1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月21日・升田幸三の華

2024-03-21 | 個性と生き方
3月21日は「音楽の父」ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生まれた日(1685年)だが、将棋棋士、升田幸三(ますだこうぞう)の誕生日でもある。


升田幸三は、1918年、広島の、現在の三次で生まれた。実家は農家だったが、父親が道楽者で、田畑をつぎつぎと売って、家は大きく傾いていた。幸三は四男で、生まれたとき、釈迦かキリストかソクラテスかという奇相の赤子だと言われた。
小学校に上がる前すでに足し算、引き算、掛け算ができたという神童だった幸三は、一面、いたずらばかりする手のつけられない悪童だった。
5歳のとき彼は、7歳か8歳の女の子の眉間に日本刀で斬りつけるという事件を起こした。これはその子に「お前のような貧乏な家に刀などあるはずがない、あったらこの首をやる」と罵倒されたのに逆上し、家から日本刀を持ちだしての暴挙だった。この罰として、幸三は酒の二升樽で頭を延々とぶたれつづけ、発熱し、頭が悪くなった。
彼は小学校へ入ったが、なにも覚えられない無能な状態がずっと続いた。13歳くらいからようやく頭が正常にもどりだした。同じころ、自転車で谷から転げ落ちて左足を骨折した。それまで将来は武芸者になるつもりでいたところ、そのケガであきらめ、幸三は将棋指しになろうと進路を変更した。
14歳のとき、母親の物差しの裏に、こう書きつけて家出した。
「この幸三、名人に香車をひいて勝ったら大阪に行く」
露天の詰め将棋荒らしなどの放浪をへて、大阪の棋士、木見金治郎に入門。召集され6年間の軍隊生活の後、戦後、棋界に復帰し29歳で八段。34歳で王将位を獲得。
38歳のとき、大山康晴名人を相手に、ほんとうに香車落ちで勝利した。
つねに新しい指し手を志す「新手一生」を信条に、名人位、九段位などを獲得し、数々の名勝負を闘った後、1991年4月、心不全のため没した。73歳だった。


終戦直後の占領下、升田幸三はGHQ(連合国総司令部)に召喚され、事情聴取を受けたことがある。出頭した升田に、GHQの係官はこう質問した。日本の将棋は、とった相手の駒を使うが、あれは捕虜虐待ではないか、と。升田はこう答えたという。
「むかし楠木正成は川に落ちた敵兵を救い、救われた敵兵は感激して正成の部下になってともに働いた。これが日本精神だと話してやったんですよ。しかも将棋の場合、軍門に降った銀は銀として使う。捕虜の少尉を伍長に格下げして使うんなら虐待かもしれん
が、あくまで少尉として一視同仁に使うんだから、ちっとも虐待じゃないと。
それでもまだわからん顔をしとったから、チェスでは王様が助かるために、女王を盾にする。女を犠牲にして王様が逃げだすが、あれはどういうわけかといったら、ずいぶん困った顔をしましたよ。」(升田幸三『勝負』成甲書房)


升田は、来日したロバート・ケネディに、あなたは戦勝国の人なのだから、ふんぞり返って歩くのでなく、かがみかげんで歩くがよかろうと注意した。米国へもどったケネディは、日本におもしろい男がいると升田のことを友人に話したそうだ。
日本人にはめずらしい、華のある、姿の大きな人だった。
(2024年3月21日)





●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧などなど。日本人の美点に迫る。




●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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3月20日・片岡義男の照れ

2024-03-20 | 文学
3月20日は、心理学者、B・F・スキナーが生まれた日(1904年)だが、小説家、片岡義男の誕生日でもある。


片岡義男は、1940年、東京で生まれた。父親はハワイ生まれの日系二世で、日本へ帰ってきて、義男が生まれた。誕生時は日中戦争中で、翌年に太平洋戦争がはじまった。
4歳で山口の岩国へ疎開。疎開先で、原子爆弾投下によってヒロシマに上がるきのこ雲を目撃したという。10歳のとき広島県の呉に移り、13歳のとき東京へもどった。
法科の大学生だったころからライターとして雑誌に原稿を書き、パロディ本を出していた。
31歳のとき、評論『ぼくはプレスリーが大好き』を発表。若者向けの雑誌「宝島」編集長などをへて、34歳のとき、小説『白い波の荒野へ』を発表。
35歳のとき、小説『スローなブギにしてくれ』で野性時代新人文学賞を受賞。以後、執筆のほか、ラジオDJなどでも活躍し、若者の人気を集めた。小説に『ボビーに首ったけ』『いい旅を、と誰もが言った』、翻訳に『ビートルズ詩集』がある。


学生時代の一時期、片岡義男の小説に熱中した。クルマやバイクを乗りまわす若者たちの倦怠感のある青春が描かれていて、登場人物が口にするセリフがキザで、照れがあって、かっこよかった。こんなに改行のはげしい文章ははじめてだった。そのうちに世間で片岡義男ブームが巻き起こった。『スローなブギにしてくれ』の映画化が1981年。南佳孝が歌う同名の主題歌もヒットした。それ以前から片岡義男は人気作家だったけれど、角川書店の派手な宣伝もあって、日本全国、猫も杓子も片岡義男という大ブームになった。天邪鬼から、それで、なんとなく読まなくなった。


1980年代前半のころ、片岡義男はカーステレオの「ロンサム・カーボーイ」のテレビCMのナレーションをしていたが、当時、オンボロの中古車に、そこだけ新品のロンサム・カーボーイのコンポーネントを積んで走っていた。


片岡義男は才人である。彼の小説はポップでアメリカくさく、洒落ていた。不良の若者が主人公で、後のケータイ小説にも通じるけれど、片岡作品には照れのある気取りがあって、そこが両者の決定的なちがいである。


『スローなブギにしてくれ』は、ネコ好きの少女と、バイク好きの少年が出会い、恋に落ちる「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語で、ラストがキザですてきだった。最後の場面では、主人公の少年が、スナックでバーテンと二人きりでいる。バーテンは少年の恋について「できすぎた話じゃねえか」と茶化しながらも、
「おまえの人生は、これからだぜ。記念に音楽を贈ってやるよ。なにがいい?」
少年は、声がふるえなければいいがと心配しつつ、こう返事をする。
「スローなブギにしてくれ」
「なにを言いやがる。それでせりふのつもりかよ」
そう言いながらも、バーテンはジョークボックスで曲をかけてくれる。(片岡義男『スローなブギにしてくれ』角川文庫)
言うことと、やることのずれがいい。これは日本人の伝統的傾向である。
(2024年3月20日)





●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。




●電子書籍は明鏡舎。
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3月19日・バートンの千一夜

2024-03-19 | 歴史と人生
3月19日は、アフリカ探検のリヴィングストンが生まれた日(1813年)だが、いまひとりの探検家リチャード・フランシス・バートンの誕生日でもある。『アラビアンナイト』の翻訳者である。


リチャード・フランシス・バートンは、1821年、英国イングランド南西部のトーキーで生まれた。父親は英国軍人で、リチャードには下に妹と弟がいた。
子どものころ、父親の転勤にともなって仏、伊などを転々とし、フランス語、イタリア語、ラテン語、ナポリの方言などを習得した。
19歳でオックスフォード大学に入学したが、反抗的な態度のため退学。軍人となって、英国の植民地だったインドに駐在した。
29歳のとき、英国にもどったが、32歳になると今度は中東へ渡り、イスラム教徒に変装してメッカ巡礼をし、そのころ勃発したクリミア戦争では、英仏が支援したオスマン帝国軍に加わってロシア軍と戦った。
36歳のとき、友人とアフリカへ渡り、ナイル川の源流をさがす旅に出発。ヴィクトリア湖を発見した。
39歳になると、北米大陸横断の旅に出発。北米の前人未到の地を訪ね、その人文地理を報告した。
45歳のとき、ブラジルの駐サントス領事に任命され、南米へ渡り、奥地を探検。
48歳で、シリアの駐ダマスカス領事に任命され、中東へ渡った。
52歳のとき、現在のイタリアの駐トリエステ領事となり、そこで『アラビアンナイト(千一夜物語)』を英語に翻訳。
1890年12月、心臓発作のため、トリエステで没した。69歳だった。


バートンは、数十カ国語をあやつった。『アラビアンナイト』のほか、インドの性典『カーマ・スートラ』も訳している。


バートン訳の『アラビアンナイト』は、たとえばアラブ系の人のペニスの大きさなど、性的なことがらに関し、冷静でくわしい注釈がほどこされていて驚いた。


バートンという人は、19世紀の人とは信じられないくらいに、地球を自分の庭のように動きまわった人だった。これだけの知力、体力、行動力を兼ね備えた人はめったにいない。
(2024年3月19日)





●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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3月18日・マラルメの価値観

2024-03-18 | 文学
3月18日は、詩人、田村隆一が生まれた日(1923年)だが、フランスの詩人、ステファヌ・マラルメの誕生日でもある。

ステファヌ・マラルメは、1842年、パリで生まれた。本名は、エティエンヌ・マラルメ。父親は公務員だった。
5歳で母親を亡くしたエティエンヌは、母方の祖父母のもとで反抗的な子どもとして育った。彼はパリの寄宿学校に入っては追いだされることを繰り返した後、14歳のとき、パリの南東の街サンスのリセ(高校)の寄宿生になった。当時、彼の父親はサンスで登記管理官をしていた。
十代なかばのころ、エティエンヌは詩に目覚め、ヴィクトル・ユーゴー、シャルル・ボードレール、エドガー・アラン・ポーといった詩人たちの詩に傾倒し、詩集を買い求め、入手できない詩集はノートに書き写した。
17歳のとき、バカロレア(大学入学資格試験)に一度落第した後、二度目で合格したが、父親が病に倒れた家庭の経済状況もあって、大学へ進学はせず、彼は18歳のとき、サンスの収税登記場の見習いになった。
詩を書き、乏しいこづかいをはたいて放蕩にふける青年だったマラルメは、19歳のころから、地方紙や文芸誌に書評や劇評を投稿しだした。
英語教師を目指して勉強したマラルメは、22歳のとき、トゥルノンのリセの英語教師に就いた。そうして、29歳ごろからはパリの中学の英語教師になった。
中学校教師として働きながら、彼は、ポーなどの詩を翻訳して紹介し、やがて自分の詩を発表するようになり、詩人としてもしだいに名が知られるようになった。自宅で火曜日ごとに友人を集めて知的な会話を交わす「火曜会」を催し、アンドレ・ジイド、ポール・ヴァレリー、マルセル・プルーストなど一流の文人が集った。
34歳のとき、画家のマネの挿絵付きという豪華本で詩『半獣神の午後』を発表。音楽家のドビュッシーはこの本に刺激を受けて「牧神の午後への前奏曲」を作曲した。
活字が大きさを変えてページに散らばった視覚的な詩『骰子一擲』のほか、難解な象徴詩を発表した後、1898年9月、咽喉痙攣のため窒息して没した。56歳だった。

マラルメの『骰子一擲(とうしいってき)』の斬新さは、一目瞭然である。

「小説の神様」横光利一が書いている。
「マラルメは、たとえ全人類が滅んでもこの詩ただ一行残れば、人類は生きた甲斐がある、とそうひそかに思っていたそうですよ。それが象徴主義の立ち姿なんですからね。」(『夜の靴』講談社文芸文庫)
達意よりも難解なほのめかし、ことばの意味よりも音の響き、というマラルメの詩は、フランス語ができないのでわからないのだけれど、人類が滅亡しても一行の詩が残ればいい、とする彼の考えには共感する。
これは現代日本人一般の価値観とは、かなり遠くへだたった価値観だろう。おそらく人類は、恐竜たちほど長く栄えることなく、遠からず自滅するだろう。そのとき、一行の美しい詩が残れば、人類にも生きた価値があったといえる。
(2024年3月18日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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3月17日・ボビー・ジョーンズの闘い

2024-03-17 | スポーツ
3月17日は、「小説の神様」横光利一が生まれた日(1898年)だが、ゴルフ界の「球聖」ボビー・ジョーンズの誕生日でもある。

ボビー・ジョーンズこと、ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニアは1902年、ジョージア州のアトランタで生まれた。父親は弁護士で、幼少時からからだの弱かったボビーにゴルフをすすめ、ボビーはゴルフに早くから親しんだ。6歳で子どもゴルフ大会で優勝し、14歳のとき、ジョージア州のアマチュア大会で優勝した。
彼はジョージア専門技術学校で機械工学を学び、ハーヴァード大学で英文学を修め、24歳のときロースクールに入り、弁護士の資格をとって、父親の事務所で働きはじめた。そうした学業、弁護士業のかたわら、アマチュアのゴルフプレイヤーとしてゴルフ・トーナメントに出場しつづけ、数々の大会で優勝した。
28歳のとき、当時の世界4大タイトルである全米アマチュア、全英アマチュア、全米オープン、全英オープンの各大会で優勝し「年間グランドスラム」の快挙を達成した。グランドスラムを成し遂げたボビー・ジョーンズは、そのまま競技ゴルフから引退した。
その後は、法律の仕事に専心したが、世界的有名人であるジョーンズにはつねに衆目が集まり、ジャーナリズムに追いかけられた。彼は野次馬から逃れ、友人たちとプライベートにゴルフを楽しめるゴルフクラブを作りたいと、ジョージア州オーガスタに土地を購入し、アリスター・マッキンジーとともにゴルフコースを設計した。それがオーガスタ・ナショナル・コースで、ジョーンズが31歳のときオープンし、32歳のときからそこでマスターズ・トーナメントが開催されるようになった。
第二次世界大戦中は、ジョーンズは米国空軍の士官となり、英国で勤務した。仏国ノルマンディーに上陸し、捕虜の尋問にあたった。そのとき、オーガスタのゴルフコースは、家畜たちが草を食べる放牧場として開放されていた。
戦後、46歳のとき、ジョーンズは脊髄空洞症の診断を受けた。彼は痛みと麻痺の症状に苦しめられ、ついには車椅子生活を余儀なくされた。そして、1971年12月、アトランタで没した。69歳だった。

ボビー・ジョーンズはプロにならず、アマチュア・ゴルファーを通した。フェアプレイで有名だった。23歳のときに出場した全英オープンの際、或るパー4のコースで、第一打をラフに打ち込み、第二打でグリーンに乗せ、2パットしてパーをとった。運営側が「ジョーンズ氏、4打」とアナウンスすると、ジョーンズはこう修正申告した。
「それはちがう。ラフで構えたとき、足元のボールがすこし動いた。だから5打だ」
その結果、ジョーンズはべつのゴルファーと同点首位となった。二人のあいだでプレイオフがおこなわれ、ジョーンズはプレイオフに負け、準優勝になった。

ボビー・ジョーンズはこう言っている。
「競技ゴルフは主に5インチ半の幅のコースのなかでおこなわれる……それは耳と耳のあいだである。(Competitive golf is played mainly on a five-and-a-half-inch course... the space between your ears.)」

ゴルフを、自分自身との闘いだと考えていた彼らしいことばである。
(2024年3月17日)



●おすすめの電子書籍!

『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


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3月16日・ベルトリッチの魔性

2024-03-16 | 映画
3月16日は、ロシアの作家ゴーリキーが生まれた日(1868年)だが、映画監督、ベルナルド・ベルトリッチの誕生日でもある。

ベルナルド・ベルトリッチは1941年、イタリア北部の街パルマで生まれた。母親は教師で、父親は詩人で映画評論家だった。ベルナルドには弟がひとりいて、弟は舞台監督になった。文化的に恵まれた環境で育ったベルナルドは、15歳のころから詩や文章を書きはじめ、父親の影響力もあって、若くして文学賞を受賞した。
ベルナルドは、父親のように詩人志望だったが、大学で文学を専攻していたころ、天才映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニの本の出版を助けたのが縁で、20歳のとき、パゾリーニの「アッカトーネ(乞食)」で助監督を務めた。映画にひかれたベルトリッチは、大学を途中でやめ、22歳のとき、パゾリーニが脚本を書いた映画「殺し」で監督デビュー。以後、「暗殺の森」「ラストタンゴ・イン・パリ」「1900年」「ラストエンペラー」「シェルタリング・スカイ」「リトル・ブッダ」「ドリーマーズ」などを発表。問題作、大作を撮る世界的巨匠として知られた。
2018年11月、ガンのためローマの自宅で没した。77歳だった。

ベルトリッチは、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画「勝手にしやがれ」に刺激されて映画を志したと言われる。そして、師事したのがパゾリーニ監督。
かつて映画評論家の淀川長治が言っていた。
「フェリーニやヴィスコンティは『映画の神様』であり、ゴダールやパゾリーニは『映画の悪魔』である」
だから、ベルトリッチは生粋の「悪魔」の末裔ということになる。

はじめてアナル・セックスを描いたと言われる問題作「ラストタンゴ・イン・パリ」をはじめとして「ラストエンペラー」「シェルタリング・スカイ」「ドリーマーズ」など、ベルトリッチ作品は、性描写に監督の悪魔的な特徴があらわれている。

ベルトリッチ監督は個性的ではあるけれど、さらに異常性の強いゴダールやパゾリーニに比べれば、まだ、まともである。ベルトリッチは、観客のことを配慮した商業映画として一定のレベルをはずさない、良識を備えた監督である。だから、出資者やプロデューサーも、ベルトリッチなら任せられる安心感があるのではないか。

「ラスト・エンペラー」「シェルタリング・スカイ」で音楽を担当した坂本龍一が、以前テレビで言っていたが、「ラスト・エンペラー」の際、ベルトリッチはなかなか彼に音楽を依頼してこず、さんざん引っ張って待たせた挙げ句に連絡してきて、
「1週間で作ってくれ」
と無理を言った。坂本はそれを2週間に延ばしてもらい、ほかの仕事をすべてキャンセルし、その仕事に没頭した。数十曲の映画用音楽を作り、編集が加えられて刻々と長さが変わっていくフィルムに合うようにその都度長さを調整して仕上げた。その突貫工事がオスカー獲得につながった。
ベルトリッチは「悪魔」の助手をしていた人だから、人間の都合など知ったことか、映画さえよければいいのだ、そういうことなのだろう。そういう強さは、すてきである。
(2024年3月16日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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3月15日・パウル・ハイゼの三昧

2024-03-15 | 文学
3月15日は、合衆国第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンが生まれた日(1767年)だが、ノーベル文学賞作家、パウル・ハイゼの誕生日でもある。

パウル・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ハイゼは、1830年、ドイツのベルリンで生まれた。祖父は文法学者、父親は言語学者という学者の家系で、母親はユダヤ系の金融と音楽関係に縁者の多い裕福な家系の出身でメンデルスゾーンの親戚だった。
文学少年だったパウルは、ハイゼは、18歳で短編『春』で文壇にデビュー。ベルリン大学で学んだ後、19歳のとき、歴史学とロマンス語を勉強するためにボンへ移った。そこで、ロマンス語の権威のもとで論文を執筆中、教授夫人との不倫関係が露顕して、彼はベルリンへ追い返された。
19歳のころ、父親が彼の作品を匿名で出版した。学生兼作家だったハイゼは、22歳のとき、大学の奨学金でイタリアへ研究旅行に出かけた。イタリアに古くから伝わる民謡を発掘するのが目的だったが、教会側から図書館の資料を書写することを禁じられたため、研究旅行はイタリアを楽しむ観光旅行にかわった。
ローマ、ナポリをまわったこの旅行中、ナポリの南にあるソレントの街で、黒髪をおさげにした美少女に出会い、ハイゼは強い印象を受けた。
彼はドイツへ帰ると、短編小説を書いた。そのなかの一編が、ソレントの娘を主人公にした短編『片意地娘(ララビアータ)』だった。
24歳のとき、ハイゼは、バイエルン王に招かれてミュンヘンへ移り、文学愛好者だった王から、なんの職業上の義務も負わない芸術家年金を与えられて、創作三昧の生活に没頭した。『高嶺の乙女』『ぶどう園の番人』『復活』『星の覗く人』『カプリ島の婚礼』などの中短編を含む小説、戯曲を量産した。
80歳のとき、ドイツ人作家として初となるノーベル文学賞を受賞し、1914年4月に没した。84歳だった。

ハイゼは若いときに遊んだイタリアの地を舞台にして、いくつもの小説を書いた。『片意地娘』はそうしたイタリアものの一編で、こんな内容だった。
海ばたの街ソレントに、病気の母親を抱えて二人暮らしをしている、貧しいが、気丈夫な若い娘がいた。他人の憐れみを受けたり、借りを作ったりするのを嫌う彼女は、人の好意をよく断るところから「ララビアータ(片意地娘)」と土地の者にからかわれていた。ある日、僧侶を乗せて島へ渡る小舟に、ララビアータはいっしょに乗り込んだ。小舟をこぐ船頭は土地の若者で、無口な彼は心のうちで娘のことをひそかに……という若い二人の恋物語だった。
若いころにこれを読み、とても感心した。イタリアの海と太陽とオレンジがまぶしくまぶたに浮かぶさわやかな読後感を、いまでもよく覚えている。
ゲーテが寒いワイマールを逃げだして「太陽の国」イタリアを訪ね『イタリア紀行』を書いたように、ハイゼもまた、寒い国の作家だからこそ、明るい太陽の国の風物を鮮やかに描けたのかもしれないけれど、それにしても、よその国の人が、こんな風にイタリアの空気を上手に書くのは、なんだか不思議な気持ちがする。
(2024年3月15日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。

●電子書籍は明鏡舎。
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3月14日・クインシー・ジョーンズの気づき

2024-03-14 | 音楽
「ホワイトデイ」の3月14日は、円周率のゴロ合わせから「数学の日」。この日は、物理学者アルベルト・アインシュタインが生まれた日(1879年)だが、音楽プロデューサーのクインシー・ジョーンズの誕生日でもある。

クインシー・ディライト・ジョーンズ二世は、1933年、米国イリノイ州のシカゴで生まれた。父親は大工でセミプロの野球選手で、クインシーの祖母は解放奴隷だった。
子どものころから、母親の歌う宗教歌や、となりの娘が弾くジャズピアノといった音楽に囲まれて育ったクインシーは、家族で引っ越した先のワシントン州シアトルの高校に通っていたころからトランペットと編曲を勉強しだした。
14歳のころからバンドで演奏しだし、そのころ、3歳年上の盲目のピアニスメト、レイ・チャールズがクラブで演奏するのを聴き、刺激を受けた。
18歳のとき、マサチューセッツ州ボストンの音楽大学の奨学生の資格を得て入学したが、ライオネル・ハンプトンのジャズバンドから仕事のオファーを受けると、学業を放りだして、トランペッターとしてバンドといっしょに巡業旅行に出た。
クインシーはバンドマンとして米国内や欧州をツアーでまわったが、生活にはつねに困窮していた。彼はミュージシャンから、レコード会社の音楽ディレクターとなり「涙のバースデイ・パーティー」をはじめとするレスリー・ゴーアの4枚のミリオンセラーをプロデュースし、31歳のとき、マーキュリー・レコードの副社長に昇進した。当時、音楽業界ではアフリカ系アメリカ人がそんな高い地位に昇った例はまだなかった。
エグゼクティブとなったクインシーは映画音楽の制作に乗りだし、「質屋」「夜の大捜査線」「冷血」「マッケンナの黄金」「ゲッタウェイ」「カラーパープル」「ウィズ」といった映画音楽を手がけた。
ポップソングのジャンルでは、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラら大物アーティストのプロデュースを手がけ、48歳のときにはアルバム「愛のコリーダ」でみずから世界的ヒットを放った。これは、大島渚監督の同名映画にかけたディスコ・ミュージックである。マイケル・ジャクソンのアルバム「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」をプロデュースし、52歳のとき、米国のスーパースターが一堂に会して歌った「ウィ・アー・ザ・ワールド」をプロデュースしたクインシー・ジョーンズは、米国音楽界に君臨する大御所である。

シドニー・ポワチエ主演の映画「夜の大捜査線」のエンディングは、レイ・チャールズが歌う「夜の熱気の中で(In the Heat of the Night)」が流れ、列車が高速で走り去っていく印象的なシーンだったが、あの映画の音楽監督がクインシー・ジョーンズである。
人種差別の激しかった米国で、黒人の地位向上に功績のあった黒人の功労者は、ジャッキー・ロビンソン、モハメッド・アリ、マイケル・ジャクソンなど、たくさんいるけれど、クインシー・ジョーンズもそのひとりである。彼は言っている。
「われわれは最高のジャズバンドだった。それでもなお、文字通り飢えていた。それで、気づいたのだ。世の中には音楽と、音楽ビジネスがあるのだと。生き残るためには、その二つのちがいについて学ばなくてはならないだろう。」
彼はちがいを学び、両方の分野でみごとな達成をおさめた。
(2024年3月14日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


●電子書籍は明鏡舎。
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3月13日・クロイツァーの種

2024-03-13 | 音楽
3月13日は、彫刻家・詩人の高村光太郎が生まれた日(1883年)だが、日本に亡命し、活躍した指揮者・ピアニスト、レオニード・クロイツァーの誕生日でもある。

レオニード・クロイツァーは1884年、ロシアのサンクトペテルブルクで生まれた。両親はユダヤ系ドイツ人だった。音楽家を志した彼は、サンクトペテルブルク音楽院でピアノ、作曲を学んだが、22歳のころ、第一次ロシア革命が起きたロシアの騒乱を嫌って、ドイツのライプツィヒに引っ越し、指揮を学んだ。
24歳のころ、ベルリンへ移り、ピアニスト、指揮者として活躍。数年後にはロシアへ戻り、ラフマニノフのピアノ、クロイツァーの指揮で、ラフマニノフ作曲のピアノ協奏曲を演奏するという豪華な凱旋コンサートを開いた。
ドイツへ戻った彼は、37歳のころには、ベルリン音楽大学のピアノ科の教授に就任し、ピアノ演奏のレコードを出した。自作の交響的パントマイム「神と舞姫」を初演し、42歳のころ、米国を演奏旅行し、と活躍を続けた。43歳のころ、クロイツァーはドイツ国籍を取得した。が、第一次大戦で敗北したドイツでは、失業者があふれ、超インフレ社会となり、ナチス勢力を伸ばし、ユダヤ人が迫害されるようになってきた。ナチスはクロイツァーを標的にした。1933年、ヒトラーが首相となり、ユダヤ人を公職から追放する法案が成立し、クロイツァーは大学教授の地位を追われた。その翌年、50歳のクロイツァーは二度目の来日を果たした。日本の指揮者・近衛秀麿に引き止められ、そのまま日本にとどまった。その後、彼のドイツ国籍はナチス政権下ではく奪された。
日本でクロイツァーは、東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授となり、後進の育成のかたわら、ピアニスト、指揮者として活躍した。
68歳になる少し前に、教え子の日本人女性ピアニストと結婚したが、その翌年の1953年10月、東京でリサイタル中に心筋梗塞で倒れ、2日後に没した。69歳だった。

クロイツァーの名を知ったのは、小澤征爾や加山雄三の文章によってだった。
「指揮者になりたいと思うようになったのは、日比谷公会堂で、レオニード・クロイツァーがベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』を、自分でピアノを弾きながらオーケストラを指揮したのを見てからであった。」(小澤征爾『ボクの音楽武者修行』新潮文庫)

「うちの3軒隣の家の前を通ると、ピアノの音が聞こえてくるから、学校帰りにいつも塀に張り付いて聴いていたんだよな。
 ある日、そこでピアノが流れるのを待っていたら、外国人が来て『何をしてるんだ?』『ピアノが聞こえるのを待ってるんだ』と答えたら、『ついてきなさい』。家の中に入って、少し待つように言われた。『バーン!』ってすごいピアノが流れてきた。その人が弾くショパンの『英雄ポロネーズ』だった。ものすごい感動したんだ。(中略)こっちは有名な人だなんて知らなかった。おやじがその話を聞いて怒ってね。『そんな人に『教えてほしい』なんて失礼だ!』ってね。でも、結局、そのクロイツァーさんの家の人が、(ピアノを)教えてくれる人を紹介してくれたんだ。」(加山雄三「人生の贈りもの」朝日新聞・2023年7月13日)

時代の嵐に翻弄されながらもクロイツァーは世界的に活躍し、多くの音楽家に影響を与えた。人を感動させ、行動を起こさせる奇跡的な芸術家。彼がまいた種はみごとに育ち、立派な花を咲かせた。
(2024年3月13日)


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3月12日・葉山嘉樹の真実

2024-03-12 | 文学
3月12日は、天才舞踏家、ニジンスキーが生まれた日(1890年)だが、作家、葉山嘉樹(はやまよしき)の誕生日でもある。

葉山嘉樹は、1894年、福岡県で生まれた。武士の家系の出で、早稲田大学の予科に入学したが、学費を滞納して除籍となった。
除籍後は、外国航路の船の船員をへて、26歳で名古屋のセメント工場の工員になった。名古屋では労働運動に参加し、29歳のとき、検挙されて投獄された。
獄中で小説『淫売婦』を書き、労働運動から離れるという「転向」を誓う陳情書を書いて31歳で出獄。水力発電所の工事現場へ行き『セメント樽の中の手紙』を書いた。
32歳のとき『海に生くる人々』が出版され、葉山は注目作家となった。
工事現場で働きながら小説を書き、50歳のころから満州への開拓団運動にかかわり、満州へ渡った。敗戦直後の1945年10月、日本へ帰国するために乗った列車内で、脳溢血のため没した。51歳だった。

未完の小説『死霊』を書いた埴谷雄高が、自身の文学的態度についてこう書いている。
「『暗夜航路』『都会の憂鬱』『雪国』は吾国の代表作だと思い、横光利一に関心をもち、葉山嘉樹に無条件賛成で、梶井基次郎、牧野信一、北条民雄などの夭逝作家に深い親近感をもったといった具合です。」(『虹と睡蓮』未來社)
埴谷雄高が「無条件賛成」した作家、それが葉山嘉樹である。

社会人になってから『セメント樽の中の手紙』『海に生くる人々』を読んだ。いずれも脱帽するべき傑作で、セメント樽のなかに木箱におさまった手紙を発見するという『セメント樽』の趣向や、『海に生くる人々』に登場する人間の一人ひとりが血が通っている人間だというリアルな感触に感服した。
同じプロレタリア系の文学でも、小林多喜二の作品となると、むずかしく読みづらいのだけれど、葉山嘉樹は読みやすく、かつ、圧倒的な説得力でねじふせられる。

葉山嘉樹はこう書いている。
「馬鹿にはされるが真実を語るものがもっと多くなるといい」
国会議事堂に出勤する人たちから人々が寝静まった時間に働く人たちまで、現代の日本人すべてが耳を傾けるべきことばにちがいない。
(2024年3月12日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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