1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月21日・ファーブルの後半生

2016-12-21 | 科学
12月21日は、映画女優ジェーン・フォンダが生まれた日(1937年)だが、生物学者ジャン・アンリ・ファーブルの誕生日でもある。

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルは、1823年、南仏アヴェロン県の寒村サン・レオンで生まれた。畑をもたず、これといった技術ももたなかったとくに父親は、近所の家を手伝ったり、雑用を請け負ったりし、母親は手袋作りの内職をしていた。
ジャンの下に弟が生まれると、ジャンは口減らしのため、祖父母の家に預けられた。このとき3歳だったジャンは、まともな道さえない荒れ地を20キロメートルも離れた祖父母の村まで歩いていったという。
大自然のなかで育ったジャンは、7歳のときに父母の家へもどり、サン・レオンの小学校に入学した。
ジャンが10歳のとき、一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁のあるロデズに引っ越していき、父親はそこでカフェを開いた。
貧しかったジャンは、教会の手伝いをすることで学費を免除されて中学に通い、ラテン語やギリシャ語など語学で優秀な成績を修めた。
しかし、父親のカフェ経営はうまくいかず、一家は離散状態となり、ジャンは15歳のころ、学校を中退して、肉体労働をしながら独学で勉強するようになった。
17歳のとき、ファーブルはアヴィニョンの師範学校に入学。19歳の年に小学校教師の免許をとり、カルパントラで数学と物理学の教師になった。
その後コルシカ島の大学で数学を研究した後、ファーブルはアヴィニョンにもどり、博物館の館長を務め、染料の研究などをしたが、市民に対しておこなった彼の生物学の講義が宗教界から非難を受け、ファーブルはアヴィニョンを追いだされる恰好となった。
56歳のとき、セリニアンに移り住んだファーブルは、自宅の裏に1ヘクタールの庭を作り、そこに世界中から取り寄せたさまざまな植物を植えて、昆虫の研究をはじめた。そうして研究、観察しつつ書きつづけられたのが『昆虫記』全10巻で、セリニアンの村では「虫好きの変な老人」でしかなかったファーブルの名声は、この本の出版により、フランス全土でしだいに高まっていった。
ファーブルはレジオンドヌール勲章を受賞した後、1915年10月、老衰と尿毒症のため、セリニアンで没した。91歳だった。

ファーブルの名は、牧野富太郎とともに小学校のころから馴染んでいた。
ファーブルの研究は、厳密さに欠け、しばしば誤った認識があると生物学の専門家から批判されるけれど、それを差し引いてもファーブル昆虫記のおもしろさは圧倒的で、ファーブルが全世界の子どもたちを生物学の道へといざなった功績は絶大である。

ファーブルが昆虫研究に本腰を入れたのが、50代後半からで、それから30年以上も昆虫三昧の生活を続け、それがファーブルをファーブルたらしめているというのは興味深い。
ファーブルはまた、最初の妻を亡くした後、64歳のとき、23歳の娘と再婚し、3人の子をもうけている。小林一茶と同様「老いてますます盛んなり」のみごとな後半生だった。
(2016年12月21日)



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血液型呪文シリーズ全4冊(天野たかし)
『A型のための呪文』『B型のための呪文』『O型のための呪文』『AB型のための呪文』
血液型別の性格を踏まえ、自分を認め、許し、幸運を招き寄せる魅惑の呪文を一挙紹介。言霊と自己暗示による開運指南書。運命はことばによって開かれる。呪文診断テスト付き。


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12月20日・ファイアストーンの名

2016-12-20 | ビジネス
12月20日は、唐招提寺(とうしょうだいじ)を開いた鑑真(がんじん)和尚が苦難の末、ようやく来日した日(753年)だが、実業家ファイアストーンの誕生日でもある。

ハーベイ・サミュエル・ファイアストーンは、1868年米国オハイオ州コロンビアで生まれた。ドイツ系移民の家系で、ハーベイは高校を出た後、馬車会社に勤務し、その後、独立してゴム製品を作る会社を興した。
彼の会社は、はじめ馬車用のタイヤを作っていたが、やがて自動車用タイヤを作るようになり、大成功をおさめた。
フォードの自動車が大成功して、全国に自動車が普及していくと、フォード社と契約していたファイアストーン社のタイヤもそれといっしょになって全国に行き渡ったのである。
1920年代には、トーマス・エジソン、ヘンリー・フォード、そしてハーベイ・ファイアストーンの3人は、アメリカの実業界をリードするビッグ・スリーと目され、彼ら3人は「百万長者クラブ」と呼ばれた。
それで、彼らは仲良く、いっしょに働いたり、いっしょに休暇をとったりした。
アメリカンドリームをなし遂げた、この移民の子孫ファイアストーンは1938年2月、フロリダ州マイアミの別荘で没した。69歳だった。

はじめて「ファイアストーン」の名を聞いたのは、米国のリコール問題のニュースだった。2000年ごろ、日本のタイヤ・メーカー、ブリジストン社の米国の子会社であるファイアストーン社が、大量のリコールを抱えて苦しんでいた。これは、フォード社のクルマに装着しているファイアストーン社のタイヤの接地面がはがれて事故が起きるケースがたび重なったことによるもので、事故について、フォード社側とファイアストーン社側とで罪のなすりあいもあった。

ファイアストーンの一族は、ドイツから移民してきた、もともとユダヤ人の家系である。
英語名のファイアストーン(Firestone)は、ドイツ語で「フォイエルシャタイン(Feuerstein)」だった。「火の石」という意味である。
「一個の石」の意味の「アインシュタイン」も、もちろんユダヤ人だった。
ファイアストーン家は、米国に移住して、その名前を英語風に改めた。これを社名としたファイアストーン社は世界的な大企業となった。

創業者ハーベイ・ファイアストーンがまだ生きていたころ、ファイアストーン社は、日本のブリジストン社を、社名をまねしたとして訴えたことがあったら。裁判では、社長の名「石橋」を英訳したにすぎないとしてファイアストーン側の訴えは退けられた。

ファイアストーン社は、創業者ハーベイの死後、事業を広げてゆき、アメリカ軍のミサイルを受注するまでになったが、やがて自社のタイヤ製品が原因となった事故で、多くの訴訟を抱え、しだいに業績がかたむき、ついに1988年、日本の後発のタイヤ会社ブリジストン社に買収されるという羽目におちいった。盛者必衰、長くやっていると人生も会社もいろいろなことがある。
(2016年12月20日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。タイヤのハーベイ・ファイアストーン、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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12月19日・埴谷雄高の構え

2016-12-19 | 文学
12月19日は、至上の歌手エディット・ピアフの誕生日(1915年)だが、作家、埴谷雄高(はにやゆたか)の誕生日でもある。

埴谷雄高は、1909年、台湾の新竹で生まれた。戸籍上の誕生日は翌年の元旦になっているらしい。本名は般若豊(はんにゃゆたか)。父親は税官吏で、後に製糖会社の社員になった。
当時の台湾は、日清戦争の結果、日本占領下にあり、こんな様子だった。
「日本人は、その当時は十万ぐらいしかいなかったろうと思うんですが、約七、八百万の本島人に対して絶対支配的な立場に立っていた。それが子供の眼にも、ときどき、破れて見える。たとえば、野菜とか魚を本島人が売りにくる場合、細君たちは値ぎるわけです。ある程度どころか、度を越えて相手がだめだっていってもなお値ぎるわけです。ひどい場合は四銭とか五銭とか自分でつけた値段の金だけ置いて、家の中へはいってしまう。また、ひどい男は人力車に乗って、車夫の頭を後ろから蹴る。そういう時に子供のおさない心も二つに破れざるを得ない」(埴谷雄高「裂け目の発見」『石棺と年輪』未来社)
中学生のころに東京へ越してきた埴谷は、日本大学に進み、20歳のころ中途退学。そして21歳のころ、日本共産党に入党した。
翌年の22歳のとき、逮捕、投獄された。左翼系の思想書を自宅にもっていたことが罪に問われた思想犯だった。独房のなかで埴谷は、カントの『純粋理性批判』を愛読した。それが彼に大きな転機をもたらした。
23歳のころ、埴谷は転向(政治思想の信条を変えること)を誓約し、出所。政治活動家だった埴谷は、出所後は一転して文学者となり、戦中は外国文学を翻訳し、戦後になると同人誌に小説や評論を発表した。
終戦の年、1945年の暮れに、形而上小説『死霊(しれい)』の最初の部分を発表。物語が筋でなく、観念的な議論で進んでいくというこの特殊な大長編小説は以後、数十年にわたって書き継がれ、最終的には12章になる構想だったが、第9章で中断され未完となった。
埴谷は、1997年2月、東京、吉祥寺の自宅で没した。87歳だった。
小説に『闇のなかの黒い馬』、評論に『垂鉛と弾機』『闇のなかの思想』、警句集に『不合理ゆえに吾信ず』などがある。

『死霊』は数ページ以上読めなかったが、『闇のなかの~』など短編や評論はかなり読んだ。埴谷雄高の小説はよくわからないけれど、その随筆や評論は大好きで、埴谷の文章を、どうしても読みたくなるときがある。
あの、一文一文が長い、ていねいに風呂敷を折り畳むように折り畳まれた論理を、しだいに広げて、目にも鮮やかな柄を見せていくような文章は、なんともいえない独特の味わいと説得力があって、その魅力に頭がくらくらする。

ほかの連中がかんたんに思いつくようなことは、口が裂けてもいわないぞ、と斜に構えた作家、それが埴谷雄高である。かつて評論家・中島梓が出世作『文学の輪郭』で、埴谷雄高を観念の東の地平、村上龍を感性の西の地平として対照したが、村上のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を絶賛して彼を世に送りだしたのは埴谷だった。

世評とか時流とかに惑わされず、本質をまっすぐ見抜く目をもっていた人だった。明治以降で、埴谷雄高ほど特殊な作家はいない。
(2016年12月19日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。



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12月18日・トムソンの実験と電子

2016-12-18 | 音楽
12月18日は、ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズが生まれた日(1943年)だが、物理学者ジョセフ・ジョン・トムソンの誕生日でもある。電子を発見した人である。

ジョセフ・ジョン・トムソンは、1856年、英国イングランドのマンチェスターで生まれた。父親は古書店の経営者だった。ジョゼフは2人兄弟の兄だった。
小さいころから頭脳優秀で科学に興味を示したジョゼフは、オーエンズ・カレッジ、ケンブリッジ大学と進み、28歳の年にケンブリッジ大学の物理学教授となった。
41歳のとき、トムソンは、真空管に工夫を凝らして真空放電の実験をおこなった。
真空管のなかの電極に強い電圧をかけると真空放電が起き、陰極から陰極線が放射される。陰極線は管の反対側にぶつかり、ガラスには陰極線が当たると光るように燐光物質が塗ってあるので、真空管は美しく光る。
この真空管の途中に、トムソンは電場や、磁場をこしらえて実験をおこなった。
すると、電場や、磁場を通過した陰極線は曲がって進むことがわかった。電場や磁場を設けると、陰極線がぶつかる反対側のガラスの光る位置がずれるのだった。
この結果により、陰極線が負の電荷を帯びた質量のある粒子であるという確証が得られた。
それまで、物質の最小単位は原子であって、それ以上細かく分割することはできないと考えられていたが、ここに原子よりもさらに小さい、電荷を帯びた「電子」が発見されたのだった。
トムソンはさらに実験を重ねて、電子の質量が、原子のうちでもっとも軽い原子である水素原子の約2000分の1であると計算した。
トムソンは、50歳のとき、ノーベル物理学賞を受賞し、ナイトの称号を受け、トリニティ・カレッジの学長を務めた後、1940年8月にケンブスリッジで没した。

トムソンは指導者としても優秀で、彼の研究室からはノーベル賞受賞者が続出している。物理学教授の職を継いだ弟子のアーネスト・ラザフォードをはじめとする、なんとトムソンの7人の教え子がノーベル賞を受賞した。さらに、トムソンの息子ジョージ・パジェット・トムソンも電子の波動性の証明でノーベル物理学賞を受賞している。

高校生のとき、物理の授業でトムソンのことを教わった。古代ギリシアの哲学者デモクリトスが言った、それ以上分けられない「原子」という概念に、科学的なアプローチが加えられるようになったのは、トムソンからである、と。
それから原子物理学は、永岡半太郎、ラザフォード、湯川秀樹……と発展していく。

トムソンの実験は、人間、工夫が肝心、そして実行が大切、と教えてくれる。
(2016年12月18日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「キース・リチャーズ自伝 ライフ」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!

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12月17日・ベートーヴェンの苦闘

2016-12-17 | 音楽
12月17日は、米国ノースカロライナのライト兄弟がはじめて飛行機で飛ぶのに成功した日(1903年)だが、「楽聖」ベートーヴェンの洗礼日でもある。
ベートーヴェンの誕生日は正確にはわかっていないらしい。ただ、1770年の12月17日に洗礼を受けた記録があるという。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年、現代のドイツのボンで生まれた。父親はアルコール依存症の音楽家で、ルートヴィヒは早く音楽家として働いて父親の酒代を稼ぐようにと、小さいころから父親から音楽のきびしいスパルタ教育を受け、ルートヴィヒはこの父親を終生憎んでいたという。
16歳のとき、ルートヴィヒはモーツァルトに弟子入りして、2週間ほどの期間だったが、この天才のもとで勉強し、22歳のときにはハイドンに弟子入りした。
ベートーヴェンは26歳のころから、耳鳴りがするようになり、しだいに音楽が聞こえなくなり、会話もできなくなった。筆談用にいつも会話帳をたずさえるようになった。
難聴は音楽家にとって「致命的」で、ベートーヴェンは絶望し、31歳のときには遺書までしたためている。
しかし、ベートーヴェンは不自由な耳のまま作曲を続けた。絶望的な状況のなかで、世界の至宝ともいうべき名曲は産みだされていった。
30歳の年に初演された第一交響曲や、33歳の第二交響曲によって、ベートーヴェンは、押しも押されもしない同時代の最重要作曲家のひとりと目されるようになり、38歳のときに第五交響曲「運命」と、第六交響曲「田園」を初演して、音楽界に衝撃を与えた。
53歳で第九交響曲「合唱」を完成。そのころには、耳は完全に聞こえない状態だった。
聴覚障害のほか、慢性的に腹痛、下痢に苦しめられた苦闘の作曲家人生を送った後、ベートーヴェンは1827年3月、ウィーンで没した。56歳で亡くなった。雷が落ち、その音が響き渡った、まさにそのときに息をひきとったという。

ベートーヴェンの死因には、鉛中毒によるなど、さまさまな説がある。
また、彼の難聴の原因については、発疹チフスや免疫性の病気のせいだとか、あるいは、ベートーヴェンは眠気を払うために冷たい水に頭をつけることをよくしていて、そのためだという説もあるが、はっきりしたことはわかっていないらしい。
彼の遺体を解剖すると、内耳がふくれて大きくなっていたという。

クラシック音楽のなかでは、ベートーヴェンがいちばん好きである。
あの人間のドラマが感じられるところがいい。人は苦しみ、悩み、挫折する。しかし、それを乗り越えて、進み、さらなる高みへのぼっていく。そういうドラマティックな生きざまが感じられ、それが人間賛歌たりえている点が、ベートーヴェンの音楽である。
フルトヴェングラーは「ベートーヴェンは45度の角度で上昇する」と言った。
(2016年12月17日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。ベートーヴェン、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。

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12月16日・アーサー・C・クラークの人類観

2016-12-16 | 文学
12月16日は『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』のSF作家フィリップ・K・ディックの誕生日(1928年)が生まれた日だが、同じくSF作家のアーサー・C・クラークの誕生日でもある。小説『2001年宇宙の旅』の作者である。

アーサー・チャールズ・クラークは、1917年、英国イングランドのサマセット州マインヘッドで生まれた。父親は郵便局の技術者だったが、辞めて農場をはじめた。アーサーは4人きょうだいの一番上だった。
アーサーが14歳のとき、父親が没した。母親は女手ひとつで農場経営を続け、収入を得るために、乗馬教室を開き、テリア犬を育て、宿泊客を泊めた。
農場で天体観測とSF小説に熱中する少年だったアーサーは、17歳のころには英国惑星間協会に入会。19歳でグラマースクールを卒業し、教育委員会の年金の監査係になった。
彼が22歳の年に、英国はドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまった。大戦中゙クラークは英国空軍でレーダーシステムの開発にたずさわり、早期警戒システムの構築に尽くした。
戦後、ロンドン大学に入学。物理学と数学を修めた。彼が28歳のときに書いた論文のなかで、人工衛星による電気通信のリレーのアイディアを提出し、これは静止衛星の通信に生かされた。
大学卒業後、大蔵省に勤めたが、戦前から書きだしていたSF小説書きが本格化して退職。32歳のころからSF雑誌の編集を手伝うなどした後、34歳ごろから専業作家となった。
『太陽系最後の日』『前哨』『幼年期の終り』『2001年宇宙の旅』『楽園の泉』などを書き、ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフらとともにSF界のビッグ・スリーと呼ばれた。
39歳のとき、当時セイロンと呼ばれたスリランカへ移住。趣味のスキューバダイビングをしながら執筆を続け、81歳のとき、英国女王からナイトの称号を授与された後、2008年3月、心不全と呼吸困難のため、スリランカのコロンボで没した。90歳だった。

SF映画の最高傑作とも呼ばれるスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」は、クラークの短編『前哨』をもとに、監督と二人三脚で連絡を取り合いながら双方でストーリーを書き進めて仕上げたものらしい。キューブリックの映画が先に発表され、クラークの小説がその3カ月後に発表された。映画と小説とではだいぶ異同があり、小説のほうがより説明的である。

宇宙のどこかに高度に進んだ文明があり、文明の進んだその宇宙人たちが人類の進化を見守っているというのが『2001年宇宙の旅』のコンセプトであり、『幼年期の終り』になるともっとすごくて、文明の発達した宇宙人によって人類は養育されている、という構図になっている。
人類は、自分たちの考えでああでもないこうでもないと試行錯誤しているけれど、案外、オリのなかで飼われている二十日ネズミみたいなものかもしれない。
(2016年12月16日)



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12月15日・エッフェル塔の美意識

2016-12-15 | 芸術
12月15日は、エッフェルの誕生日。フランスのパリにある、あのエッフェル塔を作ったエッフェル社のエッフェルである。

アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルは、1832年、フランス中部のディジョンで生まれた。アルザス地方からやってきたドイツ系の家系で、父親は退役軍人で、母親は石炭関係の会社を経営していた。
小さいころからものを作ることが好きだったアレクサンドルは、工芸学校を出て技師免許をとり、鉄鋼会社や鉄道設備会社で働き、鉄橋建設などにたずさわった後、34歳のとき、エッフェル社を設立。国内外の駅舎ホール、工場、鉄道高架橋、天文台などさまざまな建造物を作った。
そして、55歳のときにエッフェル塔建設に着手。塔の設計は、エッフェル社の社員だったステファン・ソーヴェストルとモーリス・ケクランの二人が担った。約2年をかけて完成した。
エッフェルはそのほかにも、ポルトガルのドウロ川にかかるマリア・ピア橋や、ハンガリーのブダペストの駅舎など、美しく、モダンなデザインの建造物を作った後、1923年12月、パリの自宅で没した。91歳だった。エッフェルはベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を聴きながら息を引きとった。

1889年のパリ万国博覧会にあわせて建てられたエッフェル塔は、高さが312メートルあり(アンテナを入れるとさらに高い)、米ニューヨークのクライスラービルにぬかれるまで、約40年間にわたって世界でもっとも高い建造物だった。

エッフェル塔の姿には、フランスらしい、ある美意識が感じられる。
いちばんのポイントは、単純にたてに棒状になっていず、塔の足元が四つに割れている点だろう。エッフェル塔は4本に別れた脚で支えられていて、塔の真下は、だだっぴろい広場になっている。だから、塔にのぼるためには、4本の脚の部分にあるいずれかのエレベーターに乗って、斜めにのぼっていくことになる。
一度のぼったことがあるけれど、あの斜めにのぼるエレベーターのなかは、なんともいえない不思議な気分だった。もちろん、東京タワーのように、真下からまっすぐ上へのぼる恰好のほうが、構造上安定するし、技術的にもかんたんなのだろうけれど、それをあえて、技術により困難なものにし、それに挑んだところがにくい。アーチを作っているあの4本の脚がちょっと短足な感じでユーモラスで、そこがまたよい。
万博に間に合わせるため、尋常でない急ピッチの工事日程を要求されたにもかかわらず、エッフェル塔はひとりの死者もださずに完成された。

鉄の時代の到来を告げる、エッフェルはモダニズムの寵児だった。
(2016年12月15日)


●おすすめの電子書籍!

『つらいときに開くひきだしの本』(天野たかし)
苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。

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12月14日・ポール・エリュアールの詩心

2016-12-14 | 文学
「忠臣蔵」赤穂浪士の討ち入りの日、12月14日は、天文学者ティコ・ブラーエが生まれた日(1546年)だが、詩人ポール・エリュアールの誕生日でもある。

ポール・エリュアールは、1895年、フランスのパリの北、サン=ドニで生まれた。本名はウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデル。父親は不動産屋で、ポールが13歳のころ、一家はパリへ引っ越した。高等中学校の学生だった17歳のころ、結核にかかり、ポールはスイスのダヴォスにあるサナトリウムに入院した。そこでひとつ年上のロシア人少女ヘレナ・ドミトロヴニェ・ディアコノヴァと知り合った。ポールは恋に落ち、ヘレナのことを「ガラ」と愛称で呼んだ。二人はランボーやアポリネールなどの詩をいっしょに読み、ポールはガラへの愛をテーマにした詩をたくさん書き、18歳の年に処女詩集『最初の詩集』を自費出版した。
サナトリウムを退院した彼は、19歳で第一次世界大戦に召集され、従軍したが、軍の休暇中にガラと結婚。第一次大戦後は、アンドレ・ブルトンやトリスタン・ツァラたちのダダイスム運動に加わり、エリュアールが29歳のころ、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表しシュルレアリスム運動をはじめると、これにも参加し、運動の機関誌である「シュルレアリスム革命」の編集にたずさわった。
妻のガラは、シュルレアリスム運動の仲間であるサルバドール・ダリと恋仲となり、エリュアールは35歳でガラと離婚した。
そのころ、ヨーロッパに高まってきたファシズムへの反対運動にポールは加わり、内戦中のスペインの村ゲルニカにドイツ軍の空爆がおこなわれると、詩「ゲルニカの勝利」を書いた。第二次世界大戦がはじまるとふたたび従軍し、除隊後はレジスタンス活動にはげんだ。エリュアールが作詞した反ナチス・ドイツの歌は印刷され、連合軍側の飛行機によって空からまかれ、レジスタンスの人々に広く愛唱された。
戦後はヨーロッパ各国を講演してまわり、抑圧からの解放と、人間愛をうたった詩を発表した。そうして1952年11月、心臓発作のため、パリのすぐとなりのシャラントン=ル=ポンで没した。56歳だった。

シュールレアリスト画家ダリ美神ガラの前夫はどんな詩を書いたのかしら、とエリュアールの詩を読んだ。表現が平易で、フランスらしい。洒落ている。たとえばこんな感じ。

「学校のノートの上
 勉強机や木立の上
 砂の上 雪の上に
 君の名を書く(中略)

 きらきら光る形の上
 色彩の鐘の響きの上
 自然界の真理の上に
 君の名を書く(中略)

 立ち戻った健康の上
 消え失せた危険の上
 思い出のない希望の上に
 君の名を書く

 一つの言葉の力によって
 僕の人生は再び始まる
 僕の生まれたのは 君と知り合うため
 君を名ざすためだった」(「自由」安藤元雄訳『フランス名詩選』岩波文庫)

(2016年12月14日)




●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


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12月13日・田山花袋の衝撃

2016-12-13 | 文学
12月13日は、眼・視覚障害者の守護聖女「聖ルチア」の日で、詩人ハインリッヒ・ハイネが生まれた日(1797年)だが、作家、田山花袋(たやまかたい)の誕生日でもある。

田山花袋は、明治4年12月13日(西暦1872年1月22日)に当時は栃木県だった、現在の群馬の館林で生まれた。本名は田山録弥(たやまろくや)。父親は元武士で、録弥が4歳のとき、警視庁所員となり、一家は上京した。
録弥が5歳のとき、父親が西南の役に従軍して戦死した。
録弥は9歳のころから足利や東京で丁稚奉公をした後、12歳のとき、漢学塾に入った。漢詩漢文のほか、和歌や西洋文学にも親しむ少年だった。
18歳のとき上京し、19歳で文豪・尾崎紅葉の門下生となった。
出版社の校正係をしながら田山花袋の名で小説を書いた。
彼が32歳のときにはじまった日露戦争では、軍所属の写真班で従軍記者として働いた。
日露戦争の終わりごろから「露骨なる描写」を標榜する自然主義の小説を書きだし、勤めていた出版社から創刊された雑誌「文章世界」の編集主任となった。
35歳のとき『蒲団(ふとん)』を発表。生々しい描写が当時の人々に衝撃を与えた。
田山花袋は自然主義文学の中心とした活躍し、『生』『妻』『田舎教師』『一兵卒の銃殺』などを書いた後、1930年5月、喉頭ガンのため、東京の自宅で没した。58歳だった。

田山花袋の代表作『蒲団』を昔読んだ。登場人物がみんなものすごくまじめなのに驚いた。物語は、主人公の妻子ある中年の小説家である時雄が、女性の内弟子にひそかに思いを寄せている。その欲望を隠して、女弟子の恋愛問題に師匠らしくえらそうに説教するというような話である。終わりのほうに、女弟子が使った蒲団をとりだし、顔を押しつけてにおいをかぎ、泣く場面があって、こんな感じである。
「性慾と悲哀と絶望とが忽(たちま)ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。」(『蒲団』青空文庫: http://www.aozora.gr.jp/)
現代に読むとピンとこないけれど、このおぞましい感じが、当時の世相を衝撃をもって走り、これをきっかけに日本文芸界に、自然主義文学の嵐が吹き荒れることとなった。
ずっと後の時代に、石原慎太郎が『太陽の季節』で、主人公がペニスを障子に突きたてて破る場面を書いて世間を騒がせ、村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で女を回転させる乱交シーンを描いて話題を呼び、と、こうしてみると、新しい世代の宣言というのは、つねに衝撃的な性表現をもって高らかになされるものなのである。
(2016年12月13日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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12月12日・小津安二郎の純

2016-12-12 | 映画
12月12日日は、画家エドヴァルド・ムンクが生まれた日(1863年)だが、映画監督・小津安二郎の誕生日でもある。

小津安二郎は、1903年、東京の深川で生まれた。父親は、海産物を扱う老舗商家の番頭で、安次郎は5人きょうだいょ上から2番目。上に兄、下に弟妹がいた。
10歳のとき、三重の松阪へ家族とともに引っ越し、安次郎はそこで育った。
小さいころから絵を描くのが得意な安次郎は、10代のなかばごろから映画を観、外国製のカメラをいじるハイカラな少年だった。彼は商業高校へ進もうとしたが受験に失敗し、18歳で松阪の尋常高等小学校の代用教員になった。1年ほどで代用教員を辞め、今度は親戚の紹介で松竹の蒲田撮影所に撮影助手になった。
21歳のとき、徴兵されて長く兵役につくのを避けるため、小津は一年志願兵を志願して入隊。仮病を使って演習をサボりながら、予定通り1年で除隊し、撮影所に帰ってきた。
小津は、サイレント映画「地蔵物語」「灼熱の恋」を撮った大久保忠素の下で助監督となり、シナリオを書き、23歳のとき監督に昇格した。ちょうどそのころ、撮影所の時代劇部門が京都へ移転し、蒲田に残った小津はもっぱら現代劇を作った。
小津もはじめはサイレント映画を撮っていたが、32歳ごろからトーキーを撮るようになり、55歳のころモノクロからカラー作品に変わった。
カメラを低く人物の目線で構え、登場人物を真正面から撮った独特の構図で、親子関係、娘の嫁入りなど同じテーマの映画を小津は延々と作りつづけた。
小津の映画はなかなかヒットしなかったが、真珠湾攻撃があった年の「戸田家の兄妹」あたりからヒット作が出るようになった。太平洋戦中は軍部に協力して南方で映画撮影に取り組み、シンガポールで敗戦を迎えた。
戦後の小津は毎年一作を発表し、日本映画界を代表する巨匠として知られた。「晩春」「東京物語」「秋刀魚の味」など、いまなお名品とたたえられる作品群を撮った後、ガンのため東京の入院先で、1963年12月12日の満60歳の誕生日に没した。

ずっと以前、女優の高峰秀子がテレビでこう語っていた。
「小津先生は原(節子)さんのことが好きで好きで。わたし、先生にこう申し上げましたのよ。先生、原さんといっしょになりたいんでしたら、雨戸を蹴破って行くつもりでなくちゃいけませんわよって」
小津は結局、雨戸を蹴破らず、生涯を独身で通した。原節子は、小津が没すると、公の場からいっさいの消息を絶った。

小津安次郎は納得するまで、同じ演技を何度も何度も繰り返させる監督で、笠智衆も若いときから小津には何度も何度もやり直しをさせられて、最後にはようやくOKが出るのだけれど、その前とどこがちがうのかまったくわからないと言っていた。

小津監督の映画を、長らくおもしろいと感じなかった。ただ、たとえば尾道の家の前を通りかかった近所の人が、開いている窓から家のなかの人へ話しかけてくる、そういった小津作品にでてくる昔の日本の風俗には驚かされた。
派手な立ち回りやショッキングな暴力シーンなどがない、日常を淡々と描く小津監督の世界が、近年ようやくおもしろいと思うようになった。おそらく監督が美しいと思うものだけを画面に収め、見たくないもの一切を排除した、純粋映画とでも呼ぶべきものを小津は目指したのだ。それは、最初から最後までジェットコースターに乗ったようなハリウッド映画とは対照的な作り方で、お金のかかったカーチェイスや爆破シーンもないけれど、そこには見るべきものがたしかにある。
(2016年12月12日)



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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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