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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月7日・村野四郎の脱皮

2024-10-07 | 文学
10月7日はロシア大統領・ウラジーミル・プーチンが生まれた日(1952)だが、詩人の村野四郎(むらのしろう)の誕生日でもある。

村野四郎は1901年、東京の現在の府中市で生まれた。酒問屋を営む裕福な家庭で、12人きょうだいの、四郎は四男だった。四郎は東京府立第二中(現在の東京都立立川高校)に進み、中学時代は柔道部の主将を務めた。器械体操も得意だったという。
運動のかたわら、俳句も作っていたが、19歳のころ、無季自由律俳句の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)に認められ、荻原門下に入った。ここに若き自由律俳人が誕生した。
慶應義塾大の経済学部予科に入学した村野は、ドイツ語の授業でドイツ表現主義の詩について知り、また、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の『月に吠える』『青猫』に感銘を受け、俳句から詩作へ転じた。学生時代から仲間と詩の同人誌を作り、25歳のころに第一詩集『罠(わな)』を出した。
大学を卒業すると、その秋に村野四郎は、一年志願兵として近衛歩兵第一連隊に入った。一年志願兵とは、学歴と試験による資格要件を満たした者が、陸軍の幹部候補生として一年間だけ兵役につく制度である。
徴兵制のノルマをこなした村野は、新興財閥の理研コンツェルンに入社した。以後、村野は会社で働きながら、詩作を続けていくことになる。
30歳前後のころから、ヨーロッパで始まった「新即物主義」に村野は傾倒しだし、主観的な表現主義の信奉者から、冷徹な客観的、即物的表現へと大きく作風を転換させていった。
その成果が1939年、38歳のときに出版した第二詩集『体操詩集』で、「鉄棒」「棒高飛」「飛込」「拳闘」といった様々なスポーツを題材にし、1936年開催のベルリン五輪の写真を添えた、その斬新、モダンな詩風は時代に新風を吹き込んだ。
戦中、理研グループの会社の経営をこなしながら詩作を続けていた村野は、東京大空襲で自宅や会社工場を焼失したが、戦後も会社を興し、詩集を出し、詩の雑誌に携わり新人を発掘しと、経済と文化の両面から戦後日本の復興に尽力した。
58歳のときに出版した第九詩集『亡羊記』で読売文学賞を受賞し、70代にはいってなお元気に詩作を続けていたが、73歳で出した第十一詩集『芸術』を最後に、1975年3月、肺炎のため都内の病院で没した。73歳だった。

「飛込

花のやうに雲たちの衣装が開く
水の反射が
あなたの裸体に縞(しま)をつける
あなたは遂に飛びだした
筋肉の翅(はね)で。
日に焦げた小さい蜂よ
あなたは花に向つて落ち
つき刺さるやうにもぐりこんだ(以下略)」(村野四郎「飛込」『体操詩集』『日本の詩歌21』中央公論社)

この詩はたしか学校の教科書で読んだと記憶する。鮮やかな視覚イメージ、知的処理の効いたクールな比喩。これがかつて萩原朔太郎ファンだった詩人の作である事実を思い合わすと、作者の精進に打たれる。若き詩人のみごとな脱皮を見る思いがする。
(2024年10月7日)



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