沈黙の春

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【子どもを被ばくから守れ】小出氏がニューヨークで講演/「全ての原発を止めなくてはいけない」

2012-05-05 23:22:41 | 原発関連

ニューヨーク共同】40年以上にわたり反原発を訴えてきた京都大原子炉実験所の小出裕章(こいで・ひろあき)助教が3日、ニューヨークで講演し、東京電力福島第1原発事故後の放射能汚染から子どもを守ることの重要性を強調、多くの日本人女性から「子どもと一緒に日本に帰って安全だろうか」と心配する声が出た。

 小出氏は「日本に帰る前に知っておきたい『放射能』のこと」と題した講演で、放射線ががん死亡率に与える影響に関する海外の研究を引用し、0歳児は全年齢平均の約4倍の影響を受けるとのデータを紹介。

 「子どもが泥んこになって遊ぶような場所が、放射線管理区域の基準を超える」レベルで汚染されたとし「子どもは放射線に対する感受性が強い。被ばくから守らなければいけない」と訴えた。

 また「全ての原発を止めなくてはいけない」とあらためて強調。「(停止した)原発を再稼働させようとしている」日本政府を強く批判した。

 講演後の質疑応答では、子どもを持つ女性から「帰国しても安全か」との質問が多数寄せられ、小出氏は「一人一人の判断だと思う。できれば小さな子どもは連れていかない方がいいが、おじいさん、おばあさんに(孫を)会わせるのも人間の営みとして必要だ」と答えた。

 【写真】3日、ニューヨークで原発事故などの影響について講演する京都大原子炉実験所の小出裕章助教(共同)

 (2012年5月4日、共同通信)

 


深夜原発ゼロに!エネルギー政策草創期以来42年ぶり 「驚くべき転換」米紙 歴史的転換へ。

2012-05-05 21:27:21 | 原発関連

国内の商業用原発50基が5日深夜、すべて停止する。

唯一稼働している北海道電力泊原発3号機(北海道泊村)が定期検査に入る。全原発停止は草創期で2基体制だった1970年以来、42年ぶり。東京電力福島第1原発事故から約1年2カ月が経過し、日本は70年代の石油危機を経て原発をエネルギー政策の主軸に据えて以降、例のない「原発ゼロ」の事態に直面する。

 政府が進める関西電力大飯原発3、4号機(福井県)の再稼働はめどが立っておらず、電力需要の高まる夏に向け生活や産業に影響が出る恐れが高まっている。中長期的には政策転換により、事故を教訓に原発に依存しない社会をつくる転機となる可能性がある。

 泊3号機は5日午後5時から出力を下げ始め、午後11時ごろに発電を停止して定検入り。6日未明には原子炉が完全に停止する。

 日本原子力発電の東海原発が初の営業運転を始めたのは66年。70年代に入ると関電と東電が競うように原発を建設し、各社も追随。90年代には沖縄電力を除く電力9社すべてが原発を保有して現在の体制が固まった。

 国内の原発は2010年度には全電力量の26・4%を供給。東日本大震災直前には30基以上が稼働していた。

 事故後、各地の原発は定検により順次停止。九州電力玄海原発(佐賀県)2、3号機が再稼働目前までこぎ着けたが、安全評価(ストレステスト)導入に伴い見送られた。ことし3月に東電柏崎刈羽6号機(新潟県)が止まり、稼働中は泊3号機だけとなっていた。

 電力各社は火力発電などの増強で対応しているが、原発が再稼働せずに猛暑となった場合、北海道、関西、九州の3電力管内で電力不足に陥る恐れがあり、家庭や企業は一段の節電を求められる。

 政府は今夏に、総合資源エネルギー調査会が新たなエネルギー計画をまとめるのを受け、原発の将来像を含めた政策の在り方を示す。(五十嵐希)

◎エネルギー政策、転換期に 

 【解説】半世紀にわたり原子力への依存を強めてきた日本が「原発ゼロ」の日を迎えた。甚大な被害をもたらした東京電力福島第1原発事故の影響は続いており、原発再稼働への不安は拭えない。石炭から石油、原子力へと変遷してきたエネルギー政策は再び転換期を迎えている。

 天然資源に乏しい日本は1960年代から原子力利用を進め、70年代の石油危機で原発への傾斜は決定的となった。産業界は安価な電力を謳歌(おうか)。地域振興に苦しむ立地自治体は潤ったが、原発を中心に回る経済から抜け出せないという弊害も生まれた。

 原発事故後、立地自治体ではかつての炭鉱のような衰退への懸念が膨らんでいる。原発が最も集中する福井県では、県議会の代表が枝野幸男経済産業相に対し、脱原発依存を進めるなら代わりに再生可能エネルギー発電を誘致するよう訴えた。政策転換にはこうした自治体への配慮が欠かせない。

 一方で電力会社には、原発を稼働させなければもうけが出ない財務構造が定着した。原発ゼロが長引けば、赤字に耐えかねて値上げを申請する電力会社が続出する恐れがある。消費者の負担抑制も大きな課題だ。

 政府の総合資源エネルギー調査会は、再生可能エネルギーを最も普及させた場合、2030年には全電力の35%を賄えるとの試算を公表した。原子力に代わる基幹エネルギーに育つかどうかは未知数だが、安全性を欠いたまま原発依存に逆戻りしない取り組みが不可欠となっている。(五十嵐希)

◎「驚くべき転換」 全原発停止で米紙 

 【ニューヨーク共同】米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は4日、日本の全原発停止について「ほんの1年余り前は世界で最も積極的な原発推進役の一つだった国にとって、驚くべき転換となった」と評する東京発の記事を掲載した。

 記事は、東京電力福島第1原発事故で「(原発への)信用がいかに揺らいだかを明確に示している」と指摘。日本の経済産業省前で「原発ゼロを実現しよう」という看板を掲げハンスト中の76歳の女性を写真とともに紹介している。

 一方で、全原発停止の状態が「いつまで続くかは不透明」とし、原子力エネルギーの不足を補うため石油や天然ガスの輸入が増大しているとした。原発を再稼働できれば「(石油やガスを海外から買う)4兆円を別のことに使える」(日立製作所の川村隆(かわむら・たかし)会長)という意見も掲載した。(沢康臣)

◎炭鉱消え、原発も脱依存 国策に揺らぐ泊村 

 全国50基の原発のうち最後まで稼働していた北海道電力泊原発3号機が5日、定期検査入り。地元の泊村は、かつて炭鉱で栄えたが、国策による石油への転換で窮地に立ち、原発を選び取った。約1900人が暮らす小さな村は「脱原発依存」の掛け声に再び揺れている。

 「年寄りばかり残り、他は皆、散り散りになった」。泊村にあった茅沼(かやぬま)炭鉱の労働組合幹部から役場職員に転じた小林勇(こばやし・いさむ)さん(87)が半世紀前の廃村の危機を振り返る。

 1960年代、石油への転換が進み、各地で炭鉱が閉山。茅沼炭鉱も64年に閉じ、多くの住民が村を離れた。ピーク時に約1万人だった人口は閉山翌年、約4800人に。そんな折、浮上したのが原発建設計画だった。

 「生き残るには原発しかなかった」。役場を中心に村一丸で誘致を進め、小林さんも国に足を運び陳情を重ねた。84年に建設が始まると、ようやく活気が少し戻った。

 同じ茅沼炭鉱で働き、一度は村を離れた宮谷秀吉(みやたに・ひでよし)さん(76)は今、原発の配管を点検修理する機械設備会社を村で営む。

 18歳のころ炭鉱で働き始めた宮谷さん。村はにぎわい、当初の日給290円は他の職に比べ「莫大(ばくだい)に良かった」。

 閉山後、他の炭鉱に移った仲間もいたが、収入が安定する函館の造船所での配管業を選んだ。その後「若者の働き口をつくりたい」という思いで、86年に今の会社を興した。従業員は45人ほど。大半が地元の若者だ。

 一番心配なのは「最近入社したあんちゃんたちの今後」。国の原子力政策が転換点を迎える中、かつて閉山で村を離れた仲間の姿が頭をよぎる。

 「たとえ原発がなくなっても配管の技術があれば食っていける」と若い従業員の指導を急ぐ。「反原発の気持ちは分かるが、こんな思いで地元を守っている人がいることも分かってほしい」

 ただ、長く原発と共存してきた地元も一枚岩ではなく、不安や反対の声がじわりと広がっている。原発のそばで暮らす滝本(たきもと)ヒサノさん(90)は「原発が怖いと言って孫が戻ってきてくれない」とため息をつく。東京電力福島第1原発の事故は頭から離れず「原発はおっかない。動かない方がいい」と顔を曇らせる。

 海を挟み原発を間近に望む岩内町。町議で漁師の金沢志津夫(かなざわ・しづお)さん(64)は「絶対事故が起きないなんて言えない」と不安を隠さない。建設当時の反対の立場から、周囲に説得されて容認に転じた過去を今、悔いている。「再稼働には必ず反対する」と言い切った。(山崎翼、森原龍介)


盲目の活動家脱出劇②救った女性の勇気と行動力今公安に連れ去られた・・

2012-05-05 21:01:00 | 中国

この際、陳氏と接見した弁護人・李方平氏は同氏が「永遠にあきらめません」と口にしたのを今でも鮮明に覚えている。

 陳氏が拘束されたばかりの06年4月、米タイム誌は「世界をつくる100人」を発表したが、陳氏はその中で温家宝首相と共に名を連ねた。さらに服役中の07年にアジアのノーベル賞と言われる「マグサイサイ賞」を受賞。授賞式に代理出席しようとした妻の袁偉静さんに対し、公安当局は出国を認めなかった。

過酷な軟禁生活
地元幹部の暴力と腐敗を暴露

 陳氏が出所したのは10年9月。しかし待っていたのは過酷な軟禁生活だった。27日、北京で安全な場所に入った陳氏は、「敬愛する温総理」と呼び掛けるビデオメッセージをインターネット上で公表し、地元幹部らの暴力と腐敗・不正の実態を暴露した。

 「彼らはわが家に乱入し、大の男が十数人も寄ってかかって私の妻に暴力を振るった。妻を床に押し付け、布団をかぶせて数時間も殴る蹴るの暴行を加えた。私も同様に暴行を受けた」

 「母は誕生日に郷鎮の党幹部に腕をつかまれ、押し倒された。扉に頭をぶつけて泣き崩れた母は『若いことを頼りにこんなことをするの』と聞くと、彼らは恥も知らずに『若いからいいんだ。これが真実だ。あんたは年寄りだ。俺には勝てないだろう』と言い放った」

 「善良な網民(ネット市民)のたゆまない関心の中、(村周辺での)見張りは最も多い時で数百人に達し、われわれの村全体が封鎖された。(中略)私の迫害に関与した県や鎮の幹部らは90~100人前後に達する。彼らは私に対して何度も違法な迫害を行った。徹底的な調査を要求します」

 「私の問題は数年間が続いているが、なぜ解決しなかったのか疑問でしょう。権力者は自分の罪が暴露されるのを恐がり解決しようとしなかったからです。ここには大量の腐敗が存在する。(昨年)8月のことだったと記憶しているが、彼らが私に文化大革命式のつるし上げを行っていた際、『お前はネット上で3000万元(約3億9000万円)を(陳氏の軟禁のために)使ったと言っていたが、あれは08年の数字だ。今やその倍でもきかない。しかも北京に行って高官に渡す賄賂は別だ。ネットで再びばらすことはできるか。できるものならやってみろ』と言い放った」

 「こうした『維穏(安定維持)』経費について彼らは私に対して話したことがある。『県政府から数百万元単位で村に出されるが、幹部が大部分を懐に入れ、われわれ下っ端には少ししか入らない』。腐敗がどれだけ深刻か分かるでしょう。金と権力がどれほど乱用されていることか」

 いわば地元では陳光誠問題が「産業」として成立、腐敗を増長させているのだ。

英語教師の何培蓉氏 単身で村に入る

 江蘇省南京で英語教師の職に就く何培蓉さんはこうした厳しい迫害に遭っていた陳光誠氏や家族とひそかに連絡を取っていた。

 何さんが最初に東師古村に向かったのは昨年1月。「1人で行った。05年に人権派弁護士が複数で村に調査に行った際、当局者に暴力を振るわれた。1人で行ったから殴られずに村に入れた。陳氏には会えなかったが、母親には会った。泣いていた」。何さんは今年1月、私にこう語った。

 2回目は昨年5月末から6月初め。今度は村に入れず、殴られた。南京にいったん戻らされたが、すぐに村にまた帰って来た。県で公安を統括する党政法委の担当者は何さんに「『維穏』だから仕方がない」と言い、また戻された。

 秋になると、何さんらがネット上で「光誠を自由に」キャペーンを展開。村に向かった網民ばかりか、多くの著名な改革派知識人がネット上で陳光誠氏を支援する声を挙げたが、これも何さんらが仕掛けたことだった

迫害は「地元判断」か「中央指示」か?

 こうした網民や知識人の力が奏功したのか、6歳になっても小学校に通うことが許されなかった陳氏の娘も、通学時には見張りが付いたりするものの、学校に行くことが認められた。母親は外出して買い物を許されるようになった。確かに昨年11月ごろには陳氏一家をめぐる状況は好転したかに見えた。

 その頃、地元幹部は陳氏と接触し、同氏への説得を始めたほか、12月初めには李源潮共産党中央組織部長が沂南県を視察。この視察を契機に迫害に関わった幹部が、陳問題に関与したことのない新たな幹部に交代した。ついに中央指導部が問題解決に向けて動き出したとの期待も高まった。

 ここで補足しよう。05年以降の陳氏に対する迫害は、果たして地方幹部による独自の判断なのか、それとも胡錦濤総書記や公安・司法を担当する周永康党中央政法委書記ら中央の指示があったのか――。

 クリントン米国務長官が陳氏問題に繰り返して懸念を表明したほか、国際社会が中国人権問題の「象徴」として関心を強める中、「陳光誠」は地方を超えた複雑な問題と化し、その都度、党中央の指示が存在したのは間違いない。さらに地元幹部はそれを忠実に実行するため過剰に反応したわけだが、自分たちに転がる巨額の「維穏費」のうまみを知り、迫害に拍車が掛かった面も否めなかった。

 陳氏は温家宝首相宛てにメッセージを出したが、これは指示した中央の責任を棚上げし、地元政府の暴力や腐敗・不正に焦点を絞って、改革派として地方の腐敗に厳しい温首相に問題解決を迫るという極めて賢明な判断と言えよう。

「Xマス家族団らん」という希望

 状況が好転する中、陳氏一家や何さんは一つの「希望」を抱いた。何さんは当時を振り返る。

 「クリスマスから春節(旧正月=今年は1月23日)に、離れ離れになって会えない息子や兄弟が一緒に会って家族団らんができるか、を最後の『底線』(最低ライン)にしよう、と決めた。特に12月25日にかなうかどうか胸いっぱいの希望を持った」

 しかし「われわれの希望は徹底的に打ちのめされた」(何さん)。かつて陳氏を迫害した同県政法委書記が、陳氏を担当する責任者として再び同じポストに舞い戻って来たのだ。減っていた自宅周辺の暴漢ら見張りの数もまた増えた。

 状況は急激に悪化し、12月末には20人超が陳氏の家に押し掛け、理由もなく捜索した。1月下旬には陳氏の兄が死亡したが、外出を許されず、陳氏は体調を崩して卒倒した。

 「陳氏と昨年7月に電話で話した際、家にある食料が十分ではないと訴えていたが、その後も持病の血便が続いたほか、彼の栄養不足は非常に深刻だった」。こうして「脱出」しか解決方法はないと考えるようになったのだ。

「陳ステッカー」を車と女性に貼ろう運動

 何さんは、中国国内では決して報道されない「陳光誠」の存在がどうすれば世間に知られるようになるか常に必死で考えていた。

 そこで思いついたのが、陳氏の似顔絵を描いたステッカーを4000枚作成し、ネットで呼び掛けて賛同した若者らと手分けし、中国各地で運転手を説得しては車に張らしてもらう「車貼活動」だった。

 車にステッカーを張ったボランティア約30人が警察から事情聴取されたが、その地域は新疆ウイグル自治区やマカオ、米国、カナダまで広がった。「中国には真の『共鳴社会』を構築することが必要。そのためには(多数を占める)中産階級の覚醒が欠かせず、車を持つ中産階級をターゲットにした」と何さんは目的を語った

続いて若い女性の太ももなどに陳氏のステッカーを張り付け、顔などを隠してその姿を写真に収め、ネットで公表するというキャンペーンも展開。当然のことながら男性の関心を集めるための何さんのアイデアだった。

スカイプで連絡中
何さんが当局に拘束される

 そして最後の手段として計画した陳光誠氏の「脱出」計画。陳氏は最初、穴を掘ろうとしたが、見つかってしまい、その後は長時間、床に伏せて見張りを油断させた上で、見張りが水汲みに行ったわずか10分ほどの隙を見て自宅の塀を乗り越えて逃走。連絡を受けた何さんらが車で迎えたが、それまで陳氏は20時間余りも1人でじっと身を潜めた。

 陳氏が米大使館に保護される27日。午前4時ごろ、陳氏を北京にかくまった後、南京の自宅に帰った何さんから電話が入った。その後もスカイプでやり取りしたが、私にこう危機感をあらわにした。

「われわれが陳光誠氏を救出した。彼は今北京にいる。しかし現在、最も危険な時だ。彼が身を潜めている場所は非常に危険で、再び捕まり連れ戻される懸念がある」。何さんも陳がどこにいるか、連絡が取れなくなっていたのだ。

 この日午後、米政府により陳の安全は確保されたが、「連絡を取り合いましょう。(私のスカイプは)ずっとオンラインだから」と話していた何さんは、午前11時すぎ、公安当局に拘束されてしまった。

 

 


「盲目活動家」脱出劇 ドラマよりドラマ①

2012-05-05 20:55:44 | 中国

盲目の人権活動家」として知られる陳光誠氏(40)が、軟禁されていた中国山東省臨沂市沂南県東師古村の自宅から脱出し、北京に向かい、米国大使館に保護されるという「奇跡」が起こった。その奇跡を起こしたのは、いくら政府から迫害を受けても「永遠にあきらめない」と言い続けた陳氏の執念の賜物だが、それを支えた女性人権活動家らの勇気も忘れてはいけない

200回以上転倒 自宅の塀を乗り越えた陳光誠

 東師古村はどこにでもあるようなのどかな農村である。しかし私が昨年10月末、村近くを走る国道をタクシーで走り、村周辺で取材した際、当局者や彼らの雇った暴漢ら数百人にも上る見張りが、陳氏の自宅を中心に7~8重にも配置されていたとみられる。

 陳氏は2006年に言われなき罪で懲役4年3月の実刑判決を受け、出所した後も自宅で過酷な軟禁が続いた。地元幹部らにたびたび激しく暴力を振るわれ、外部との接触も遮断された。

 こうした現実に立ち上がったのが、インターネットで「光誠に自由」と訴えた何培蓉さん(40)ら女性人権活動家たちだった。彼女らの呼び掛けで昨年8月以降、わずか数カ月間で計約200人もの若者が、陳氏を支援しようと村に向かっては次々と拘束されたり暴力を受けたりした。「維穏」(安定維持)の名の下で地元政府は、村に突入しようとする暴漢の数を一層拡大させた。

 陳氏は4月22日深夜、北京に向けて自宅の塀を乗り越えた。目は見えず200回以上も転倒したが、研ぎすまされた聴力と気配を頼りに突き進んだ。何さんは陳氏救出の計画・実行者だった。そして27日午後、陳氏は米大使館に保護されたが、何さんは公安当局に拘束された。

「今北京にいます。会えませんか」
何培蓉さんからの連絡

 「こんにちは。今北京にいます。会えませんか」。何さんから突然私に、ネット電話「スカイプ」のチャットに連絡があったのは24日午前9時前だった。

 公安当局から「敏感な人物」とみられる何さんは1~2週間に1回の割合で、秘密警察「国保」(公安局国内安全保衛隊)から事情聴取を受け、動向を監視されている。携帯電話は盗聴されている可能性が高いため連絡の際にはスカイプを多用する。

 この日夜に会う約束をしたが、彼女と連絡が取れなくなった。後で分かったことだが、自宅を脱出した陳氏から急きょ連絡が入ったのだった。自ら山東省に向かい、陳氏を北京に連れて来る最中だった。陳氏から連絡が入ったのは24日深夜。「ごめんなさい。いましがた重要な状況だった。携帯電話を切っていた」

 25日午前11時に会ったが、普段は柔和で落ち着いた表情の何さんの顔はこの時、明らかに強ばっていた。彼女の話は次のような内容だった。

「日本政府に声明を出してほしい」 

 「緊急に重大なことが起こった。今は何が起こったかは言えない。明日、遅くても明後日には発表するので、それまで待ってほしい。今、外交努力が必要です。米国、日本、EU(欧州連合)に支持してほしい。われわれと連携する米民間団体が近く国務省と交渉する。日本政府にも重大な問題が公表された際、即座に外交声明を出してほしい。陳氏や家族の安全や、陳氏を支援するわれわれの安全のためにも日本の支援が必要です」

 私は「陳光誠氏の病状が緊急を要する状態なのか」と尋ねたが、彼女は「それは違う」と否定した。昨年2月に激しい暴力を加えられ、ネットで陳氏の映像が流れたことがあったが、「その時より重大なことだ。あなたが想像するよう深刻な事態です」としか明かさない。

 さらにこう語気を強めた。「われわれの勇気を見てほしい」。しかしあの時点でまさかあれだけ厳しい監視を脱出して北京に来ているなんて思いもしなかった。

「裸足の弁護士」陳光誠の人物像

 陳光誠とは一体何者なのか? 詳しくは拙文「中国政府が恐れる盲目の人権活動家」(文藝春秋、12年1月号)を参照していただきたいが、かいつまんで説明しておこう。

 乳児の頃、高熱を出し、まともな医療もない環境で両目を失明。18歳になってようやく小学校(盲学校)に入学し、その後、南京の大学で漢方医学を学んだものの、マッサージ師になるより、関心を持ったのは法律だった。障害者や農民らの差別問題に関心を抱き、独学で法律を学び、社会的弱者のため訴状を書いたり、法律相談を受けたりして「赤脚(裸足)の弁護士」と呼ばれるようになった。

 陳氏の友人である北京の人権派弁護士は、「正義感が強く、勇敢に公共の利益を守ろうとした。心はぴかぴかに光っており、汚れた所が全くない」と語る。

 05年、地元の強制中絶問題を告発し、彼は一躍注目を集めるようになる。東師古村周辺で陳氏とともに調査した別の人権派弁護士はこう明かす。

 「地元当局者は子供がいる女性を見つけては暴力を使って避妊リングなどを強制した。女性が逃げると、圧力を加えるため夫や両親を捕まえる。さらに親戚や近所の人もどんどん捕まえて拷問を繰り返した」。実に臨沂市の人口の1%強に当たる約13万人が結紮(けっさく)などを強要されたと、陳氏は見ていた。

見えなくとも「すべて分かっている」

 実は、陳氏が村を脱出したのは今回が初めてではない。05年夏、強制中絶問題を訴えるため、夜中に自宅を飛び出し、暴漢の追っ手を振り切り、上海、南京を経て北京に向かった。北京で出迎えた江天勇弁護士と一緒に米国大使館に行ったが、臨沂から追い掛けてきた公安当局者や暴漢ら6人が陳の居場所を突き止め、陳氏を連れ帰ろうとした。

 「山東省から来た人たちが盲人を捕まえようとしている」。江氏が大声で叫ぶと、野次馬が集まってきた。暴漢がためらっている隙に、陳氏が江氏を引っ張って地下鉄の駅に入り、列車に乗り、出発の間際に降りるなどして6人を次々と振り切ってしまった。「陳氏はすべてを分かっている。彼が私を案内してくれた」。江氏は当時を振り返った。

 しかし陳氏は結局、待ち伏せていた臨沂の公安当局者に捕まり、殴打されながら車に無理矢理乗せられ、連れ戻された。それ以降、陳氏への弾圧は強まり、06年3月、ついに自宅から連れ去られ、外部との連絡を絶った。公共財産を損壊し、群衆を組織して交通をかく乱させた、という言われなき罪で同年8月には懲役4年3月の実刑判決を受けるのだ。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1851?page=2から。

続く・・・


重慶の乱まとめ。

2012-05-05 19:33:43 | 中国

http://jp.wsj.com/World/China/node_423603?mod=Right_LatestTopicsから。(ウォールストリートジャーナル)

2月に起きた中国・重慶副市長による米国総領事館駆け込み事件は、同市の薄熙来共産党委員会書記の解任に発展。西南部の主要都市を揺るがしたスキャンダルは、薄氏が中央の政治局常務委員入りを目指していたとされることから、今秋に予定される10年に一度の指導部交代を前にした党内の暗闘が背景にあるとの指摘も出ている。江沢民前国家主席の「上海閥」や現職胡錦濤氏の「共青団」、次期主席と目される習近平副主席らの「太子党」など、派閥争いは中国政治の“恒例行事”だが、薄氏失脚には英国人ビジネスマンの不審死などが絡み、怪異な様相を呈している。

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