10月23日は、世界ではじめて全身麻酔を使って外科手術をした江戸の医師、華岡青洲が生まれた日(宝暦10年、1760年)だが、「サッカーの王様」ペレの誕生日でもある。
自分は静岡県の磐田出身で、小学校のころはサッカーばかりやっていた。ブラジルの英雄、ペレは、そのころの自分にとっては、すでに生きた神話だった。サッカー少年にとっては、「王様」というより「神様」に近い存在だったと思う。
ペレは、1940年、ブラジルのトレス・コラソンエスで生まれた。本名は、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント。「エドソン」の名は、米国の発明王、トマス・エディソンにちなんで名付けられたものだという。彼の父親はアフリカ系のブラジル人で、サッカー選手だった。
貧しい家計を助けるため、小さいころ靴磨きをしていたエドソンは「ペレ」という愛称で呼ばれ、父親にサッカーの手ほどきを受け、14歳のときに地元クラブチームの下部組織に入団。15歳のとき、ブラジルを代表する名門サッカークラブのひとつ、サントスFCに入団した。デビューした親善試合でいきなり初得点するなど、すぐに活躍しだした。相手チームの選手6人をドリブルで抜いてゴールを決める、ボールを落とさず、空中で操りながら相手のマークをかわしシュート、ゴールするなど、華麗なテクニックで勝利に貢献し、南米王者、クラブ世界一など、チームを数々の栄冠に導いた。
ペレは34歳の年に引退するまで、サントスの主力選手として、ずっとブラジル国内でプレイしつづけた。欧州のビッグクラブからの誘いもあったが、ペレをはこれを断り、これがブラジル国内での彼の人気をさらに高めた。
35歳になる年に、「サッカー不毛の地」と言われた米国のサーカーリーグのチームに移籍。西ドイツからはフランツ・ベッケンバウアーもやってきて、米国のサッカーリーグを盛り上げた。
国の代表がぶつかるサッカー・ワールドカップは4年ごとにおこなわれるが、ペレはブラジル代表として4度のワールドカップに出場し、3度優勝した。
現役選手を引退した後は、国際サッカー連盟(FIFA)の大使、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使を務め、55歳のころから3年間、ブラジル政府のスポーツ大臣を務め、スポーツ施設や、スポーツ選手の権利を守る法律の整備に尽力した。
現代では、ペレ以上のテクニックをもったサッカー選手は世界にたくさんいると思うけれど、そうした現代のテクニックは、ペレが編み出し、やって見せ、それが広まり、さらに進化していった結果だと言える。
味方からきたパスを胸でトラップ(受け止め)し、そのボールが落ちる前に蹴ってゴールを決めるとか、蹴ったボールが大きく曲がった軌道を描くバナナ・シュートなど、ペレがやって見せた技は、当時のサッカーファンの度肝をぬく斬新なものだった。
彼の肉体には俊敏さと強さがあったが、とくにしなやかさがずば抜けていたと思う。
昔、小学校のころの担任教師があるとき、こんなことを言った。
「サッカーの王様、ペレが子どものころ、サッカーをはじめて、最初に練習したのは、きき足でない、左足でもボールを蹴られるようにすることだったんだって」
それを聞いて自分は、
「ペレというのは、えらい少年だったのだなあ」
と感心したものだった。
(2013年10月23日)
●おすすめの電子書籍!
『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ルドルフ・シュタイナー、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。
www.papirow.com
自分は静岡県の磐田出身で、小学校のころはサッカーばかりやっていた。ブラジルの英雄、ペレは、そのころの自分にとっては、すでに生きた神話だった。サッカー少年にとっては、「王様」というより「神様」に近い存在だったと思う。
ペレは、1940年、ブラジルのトレス・コラソンエスで生まれた。本名は、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント。「エドソン」の名は、米国の発明王、トマス・エディソンにちなんで名付けられたものだという。彼の父親はアフリカ系のブラジル人で、サッカー選手だった。
貧しい家計を助けるため、小さいころ靴磨きをしていたエドソンは「ペレ」という愛称で呼ばれ、父親にサッカーの手ほどきを受け、14歳のときに地元クラブチームの下部組織に入団。15歳のとき、ブラジルを代表する名門サッカークラブのひとつ、サントスFCに入団した。デビューした親善試合でいきなり初得点するなど、すぐに活躍しだした。相手チームの選手6人をドリブルで抜いてゴールを決める、ボールを落とさず、空中で操りながら相手のマークをかわしシュート、ゴールするなど、華麗なテクニックで勝利に貢献し、南米王者、クラブ世界一など、チームを数々の栄冠に導いた。
ペレは34歳の年に引退するまで、サントスの主力選手として、ずっとブラジル国内でプレイしつづけた。欧州のビッグクラブからの誘いもあったが、ペレをはこれを断り、これがブラジル国内での彼の人気をさらに高めた。
35歳になる年に、「サッカー不毛の地」と言われた米国のサーカーリーグのチームに移籍。西ドイツからはフランツ・ベッケンバウアーもやってきて、米国のサッカーリーグを盛り上げた。
国の代表がぶつかるサッカー・ワールドカップは4年ごとにおこなわれるが、ペレはブラジル代表として4度のワールドカップに出場し、3度優勝した。
現役選手を引退した後は、国際サッカー連盟(FIFA)の大使、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使を務め、55歳のころから3年間、ブラジル政府のスポーツ大臣を務め、スポーツ施設や、スポーツ選手の権利を守る法律の整備に尽力した。
現代では、ペレ以上のテクニックをもったサッカー選手は世界にたくさんいると思うけれど、そうした現代のテクニックは、ペレが編み出し、やって見せ、それが広まり、さらに進化していった結果だと言える。
味方からきたパスを胸でトラップ(受け止め)し、そのボールが落ちる前に蹴ってゴールを決めるとか、蹴ったボールが大きく曲がった軌道を描くバナナ・シュートなど、ペレがやって見せた技は、当時のサッカーファンの度肝をぬく斬新なものだった。
彼の肉体には俊敏さと強さがあったが、とくにしなやかさがずば抜けていたと思う。
昔、小学校のころの担任教師があるとき、こんなことを言った。
「サッカーの王様、ペレが子どものころ、サッカーをはじめて、最初に練習したのは、きき足でない、左足でもボールを蹴られるようにすることだったんだって」
それを聞いて自分は、
「ペレというのは、えらい少年だったのだなあ」
と感心したものだった。
(2013年10月23日)
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ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ルドルフ・シュタイナー、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。
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