1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月19日・アンドレ・ブルトンの熱さ

2014-02-20 | 文学
2月19日は、『限りなく透明に近いブルー』を書いた村上龍が生まれた日(1952年)だが、『シュルレアリスム宣言』を書いたアンドレ・ブルトンの誕生日でもある。
いまではあまり読まれないのかもしれないけれど、自分は学生時代、シュールレアリスムの詩や小説をよく読んだ。『シュルレアリスム宣言』の衝撃はいまも忘れない。

アンドレ・ブルトンは、1896年、フランスのノルマンディー地方のオルヌで生まれた。
第一次大戦中、ナントの病院で働いていたブルトンは、そこで詩人のアルフレッド・ジャリら知り合い、芸術の既成概念を軽蔑し、打破しようとする機運に触れた。
大戦後の20代半ばには、ルイ・アラゴンたちとともに、ダダの運動に参加。しかし、ダダの中心的人物だったトリスタン・ツァラと対立し、ダダと決別。
28歳のとき、『シュルレアリスム宣言』を発表。これは、20世紀のはじめにブルトンが既成の文学に叩きつけた挑戦状であり、新しい時代の文学の誕生を告げるマニフェストだった。ブルトンは想像力と精神の自由をたたえ、狂気や夢を生かす方法として、自動書記を提案した。ここにシュルレアリスム(超現実主義)の運動がはじまった。
同年、雑誌「シュルレアリスム革命」誌の編集長となり、現実社会に生きる自分たち自身の奥にある超現実をとらえる方法として、シュルレアリスムを提唱しつづけた。
第二次世界大戦中、占領下のパリでは、ブルトンの著書は禁書とされ、彼は米国へ亡命した。戦後、パリにもどってきた彼は、フランスの植民地政策を批判し、ふたたびシュルレアリスム運動を支持しつづけた後、1966年9月、パリで没した。70歳だった。

自分が『シュルレアリスム宣言』をちゃんと理解しているかはよくわからないけれど、その熱さだけは痛いくらいに感じる。それはたとえばこんな文章である。

「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ。
 自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。」(巌谷國士訳、岩波文庫)

「彼(ポール・ヴァレリー)はさきごろ小説を話題にして、自分にかんするかぎり『公爵夫人は五時に外出した』などと書くことはいつまでもこばみつづけたい、と私に確言したものだった。もっとも、彼は約束をまもっただろうか?」(同前)

「作者はいよいよ勝手気ままにふるまい、機会をとらえては自分の絵葉書をこっそり私に手わたして、あれこれの月並な表現について私の了解をとりつけようとする。
『青年が通された小部屋は、黄いろい壁紙がはりめぐらされていた。窓辺にはゼラニウムの鉢がいくつかと、(中略)椅子がいくつか、それに、小鳥を手にしたドイツ人の令嬢たちを描く安物の版画が二つか三つ、──これが調度品のすべてであった。』(これはドストエフスキー『罪と罰』からの引用)
 たとえつかのまであろうと、精神がこのようなモティーフを思いえがくということを、私は認める気にはならない。」(同前)

ブルトンは、月並みな叙述や、予定調和的な筋立てを徹底的に嫌悪した。自分はブルトンの小説は、読んでいておもしろいと思ったことはないけれど、彼の評論から感じられる意気込みには、深く感動した。アルチュール・ランボー以来、久々に出会った熱さだった。自分が詩や小説を読むのは、ああいう熱さに出会いたいためだと思う。

ブルトンの代表作『ナジャ』は、こんな文章で終わる。自分など、このくだりは何度読んでもしびれる。
「美とは痙攣的なものだろう。さもなくば存在しないだろう。」(巌谷國士訳、白水社)
(2014年2月19日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ビーグル号航海記」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。第二弾!

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナーなど、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。


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2月18日・ラーマクリシュナの三昧境

2014-02-18 | 思想
2月18日は、サッカーのファンタジスタ、ロベルト・バッジョが生まれた日(1967年)だが、宗教家、ラーマクリシュナの誕生日でもある。
自分は、若いころにロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいたく感銘を受け、続けてロランの本をいくつか読んだ。そのなかに、ラーマクリシュナのことを書いたものがあって、それで自分はこのインドの聖人のことを知った。

ラーマクリシュナこと、ガダーダル・チャテルジーは、1836年、インド、ベンガル地方のカーマールプクル村で生まれた。村には農家、鍛冶屋など低い階層のカーストが多かったが、ガダーダルの家は村内唯一のバラモン階級で、父親は宗教的儀式をとりおこなう僧侶だった。ただし、家は貧しく、ガダーダルは6人きょうだいの末っ子だった。
彼が生まれる前、両親はともに神の子が誕生する予知夢を見ていた。
ガダーダルは幼少時から記憶力抜群で、いちど聞いた歌や劇はすべて覚えてしまった。
彼は6歳のころから、神秘体験をするようになった。田んぼのなかを歩いたり、劇を演じたりしている最中に、急に意識を失って倒れる。そして、陶然とした状態のなかで、美しい景色が目の前に現れ、幸福感いっぱいになるのだった。
16歳でガダーダルは、年の離れた長兄のいるコルカタ(カルカッタ)へ上京し、19歳のときにコルカタ郊外のダクシュネーシュヴァラ寺院の僧侶となった。
彼はその寺院でも、意識を失った神秘体験の三昧境「サマーディ」にひたり、そのなかでカーリー女神を見た。こうした神秘体験が頻繁になり、彼が意識を失ってしまうので、寺院の仕事ができなくなったが、それは黙認された。周囲の評価は「彼は頭がおかしい」と「彼は神の化身だ」とに真っ二つに分かれた。
さまざまな行者が寺院を訪れ、ガダーダルに面会したが、行者たちのことごとくが、
「この人こそは神の化身である」
と認めた。そうして、ガダーダルは聖人として人々に知られるようになった。
25歳からガダーダルはタントラ派の修行をはじめ、本来は時間がかかる困難な修行をつぎつぎに修め、瞑想を重ねて、しだいに高く深い境地へ昇り、ついに、
「ブラフマン(梵天・宇宙の根本原理)はアートマン(個物の生命の本体)とひとつである」
という梵我一如の思想に達した。
ガダーダルは「ラーマクリシュナ」という出家名を授けられた。この名前は、インドの神「ラーマ」と「クリシュナ」を合わせたものである。
ラーマクリシュナは、ヒンドゥー教だけでなく、イスラム教やキリスト教、仏教をも学び、宗教はみな同じ、すべての神と宗教はひとつに帰すると説いた。
ラーマクリシュナの名声はしだいに高まり、彼の教えを受けるために多くの人が集まってくるようになった。ラーマクリシュナは、1886年8月、喉頭ガンのため、コシポルで没した。50歳だった。彼の死後、愛弟子のヴィヴェーカーナンダがインド国内や世界各国にラーマクリシュナの教えを広めた。

「人はもしさとりたいと思えば神をさとることができるのだが、彼は狂ったように『女と金』の楽しみを求める」(堀内みどり『ラーマクリシュナ』清水書院)

「人はある務めをするために生まれてくる」(同前)

そう言ったラーマクリシュナは、人にちょっと触れるだけでその人の考えを変えてしまう不思議な力をもっていた。彼に触れられて、たちまち意識を失いサマーディに入り、神の姿を目の当たりにする者もかなりいたらしい。ぜひ、一度触ってもらいたかった。
(2014年2月18日)



●おすすめの電子書籍!

『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。

『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。

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2月17日・梶井基次郎の感性

2014-02-17 | 文学
2月17日は、ノーベル文学賞を受賞した中国の文豪、莫言(モーイエン)が生まれた日(1955年)だが、夭逝した作家、梶井基次郎の誕生日でもある。
自分は、梶井基次郎の短編小説は、学生のころにいくつか読んだ。当時は、あまりピンとこず、それから長らく読まずにいた。三十代になってから、なにかの機会に読んでみると、今度はピンときて、感心した。

梶井基次郎は、1901年、大阪で生まれた。父親は貿易会社に務めていた。基次郎は6人きょうだいの3番目で、上に姉と兄がいた。
急性腎炎で死にかけるなど、小さいころから病弱だった基次郎は、父親の転勤にしたがって、東京、三重、ふたたび大阪と転校を繰り返しながら育った。
三高(現在の京大)時代には、後に評論家になる大宅壮一と同級で、強い刺激を受けた。
基次郎は、23歳で東大文学部の英文科に入り、仲間と同人誌を創刊し、川端康成など先輩作家たちと交際するようになった。梶井は、川端康成の『伊豆の踊子』の校正を手伝った。川端は梶井から鋭い指摘を受けて、狼狽したと書いている。
肺病をわずらい、血痰を吐いた梶井は27歳のとき、大学を中退。以後、経済的に困窮し、友人や兄弟の家に病身を寄せ、短編小説を同人誌などに発表しつづけた。
1932年2月、肺結核のため、大阪で没した。31歳だった。
作品は短編ばかりで、『檸檬』『城のある町にて』『雪後』『冬の日』『櫻の樹の下には』『交尾』などがある。

当時29歳だった川端康成の家に、27歳の梶井基次郎が泊まっていたとき、泥棒が入ったことがあって、そのときのことを川端が随筆に書いていた。うろ覚えの記憶で書くのだけれど、たしかこんな話だった。泥棒が部屋に入ってきたとき、川端は目が覚めてふとんに入ったまま、あのぎょろりとした目で、泥棒を見ていた。泥棒は、壁にかけてあったインバネスに手をかけた。川端は、あれをとられると困るな、と思っていたら、泥棒が振り向き、川端と目が合った。すると泥棒は、
「だめですか?」
とひとこと言って、逃げだした。川端は追いかけるつもりはなかったが、向こうが逃げるので、なんとなく追いかけてしまった、というようなことを書いていたと思う。で、追いかけるのをやめて帰ってみると、梶井基次郎はふとんをかぶって震えていたそうだ。このあたり、二人の資質のちがいがよく表れていておもしろいと思う。

桜の木の下には、馬や犬や猫や人間の死体が埋まっていて、その養分を根から吸い上げて、それであんなに桜は美しく咲くのだという妄想を作品化した『櫻の樹の下には』は有名だけれど、自分もあの感性にはぞっとさせられた。
でも、いったんそう言われてしまうと、なるほどと納得し、そうにちがいないという気がしてくる。あの短い作品は、短編小説というより、むしろ散文詩だ思う。

『山椒魚』を書いた井伏鱒二が絶賛したという『交尾』には、自分も感心した。夜の路地裏の猫とか、沢の河鹿ガエルの様子が頭のなかにありありと浮かんでくる。自分は、読んだ梶井作品のなかでは『交尾』がいちばん好きである。思いだすだけで、河鹿ガエルの鳴く声が聞こえてくるような気がする。
(2014年2月17日)



●おすすめの電子書籍!

『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。

『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。

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2月16日・高倉健の演技論

2014-02-16 | 映画
2月16日は、テニスの芸術家、ジョン・マッケンローが生まれた日(1959年)だが、映画俳優の高倉健の誕生日でもある。マンガ「ゴルゴ13」の主人公のモデルである。
「健さん」こと高倉健は、自分が物心ついたときには、すでに東映のヤクザ映画の大スターだった。彼は昔もいまも、ほかの映画俳優たちとちがって、好き嫌いを超えたところにいる「ワン・アンド・オンリー」の存在であり続けている、と思う。

高倉健は、1931年、福岡の中間で生まれた。本名は小田剛一。父親はもと海軍で炭鉱勤務、母親は教師だった。幼少のころは虚弱で病気がちだった剛一は、中学のとき、ボクシング部を作り、高校時代には英語研究会を作って英語力をきたえた。
東京の明治大学に進み、卒業後、芸能プロダクションのマネージャーになろうとしていたところを、スカウトされて、24歳で東映に俳優として入社した。
「高倉健」と付けられた芸名が本人は気に入らず、親類縁者に芸能人もいず、目が俳優向きでないと言われたが、すぐに主役デビューが決まり、25歳のとき、映画「電光空手打ち」に初主演を果たした。
28歳のとき、映画「人生劇場 飛車角」に出演。これを契機として仁侠映画に多く出演するようになり、網走番外地シリーズ、昭和残侠伝シリーズなどに主演し、映画のテーマソングである「網走番外地」「唐獅子牡丹」を歌い、大ヒットさせた。
45歳のとき、東映を退社。フリーとなって、映画「君よ憤怒の河を渉れ」に主演。以後、「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」「野性の証明」「動乱」「駅 STATION」「南極物語」「居酒屋兆治」「ブラック・レイン」「あ・うん」「鉄道員(ぽっぽや)」「ホタル」「単騎、千里を走る。」「あなたへ」などに出演した。

高倉健の任侠映画は、たいてい、悪いやつらの仕打ちに耐えて耐えて、ついに堪忍袋の尾が切れて、健さんが立ち上がり、悪者をやっつける、という筋である。でしゃばらず、つねに自分を抑えて控えめ。謙譲で寡黙。それが高倉健のイメージだと思う。

自分は、高倉健は、存在感の俳優であって、演技がうまいと思ったことは長いあいだなかった。けれど、そもそも高倉健本人の演技論がそういうものであるらしい。
役者にとって大切なのは、その場にどう演技するかということより、むしろ役者個人の生き方であり、その役者がどう生きてきたかはおのずと芝居に出るものだ、と、高倉健はそういう考えで演技に取り組んできたらしい。だから、彼の日常生活は、酒を飲まず、つねにトレーニングを欠かさず体型を保つストイックなものであり、彼の演技は、ふつうの役者の演技とちがい、抑えに抑えた「演技をしない演技」である。
これがもっともよく出た映画は、マイケル・ダグラスと共演した「ブラック・レイン」 だと思う。直情的なダグラス演じる米国の刑事訳と対照的に、高倉健演じる日本の刑事は、寡黙で自省的な人物だった。これはハリウッド映画ではちょっと見られない特殊な演技で、でも、圧倒的な説得力と存在感があったと思う。

高倉健という人は、ふだんの素顔も、ものすごい人格者で、つねにまわりの人を気遣い、他人の長所を見つけては褒め励ます人らしい。「健さん」でいつづけることは、本人としてはけっこうしんどいことだと思うけれど、それを淡々とこなし、生きている。誰もが好きになり、尊敬せずにいられない日本の市井人の或る理想。それが健さんだと思う。
(2014年2月16日)



●おすすめの電子書籍!

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナー、山本寛斎、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

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2月15日・チャールズ・ティファニーの雰囲気

2014-02-15 | ビジネス
2月15日は、米国の女性解放運動家、スーザン・アンソニーが生まれた日(1820年)だが、米国の実業家、チャールズ・ティファニーの誕生日でもある。ニューヨーク5番街にあるティファニー宝石店の創始者である。
ティファニーのガラス工芸品は、アルーヌーヴォー時代の作品で有名だけれど、やはり、ティファニー宝石店の名を世界的に有名にしたのは、トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』であり、それを映画化したオードリー・ヘップバーン主演の同名映画(1961年)にちがいない。自分も、5番街のティファニーの前を通りかかるときは、いつもヘップバーンがこの小さなショーウィンドウをのぞきこむ映画のシーンが頭に浮かぶ。

チャールズ・ルイス・ティファニーは、1812年、コネティカット州キリングリーで生まれた。ティファニー家は、17世紀にマサチューセッツの入植地へやってきた移民の子孫で、 チャールズの父親は、綿製造会社の経営者だった。
15歳のころから父親がもっていた小さな雑貨屋の手伝いをしていたチャールズは、25歳のとき、父親から1000ドルを借りて、友人とともに、コネティカットのとなりであるニューヨークに文房具などを扱う小さなギフトショップをはじめた。開店当日の売り上げは、4ドル38セントだけだったという。それでも、ティファニーは店を続け、しだいに扱う商品は、ガラス製品、 磁器、食器、時計、貴金属などと増えていった。
彼が30歳になるころには、店はボヘミアン・グラス製品などの最高級品のみを扱う店としての評判を獲得していた。ティファニーの店は商品を扱うだけでなく、製造にも乗りだし、ガラス工芸品や貴金属を使った装身具を洗練されたデザインで作った。
38歳のときに仏国パリに支店を出し、そのころ、店の名前を「ティファニー・アンド・カンパニー(ティファニーと仲間たち)」とし、56歳のとき、英国ロンドンにも支店を出し、ニューヨークの店は5番街へ進出した。
発明王のトマス・エディソンと組んで、ブロードウェイの劇場の照明を整備したり、メトロポリタン美術館の経済的後援者となったりした後、1902年2月、ニューヨーク市マンハッタンのすぐ西にあるヨンカーズで没した。90歳の誕生日を迎えた3日後のことだった。

自分はティファニーが好きで、いかにも日本人らしく、ニューヨークへ行くとかならず5番街のティファニー宝石店へ寄り、なにか買ってくる。ただし、自分に手が届くような品物は一階にはない。カードや財布、ペンといった比較的安価なものが売っている二階ばかりをうろつく、およそ上客ではないのだけれど、ティファニーは接客や包装がていねいで、よい印象以外のものを受けたことはない。

ティファニーが売ったのは、高級な宝石や貴金属製品だけれど、いちばんの創造は、その雰囲気、つまり空気だと思う。あの独特の青いティファニー・カラーと、余計なものをいっさい省いたシンプルなデザイン。お客はみな、商品を買いに行くのでなく、商品がまとっている気分を買いに行くのだと思う。ティファニーの商品をもっている気分がお客はうれしいので、ネームバリューそのものが商品になっている希少な例という気がする。

オードリー・ヘップバーンが亡くなったとき、ニューヨーク、パリ、ロンドンの各ティファニー宝石店は、ショーウィンドウにヘップバーンの写真と、
「わたしたちのハックルベリーの友だち、オードリー・ヘップバーン、1929-1993」
と、短いメッセージを掲げた。この簡潔さの粋を見習いたいものだと思う。
(2014年2月15日)




●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ティファニーで朝食を」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

『5月生まれについて』(ぱぴろう)
オードリー・ヘップバーン、エマーソン、マキャヴェリ、フロイト、クリシュナムルティ、ロバート・オーウェン、ホー・チ・ミン、バルザック、ドイル、中島敦、吉村昭、西東三鬼、美空ひばりなど、5月生まれ31人の人物論。ブログの元になった、より長く深いオリジナル原稿版。


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2月14日・豊田佐吉の築いたもの

2014-02-14 | ビジネス
2月14日は、ローマ時代に自由結婚を主張した聖バレンタインが処刑された日(269年)で、観覧車を発明した米国人技術者、ジョージ・フェリスが生まれた日(1859年)だが、世界企業「トヨタ」の創業者、豊田佐吉(とよださきち)の誕生日でもある。
自分は静岡県西部の生まれで、昔で言えば遠江の国である。小さいころから祖父に、この遠江の国出身の偉人である豊田佐吉の話をよく聞かされた。自動織機の発明者である。

豊田佐吉は、慶応3年2月14日に、現在の静岡県湖西市で生まれた。4人きょうだいのいちばん上で、父親は大工と農業をしていた。
通っていた寺子屋が途中で小学校に替わったという時代に育った佐吉は、父親について大工の修行をしていたが、紡績に興味をもち、ときどき家出をしては工場を見てまわった。
資金も教育もないうえは、発明によって立つべしと心を決め、18歳のころには、機織機(はたおりき)の改良に着手していた。
彼は出奔しては、ひと旗揚げるでもなく手ぶらで帰ってきて、納屋に閉じこもって機織機の研究を続け、わずかな田畑をすこしずつ売って、なお発明に注ぎ込み、試作品を作っては壊すことを続けたため、地元では変人扱いされた。
そうして、23歳のとき、木製の人力織機を発明し、特許申請をし、翌年に特許がおりた。
29歳のとき、機械式織機を発明。
37歳のとき、自動織機を発明。
39歳のとき、豊田織機株式会社を設立。これが現在の世界企業「トヨタ自動車グループ」に発展していくことになる。
豊田はその後も発明と改良を進め、生涯に取得した発明の特許84件、外国でとった特許が13件という発明王だった。
1930年10月、脳溢血と肺炎のため、名古屋の自宅で、没した。63歳だった。

学生時代の先輩や友人がトヨタ・グループに就職していて、自分はその様子を聞いたこともあるし、トヨタの社宅に泊めてもらったこともある。
豊田佐吉が作った豊田自動織機は、トヨタ・グループの本家であって、トヨタ自動車の大株主で、もちろん現在でも繁栄している。
豊田自動織機は、いまでは、会社の売り上げの半分以上は一般自動車、そして4割近くが産業用自動車と、自動車のメーカーになっている。5万人近い社員がいるらしい。

愛知県の豊田市とか刈谷市など、あの辺一帯は、トヨタの企業城下町というか、企業平野と呼ぶべき地方になっている。都市のなかに会社があるのでなく、会社のなかにいくつもの都市がある感じで、ものすごい数の世帯がトヨタを頼りにして生活している。もちろん、米国ほか世界各国にトヨタはある。豊田佐吉が根を作った木は、彼の没後、巨大な樹木に成長した。その巨木は、その地方を変え、日本を変え、また世界をも変えてしまった。
それもこれもすべて、家の田畑を売り払い、田舎の納屋で試行錯誤を続け、頭がおかしいと言われながらも途中でやめなかったおかげだと思うと、人生、やっぱり「一瞬先は光」かなあ、と思う。
(2014年2月14日)


●おすすめの電子書籍!

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ジョージ・フェリス、ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、ジョン・マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナー、山本寛斎、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『暗がりでこっそり触って』(三井アキラ)
愛をさがし求める女探偵・北条冴子は、依頼を受けタレント志望の娘を尾行。娘の意外な素顔が明らかになっていくなか、冴子の前に現れた新事実とは。官能推理小説。「夜の探偵・北条冴子」シリーズ第二弾。

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2月13日・竹宮惠子作品の立派さ

2014-02-13 | マンガ
2月13日は、「メグレ警部」シリーズを書いた推理作家、ジョルジュ・シムノンが生まれた日(1903年)だが、マンガ家、竹宮惠子さんの誕生日でもある。
自分がはじめて読んだ竹宮さんの作品は伝説的名作「風と木の詩」だった。学生時代、下宿の隣の住人が買い揃えていて、彼の部屋に入りびたってはよく読ませてもらっていた。男性の同性愛をテーマにしたすごい世界観で驚いた。子どもっぽい作品が多い少年マンガとちがい、少女マンガの世界は大人で、知的で、頭のなかが広いなぁと感心した。

竹宮惠子さんは、1950年、徳島で生まれた。もともとの名は、竹宮恵子で、30歳のころ、改名して、いまの漢字を使うようになったらしい。竹宮さんは2人姉妹の長女だった。
小さいころから絵を描くことが好きだった彼女は、「サイボーグ009」を描いた石ノ森章太郎ファンで、中学生のころから自分でもマンガを描きはじめると、石ノ森章太郎に手紙を書き、石ノ森の紹介で、石ノ森ファンで作るマンガ同人誌に参加した。
高校生のときに描いたマンガ作品「ここのつの友情」「りんごの罪」「かぎっこ集団」などがマンガ雑誌で入選、受賞した。
地元の大学の教育学部美術科に入学したが、20歳のとき中退して上京。後に「ポーの一族」「11人いる!」を描くことになる萩尾望都と共同生活をはじめた。
雑誌連載をもつようになり、24歳のとき「ファラオの墓」、26歳で「風と木の詩」、27歳からは少年マンガ誌に進出し「地球へ…」の連載をはじめた。
「地球へ…」は、アニメ映画やテレビアニメにもなり、大ヒットとなった。
50歳のとき、京都精華大学マンガ学科の教授に就任し、マンガ家が大学教授となる先駆となった。2014年4月からは同大学の学長を務めることになっている、日本マンガ界の神さま的な存在である。

自分が学生のころは、まわりにいる男子学生のかなりの部分が、少女マンガを本棚にそろえ、貸し借りしながら読んでいたものだった。自分はそのころからもちつづけている少女マンガの「エースをねらえ!」「坂道のぼれ!」「KILLA」「伊賀野カバ丸」といった少女コミックスをいまでも本棚に並べている。

現在、日本国内はもちろん、世界中にそのブームが広まっている「ヤオイ系」「ボーイズ・ラブ」マンガだが、その扉を開いたのは、竹宮さんの「風と木の詩」だったと思う。
竹宮作品は絵がきれいで、耽美的、文学的な雰囲気が全ページに横溢していて、とても高尚な感じがした。しかし、当時のこの作品の斬新さといったらなかった。すごい先進性だし、すごい度胸だと思う。

当時、ちょっとしたブームになった「地球(テラ)へ…」にも感心した。
宇宙に展開し、生命の根源をさぐるスケールの大きなSFで、心の深いところを揺さぶられ、自分はとても感動した。ソルジャー・ブルーとかカリナとか、なつかしい。

竹宮さんのマンガを読むと、作品が立派で、やっぱり、作家は作品がすべてだなあ、と思う。作品がものを言ってくれるので、作家は黙って泰然と構えていればいい。作者がのこのこ出ていって説教をたれずとも、読者は作品を前にすれば自然と黙りこうべを垂れる。そういう作品を描いた偉大な作家だと思う。
(2014年2月4日)



●おすすめの電子書籍!

『ポエジー劇場 ねむりの町』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。ある日、街のすべての人が眠りこんでしまった。その裏には恐るべき秘密が……。サスペンス風ファンタジーの世界。

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、ジョン・マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ジョージ・フェリス、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナー、山本寛斎、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

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2月12日・リンカーン大統領の成したこと

2014-02-12 | 歴史と人生
2月12日は、『種の起源』『ビーグル号航海記』を書いたチャールズ・ダーウィンが生まれた日(1809年)だが、米国大統領エイブラハム・リンカーンの誕生日でもある。ダーウィンとリンカーンは同年の同月同日に生まれている。
米国史上もっとも偉大な大統領は誰か? というアンケートがあるたびに、つねに最有力候補にのぼるリンカーン大統領のことは、自分は子どものころからよく知っていた。

エイブラハム・リンカーンは、米国ケンタッキー州の貧乏農場の丸太小屋で生まれた。両親は無学な開拓農民で、エイブラハムの父方の祖父は、ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)に襲撃され、家族の目の前で殺されたという。祖父なき後、父親は独力でのし上がり、地方の名士となった。エイブラハムは、その2番目の子どもだった。
エイブラハムが9歳のとき、登記の不備のために土地を失った一家は、インディアナ州へ引っ越した。引っ越して間もなく、母親が没した。
斧を扱う名人だったエイブラハムは、開拓地のことで教育らしい教育をほとんど受ける機会がなかったが、家事や雑用をこなしながら、独学で勉強し読書にはげんだ。
21歳のとき、家族とともにイリノイ州へ引っ越し、22歳でエイブラハムは家族と離れ、ひとりで暮らすようになった。
賞金付きのレスリング試合に出たり、川船の水夫や店員、郵便局員、測量士などさまざまな職業を転々とし、23歳で、ネイティブ・アメリカンとの戦争に志願して出征した後、州議会議員選に出馬。193センチメートルの長身と、鍛え上げたのどで名演説をふるって当選。議員を務めながら、弁護士資格を取得。法廷弁護士としても活躍した。
37歳のとき、リンカーンは連邦下院議員となり、国政に進出。
51歳で共和党から大統領選に出馬した。
この選挙中、リンカーンは11歳の少女から手紙をもらい、そのなかにあった、
「あなたのお顔はやせすぎで、ヒゲを生やしたほうが、見栄えがよくなると思います」
というアドバイスにしたがい、彼はヒゲをたくわえた。ヒゲのおかげと、民主党が北部派と南部派で分裂したのにも助けられて当選し、合衆国第16代大統領となった。
リンカーンが大統領の時代、奴隷制存続を臨む南部諸州は合衆国からの独立を唱え、米国はまっ二つに分裂しかけた。リンカーンは北部諸州を率いて南北戦争を戦い、ついに勝利して、米国を分裂の危機から救った。
南軍側が降伏した5日後、リンカーンはワシントンDCの劇場で、演劇を鑑賞中にピストルで射殺された。 1865年4月。56歳。米国史上はじめてヒゲを生やした、はじめての共和党の、はじめて暗殺された大統領だった。

「奴隷解放の父」と呼ばれるリンカーンは、人類平等主義者ではなかったようだ。彼のネイティブ・アメリカンに対する迫害の熱意は相当のものだったらしい。
リンカーン大統領は、南北戦争中の54歳のとき、
「反乱状態にある南部諸州の奴隷は、即日自由になる」
という奴隷解放宣言を打ち出した。この宣言の真の目的は、南部諸州にいる黒人奴隷の逃亡をうながし、南軍を混乱させることと、国際世論を北軍側の味方につけることにあって、じつは解放宣言は北部の一部の奴隷制を容認している州には適用されないものだった。
これを、ずるい、と批判する向きもあるようだけれど、とはいえ、奴隷解放宣言は米国史上に輝く偉大な一歩で、いったんこうしてかじをきってしまえば、いずれ全面解放にいたるのは時間の問題である。やっぱり偉大な人だと思う。
(2014年2月12日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ダーウィン、エジソン、トリュフォー、ジョン・マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ジョージ・フェリス、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナー、山本寛斎、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

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2月11日・マリー・クアントのひらめき

2014-02-11 | ビジネス
旧・紀元節(紀元前660年の神武天皇即位の記念日)である「建国記念の日」の2月11日は、発明王、トーマス・エジソンが生まれた日(1847年)だが、ファッションデザイナー、マリー・クアントの誕生日でもある。ミニ・スカートを作った人である。
自分は若いとき、元朝日新聞社員の評論家、扇谷正造氏の講演を聞いたことがあり、その話のなかに、クアントのミニ・スカート発案のいきさつが出てきて、とても強い印象を受けた。

マリー・クアントは、1934年、英国イングランドのロンドンのブラックヒース地区で生まれた。鉱山両親はウェールズの鉱山労働者の家系で、父母ともに教師となり、ロンドンへ越してきた。
ゴールドスミス・カレッジでイラストを学んだマリーは、卒業後、ロンドンの高級帽子店に弟子入りした。
21歳のとき、ビジネス・パートナーのアレクサンダー・グリーンとともに、クアントは最初の店を出店。23歳のとき、グリーンと結婚し、二号店を出店した。女性用、男性用のセーターやカーディガン、ドレス、パジャマといった洋服をデザインして、それなりに成功をおさめていたクアントは、24歳のころのある日、
「街を歩いていて、ふと娘たちの会話を耳にした。『なにさ、サンローランだの、クリスチャン・ディオールだのって、あんなのは、アメリカの金持ちのデブデブオバサンの着るデザインよ。私たちイギリス娘はもっとヴィヴィッド・エンド・セクシィ(vivid and sexy=?剌としてお色気のある)なデザインがほしいわ』といった。(中略)
街できいたヴィヴィッド・エンド・セクシィということばが、彼女の頭の中でガンガン鳴ってやまない。そこで彼女、いくつかデザインしてみた。朝から晩までである。二、三日してつかれはてて、ふと街へ出た。立ちどまって、ボンヤリ街中を見ていた。
するとバスがとまった。そこはバスの停留所だったらしい。ロンドンのバスは二階建てで、階段が高い。中年の女性が、それに片足をかけた。スカートの下からひざっ小僧が見えた。それが女の眼にもひどく色っぽく見えた。チカ、チカ、チカと彼女の頭の中に火がまたたいた。ひざ上10センチのミニ・スカートはこうして生まれた。」(扇谷正造『トップの条件』PHP研究所)
彼女が売り出したミニ・スカートは、英国のみならず、世界中で大ヒットした。
1960年代には、クアントはホットパンツを発表し、これも大ヒット。
クアントは、32歳で大英帝国勲章(OBE)を受賞。衣類のほか、化粧品などのデザインもはじめ、世界的に活躍している。

ミニ・スカートのいいところは、インパクトのあるデザイン性もさることながら、従来のスカートよりすくない生地で作られて、しかも同じ値段、あるいはより高い値段で売れたという経済性にもあった。

「ミニ・スカート」の名は、英国車の「ミニ」から付けたものだという。クアントは54歳のとき、そのクルマの「ミニ」の内装デザインを担当した。

頭のなかに、あるキーワードがひっかかっていて、なかなかそれが自分のなかで解決できないでイライラしているところ、たまたま眼にした光景に「これだ」とピンとくるということは、ごくたまにあるものだ。まさに感激の瞬間で、人間はこういう瞬間のために生きているのだと自分は思うのだけれど、どうだろう。
(2014年2月11日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
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2月10日・島田洋七の戦友

2014-02-10 | 個性と生き方
2月10日は、女性解放運動の旗手、平塚らいてうが生まれた日(1886年)だが、天才漫才師、島田洋七の誕生日でもある。伝説のお笑いコンビ「B&B」の洋七である。
テレビがお笑い芸人の遊び場となった現代では信じがたいけれど、1980年ごろまでは、お笑いや漫才は、総じて言えば垢抜けない、貧乏くさい、地味なものだった。それを変えたのが1980年代はじめに起きた漫才ブームで、それを境にお笑い芸人のステイタスは飛躍的に上がり、日本の文化そのものも変質したと思う。いいか悪いかはべつにして、この変質を巻き起こしたのが、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、そして島田洋七だったと自分は思う。

島田洋七は、1950年、広島で生まれた。父親は原爆の被爆者で、洋七が2歳のときに原爆症により亡くなった。洋七には兄がいた。
6歳のころ、洋七は家族を離れてひとり、九州・佐賀に住む祖母のもとに預けられ、中学を卒業するまで祖母と暮らした。高校時代は広島ですごし、高校卒業後、佐賀にもどった。佐賀で知り合ったデパート勤務の女性と恋に落ち、20歳のときに東京へ駆け落ちした。歌手を目指したが、断念し、知人に誘われて大阪へ移った。
大阪で漫才を見て、急に芸人を志し、夫婦漫才の島田洋之介に弟子入り。
22歳のとき、お笑いコンビ「B&B」を結成。相方が2度変わった後、3代目の相方、島田洋八とコンビを組んでいた29歳のとき、東京へ移った。
「B&B」のロゴを胸に入れたおそろいのトレーナーを着、島田洋七が全やりとりの9割以上を一方的にマンシガンのようにしゃべりまくるという新しい漫才スタイルで、B&Bは絶大な人気を集めた。これと同じスタイルでツービート、紳助・竜介も頭角を現した。
B&B、ツービート、紳助・竜介は、1980年代はじめの漫才ブームを巻き起こし、漫才コンビ、お笑い芸人の社会的地位と報酬とを飛躍的に高めるのに貢献した。
33歳のとき、B&Bを解散。休養生活に入った。激務の反動でうつ症状におちいっていた。
約6年間の休養の後、タレント活動を再開。試行錯誤したが、ぱっとしなかった。
37歳のとき、佐賀での少年時代を回想した自伝『振り向けば哀しくもなく』を自費出版。
52歳のとき、同書のタイトルを『佐賀のがばいばあちゃん』に変え、いま一度自費出版。これがべつの出版社から文庫本化されて、大ベストセラーとなり、島田洋七のもとに全国から講演依頼が殺到した。親友のビートたけしが、
「漫才ばかである。洋七から漫才をとったらうそつき、うらぎり者、サギ師、へんたいなどしか残らない」 (「新潮45別冊二月号 コマネチ!」平成10年2月)
と絶賛する漫才の天才である。

B&Bが登場したときの衝撃はやはりすごかったと思う。それまでの漫才にはない、若さとエネルギーに満ちていて、なにより明るかった。

かつて、島田洋七が休養に入り、孤独なうつ状態に沈んでいたとき、島田紳助は電話をかけてきて、洋七が出ないのに、
「洋七兄い、そこにおるんやろ。わかっとるんや。電話に出ろ。受話器をとれ」
と紳助は叫びつづけたという。
あるいは、たけしが、講談社へ殴り込みにいき、警察に身柄を拘留されていたとき、ほかのタレントたちは見向きなしなかったところ、洋七だけは面会に行ったらしい。
島田洋七と、島田紳助、ビートたけしの三人は、ひとつのブームをともに戦った戦友のような友情があるのかもしれない。ある時代をともに戦った仲間って、いいなあ、と思う。
(2014年2月10日)



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『暗がりでこっそり触って』(三井アキラ)
愛をさがし求める女探偵・北条冴子は、依頼を受けタレント志望の娘を尾行。娘の意外な素顔が明らかになっていくなか、冴子の前に現れた新事実とは。官能推理小説。「夜の探偵・北条冴子」シリーズ第二弾。


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