある。ローマの街の貧しい人たちをリアル描いた作品で、新しい感覚のリアリズムだった。
一方、パゾリーニの映画は、彼の小説とちがって、リアルな感じがみじんもない、異常さの連続である。
「アポロンの地獄」のなか、旅人に謎をかけ、解けないと旅人を襲うスフィンクスとか、「王女メディア」の半身半馬のケンタウロスとか、マリア・カラス演じるメディアが最後、炎に包まれながら呪いのことばを吐くシーンなど、強く印象に残っている。
「奇跡の丘」のイエス・キリスト像も、あの過剰な感じがなんともいえず、説得力があった。強烈な表現をした天才監督だった。
(2024年3月5日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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3月4日・有島武郎の品

2024-03-04 | 文学
3月4日は、ゴロ合わせで「ミシンの日」だが、作家、有島武郎の誕生日でもある。

有島武郎は、1878年、で生まれた。東京で生まれた。父親は元薩摩藩士で大蔵省の役人だった。
父親の教育方針で、子どものころ、米国人家庭に預けられて育った武郎は、学習院の中等科を卒業すると、19歳のころ、北海道の札幌農学校に入学した。
農学校では、新渡戸稲造の薫陶を受け、キリスト教に入信した。卒業後は、軍隊生活をへて、渡米。ハーヴァード大学に留学。
29歳のとき、帰国。英語の講師などをしていたが、作家の志賀直哉、武者小路実篤らと知り合い、同人誌『白樺』に参加。小説や童話を発表しだし、38歳のころから本格的に作家生活に入った。
44歳のとき、父親から相続した北海道の有島農場を、私有財産を否定する思想から、農場小作人全員に無償で譲り渡した。
45歳のとき、雑誌の女性編集者と知り合い、恋仲となった。当時、有島は妻と死別していて独身だったが、相手の女性には夫がいた。二人の仲は夫に知られるところとなり、夫側は金銭を要求し、訴訟沙汰にするとおどしてきた。
有島は悩み、不倫相手の女性編集者とともに、1923年6月、軽井沢の別荘で首吊り自殺をとげた。有島は45歳、相手の女性は29歳だった。
小説『カインの末裔』『或る女』『生れ出づる悩み』『小さき者へ』、評論『惜みなく愛は奪ふ』、童話『一房の葡萄』などがある。

白樺派の作家が好きで、中学時代から武者小路実篤、志賀直哉、そしてこの有島武郎の作品をよく読んでいた。『カインの末裔』、童話『一房の葡萄』など、なつかしい。

『一房の葡萄』は、主人公の男の子が、クラスメイトがもっている高価な絵の具がうらやましくて、つい盗んでしまう。でも、すぐにそれは露顕して、同級生たちにつるし上げられ、女教師のところへ連れていかれる。その女教師が、窓の外の葡萄の木からひと房をもぎ取って、彼にくれる。……というような話だった。窓からぶどうを、というのが好きだった。なんともいえない後味のよさがあった。育ちがいいというか、同じ愛人と心中した作家でも、太宰治などとはずいぶんちがう、品のいい人だった。

有島武郎は44歳のころ、アナキストの大杉栄がヨーロッパへ渡ろうとしているとき、お金を工面してやっている。有島はおよそアナキストとは縁遠い人物で、大杉とそう親しいわけでもなかったが、大杉の人物の大きさを見込んで、ぜひ日本を脱出させてやりたいと考えたのだった。

現代日本人にはピンとこないかもしれないが、「無所有」というのは人間にとってとても重要な問題で、コミュニティーについて勉強していてそれを教わった。マハトマ・ガンディーも有島武郎もそれがわかっていた。有島武郎がコミュニティーを企画した気持ちもよくわかるのである。純粋の美を体現した作家だった。
(2024年3月4日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
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3月3日・ジーン・ハーロウの髪

2024-03-03 | 映画
桃の節句、ひな祭りの3月3日は、『幸福論』を書いたアランが生まれた日(1868年)だが、ハリウッド女優ジーン・ハーロウの誕生日でもある。

ジーン・ハーロウは、1911年、米国ミズーリ州のカンザスシティで生まれた。本名は、ハーリアン・ハーロウ・カーペンター。父親のカーペンター氏は歯医者だった。ハーリアンの母親は裕福な不動産業者の家庭で育った娘で、労働者階級出身の夫とそりが合わず、ハーリアンが11歳のときに離婚し、溺愛する娘を引き取った。ハーリアンは父親を愛していたが、母親は娘を自分の強い管理下におき、父親に会わせなかった。
ハーリアンが12歳のとき、母親は彼女を連れてカリフォルニアのハリウッドへ越していった。これは、母親が映画女優になることを夢見てのことだったが、母親はすでに30歳をすぎており、やがて母親は娘を連れてミズーリへ舞いもどった。
15歳のころハーリアンは、イリノイ州の女学校へ入学した。そこで彼女は4つ年上の資産家の息子と知り合い、恋に落ちた。彼女が16歳のとき、二人は結婚し、ロサンゼルスのベヴァリーヒルズで暮らした。新郎に巨額の遺産を相続し、そのお金で若い夫婦は遊び暮らしていたが、夫がしだいに酒びたりになり、彼女は18歳のときに離婚した。
ハーリアンはロサンゼルスで新人女優と友だちになった。彼女自身は気が進まなかったらしいが、その友だちや母親にけしかけられて、映画スタジオと契約した。契約書には、母親の結婚前の名前「ジーン・ハーロウ」とサインした。
はじめ、日給7ドルのエキストラだったハーロウは、やがて週給100ドルもらうようになった。そして、19歳のとき、大富豪のハワード・ヒューズが監督した映画「地獄の天使」に出演し、ハーロウはにわかに注目を集めるようになり、20歳のとき「プラチナ・ブロンド」に出演。身持ちの悪い妖婦型の役柄を多く演じる彼女の演技を、批評家たちは酷評したが、男性ファンは急増し、娘たちは彼女のプラチナ・ブロンドの髪型をまねた。
ハーロウは21歳でMGMと契約。週給は一気に1250ドルに跳ね上がった。MGMはグレタ・ガルボの跡をつぐスター女優として彼女を売り出そうとした。MGMでは彼女はコメディの才を発揮し、クラーク・ゲーブルとのコンビで「紅塵」「春の火遊び」などに主演した。
1930年代にはセックス・シンボルとして、ハリウッド最大のスターのひとりとして君臨したハーロウは、26歳のとき、疲労、吐き気、腹痛などを訴えるようになった。彼女を診た医者は深刻な病状とは見立てず、映画撮影はハードスケジュールのまま続けられた。そしてハーロウは撮影中、相手役のクラーク・ゲーブルにもたれかかり、こう頼んだ。
「気分が悪いの。控室へ連れていって」
倒れたハーロウは、そのまま自宅療養に入り、入院し、1937年6月、入院先の病院で没した。26歳だった。死因は脳水腫、腎不全とされるが、異説もある。

ハーロウといえば、プラチナ・ブロンドの髪で有名だけれど、ほんとうは彼女の髪は灰色がかった金髪で、彼女自身は髪を痛めるからと、プラチナに染めるのを嫌がったそうだ。

ジーン・ハーロウは、短いその生涯のうちに3度結婚し、3度離婚している。2度目の夫は、結婚して間もなくピストル自殺した。他殺説もあって、当初は妻のハーロウ自身も疑われた。プライベートでは幸福が長続きしない、薄幸な大スターだった。おひなさまの日に生まれた女性の運命と考えると、感慨深いものがある。
(2024年3月3日)



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3月2日・ルー・リードの魅力

2024-03-02 | 音楽
3月2日は、米国の作家ジョン・アーヴィングが生まれた日(1942年)だが、ロックミュージシャン、ルー・リードの誕生日でもある。二人は同年同月同日生まれである。

ルー・リードこと、本名ルイス・アレン・リードは、1942年、米国ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。彼の家族はユダヤ系で、ルイスは同じニューヨーク州内のロングアイランドに越してそこで育った。
「自分の神さまはロックンロールであり、自分の信仰はギターを弾くことにある」
と言う彼は、高校時代からバンドを組んでいた。
彼は同じニューヨーク州のシラキュース大学に入学し、ジャーナリズム、映画撮影、作曲、詩作を学んだ。
22歳のとき、ニューヨーク市へ引っ越したリードは、作曲家として活動し、ミュージシャン仲間とロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」を結成。リードはギターとヴォーカルを担当し、ポップアーティストのアンディ・ウォーホルが手がけたバナナのジャケットのアルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」でデビュー。リード25歳のときで、このアルバムは世界のロックシーンに強い衝撃を与えた歴史的作品となった。
28歳のとき、バンドを離れ、ソロとなった。
その後、デヴィッド・ボウイのプロデュースによるアルバム「トランスフォーマー」のほか、「ベルリン」「コニー・アイランド・ベイビー」などの名作を発表。ヒット曲がなく一般大衆への知名度はいまいちながら、ロック・ミュージシャンの多くが影響を受け、尊敬する、玄人好みのロックミュージシャンとして君臨しつづけた。
2013年10月、肝臓疾患のため、ニューヨーク州サウサンプトンの自宅で没した。71歳だった。

ルー・リードの音楽は、かれこれ30年以上聴いているけれど、どうして彼が好きなのかは、いまだによくわからない。
学生時代、ルー・リードのファンだった友人が「コニー・アイランド・ベイビー」のレコードをかけながら、こう言った。
「ずっとこんな感じ。盛り上がらない。最初から最後まで淡々としているんだ」
まったくその通り、どうしてこんな地味なのだろうと不思議なくらい抑えた感じで、クイーンやレッド・ツェッペリンの派手さとは対極にある。
そういうところがいいのかもしれない。

キャリアは長かったが、いつがピークだったという時期もなく、キャリア的にも盛り上がりを持たないアーティストだった。でも、それがルー・リードらしさでもある。
「ベルリン」や「コニー・アイランド・ベイビー」をときどき、わけもなく聴きたくてしかたがなくなる。言葉にならない魅力をもつ、特殊なミュージシャンである。
(2024年3月2日)



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