夜噺骨董談義

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牡丹に蝶 寺崎廣業・邨田丹陵合作 明治33年(1900年)頃

2019-05-23 00:01:00 | 掛け軸
本日紹介する作品は郷里の画家である寺崎廣業の作品です。

主に邨田丹陵が描いた作品に寺崎廣業が「蝶」を添えていますが、実は邨田丹陵は寺崎廣業の義父にあたります。

牡丹に蝶 寺崎廣業・邨田丹陵合作 明治33年(1900年)頃
水墨絹本軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横540*縦1920 画サイズ:横398*縦1150



寺崎廣業は1888年(明治21年)春23歳の時に上京すると同郷の画家である平福穂庵の門をたたきました。その後4か月でまた放浪の旅に出ますが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたといいます。

足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓しここで描いた美人画で名を挙げました。1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をし、ここで諸派名画を模写し彼の総合的画法の基礎を築いたといわれています。



寺崎廣業は山田敬中、邨田丹陵らと研究会をもちながら苦学しています。明治25年には邨田丹陵の娘「菅子」と結婚して向島三囲神社の前に住んでいます。この直後に火災に遭い、諸派名画を模写した作品らすべてを焼失しましたが、かえってこれからは自分の絵が描けると豪気だったそうです。



義父の邨田丹陵の父である故実家の村田直景邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられ、この「宗山」の印章、号のある作品はこの頃の明治25年以降の作で、この頃に描いた作品を「宗山」時代として時代的に分類しています。



その後の明治30年代の作品からは「二本廣業」の落款のみになり、描いた時期の推察の根拠となります。本作品は義父となった邨田丹陵との関係をあらわす作品で、明治33年頃に描いたのではないかと推測しています。

  

*同図の下記の作品である他の所蔵作品「牡丹に蝶 寺崎廣業筆」もまた同時期に描いた作品と思われます。

牡丹に蝶 寺崎廣業筆 明治33年(1900年)頃
水墨淡彩絹本軸装 帝国美術鑑定局鑑定書添付 合箱
全体サイズ:横410*縦1680 画サイズ:横320*縦850

 

繰り返しになりますが、作品からいろんなことが解明されてくるのもまた蒐集の大きな愉しみのひとつでしょう。

義父にあたる画家「邨田丹陵については下記のとおりです。

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邨田丹陵:(むらた たんりょう)1872年 - 1940年。故実家の村田直景の子として東京に生まれる。歴史画家として有名である。日本美術院・特別賛助員。

作品に「大政奉還の図」(所蔵:聖徳記念絵画館)、「富士巻狩図(ふじのまきかりず)」(所蔵:金刀比羅宮書院)がある。吉沢素山に学び、のち川辺御楯のもとで土佐派を学ぶ。丹陵の弟子には、アメリカで有名になった画家小圃千浦(カリフォルニア大学バークレー校名誉教授・瑞宝章受章者)がいる。小圃千浦の書に師(丹陵)の教えが記述されている一冊の本があり、丹陵の驚くべき描写力を示す土佐派の心と筆の真髄が書きとめられている。



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展示室の廊下に掛けて楽しんでします。



邨田丹陵という今では忘れさ去られた画家の「驚くべき描写力」という適切であると思わせる墨絵の作品です。



牡丹の墨絵は村上崋岳の作品が有名ですが、白く残した牡丹・・・、それにも劣らぬ表現力だと言っても過言ではないでしょう。



このような墨絵の作品を描ける画家はもはや日本にはいないのかもしれません。


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