
このブログの終了を目前にして、慌てて作品を整理しながら投稿していますが、本日から帰郷しますのでしばし休稿とさせていだきます。
*下記の写真は石黒宗麿の花入にクマガイソウ・・。

さらには恩地孝四郎の版画と古伊万里の大徳利に牡丹・・。

牡丹は枯れると醜いものと感じますが、これは咲いている時がきれいだからでしょうかね。

さて本日の作品紹介です。
当方の蒐集対象の寺崎廣業と双璧とされた竹内栖鳳ですが、そのまだ若い頃に描いたと思われる作品を入手しましたので投稿いたします。若い頃の活動時期は寺崎廣業とラップしますが、寺崎廣業は若くして亡くなっています。

43歳の頃の作 寒山拾得図 双福 竹内栖鳳筆 明治40年 その15
明治40年9月証書在中 絹本水墨淡彩絹装軸 軸先象牙 共箱(明治41年春)
全体サイズ:横570*縦1970 画サイズ:横420*縦1100

竹内栖鳳は1887年(明治20年)、23歳の時に結婚し、これを機に絵師として独立します。同年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了し、1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげてゆきます。新古美術会や日本絵画協会などに出品しており、 1891年(明治24年)、山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興しています。1893年(明治26年)、シカゴ万博に出品し、1899年(明治32年)、京都市立美術工芸学校の教諭に推挙された。
1900年(明治33年)、8月1日神戸を出帆、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、視察をきっかけとして7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けました。1901年2月25日帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めています。
1907年(明治40年)、文展開設とともに審査員となり、以後1918年(大正7年)まで歴任していますが、本作品を描いたのは同封されている証書(領収書)から明治40年(丁未)9月と推定され、その後に共箱を誂えて、明治41年(戊申)初春と共箱に記したと思われます。
この後に帝展(現日展)審査員にもなり、1913年(大正2年)12月18日に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立します。


寒山拾得(かんざんじっとく)は、中国、唐の時代に、天台山国清寺(浙江省)に住みついて、雑事をしていたという、伝説的な2人の人物ですが、さてどちらがどちらかというと、「寒山が経巻を開き」、「拾得がほうきをもつ」というのが画ではされています。本作品では左幅が寒山で、右幅が拾得ということになりますね。

二人とも奇行が多く、詩人としても有名とされていますが、その実在すら疑われる点もあります。拾得は天台山国清の食事係をしていたが、近くの寒巌に隠れ住み乞食こじきのような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったとされています。また、この二人は「寒山は文殊菩薩の権化」、「拾得は普賢菩薩の化身」とも言われ、画題としてもよく用いられます。

中国、唐代の禅僧とされ、 従来は唐代初期の人とされていましたが、最近の研究では、二人とも実在の人物であるとして考えた場合、8世紀ごろ(盛唐から中唐の時期)に生きていたのであろうとされています。ただし確実な伝記はいまだ不明のようです

寒山拾得の事績は、天台山の木石に書き散らした彼らの詩を集めたとされる「寒山詩集」に付せられた伝説に発するものです。 俗世を捨て隠れ住む寒山拾得の姿に、宋代以降の禅僧たちは憧れたようです。寒山・拾得が禅画の画題として描かれるようになったのは、この宋代以降のことです。禅僧や、文人たちによって描かれたことが始まりとされています。なお、寒山拾得画は、日本でも鑑賞絵画として作られています。
寒山の詩によると、同人は農家の生まれであったが本ばかり読んでいて、妻や村人に疎まれていたようです。そのため家を飛び出し、放浪の末、天台山に隠棲することになり、亡くなるまでに、300余りの詩を残したといわれています。

寺崎廣業もまた寒山拾得図を描いています。本ブログにて3作品を紹介しており、そのうち2作品が双福仕立てとなっています。
表具は当時のままのようですが、かなり上等な表具となっています。寺崎廣業と竹内栖鳳をこのように比較鑑賞してみるのもコレクターとして味わい方でしょうか?

箱書は下記写真のとおりです。


証書にある当時の100円は、現在の50万~100万くらいに相当します。証書に押印されているのは(「竹内棲鳳」の朱文白長方印)で、作品中には「西鳳」の朱文白方印が押印されています。また共箱には「竹内高幹」の朱文白方印で、これらの印章はすべて資料の真印と一致します。

作品中の落款と印章は下記のとおりです。


印章の資料には下記のように記されています。

作品中の印章は、上記に記されている④の印章です。この作品が描かれたのは明治40年ですので、辻褄はあっていますね。下記資料は明治42年の作品にある落款と印章の資料です。


共箱や領収書にある印章の資料は下記のとおりです。


数多くある竹内栖鳳の印章の資料は体系的に整理されていますので、資料としては必須ですね。この資料にない印章が押印されている作品は真作ではないと判断できます。竹内栖鳳もまた贋作が多いので要注意の画家のひとりです。
とはいえ真贋にこだわらず作品整理を目的に本ブログに投稿しており、真贋の意見などは当方には馬耳東風・・・。