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諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

97 視線の先

2020年09月05日 | エッセイ
富士山! 夏 箱根スカイラインから

職員室にもどると、訪問教育の先生たちが集まって何かを覗きこんでいる。
文書の箱を抱えたままの教頭先生も肩越しにそれを見ている。
非常事態?、…でもなさそう。

近づくと、タブレットの動画である。
皆、無言で注目している。
時折、あるタイミングで、
「あー、」とか「おー、」
と言う。
無意識に頷く先生もある。

視線の先の画面には訪問教育の生徒の表情が映っているのだ。

「ちょっと戻してみて」
と一人の先生がいうと、隣の先生は眼鏡に手をやって「その一瞬」に集中している。

そこで何が分かるのか、ここからでは分からないのだが、意図は分かる。
子どもからの発信を見逃すまいとしているのだ。

動画が終わると、緊張が解けたように、
「ふーん」「あ、そうか」
と口々にいう。
教頭先生も何かを納得したように、続きの作業にもどっていく。

後で、聞くと、新しい教材に対して、どこにそれを提示すると彼の視覚として認識できるのか、そしてそれを顔の表情や、全身のおそらくは小さな動きで判断できないかを、見ていたという。


果たして、三日後。
ベッドサイドの左側でPK戦のできる小さなサッカー盤が完成した。
随意に動かせる右手の甲でビー玉を押し出し、彼が見渡せる35センチ先のゴールを狙える。
ゴールキーパーの人形は日本代表カラーの服だ。

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92 Look at the stars.

2020年08月08日 | エッセイ
We are all in the gutter, but some of us are looking at the stars.
(オレ達はみんなドブの中にいる。でもそこから星を眺めている奴らだっているんだ) 
-オスカー・ワイルド-

歴史を見ると、想像を超える困難があり、何とかそれを乗り切ってきた人々がいたことに驚きます。

現在も困難な状況です。終わりが見えないのは不安なものです。
でも、時に星を眺めたいものです。

星もこちらを見ていて、「時期はくる。そういうものだよ」ときっというはずです。

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84 10年ぶりの山

2020年06月13日 | エッセイ
 10年くらい登っていなかった山に再び行くことがある。

 覚えているある一角は植林されたばかりの幼木たちだったはずなのに、今ではそれが床柱ぐらいの太さの木々に育っていたりする。
また、森林を乾燥から守るために路傍に植えられたばかりだったアジサイも、もう植樹されたもののようには見えない生命感で花を咲かせている。
登りつつ同じように成長を遂げた自生の植物にも気がつく。

 10年前の幼木が森林の一部となって”やっている”!。

月曜日、職員室でふっと顔を上げる。
ここにもたくさんの職員の中で一心に仕事をしているかつての幼木がある。


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83 俳優のマクベス

2020年06月07日 | エッセイ
 舞台の脚本というが、事実が下敷きになっているかわからない。

 大戦中のポーランドの小さな田舎街の話だ。 
以前旅回りの売れない俳優をやっていた老人が、それでは食べていけないので役所にやとわれて書記をやっている。
老人は傍らこの街の青年に芝居を教えていた。

 その小さな街に突然ナチの将校が来る。
将校は、学校の先生、医者、ジャーナリスト、それから俳優といった知識人を一つところに集めて処刑するという。
戦時下だ。

 そして、一人ひとり職業を聞いていったら、この人は役場の書記だという。
将校は、それでは知識人ではないと、彼を外そうとすると、
「いや、私は俳優だ」
という。
 しかし、俳優といったって遊びで芝居をしているのだろうと取り合わなかった。
困惑している将校の前で、「俳優」であることを証明するために男は『マクベス』を演じる。
幻の刀が空に刺さっているのを追いかけていくマクベスの場面。
その芝居を青年もじっと見ている。

果たして『マクベス』は好演だった。青年にもそれがわかった。

 そして将校は、言う。
「あなたは俳優である。しかも優れた俳優である。」
「……列に戻ってください。」

隊列は街の外に連れ出されていく。


 男の夢はワルシャワの観衆の前でシェークスピアをやるのが夢だったという場面があるという。
物理的な死よりも、自分自身に対する誇りをこの一人の青年の目を通して証明したかったと解釈するのは加藤周一だ。
近しい一人こそ、観衆一般ということ?。

 以上、加藤周一『私にとっての20世紀』という本を参考にしました。


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67 アキくんの特等席

2020年02月22日 | エッセイ
早朝の三島大社。ここから小田原城下までを「箱根八里」。ほんとに32kmぴったりありました。

  昇降口の縦にならんだ下駄箱の前に小さな椅子がある。
通常、靴を履き替えるために使う。

 赤いラインのスクールバスがそろりと近づいてきて、昇降口前に横づけされ停まる。
前方の扉が開く。もうアキくんが、そこで降りるのを待っている。
 
 右足、左足、最後はジャンプして両足で着地。
着地が決まった体操選手のようにニヤリと笑う。

 先生に手を引かれ、不思議なステップ?を交えて昇降口まで来ると、上履きに履き替える。スムースだ。
訳がある。早く例の椅子に座ってバスを眺めたい。

アキくんはもう特等席にいる。

 子ども達を下したバスが停車場所を開けると、次の色のバスが角度を変えながら入ってくる。
両膝を手のひらで叩いて、次に2~3回拍手。もうバス大歓迎。

 バスが好き。彼はこういう特等席をもっている。
次のバスはまだか、首を伸ばすアキくんの横顔は無心だ。

 そんな様子をこちら側から見ていると、無心であることのが羨ましくも感じる。
子どものころの無心さの中で人は自分の特等席を見つけるのかな?
などとぼんやり考えていると、
「アキくん、そろそろ行くよ」
と担任の先生。

 ずっと特等席にはいられない。そういうものだ。
同級生も上履きに履き替え待っている。ずっとそこにいられない子もある。
その子たちを束ねる担任の先生もこっちを見てる。

 こんな時先生にも「手」がある。
まだバスに未練のある彼に近づき、教室のイラストが描かれたカードを見せ、
「お・わ・り」
と言う。いつも視覚支援。

 すると、特等席をさっと立ち上がり一度大きく手をたたく。
「仕方がない、行くか」
と心の中で言ったかどうか分からない。
 でもその時小さな決意があったことは確かである。
「ずっと座っているわけにはいかないな」
と。

 特等席を離れて現実に向かっていく。
大人になっていくということ?。

 子どもの無心から離れて、折り合いをつけた。
友達と先生と手をつないで、静かに廊下の奥に歩いて行く背中を見送る。頑張ったねぇ。

 思い出して時計を見る。
自分ももうすぐ来客対応だ。その後高等部に応援に入り、報告書2本、会議、打合せもあり今日も退勤は夜だ。
   こっちも「行くか」と思っている。


※「アキくん」は仮名です。

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