日本画はもともと墨の世界・・。岩絵の具をごてごてと厚塗りした作品や絵の具をスプレーした作品が横行する現代では、本来の日本画の良さが失われているように思われます。
いろんな欲が入り込みすぎました。物欲、出世欲、名誉欲、・・・そして道徳観の欠如を生みました。
日本の自然も日本人の心も本来は墨の世界であったように思います。そこにいろんなものが入り込みました。道徳観念も本来墨の世界・・、よきことはよし、わるきことは悪しという基本を忘れていまいましたね。
たとえば、電車の中で足を組み、化粧をする女性・・・、腐ったゴミ以上に嫌悪感を覚えます
さて本日は午後からサントリー美術館へ・・、谷文晁の展覧会を開催しているらしいです。
本日の投稿は富田渓仙の作品です。富田渓仙については以前に下記の作品が本ブログに投稿されています。古いカメラでの撮影の頃の作品です。
吉祥天 富田渓仙筆紙本軸装水彩着色絹装古径鑑題二重箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横231*縦560
本日は大津絵を題材とした富田渓仙の作品です。大津絵は本ブログには幾つかの作品が投稿されています。鬼の念仏 富田渓仙筆
絹本金泥水墨淡彩軸先塗 合箱入
全体サイズ:横450*縦1243 画サイズ:横324*縦506
大津絵の「鬼の念仏」を題材とした富田渓仙の作品です。絹に金泥で下地処理し墨を滲ませながら一気に描いた佳作。
多くの画家に描かれた「鬼の念仏」ですが、その中でも傑出している作品といえます。印章は号である「燕巣楼人」からの印と思われます。
制作年代は不明ですが、大正10年頃と推察されます。
「鬼の念仏」とは鬼が法衣を着て、鉦(かね)と撞木(しゅもく)を持った姿を描く。これを室内に張っておくと、子供の夜泣きがなおるという言い伝えがあった。また恐ろしくて残忍な鬼が念仏をとなえることから無慈悲で残酷な心を持った者が、うわべだけ慈悲深そうにふるまうことを意味し、このことを揶揄しているのが大津絵の主題と言われています。
竹内栖鳳して富田渓仙の個性豊かな作品に感嘆し、ぜひ作品を描いて欲しいと言わしめた。
「鬼の念仏」を描いた画家は古今東西、非常に多くいるが本来の「大津絵」に敵う作品はほとんど見られない。大津絵の個性豊かさとその無欲さに負けるのですが、本作品は富田渓仙の個性が大津絵を凌いでいるとさえいえます。
金泥で絹の目を画面にひきだし、墨を滲ませたその画法は力強い。
「何を描いても富田渓仙の作品と分かる」と竹内栖鳳が絶賛したが、それは修練の賜物とまた知っているがゆえの評価であった。
本作品は共箱でもなく、富田渓仙という表示の無いままの購入ですが、印章が号である「燕巣楼人」からの印と推察できれば、富田渓仙と判断できる作品です。
当方では最終判断は後学としますが、真作と現在では判断しています。骨董の蒐集に掘り出し物というものがあります。以前は掘り出し物に夢中になっていましたが、今はいいものをいいと思って買うと掘り出し物になるようです。果して本作品は掘り出し物や如何
富田渓仙:明治12年生まれ、昭和11年に没。享年57歳。福岡市に生まれて、京都に出で、都路華香の門に入って四条派に学び、のちに仙崖禅師に傾倒し、奈良、平安朝の仏画を研究し、富岡鉄斎を訪れ、南画の垂示を受け、南画風の異色ある大作を残す。初め文展に出品、後に院展に転じ美術院同人となる。昭和10年帝国美術院同人に挙げられた。「宇治川図巻」、「雲ヶ畑に鹿」、「御室の桜」「伝書鳩図屏風」等が有名である。
いろんな欲が入り込みすぎました。物欲、出世欲、名誉欲、・・・そして道徳観の欠如を生みました。
日本の自然も日本人の心も本来は墨の世界であったように思います。そこにいろんなものが入り込みました。道徳観念も本来墨の世界・・、よきことはよし、わるきことは悪しという基本を忘れていまいましたね。
たとえば、電車の中で足を組み、化粧をする女性・・・、腐ったゴミ以上に嫌悪感を覚えます
さて本日は午後からサントリー美術館へ・・、谷文晁の展覧会を開催しているらしいです。
本日の投稿は富田渓仙の作品です。富田渓仙については以前に下記の作品が本ブログに投稿されています。古いカメラでの撮影の頃の作品です。
吉祥天 富田渓仙筆紙本軸装水彩着色絹装古径鑑題二重箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横231*縦560
本日は大津絵を題材とした富田渓仙の作品です。大津絵は本ブログには幾つかの作品が投稿されています。鬼の念仏 富田渓仙筆
絹本金泥水墨淡彩軸先塗 合箱入
全体サイズ:横450*縦1243 画サイズ:横324*縦506
大津絵の「鬼の念仏」を題材とした富田渓仙の作品です。絹に金泥で下地処理し墨を滲ませながら一気に描いた佳作。
多くの画家に描かれた「鬼の念仏」ですが、その中でも傑出している作品といえます。印章は号である「燕巣楼人」からの印と思われます。
制作年代は不明ですが、大正10年頃と推察されます。
「鬼の念仏」とは鬼が法衣を着て、鉦(かね)と撞木(しゅもく)を持った姿を描く。これを室内に張っておくと、子供の夜泣きがなおるという言い伝えがあった。また恐ろしくて残忍な鬼が念仏をとなえることから無慈悲で残酷な心を持った者が、うわべだけ慈悲深そうにふるまうことを意味し、このことを揶揄しているのが大津絵の主題と言われています。
竹内栖鳳して富田渓仙の個性豊かな作品に感嘆し、ぜひ作品を描いて欲しいと言わしめた。
「鬼の念仏」を描いた画家は古今東西、非常に多くいるが本来の「大津絵」に敵う作品はほとんど見られない。大津絵の個性豊かさとその無欲さに負けるのですが、本作品は富田渓仙の個性が大津絵を凌いでいるとさえいえます。
金泥で絹の目を画面にひきだし、墨を滲ませたその画法は力強い。
「何を描いても富田渓仙の作品と分かる」と竹内栖鳳が絶賛したが、それは修練の賜物とまた知っているがゆえの評価であった。
本作品は共箱でもなく、富田渓仙という表示の無いままの購入ですが、印章が号である「燕巣楼人」からの印と推察できれば、富田渓仙と判断できる作品です。
当方では最終判断は後学としますが、真作と現在では判断しています。骨董の蒐集に掘り出し物というものがあります。以前は掘り出し物に夢中になっていましたが、今はいいものをいいと思って買うと掘り出し物になるようです。果して本作品は掘り出し物や如何
富田渓仙:明治12年生まれ、昭和11年に没。享年57歳。福岡市に生まれて、京都に出で、都路華香の門に入って四条派に学び、のちに仙崖禅師に傾倒し、奈良、平安朝の仏画を研究し、富岡鉄斎を訪れ、南画の垂示を受け、南画風の異色ある大作を残す。初め文展に出品、後に院展に転じ美術院同人となる。昭和10年帝国美術院同人に挙げられた。「宇治川図巻」、「雲ヶ畑に鹿」、「御室の桜」「伝書鳩図屏風」等が有名である。