1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月8日・武満徹の前衛

2024-10-08 | 音楽
10月8日は、精神医学者エルンスト・クレッチマーが生まれた日(1888年)だが、天才作曲家、武満徹(たけみつとおる)の誕生日でもある。

武満徹は、1930年、東京で生まれた。祖父は国会議員で、父親は保険会社に勤めるサラリーマンだった。父親の転勤にともない、生後1カ月で満洲の大連に引っ越したが、7歳のとき、小学校入学のため、家族と離れてひとり帰国。東京の伯父の家で育った。
戦後の16歳のとき、進駐軍のラジオ放送で音楽を聴き、音楽家を志すことを決意。横浜の進駐軍キャンプでボーイとして働いた後、18歳のとき、作曲家の清瀬保二に師事。しかし、技術的なことはいっさい教わらず、二人は音楽論を戦わせるばかりの師弟だった。
このころ、武満はピアノがないため、東京の町を歩きまわり、ピアノの音が聞こえると、見知らぬ家に頼みこんであがり、ピアノを弾かせてもらって練習したという。
ほぼ独学で作曲を学んだ武満は20歳のとき、清瀬と仲間が開催した作品発表会で、ピアノ曲「2つのレント」を発表し作曲家デビュー。
21歳のとき、交際していた画家、音楽家たちと芸術集団「実験工房」を結成。以後、この集団のつながりを通して演劇、映画、バレエなどの音楽を作曲するようになり、武満徹の音楽作品は知られるようになっていった。
日活映画「狂った果実」、劇団四季の「野性の女」、チョコレートのコマーシャル音楽などを手がけた後、27歳のとき、初のオーケストラ作品「弦楽のためのレクイエム」を発表。作品は新聞に酷評されたが、その録音テープを、たまたま来日中だったストラヴィンスキーが聴く機会があり、聴いたストラヴィンスキーはこう言って絶賛した。
「武満のは誠実さがあって厳しくていい」(小澤征爾、武満徹『音楽』新潮文庫)
それから武満は、日本フィルなどオーケストラからの依頼を受けて作曲したり、「切腹」「不良少年」「砂の女」「暗殺」「四谷怪談」といった映画音楽を担当したりしているうち、しだいに琵琶、尺八といった邦楽器を取り入れて作曲するようになった。この方向をオーケストラ用の楽曲に推し進めたのが、36歳のときの「エクリプス」であり、37歳のときにニューヨーク・フィルのために書いた「ノヴェンバー・ステップス」だった。琵琶と尺八がオーケストラと奏で合う斬新な「ノヴェンバー」は世界中で演奏され、タケミツの名は一躍、世界的なものとなった。
イェール大学の客員教授を務め、映画「天平の甍」の音楽を担当し、オペラ作品にも取り組んだ武満は、間質性肺炎や膀胱がんなどのため、1996年2月、東京の入院先で没した。65歳だった。

指揮者の小澤征爾と親交のあった作曲家、武満徹の作品には、音の美しさと鋭さ、そして自由がある。
ノーベル賞作家の川端康成がどこかで、
「いま、世界の最先端の文学とは、もっとも日本的な文学を書くことである」
と書いていたが、音楽の世界でそれをやったのが武満徹である。
(2024年10月8日)



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