2月15日は、米国の女性解放運動家、スーザン・アンソニーが生まれた日(1820年)だが、米国の実業家、チャールズ・ティファニーの誕生日でもある。ニューヨーク5番街にあるティファニー宝石店の創始者である。
ティファニーのガラス工芸品は、アルーヌーヴォー時代の作品で有名だけれど、やはり、ティファニー宝石店の名を世界的に有名にしたのは、トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』であり、それを映画化したオードリー・ヘップバーン主演の同名映画(1961年)にちがいない。自分も、5番街のティファニーの前を通りかかるときは、いつもヘップバーンがこの小さなショーウィンドウをのぞきこむ映画のシーンが頭に浮かぶ。
チャールズ・ルイス・ティファニーは、1812年、コネティカット州キリングリーで生まれた。ティファニー家は、17世紀にマサチューセッツの入植地へやってきた移民の子孫で、 チャールズの父親は、綿製造会社の経営者だった。
15歳のころから父親がもっていた小さな雑貨屋の手伝いをしていたチャールズは、25歳のとき、父親から1000ドルを借りて、友人とともに、コネティカットのとなりであるニューヨークに文房具などを扱う小さなギフトショップをはじめた。開店当日の売り上げは、4ドル38セントだけだったという。それでも、ティファニーは店を続け、しだいに扱う商品は、ガラス製品、 磁器、食器、時計、貴金属などと増えていった。
彼が30歳になるころには、店はボヘミアン・グラス製品などの最高級品のみを扱う店としての評判を獲得していた。ティファニーの店は商品を扱うだけでなく、製造にも乗りだし、ガラス工芸品や貴金属を使った装身具を洗練されたデザインで作った。
38歳のときに仏国パリに支店を出し、そのころ、店の名前を「ティファニー・アンド・カンパニー(ティファニーと仲間たち)」とし、56歳のとき、英国ロンドンにも支店を出し、ニューヨークの店は5番街へ進出した。
発明王のトマス・エディソンと組んで、ブロードウェイの劇場の照明を整備したり、メトロポリタン美術館の経済的後援者となったりした後、1902年2月、ニューヨーク市マンハッタンのすぐ西にあるヨンカーズで没した。90歳の誕生日を迎えた3日後のことだった。
自分はティファニーが好きで、いかにも日本人らしく、ニューヨークへ行くとかならず5番街のティファニー宝石店へ寄り、なにか買ってくる。ただし、自分に手が届くような品物は一階にはない。カードや財布、ペンといった比較的安価なものが売っている二階ばかりをうろつく、およそ上客ではないのだけれど、ティファニーは接客や包装がていねいで、よい印象以外のものを受けたことはない。
ティファニーが売ったのは、高級な宝石や貴金属製品だけれど、いちばんの創造は、その雰囲気、つまり空気だと思う。あの独特の青いティファニー・カラーと、余計なものをいっさい省いたシンプルなデザイン。お客はみな、商品を買いに行くのでなく、商品がまとっている気分を買いに行くのだと思う。ティファニーの商品をもっている気分がお客はうれしいので、ネームバリューそのものが商品になっている希少な例という気がする。
オードリー・ヘップバーンが亡くなったとき、ニューヨーク、パリ、ロンドンの各ティファニー宝石店は、ショーウィンドウにヘップバーンの写真と、
「わたしたちのハックルベリーの友だち、オードリー・ヘップバーン、1929-1993」
と、短いメッセージを掲げた。この簡潔さの粋を見習いたいものだと思う。
(2014年2月15日)
●おすすめの電子書籍!
『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ティファニーで朝食を」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。
『5月生まれについて』(ぱぴろう)
オードリー・ヘップバーン、エマーソン、マキャヴェリ、フロイト、クリシュナムルティ、ロバート・オーウェン、ホー・チ・ミン、バルザック、ドイル、中島敦、吉村昭、西東三鬼、美空ひばりなど、5月生まれ31人の人物論。ブログの元になった、より長く深いオリジナル原稿版。
http://www.meikyosha.com
ティファニーのガラス工芸品は、アルーヌーヴォー時代の作品で有名だけれど、やはり、ティファニー宝石店の名を世界的に有名にしたのは、トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』であり、それを映画化したオードリー・ヘップバーン主演の同名映画(1961年)にちがいない。自分も、5番街のティファニーの前を通りかかるときは、いつもヘップバーンがこの小さなショーウィンドウをのぞきこむ映画のシーンが頭に浮かぶ。
チャールズ・ルイス・ティファニーは、1812年、コネティカット州キリングリーで生まれた。ティファニー家は、17世紀にマサチューセッツの入植地へやってきた移民の子孫で、 チャールズの父親は、綿製造会社の経営者だった。
15歳のころから父親がもっていた小さな雑貨屋の手伝いをしていたチャールズは、25歳のとき、父親から1000ドルを借りて、友人とともに、コネティカットのとなりであるニューヨークに文房具などを扱う小さなギフトショップをはじめた。開店当日の売り上げは、4ドル38セントだけだったという。それでも、ティファニーは店を続け、しだいに扱う商品は、ガラス製品、 磁器、食器、時計、貴金属などと増えていった。
彼が30歳になるころには、店はボヘミアン・グラス製品などの最高級品のみを扱う店としての評判を獲得していた。ティファニーの店は商品を扱うだけでなく、製造にも乗りだし、ガラス工芸品や貴金属を使った装身具を洗練されたデザインで作った。
38歳のときに仏国パリに支店を出し、そのころ、店の名前を「ティファニー・アンド・カンパニー(ティファニーと仲間たち)」とし、56歳のとき、英国ロンドンにも支店を出し、ニューヨークの店は5番街へ進出した。
発明王のトマス・エディソンと組んで、ブロードウェイの劇場の照明を整備したり、メトロポリタン美術館の経済的後援者となったりした後、1902年2月、ニューヨーク市マンハッタンのすぐ西にあるヨンカーズで没した。90歳の誕生日を迎えた3日後のことだった。
自分はティファニーが好きで、いかにも日本人らしく、ニューヨークへ行くとかならず5番街のティファニー宝石店へ寄り、なにか買ってくる。ただし、自分に手が届くような品物は一階にはない。カードや財布、ペンといった比較的安価なものが売っている二階ばかりをうろつく、およそ上客ではないのだけれど、ティファニーは接客や包装がていねいで、よい印象以外のものを受けたことはない。
ティファニーが売ったのは、高級な宝石や貴金属製品だけれど、いちばんの創造は、その雰囲気、つまり空気だと思う。あの独特の青いティファニー・カラーと、余計なものをいっさい省いたシンプルなデザイン。お客はみな、商品を買いに行くのでなく、商品がまとっている気分を買いに行くのだと思う。ティファニーの商品をもっている気分がお客はうれしいので、ネームバリューそのものが商品になっている希少な例という気がする。
オードリー・ヘップバーンが亡くなったとき、ニューヨーク、パリ、ロンドンの各ティファニー宝石店は、ショーウィンドウにヘップバーンの写真と、
「わたしたちのハックルベリーの友だち、オードリー・ヘップバーン、1929-1993」
と、短いメッセージを掲げた。この簡潔さの粋を見習いたいものだと思う。
(2014年2月15日)
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