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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月11日・ルヴェリエの計算

2024-03-11 | 科学
3月11日は、音楽プロデューサー、織田哲郎が生まれた日(1958年)だが、天文学者ユルバン・ルヴェリエの誕生日でもある。海王星の位置を言い当てた人である。

ユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエは、1811年、フランスの、イギリス海峡に近いノルマンディー地方のサン=ローで生まれた。父親は政府の役人だった。ユルバンには、3歳年上の姉がいた。
学業成績の優秀だったユルバン少年は、サン=ローのカレッジを16歳で卒業した後、やはり地元であるカーンの王立カレッジで3年間、数学を修めた。
父親は、わが子ユルバンの教育に熱心で、サン=ローの家を売り払って学費を作り、著名な数学者のもとでユルバンを1年間学ばせ、受験の準備をさせた。そのかいあって、一浪したユルバンは翌年、晴れてエコール・ポリテクニークへ入学した。
彼は同校で、「ゲイ=リュサックの法則(または「シャルルの法則」)の発見者ゲイ=リュサックの授業を受けている。
ユルバン・ルヴェリエは、地方の化学教師職の誘いをいくつか受けたが、それらをことわりパリにとどまった。そして、べつのカレッジの教師や数学の家庭教師をしながら、ゲイ=リュサックの下で研究を続けた。
そんなとき、エコール・ポリテクニークのスタッフ職に、ゲイ=リュサック教授の下で働く化学の副教授職と、天文学の副教授職、ふたつのポストに空きが出た。
ルヴェリエは、もちろんゲイ=リュサックの下で働くことを希望したが、そちらのポストには強力な競争者がいて、優秀な化学論文を書いていたその男にポストを奪われてしまった。そこで、ルヴェリエは天文学のほうの教授スタッフになった。天文学は畑ちがいではあったが、彼の数学の力量からすると、なんら問題はなかった。
天文学へ移った年に、ルヴェリエは結婚している。この辺、学問分野よりなにより、とにかく身をかためるために安定した収入がほしかったのかもしれない。
さて、そんな事情で天文学の研究をはじめたルヴェリエのところへ、パリ天文台の監督から、天王星の軌道に関する計算の依頼があった。
太陽系の第7惑星、天王星は、ルヴェリエが生まれる30年前に、英国のハーシェルによって発見されていたが、ケプラーの法則やニュートン力学から計算して得られる軌道と、実際に観測して得られる軌道とにずれがあった。
ルヴェリエはこの問題に取り組んだ。そして、宇宙空間にいまだ発見されていない惑星があり、その引力が軌道のずれを生んでいるとして、その位置を算出し、論文にした。さらに、彼はドイツ天文学のヨハン・ガレに手紙を書き、その位置を観測するよう依頼した。
ガレが天文台の望遠鏡をそちらへ向けると、果たして、天王星よりさらに遠い、第8惑星、海王星が発見されたのだった。
ルヴェリエはそのほかにも数々の業績をあげ、パリ天文台の監督を務め、国内外のさまざまな栄誉を受けた後、1877年9月、パリで病没した。66歳だった。

海王星の発見こそ、ニュートン力学が科学史上に声高らかにあげた凱歌である。
それにしても、化学の道へ行きたかったのに、行けなかった。それでたまたま入ったわき道の天文学で、輝かしい偉業を打ち立てたルヴェリエの人生は、味わい深い。
(2024年3月11日)



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