2月19日は、『限りなく透明に近いブルー』を書いた村上龍が生まれた日(1952年)だが、『シュルレアリスム宣言』を書いたアンドレ・ブルトンの誕生日でもある。
いまではあまり読まれないのかもしれないけれど、自分は学生時代、シュールレアリスムの詩や小説をよく読んだ。『シュルレアリスム宣言』の衝撃はいまも忘れない。
アンドレ・ブルトンは、1896年、フランスのノルマンディー地方のオルヌで生まれた。
第一次大戦中、ナントの病院で働いていたブルトンは、そこで詩人のアルフレッド・ジャリら知り合い、芸術の既成概念を軽蔑し、打破しようとする機運に触れた。
大戦後の20代半ばには、ルイ・アラゴンたちとともに、ダダの運動に参加。しかし、ダダの中心的人物だったトリスタン・ツァラと対立し、ダダと決別。
28歳のとき、『シュルレアリスム宣言』を発表。これは、20世紀のはじめにブルトンが既成の文学に叩きつけた挑戦状であり、新しい時代の文学の誕生を告げるマニフェストだった。ブルトンは想像力と精神の自由をたたえ、狂気や夢を生かす方法として、自動書記を提案した。ここにシュルレアリスム(超現実主義)の運動がはじまった。
同年、雑誌「シュルレアリスム革命」誌の編集長となり、現実社会に生きる自分たち自身の奥にある超現実をとらえる方法として、シュルレアリスムを提唱しつづけた。
第二次世界大戦中、占領下のパリでは、ブルトンの著書は禁書とされ、彼は米国へ亡命した。戦後、パリにもどってきた彼は、フランスの植民地政策を批判し、ふたたびシュルレアリスム運動を支持しつづけた後、1966年9月、パリで没した。70歳だった。
自分が『シュルレアリスム宣言』をちゃんと理解しているかはよくわからないけれど、その熱さだけは痛いくらいに感じる。それはたとえばこんな文章である。
「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ。
自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。」(巌谷國士訳、岩波文庫)
「彼(ポール・ヴァレリー)はさきごろ小説を話題にして、自分にかんするかぎり『公爵夫人は五時に外出した』などと書くことはいつまでもこばみつづけたい、と私に確言したものだった。もっとも、彼は約束をまもっただろうか?」(同前)
「作者はいよいよ勝手気ままにふるまい、機会をとらえては自分の絵葉書をこっそり私に手わたして、あれこれの月並な表現について私の了解をとりつけようとする。
『青年が通された小部屋は、黄いろい壁紙がはりめぐらされていた。窓辺にはゼラニウムの鉢がいくつかと、(中略)椅子がいくつか、それに、小鳥を手にしたドイツ人の令嬢たちを描く安物の版画が二つか三つ、──これが調度品のすべてであった。』(これはドストエフスキー『罪と罰』からの引用)
たとえつかのまであろうと、精神がこのようなモティーフを思いえがくということを、私は認める気にはならない。」(同前)
ブルトンは、月並みな叙述や、予定調和的な筋立てを徹底的に嫌悪した。自分はブルトンの小説は、読んでいておもしろいと思ったことはないけれど、彼の評論から感じられる意気込みには、深く感動した。アルチュール・ランボー以来、久々に出会った熱さだった。自分が詩や小説を読むのは、ああいう熱さに出会いたいためだと思う。
ブルトンの代表作『ナジャ』は、こんな文章で終わる。自分など、このくだりは何度読んでもしびれる。
「美とは痙攣的なものだろう。さもなくば存在しないだろう。」(巌谷國士訳、白水社)
(2014年2月19日)
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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナーなど、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。
http://www.meikyosha.com
いまではあまり読まれないのかもしれないけれど、自分は学生時代、シュールレアリスムの詩や小説をよく読んだ。『シュルレアリスム宣言』の衝撃はいまも忘れない。
アンドレ・ブルトンは、1896年、フランスのノルマンディー地方のオルヌで生まれた。
第一次大戦中、ナントの病院で働いていたブルトンは、そこで詩人のアルフレッド・ジャリら知り合い、芸術の既成概念を軽蔑し、打破しようとする機運に触れた。
大戦後の20代半ばには、ルイ・アラゴンたちとともに、ダダの運動に参加。しかし、ダダの中心的人物だったトリスタン・ツァラと対立し、ダダと決別。
28歳のとき、『シュルレアリスム宣言』を発表。これは、20世紀のはじめにブルトンが既成の文学に叩きつけた挑戦状であり、新しい時代の文学の誕生を告げるマニフェストだった。ブルトンは想像力と精神の自由をたたえ、狂気や夢を生かす方法として、自動書記を提案した。ここにシュルレアリスム(超現実主義)の運動がはじまった。
同年、雑誌「シュルレアリスム革命」誌の編集長となり、現実社会に生きる自分たち自身の奥にある超現実をとらえる方法として、シュルレアリスムを提唱しつづけた。
第二次世界大戦中、占領下のパリでは、ブルトンの著書は禁書とされ、彼は米国へ亡命した。戦後、パリにもどってきた彼は、フランスの植民地政策を批判し、ふたたびシュルレアリスム運動を支持しつづけた後、1966年9月、パリで没した。70歳だった。
自分が『シュルレアリスム宣言』をちゃんと理解しているかはよくわからないけれど、その熱さだけは痛いくらいに感じる。それはたとえばこんな文章である。
「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ。
自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。」(巌谷國士訳、岩波文庫)
「彼(ポール・ヴァレリー)はさきごろ小説を話題にして、自分にかんするかぎり『公爵夫人は五時に外出した』などと書くことはいつまでもこばみつづけたい、と私に確言したものだった。もっとも、彼は約束をまもっただろうか?」(同前)
「作者はいよいよ勝手気ままにふるまい、機会をとらえては自分の絵葉書をこっそり私に手わたして、あれこれの月並な表現について私の了解をとりつけようとする。
『青年が通された小部屋は、黄いろい壁紙がはりめぐらされていた。窓辺にはゼラニウムの鉢がいくつかと、(中略)椅子がいくつか、それに、小鳥を手にしたドイツ人の令嬢たちを描く安物の版画が二つか三つ、──これが調度品のすべてであった。』(これはドストエフスキー『罪と罰』からの引用)
たとえつかのまであろうと、精神がこのようなモティーフを思いえがくということを、私は認める気にはならない。」(同前)
ブルトンは、月並みな叙述や、予定調和的な筋立てを徹底的に嫌悪した。自分はブルトンの小説は、読んでいておもしろいと思ったことはないけれど、彼の評論から感じられる意気込みには、深く感動した。アルチュール・ランボー以来、久々に出会った熱さだった。自分が詩や小説を読むのは、ああいう熱さに出会いたいためだと思う。
ブルトンの代表作『ナジャ』は、こんな文章で終わる。自分など、このくだりは何度読んでもしびれる。
「美とは痙攣的なものだろう。さもなくば存在しないだろう。」(巌谷國士訳、白水社)
(2014年2月19日)
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