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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月12日・小津安二郎の純

2016-12-12 | 映画
12月12日日は、画家エドヴァルド・ムンクが生まれた日(1863年)だが、映画監督・小津安二郎の誕生日でもある。

小津安二郎は、1903年、東京の深川で生まれた。父親は、海産物を扱う老舗商家の番頭で、安次郎は5人きょうだいょ上から2番目。上に兄、下に弟妹がいた。
10歳のとき、三重の松阪へ家族とともに引っ越し、安次郎はそこで育った。
小さいころから絵を描くのが得意な安次郎は、10代のなかばごろから映画を観、外国製のカメラをいじるハイカラな少年だった。彼は商業高校へ進もうとしたが受験に失敗し、18歳で松阪の尋常高等小学校の代用教員になった。1年ほどで代用教員を辞め、今度は親戚の紹介で松竹の蒲田撮影所に撮影助手になった。
21歳のとき、徴兵されて長く兵役につくのを避けるため、小津は一年志願兵を志願して入隊。仮病を使って演習をサボりながら、予定通り1年で除隊し、撮影所に帰ってきた。
小津は、サイレント映画「地蔵物語」「灼熱の恋」を撮った大久保忠素の下で助監督となり、シナリオを書き、23歳のとき監督に昇格した。ちょうどそのころ、撮影所の時代劇部門が京都へ移転し、蒲田に残った小津はもっぱら現代劇を作った。
小津もはじめはサイレント映画を撮っていたが、32歳ごろからトーキーを撮るようになり、55歳のころモノクロからカラー作品に変わった。
カメラを低く人物の目線で構え、登場人物を真正面から撮った独特の構図で、親子関係、娘の嫁入りなど同じテーマの映画を小津は延々と作りつづけた。
小津の映画はなかなかヒットしなかったが、真珠湾攻撃があった年の「戸田家の兄妹」あたりからヒット作が出るようになった。太平洋戦中は軍部に協力して南方で映画撮影に取り組み、シンガポールで敗戦を迎えた。
戦後の小津は毎年一作を発表し、日本映画界を代表する巨匠として知られた。「晩春」「東京物語」「秋刀魚の味」など、いまなお名品とたたえられる作品群を撮った後、ガンのため東京の入院先で、1963年12月12日の満60歳の誕生日に没した。

ずっと以前、女優の高峰秀子がテレビでこう語っていた。
「小津先生は原(節子)さんのことが好きで好きで。わたし、先生にこう申し上げましたのよ。先生、原さんといっしょになりたいんでしたら、雨戸を蹴破って行くつもりでなくちゃいけませんわよって」
小津は結局、雨戸を蹴破らず、生涯を独身で通した。原節子は、小津が没すると、公の場からいっさいの消息を絶った。

小津安次郎は納得するまで、同じ演技を何度も何度も繰り返させる監督で、笠智衆も若いときから小津には何度も何度もやり直しをさせられて、最後にはようやくOKが出るのだけれど、その前とどこがちがうのかまったくわからないと言っていた。

小津監督の映画を、長らくおもしろいと感じなかった。ただ、たとえば尾道の家の前を通りかかった近所の人が、開いている窓から家のなかの人へ話しかけてくる、そういった小津作品にでてくる昔の日本の風俗には驚かされた。
派手な立ち回りやショッキングな暴力シーンなどがない、日常を淡々と描く小津監督の世界が、近年ようやくおもしろいと思うようになった。おそらく監督が美しいと思うものだけを画面に収め、見たくないもの一切を排除した、純粋映画とでも呼ぶべきものを小津は目指したのだ。それは、最初から最後までジェットコースターに乗ったようなハリウッド映画とは対照的な作り方で、お金のかかったカーチェイスや爆破シーンもないけれど、そこには見るべきものがたしかにある。
(2016年12月12日)



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