1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月19日・埴谷雄高の構え

2016-12-19 | 文学
12月19日は、至上の歌手エディット・ピアフの誕生日(1915年)だが、作家、埴谷雄高(はにやゆたか)の誕生日でもある。

埴谷雄高は、1909年、台湾の新竹で生まれた。戸籍上の誕生日は翌年の元旦になっているらしい。本名は般若豊(はんにゃゆたか)。父親は税官吏で、後に製糖会社の社員になった。
当時の台湾は、日清戦争の結果、日本占領下にあり、こんな様子だった。
「日本人は、その当時は十万ぐらいしかいなかったろうと思うんですが、約七、八百万の本島人に対して絶対支配的な立場に立っていた。それが子供の眼にも、ときどき、破れて見える。たとえば、野菜とか魚を本島人が売りにくる場合、細君たちは値ぎるわけです。ある程度どころか、度を越えて相手がだめだっていってもなお値ぎるわけです。ひどい場合は四銭とか五銭とか自分でつけた値段の金だけ置いて、家の中へはいってしまう。また、ひどい男は人力車に乗って、車夫の頭を後ろから蹴る。そういう時に子供のおさない心も二つに破れざるを得ない」(埴谷雄高「裂け目の発見」『石棺と年輪』未来社)
中学生のころに東京へ越してきた埴谷は、日本大学に進み、20歳のころ中途退学。そして21歳のころ、日本共産党に入党した。
翌年の22歳のとき、逮捕、投獄された。左翼系の思想書を自宅にもっていたことが罪に問われた思想犯だった。独房のなかで埴谷は、カントの『純粋理性批判』を愛読した。それが彼に大きな転機をもたらした。
23歳のころ、埴谷は転向(政治思想の信条を変えること)を誓約し、出所。政治活動家だった埴谷は、出所後は一転して文学者となり、戦中は外国文学を翻訳し、戦後になると同人誌に小説や評論を発表した。
終戦の年、1945年の暮れに、形而上小説『死霊(しれい)』の最初の部分を発表。物語が筋でなく、観念的な議論で進んでいくというこの特殊な大長編小説は以後、数十年にわたって書き継がれ、最終的には12章になる構想だったが、第9章で中断され未完となった。
埴谷は、1997年2月、東京、吉祥寺の自宅で没した。87歳だった。
小説に『闇のなかの黒い馬』、評論に『垂鉛と弾機』『闇のなかの思想』、警句集に『不合理ゆえに吾信ず』などがある。

『死霊』は数ページ以上読めなかったが、『闇のなかの~』など短編や評論はかなり読んだ。埴谷雄高の小説はよくわからないけれど、その随筆や評論は大好きで、埴谷の文章を、どうしても読みたくなるときがある。
あの、一文一文が長い、ていねいに風呂敷を折り畳むように折り畳まれた論理を、しだいに広げて、目にも鮮やかな柄を見せていくような文章は、なんともいえない独特の味わいと説得力があって、その魅力に頭がくらくらする。

ほかの連中がかんたんに思いつくようなことは、口が裂けてもいわないぞ、と斜に構えた作家、それが埴谷雄高である。かつて評論家・中島梓が出世作『文学の輪郭』で、埴谷雄高を観念の東の地平、村上龍を感性の西の地平として対照したが、村上のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を絶賛して彼を世に送りだしたのは埴谷だった。

世評とか時流とかに惑わされず、本質をまっすぐ見抜く目をもっていた人だった。明治以降で、埴谷雄高ほど特殊な作家はいない。
(2016年12月19日)



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