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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月5日・ジョン・ケージの啓示

2019-09-05 | 音楽
9月5日は、版画家、棟方志功が生まれた日(1903年)だが、音楽家ジョン・ケージの誕生日でもある。

ジョン・ケージこと、ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアは、1912年、米国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父親ジョン・ミルトン・ケージ・シニアは発明家で、潜水艦を設計し、当時の潜水艦潜航新記録を作った。一方、ジュニアの母方は音楽家を輩出している家系だった。
8歳のころからジョン・ジュニアは、ピアノ・レッスンを受けはじめた。彼は、グリーグの音楽のファンだったが、当時は音楽家でなく、作家志望だった。
1929年10月、ニューヨークの株式市場が暴落し世界恐慌がはじまった。ケージは大学をドロップウトし、ヨーロッパへ渡った。そしてヨーロッパで建築、ピアノを学び、放浪の旅をし、作曲をはじめた。
19歳になる年、ニューヨークへもどったケージ青年は、大恐慌時代の世をみずからの才覚で泳ぐなかで得たつてをたどり、22歳になる年に、ヒッチハイクで西海岸へ行き、南カリフォルニア大学で教えていた無調音楽の巨匠シェーンベルクに弟子入りした。
そして25歳のころ、シアトルへ引っ越し、モダン・ダンス教室の教室付き作曲家兼伴奏者の職を得た。彼はここでパーカッションの演奏団を結成し、自作の演奏活動をはじめた。このころに彼が作曲した「居間の音楽」は、居間で見かけるような家具、本、新聞紙、壁、扉などが打楽器として使用される曲だった。
第二次世界大戦がはじまったころ、ケージはレコード・プレイヤーの回転速度を操作する電気音楽作品を作曲し、グランドピアノの弦にゴムや竹、万年筆、木片、ボルトなどをはさんで音色を変化させたプリペアード・ピアノを考案した。
日米開戦の翌年、ケージはニューヨークへ移り、芸術家マックス・エルンストの家に居候し、シュールレアリスム文学のアンドレ・ブルトンや、前衛芸術家マルセル・デュシャンらと知り合った。そして、30歳のとき「十八の春を迎えた陽気な未亡人」を作曲。これは、閉じたグランドピアノのふたを指でたたくという伴奏がついた作品だった。
大戦後は、難解なジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や、中国古典の易経を音楽化しようと試み、コロンビア大学で鈴木大拙による禅の講義を聴講し、サティの音楽を研究した。そして、40歳になる年に、4分33秒のあいだ楽器がまったく鳴らされない沈黙の音楽「4分33秒」を発表。この衝撃的な代表作はごうごうたる非難をあびた。
その後も彼はヘンリー・ソロー、星座図、偶然性、不確定性、数字など、さまざまな要素や概念を音楽に取り込み、電子音楽やコンピュータ音楽を積極的に取り入れ、ナム・ジュン・パイク、オノ・ヨーコ、高橋悠治などのアーティストたちとパフォーマンスをおこない、世界の各地の大学や研究施設で講義をおこなった。そして、1992年8月、ニューヨークの自宅で目を開いたまま倒れているところを発見され、病院に運ばれたが、回復せず、没した。死因は脳溢血。79歳だった。

文学界でブルトンが自動書記で文章を書き「これが文学だ」とし、美術界でデュシャンが「モナ・リザ」にひげを付けて「はい、芸術です」と言ったのを、音楽の世界でやって見せたのがジョン・ケージだった。ケージは西洋音楽の極北である。
(2019年9月5日)


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