この際、陳氏と接見した弁護人・李方平氏は同氏が「永遠にあきらめません」と口にしたのを今でも鮮明に覚えている。
陳氏が拘束されたばかりの06年4月、米タイム誌は「世界をつくる100人」を発表したが、陳氏はその中で温家宝首相と共に名を連ねた。さらに服役中の07年にアジアのノーベル賞と言われる「マグサイサイ賞」を受賞。授賞式に代理出席しようとした妻の袁偉静さんに対し、公安当局は出国を認めなかった。
過酷な軟禁生活
地元幹部の暴力と腐敗を暴露
陳氏が出所したのは10年9月。しかし待っていたのは過酷な軟禁生活だった。27日、北京で安全な場所に入った陳氏は、「敬愛する温総理」と呼び掛けるビデオメッセージをインターネット上で公表し、地元幹部らの暴力と腐敗・不正の実態を暴露した。
「彼らはわが家に乱入し、大の男が十数人も寄ってかかって私の妻に暴力を振るった。妻を床に押し付け、布団をかぶせて数時間も殴る蹴るの暴行を加えた。私も同様に暴行を受けた」
「母は誕生日に郷鎮の党幹部に腕をつかまれ、押し倒された。扉に頭をぶつけて泣き崩れた母は『若いことを頼りにこんなことをするの』と聞くと、彼らは恥も知らずに『若いからいいんだ。これが真実だ。あんたは年寄りだ。俺には勝てないだろう』と言い放った」
「善良な網民(ネット市民)のたゆまない関心の中、(村周辺での)見張りは最も多い時で数百人に達し、われわれの村全体が封鎖された。(中略)私の迫害に関与した県や鎮の幹部らは90~100人前後に達する。彼らは私に対して何度も違法な迫害を行った。徹底的な調査を要求します」
「私の問題は数年間が続いているが、なぜ解決しなかったのか疑問でしょう。権力者は自分の罪が暴露されるのを恐がり解決しようとしなかったからです。ここには大量の腐敗が存在する。(昨年)8月のことだったと記憶しているが、彼らが私に文化大革命式のつるし上げを行っていた際、『お前はネット上で3000万元(約3億9000万円)を(陳氏の軟禁のために)使ったと言っていたが、あれは08年の数字だ。今やその倍でもきかない。しかも北京に行って高官に渡す賄賂は別だ。ネットで再びばらすことはできるか。できるものならやってみろ』と言い放った」
「こうした『維穏(安定維持)』経費について彼らは私に対して話したことがある。『県政府から数百万元単位で村に出されるが、幹部が大部分を懐に入れ、われわれ下っ端には少ししか入らない』。腐敗がどれだけ深刻か分かるでしょう。金と権力がどれほど乱用されていることか」
いわば地元では陳光誠問題が「産業」として成立、腐敗を増長させているのだ。
英語教師の何培蓉氏 単身で村に入る
江蘇省南京で英語教師の職に就く何培蓉さんはこうした厳しい迫害に遭っていた陳光誠氏や家族とひそかに連絡を取っていた。
何さんが最初に東師古村に向かったのは昨年1月。「1人で行った。05年に人権派弁護士が複数で村に調査に行った際、当局者に暴力を振るわれた。1人で行ったから殴られずに村に入れた。陳氏には会えなかったが、母親には会った。泣いていた」。何さんは今年1月、私にこう語った。
2回目は昨年5月末から6月初め。今度は村に入れず、殴られた。南京にいったん戻らされたが、すぐに村にまた帰って来た。県で公安を統括する党政法委の担当者は何さんに「『維穏』だから仕方がない」と言い、また戻された。
秋になると、何さんらがネット上で「光誠を自由に」キャペーンを展開。村に向かった網民ばかりか、多くの著名な改革派知識人がネット上で陳光誠氏を支援する声を挙げたが、これも何さんらが仕掛けたことだった
迫害は「地元判断」か「中央指示」か?
こうした網民や知識人の力が奏功したのか、6歳になっても小学校に通うことが許されなかった陳氏の娘も、通学時には見張りが付いたりするものの、学校に行くことが認められた。母親は外出して買い物を許されるようになった。確かに昨年11月ごろには陳氏一家をめぐる状況は好転したかに見えた。
その頃、地元幹部は陳氏と接触し、同氏への説得を始めたほか、12月初めには李源潮共産党中央組織部長が沂南県を視察。この視察を契機に迫害に関わった幹部が、陳問題に関与したことのない新たな幹部に交代した。ついに中央指導部が問題解決に向けて動き出したとの期待も高まった。
ここで補足しよう。05年以降の陳氏に対する迫害は、果たして地方幹部による独自の判断なのか、それとも胡錦濤総書記や公安・司法を担当する周永康党中央政法委書記ら中央の指示があったのか――。
クリントン米国務長官が陳氏問題に繰り返して懸念を表明したほか、国際社会が中国人権問題の「象徴」として関心を強める中、「陳光誠」は地方を超えた複雑な問題と化し、その都度、党中央の指示が存在したのは間違いない。さらに地元幹部はそれを忠実に実行するため過剰に反応したわけだが、自分たちに転がる巨額の「維穏費」のうまみを知り、迫害に拍車が掛かった面も否めなかった。
陳氏は温家宝首相宛てにメッセージを出したが、これは指示した中央の責任を棚上げし、地元政府の暴力や腐敗・不正に焦点を絞って、改革派として地方の腐敗に厳しい温首相に問題解決を迫るという極めて賢明な判断と言えよう。
「Xマス家族団らん」という希望
状況が好転する中、陳氏一家や何さんは一つの「希望」を抱いた。何さんは当時を振り返る。
「クリスマスから春節(旧正月=今年は1月23日)に、離れ離れになって会えない息子や兄弟が一緒に会って家族団らんができるか、を最後の『底線』(最低ライン)にしよう、と決めた。特に12月25日にかなうかどうか胸いっぱいの希望を持った」
しかし「われわれの希望は徹底的に打ちのめされた」(何さん)。かつて陳氏を迫害した同県政法委書記が、陳氏を担当する責任者として再び同じポストに舞い戻って来たのだ。減っていた自宅周辺の暴漢ら見張りの数もまた増えた。
状況は急激に悪化し、12月末には20人超が陳氏の家に押し掛け、理由もなく捜索した。1月下旬には陳氏の兄が死亡したが、外出を許されず、陳氏は体調を崩して卒倒した。
「陳氏と昨年7月に電話で話した際、家にある食料が十分ではないと訴えていたが、その後も持病の血便が続いたほか、彼の栄養不足は非常に深刻だった」。こうして「脱出」しか解決方法はないと考えるようになったのだ。
「陳ステッカー」を車と女性に貼ろう運動
何さんは、中国国内では決して報道されない「陳光誠」の存在がどうすれば世間に知られるようになるか常に必死で考えていた。
そこで思いついたのが、陳氏の似顔絵を描いたステッカーを4000枚作成し、ネットで呼び掛けて賛同した若者らと手分けし、中国各地で運転手を説得しては車に張らしてもらう「車貼活動」だった。
車にステッカーを張ったボランティア約30人が警察から事情聴取されたが、その地域は新疆ウイグル自治区やマカオ、米国、カナダまで広がった。「中国には真の『共鳴社会』を構築することが必要。そのためには(多数を占める)中産階級の覚醒が欠かせず、車を持つ中産階級をターゲットにした」と何さんは目的を語った
続いて若い女性の太ももなどに陳氏のステッカーを張り付け、顔などを隠してその姿を写真に収め、ネットで公表するというキャンペーンも展開。当然のことながら男性の関心を集めるための何さんのアイデアだった。
スカイプで連絡中
何さんが当局に拘束される
そして最後の手段として計画した陳光誠氏の「脱出」計画。陳氏は最初、穴を掘ろうとしたが、見つかってしまい、その後は長時間、床に伏せて見張りを油断させた上で、見張りが水汲みに行ったわずか10分ほどの隙を見て自宅の塀を乗り越えて逃走。連絡を受けた何さんらが車で迎えたが、それまで陳氏は20時間余りも1人でじっと身を潜めた。
陳氏が米大使館に保護される27日。午前4時ごろ、陳氏を北京にかくまった後、南京の自宅に帰った何さんから電話が入った。その後もスカイプでやり取りしたが、私にこう危機感をあらわにした。
「われわれが陳光誠氏を救出した。彼は今北京にいる。しかし現在、最も危険な時だ。彼が身を潜めている場所は非常に危険で、再び捕まり連れ戻される懸念がある」。何さんも陳がどこにいるか、連絡が取れなくなっていたのだ。
この日午後、米政府により陳の安全は確保されたが、「連絡を取り合いましょう。(私のスカイプは)ずっとオンラインだから」と話していた何さんは、午前11時すぎ、公安当局に拘束されてしまった。