大佐和キリスト教会

千葉県富津市・大佐和キリスト教会ブログ
当教会は正統なプロテスタント教会です

8月の主日礼拝&お知らせ

2006-07-31 23:23:59 | 今月の礼拝予定&お知らせ
◆2006年8月 主日礼拝予定◆

8月6日 PM15:30~PM17:00 メッセージ:宮崎健男 牧師

8月13日 AM11:00~PM12:15 ビデオメッセージ:田中政雄 牧師

8月20日 PM15:00~PM17:00 メッセージ:宮崎健男 牧師

8月27日 AM11:00~PM12:15 ビデオメッセージ:有賀喜一 牧師

※教会学校 毎週日曜 AM9:00~AM9:45
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礼拝メッセージ 『命の権利』 (2006・7・23)

2006-07-31 23:11:21 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎一実 伝道師
聖書箇所:創世記 1章26~27節、2章5節~8節

私たちは両親から命を得て、この世を生きているとの意識を持っている。
しかし、聖書の創世記を読むと、神が天地を創られ多くの植物と動物を創られたとある。しかも人間は神様の大切なパートナーとして創られた。
だから他の動物に勝っている。私たちは、親を選んで生まれてきたわけではない。
自分の所有者は、自分であり自分で命を自由にできると思いがちになる。
なんとなく生まれてきて、なんとなく死ぬという意識を持ってしまう。
つい先日友達になった人がいる。テスト受験で横浜に出てきていたので、
激励のメールを送ったところ、突然友人を亡くし田舎に帰らなければならなくなった
という返事が来た。自殺だという。どんなに楽しく見える人、金持ちの人、
幸せそうな人でも、一度や二度死んでしまいたいと思うことがあるはずである。
私も死んでしまいたいと思ったことがある。しかし命を自分で絶とうとしないのは、
私たちの命は私たちだけのものではないからである。
神様が私たちをご自分に似せて創られた。そして両親、兄弟、友人など
素晴らしい環境を整えてくださった。私たちの命の権威は神様が持っておられる。
自分が亡くなったら、周りの人々がどんなに悲しまれるかと思い巡らせることが大切。
一人ではない、神様がおられる、私たち人間は神に似せて創られるほどに、
神様に愛された。私という人間は、人間の歴史の中で、二度と生まれては
来ない存在である。たとえ自分に自信を失ってもこの事実を思い出して欲しい。
神様に似せて創られたほどに、神は人を愛された。
私たちは自分という人間に絶望してはならない。周りと比べるのではない。
ナンバー1(一番)になる必要は無い。オンリー1(ただ一人)を輝かすこと。
自分自身に自信をもって。どうしようもない時は、神様に頼ってください。
先に必ずよいことが待っていることを信ずること。
夜明け前が一番暗いことを知ってください。
(文責:三浦)
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礼拝メッセージ 『主イェス・キリストの御名の権威!!』 (2006・7・16)

2006-07-31 22:58:59 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎 一実 伝道師
説教箇所:新約聖書 使徒の働き 3章1節~10節

1.美しいの門で・・
「美しの門」にという宮の門に座って、足が生まれつききかず歩けない男が、
宮に参る人々に物乞いをしていた。ペテロとヨハネは、物乞いされて男に言われた。
ペテロはヨハネとともに「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう。
ナザレのイェス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、
彼の右手を取って立たせた。彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって真っ直ぐに立ち、歩き出した。

2.主の御名の権威
ペテロとヨハネは、特別なことをして助けたのではない。おまじないをしたわけでも、
足を伸ばしたり縮めたりしたわけでもない。ナザレのイェス・キリストの御名によって
祈っただけ。この御名の権威。現在の私たちには与えられていないわけではない。
それは、毎日毎日起こされている奇跡から、知ることができえる。

3.奇跡
私は、ベニー・ヒン師のテレビ伝道の番組を見たとき、ヒン師から驚く証しを聞いた。
顔に奇形があり、お母さんが家にこもって面倒をみていた。
そのお母さんは、ベニー・ヒン師のテープをもらった。それは1~2年前の
伝道集会の番組を収録したものだった。
その中で、集会の最後に神に聞いてもらいたいと思う人は私とともに祈りましょう、
呼びかけていられた。子どもに対する愛に溢れていたこの母親は、
ベニー・ヒン先生の言葉について祈った。その瞬間非常に驚くことが起きた。
手の中にあった赤ちゃんの顔の筋肉が動き始めた。何かがとりついたもののように
動き出して恐れを感じた。ピタッと止まった途端、正常な顔に戻った。
赤ちゃんの奇形している顔がいっぺんに治った。神様の奇跡が起きた。
神様の働きは時間や空間を超越している。そしてイェス様の御名の権威を証明した。
イェス・キリストの御名の権威を使うなら奇跡が起こる。
大きい問題でも、小さい問題でも。私たちのために、神様がすばらしいことを
してくださる。先日私は会社でトラブルがあった。お客様と至急連絡をとる
必要があった。でもお客様と電話で連絡をとれない。
次の瞬間お祈りをした。「確実に神様、祈りを聞いてください。
5時までに聞いてください」と祈った。すると、神様はそれより前に、
解決を用意してくださった。

4.主を証し、福音を伝えるということ。
美しの門で起こった奇跡は、私たちの生活の中でますます起きるようになる。
しかし、私たちに、奇跡が起きてしまった、で終わってはいけない。
美しの門の奇跡もその後が非常に重要である。歩けないはずの男が、
神を賛美しながら歩いている。この男になにがあったのかと、
多くの人々が集まってきた。そこでペテロは、集まってきた人々に対して言われた。
「何故私たちが自分の力とかで直したと見るのか、・・・
これは、イエス・キリストの御名を信ずる信仰が、彼を強くし、
彼の身体を完全なものにしたのです。」
一番重要なのは、祈りを聞いてくださった方はどのようなお方で、
どういうことをなさり、どうして聞いてくださったのか、を語ること。
イェス様を証し、悔い改めを求め、救いを得させることが大切である。

在原繁宣教師が、アルゼンチンで、日本からきた女性に出会った。
彼女は、ジャングルに置き去りにした身内の者を非常に恨んでいた。
がんにかかり、医者にみてもらい、魔術師にも祈ってもらった。
在原先生は、彼女を見たとき驚かれた。彼女にのしかかる、呪いのや憎しみの
思いがひどいことを。でも、主が、在原先生にこの女性を癒すといわれた。
彼女から恨みの思いを捨てさせたいと思ったが、それも不可能に感じられた。
イェス・キリストの御名によって祈っても、恨みごとを止められなかった。
在原先生は、あなたにがんをもたらしたのは、その憎しみだといった。
彼女は断腸の思いで、恨みを悔い改めた。すると、瞬間的に癒されたのが分かった。
そして、口の中から黒い物がパーンと出た。

5.まとめ
多くの国でリバイバルが起きている。アメリカのフロリダ州でも起きている。
それは、ある少女の悔い改めの祈りがきっかけだったという。
御名の権威によって祈る。恨みを持って祈るのではない。
恨みを悔い改めて祈らなければならない。そして周りの人々に、主を証し、
悔い改めと福音に導くようにしていく。御名によって祈る。
どこでも、いつでも。私たちに与えられた、主の御名の権威を、
十二分に用いてください。主がともにいる体験をしてください。
(文責:三浦)
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礼拝メッセージ 『愛が必要な時代』 (2006・7・9)

2006-07-17 20:33:16 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎一実伝道師 
説教箇所:新約聖書Ⅰヨハネの手紙 4章7節~21節

1・愛の出発点
自分に与えられている賜物を知り、神様から自分の人生に与えられているテーマを考えることがあると思う。ある人は自分の人生は試練の連続と思え、テーマを「試練と神の憐れみ」とつけるかもしれない。そういう人は、同じ試練に遭っている人に、ケアをすることができる。私は、まもなく人生の半分にさしかかろうかと思うとき、私のテーマは、「愛」なのかと考える。人一倍愛されていると思えるからである。
自分の名前「一実」は、宣教師の先生によって、ガラテヤ5章に記されている御霊の実から付けられている。「First Fruit」= 第一の実=愛である。
私は神にも人にも愛を受けて生かされている。だからこの愛を流していかなければ
いけないと思う。愛が分からねば神様は分からない。
なぜなら神は愛であるから。

2・愛の本質
愛は、犠牲の上に成り立っている。それだけに大きいもの。
神が愛であり、愛が神であるから、生命を捨てるまでの大きな愛の本質を持っている。
だから互いに愛し合いましょう。愛し合うことは、難しい。
心の底から愛している人でも、ちょっとしたきっかけで、死ぬほど憎くなる。

3・神と愛
「互いに愛し合いなさい」は、神様からのご命令。
私たちに神の愛が与えられているなら、私たちが互いに愛し合うことは完璧にできる。
神の愛は制限も限度も無いから、神の愛が流れている、それを持って愛するなら
欠けることなく愛することができる。

4・愛のもたらすもの
神は私たちを愛するがゆえに、御霊を与えてくださる。
御霊が内住することで神様がおられることを知ることができる。
イェス様を信じ、イェス様が神の御子であることを口で告白するなら救われる。
私たちは溢れる愛に決して無関心であってはいけない。
当たり前に愛されることを無意識になりがち。
お母さんお父さんに愛されているにもかかわらず、
子どもが、親を殺し、逆に親が子どもを殺す事件が起こっている。
自分が愛されていることをちゃんと意識しなさい。
神様の愛が注がれていることを自覚しなければならない。

5・キリストの命令=愛し合う
(1)神を愛すること
(2)自分を愛する如く、隣人を愛すること。

本当に心のそこから互いに愛し合うことこそ、神の愛を全うすること。
神の愛を得るならば、互いに愛し合うことができる。
愛は恐れを消し去る。たとえ何かあって、死ぬことがあっても、
永遠の命が与えられているのならば、死の恐れすらなくなる。
イェス様は、私たちに愛し合うことを、教えられた。
イェス様がまず愛してくださった。イェス様の愛は、
愛してくれる人だけ愛するのではなく、全ての人を愛された。     

まとめ
そこにいるだけで、愛が溢れるようなクリスチャンでなければ、世の中は良くならない。愛を流していくならば、必ず世の中は変わっていくはず。
第一は、神に愛され人に愛されているという自覚を持つことである。
第二は、どれほど自分が大切であるかを知り、愛を行うことである。
(文責:三浦)
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礼拝メッセージ 『 講解説教マルコ伝 第2回目 ~最初の説教~ 』 (2006・7・2)

2006-07-17 18:28:44 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎健男牧師
説教箇所:マルコの福音書1章14節~22節

マルコの福音書の講解説教を機会があるときに戦前・戦後行っていた
矢内原忠雄師の聖書説教をもとにして行ってゆきたい。
意見があったら、何でも言ってください。

1・公生涯への献身

イェス様は、洗礼を受けられた後、天の神様から召命をいただいた。
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」との御声があった。
そして聖霊が鳩の如く下ってイェス様に入られた。
神の召命を受けられ、荒野に追いやられ悪魔の誘惑を受けた。
イェス様は、神の召命を信仰をもって受け入れて、悪魔の誘惑を退けられた。
私たちも、悪魔の誘惑を強く退けて、神の召命を素直に受け入れるべきである。
公生涯に入られたのは、罪の悔い改めを求めバプテスマを授けていたヨハネが、
捕らえられてからで、伝道の第一線に立たれた。

2・「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とイェス様は
述べられた。

イザヤ書やマラキ書にある救い主到来の預言が今まさに実現することを述べておられる。「神の国」というのは、当時のユダヤ人から見れば、ローマ帝国の支配から解放されて、ダビデ王国が復活することを意味していた。そしてそれが、手の届く所に近づいたと受け止められた。しかしイェス様が述べられる「神の国」というのは、神様の支配している国のことを指している。そして、反省して向きを変えて自分中心から神様中心になり、神様に頼って従っていこうという180度の方向転換を促しておられた。本当の悔い改めと、どっかりと福音に信頼してつかりなさいと促された。バプテスマのヨハネは、悔い改めとバプテスマを求めたが、イェス様は、福音を信じなさいといわれた。父ザカリヤ、母エリサベツとも祭祀の家系であったヨハネだが、彼自身が、イェス様と比べ自分は「靴のひもを解く値打ちすらない」と言っていたように、同じ神様から遣わされながら、人間と神様の違いがあった。イェス様の説く福音は、神様の子どもとして生まれるという、本当の救いが約束されていた。

3・弟子たちを招いた目的

イェス様は、シモンとアンデレを弟子として召された。またヤコブとヨハネも弟子として召された。イェス様は、神様であっても、人として疲れやすく人間の弱さをつぶさに理解されていた。イェス様は、人間の様々な苦しみも悲しみもなめられた。イェス様は人の悲しみや病のつらさもご存知であった。弟子たちによりイェス様はどれだけ励まされたか。弟子たちに、信仰の友としてだけではなく、心の友として助けられた。いつも御側にいてもらいたいという存在であった。私たちも、イェス様にとり、役に立つ存在とされるのである。彼らは弟子として、全てをそこに残して、イェス様についてゆかれた。

4・イェス様とパリサイ人たちとの教え方の違い。(権威ある者の如く)

イェス様は、パリサイ人や律法学者のようでなく権威ある者のように教えられた。
ただちに救いの処置をとろうとされた。救いを論じる人として来られたのではなく、救いを実行されるために来られた。パリサイ人や律法学者は、当時のユダヤ人社会にあって、細かい規則をたくさん作り人々を規則づくめにしていた。日本が戦前軍国主義の時代にあったとき、キリスト教は、現実から逃避した浮世離れの教えだと思われた。「現実から離れた雲の上の世界を説いている。社会の現実は醜く行き詰っている」と言われた。

しかし、イェス様の「神の国は近づいた」という御言葉は現実的ではないか。イェス様を信じないから現実的でないと思う。神様が人となって来られたのだから、神の国が実現しつつあることを示している。しかし人々は、イェス様のおっしゃることを拒み、信ずることを拒み、イェス様を十字架に架けた。

現実的には、救いの道はこれほどのものはない。いろんな問題はすべて神様が解決してくださる。イェス様は、十字架上で全てを捧げられた。そして蘇ってくださった。イェス様を信じさえすれば、どんな時代であっても、救いに預かっていかれる。軍事・政治・経済的に、安全に守られようとしても、思い通りにならないが、神に頼って、神のご計画に従ってゆく。自分の救いついて信じなさいと、イェス様は、権威をもって人々に迫られた。私たちは、確信を神様よりいただいて、素直に福音を信じて、イェス様に信頼して参りましょう。神の国は、家庭、地域、職場等で実現されてくる。クリスチャンたちが、御国のために祈って参りましょう。
(文責:三浦)
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