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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月5日・福田英子の闘い

2022-10-05 | 歴史と人生
10月5日は、百科全書派の作家ドゥニ・ディドロが生まれた日(1713年)だが、日本の女性解放運動のパイオニア、福田英子(ふくだひでこ)の誕生日でもある。

福田英子こと、誕生時は旧姓で景山英子は、慶応元年10月5日(1865年11月22日)、現在の岡山県岡山で生まれた。父親は岡山藩の下級武士だった。
小さいころから利発だった英子は、12歳のころには選ばれて『十八史略』『日本外史』を講義をし、14歳になる年には小学校の助教諭となり給料をもらっていた優秀な生徒だった。そのころ、後に首相になる犬養毅から求婚されたが、英子は断ったという。
17歳のころ、女性運動家の岸田俊子が岡山へやってきて演説会を開き、英子はこれを聴きにいった。西南戦争後の自由民権運動と、それに対する言論弾圧の時代だったが、演説を聴いた英子は、ただちに地元に女性の権利主張への行動を開始した。学校を辞職し、私塾を開き、官憲によってこれが解散させられると、家出をした。
英子は大阪でたまたま板垣退助に会い、その身を捨てて国のために尽くす志を激励された。英子は旅費と学資をもらい、東京へ出て女学校に通いだし、英語や心理学、社会哲学を学んだ。そして、体制側によるきびしい言論弾圧に対抗するテロ活動に加わり、学校をやめて爆弾テロ計画の爆弾の運び屋となった。
彼女以外は、テロリストはみな男ばかりだった。男たちは、同志たちが集めてきた活動資金を手にすると、さっそく遊廓に上がって派手に遊びまくり、挙げ句の果てに資金をくすねて逐電する者が出るていたらくで、紅一点の英子は憤慨するやら呆れ返るやらだったが、すったもんだがあった後、あらためて資金を集め直し、英子は東京から長崎まで爆弾を運んだ。長崎で朝鮮半島へ渡る船を待っていた。生きて日本へ帰ることはあるまいと覚悟を決めていた。そんな夜、宿泊先を官憲によって踏みこまれ、逮捕された。このとき、大阪でも多くの同志が逮捕されたことから、この事件は「大阪事件」と呼ばれる。
約2年3カ月の刑期をへて、恩赦によって出獄すると、彼女は大阪で、中江兆民ら名士たちによって喝采をもって迎えられ、出獄記念の祝宴が開かれた。
その後、英子は東京で女子実業学校を創立し、働く女性たちのために読み書き、算術、裁縫、英語、美術などを教えたり、角筈(つのはず)女子工芸学校を興し、学校を支える団体として「日本女子恒産会」を設立したりして女性の教育、地位向上に努め、中江兆民の弟子である幸徳秋水の「平民新聞」を支援し、足尾銅山鉱毒事件を糾弾する田中正造の運動に協力し、雑誌「世界婦人」を創刊し、平塚らいてうの「青鞜」に女性の権利を訴える論文を寄稿した。
英子が45歳になる年に「大逆事件」により幸徳秋水らが処刑され、言論界は凍りつき、「世界婦人」も発売禁止となり、英子の家には家に毎月特高警察が事情聴取にくるようになった。英子は晩年は行商して口を糊したが、風邪と心臓病と転倒が重なり重態となり、1927年5月、息子夫婦といっしょに住んでいた東京の自宅で没した。61歳だった。山東出兵のときで、彼女が亡くなると、特高警察が検死にやってきたという。

福田英子は、女性の教育問題、男女同権の法整備、とくに姦通罪の男女不平等是正に尽力し、たびたび署名、請願運動を展開し、帝国議会の議題にのぼるまで努力した。
女性差別と戦い、また、権力やお金に媚びない姿勢を貫いた、壮絶な戦いの人生だった。
(2022年10月5日)



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