説教者:サムエル・アウティオ宣教師
聖書箇所:マルコの福音書8章34~38節
私は52歳です。小さい時からイエス様を信じていた。教育はフィンランドで受けた。高校の時に父と同じ仕事(宣教師)をしようと思った。それまでは絶対嫌だと思っていた。国立大学で経済を学んだ後、神学校に行った。妻の父はフィンランドの教会の長老の一人。家内と会ったのは10歳ころだった。遊んでいる時、彼女と結婚すると思った。10年後結婚をし、私たちは献身をし、按手を受けた。妻は生まれてまもなく献児式で「この赤ちゃんは宣教師になる」と預言を受けていた。私たちは子供が3人いる。2人自立して孫が2人いる。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(マルコ8:34)私はこの御言葉をふるえながら聞いた。世の中は全て反対のことを主張する。自分の人生は自分が決める。確かに自分で自分の進路を決めることは悪くない。しかし自分を中心にすると聖書の教えと異なってくる。自分勝手な自分中心の生き方から、キリスト中心の生き方に変えなければならない。自分中心の勝手な生き方は、むさぼり、うそ、悪、ねたみ、憎しみ、恨みの感情に左右されるようになる。教会の中でも現れる。幸せでしょうか?イエス様を中心にする生き方は、神の霊が、心に宿り、体と精神、知恵と脳を支配される。愛と喜びの生活に変わる。イエス様の力に囲まれた生活。人の罪を清めるものはイエス様の血潮。人を許すのは決断。あの人を許しますと理性で許す。感情は後からついてくる。十字架を負うことと重荷を下ろすことはイエス様の主張。それは試練を減らそうといことではない。クリスチャンとしてキリストの死と復活にあずかること。古き自分がイエス様とともに十字架につけられ、イエス様中心の新しい人生を歩むこと。キリストとともに栄光、名誉、誉れを受け、また隣人や教会のために苦しみ悩む特権も与えられている。キリストを信じない人がキリストと出会う接点は私たちである。私たちは苦しみと試練を通して隣人の悩みが理解でき、同情心を持つことができる。使徒パウロには肉体的なとげが与えられていた。私には自閉症の子が一人いる。あなたの今の悩み、十字架は決して楽ではない。しかしそれはあなたの体験を通して人々をイエス様に導くためのもの。試練も悩みも恥とは思わず、霊的勲章と思ってください。
聖書箇所:マルコの福音書8章34~38節
私は52歳です。小さい時からイエス様を信じていた。教育はフィンランドで受けた。高校の時に父と同じ仕事(宣教師)をしようと思った。それまでは絶対嫌だと思っていた。国立大学で経済を学んだ後、神学校に行った。妻の父はフィンランドの教会の長老の一人。家内と会ったのは10歳ころだった。遊んでいる時、彼女と結婚すると思った。10年後結婚をし、私たちは献身をし、按手を受けた。妻は生まれてまもなく献児式で「この赤ちゃんは宣教師になる」と預言を受けていた。私たちは子供が3人いる。2人自立して孫が2人いる。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(マルコ8:34)私はこの御言葉をふるえながら聞いた。世の中は全て反対のことを主張する。自分の人生は自分が決める。確かに自分で自分の進路を決めることは悪くない。しかし自分を中心にすると聖書の教えと異なってくる。自分勝手な自分中心の生き方から、キリスト中心の生き方に変えなければならない。自分中心の勝手な生き方は、むさぼり、うそ、悪、ねたみ、憎しみ、恨みの感情に左右されるようになる。教会の中でも現れる。幸せでしょうか?イエス様を中心にする生き方は、神の霊が、心に宿り、体と精神、知恵と脳を支配される。愛と喜びの生活に変わる。イエス様の力に囲まれた生活。人の罪を清めるものはイエス様の血潮。人を許すのは決断。あの人を許しますと理性で許す。感情は後からついてくる。十字架を負うことと重荷を下ろすことはイエス様の主張。それは試練を減らそうといことではない。クリスチャンとしてキリストの死と復活にあずかること。古き自分がイエス様とともに十字架につけられ、イエス様中心の新しい人生を歩むこと。キリストとともに栄光、名誉、誉れを受け、また隣人や教会のために苦しみ悩む特権も与えられている。キリストを信じない人がキリストと出会う接点は私たちである。私たちは苦しみと試練を通して隣人の悩みが理解でき、同情心を持つことができる。使徒パウロには肉体的なとげが与えられていた。私には自閉症の子が一人いる。あなたの今の悩み、十字架は決して楽ではない。しかしそれはあなたの体験を通して人々をイエス様に導くためのもの。試練も悩みも恥とは思わず、霊的勲章と思ってください。