大佐和キリスト教会

千葉県富津市・大佐和キリスト教会ブログ
当教会は正統なプロテスタント教会です

礼拝メッセージ 『しあわせの法則』 (2005・11・20)

2005-11-30 11:19:04 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎 一実 伝道師
説教箇所: 旧約聖書 伝道者の書 3章13節・18章~28節

幸せになりたいという本能は、幼児や小さい子ども、そして大人でも持っている。
伝道者の書の著者ソロモンは、知恵と知識に優れ、巨万の富の持ち主の王であった。
女性は1千人もいた。そのソロモンが全ては空の空だと言った。
1.幸せの基準とは何か。
経済面、健康、人間関係、名声などそれぞれ人によって幸せの基準が違うが、
一番共通して言えることは、自分が満足すること。
ではどうしたら、自分が満足する幸せを得られるのか。
2.幸せは与えられる物ではなく、見出す物。
この世の人は、幸せは見つける物でなく与えられるものと考える。
クリスチャンの幸せの概念は、普通だと幸せと感じないことであっても、
神様がおられることで肯定的に受け取り、幸せと感ずる。
例えば訓練として、恵みとして、救いとして受け取り幸せを感ずる。
3.本当の幸せは、自分たちの生活の中に、神様が蒔かれた幸せの種が
芽ぶいているのを、しっかり見つけ出し刈り取ることである。
日常生活の何気ないことで、幸せの種が育っていることを見出せるか否かが、
その人の幸せになれるか否かの分かれ道である。
例えば健康でいられること、働いていられることに幸せを感じられるか。
4.幸せを保つには、どうしたらよいか。
人間の心、感情は変わり行く。それに左右されて幸せをつかんでいることが
できない。しかしクリスチャンは信仰が与えられて、
神様が助けて下さる。幸せの感覚を続けることができる。
幸せを見出せない時も、神様がきっと良くして下さる、
その信仰の力により私たちは幸せを保ってゆける。
5.ますます幸せを探していくには、開かれた眼と満足する心を持たないといけない。
開かれた眼がないと、何気ないところから幸せを見出せないし、
もっともっという心は満足できずに幸せにしない。
蒔かれた幸せの種の芽をしっかり刈り取って行って下さい。
(文責:三浦)
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礼拝メッセージ 『終末の一番星~ノアの信仰に学ぶ~』 (2005・11・13)

2005-11-21 09:15:24 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎健男 牧師
説教箇所:新約聖書ルカの福音書17章26~30節・創世記6章5~12節

人の子が来る時は、ノアの洪水の時と同じだと主は言われた。
人の子が来るとは再臨のことである。ノアが箱舟に入るまでは、
人々はめとったりとついだり飲んだり食べたりしていた。
ノアはやがて洪水を起こそうとされていることを神様より聞き、
御言葉通り箱舟を家族と一生懸命働き造った。
またロトの時代にあったこととも同様だと主は言われた。
人々は食べたり飲んだり売ったり買ったり植えたり建てたりしていた。
ロトは神の御使いより間もなく町を滅ぼすことを聞かされた。
今の時代もグルメと言われる豪華な食生活を送り快楽な生活が人生の目的になっている。先日テレビで今の若者を特集していた。
歌舞伎町で遊ぶ若者が現れ、性的に道徳的に堕落して目は毒々しく
ラインを塗り一見するとソドムの人々のような容貌だった。
本当の救いがどんなに必要かを感じた。
私たちは、先祖伝来の空虚な生活よりあがない出され心の目を開かれ罪を
赦され神様を知った。いつかやがて起こる再臨と神様の裁きが一日一日近づいている
こと感じるようになる。ノアが箱舟に入ると洪水が起こり、
ロトが町を出ると火と硫黄が降って町が滅んだ。
今の時代にあって神様はクリスチャン一人一人を通して、
世の人々の救いのためどんなに働こうとされているか。
そして能力を授けて下さっておられる。私たちはノアから学ぶべきである。
1.ノアは心を全部神様に向け、この世に流されなかった。
2.ノアは信仰の人であった。海もない山岳地帯に神様のみ声によって
排水量1万5千トンの巨大な箱舟を造った信仰は偉大である。
私たちもまず自分自身が箱舟に入り救い主を信じ信仰を守り通すように。
聖霊様により一歩一歩前進していきましょう。
(文責:三浦)
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礼拝メッセージ 『最後の賜物(?)は愛』 (2005・11・6)

2005-11-21 09:10:13 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎一実 伝道師
説教箇所:新約聖書Ⅰコリント13章13節・マタイの福音書24章12節

終わりの世を象徴するような非常に恐ろしい事件が起こっている。
1.現在は終わりの世にあって人々の愛が冷えてしまっている。
自分への愛や家族への愛は強くなっている。自分は大好きだが、
人を省みず人の立場に立って考えることができない。自分さえよければ、
という考えが悲惨な世界の現実を生み出している。
2.クリスチャンや教会に来る人に、神様はいろいろな賜物を与えて下さっておられる。
話をする賜物、歌う賜物、絵を描く賜物…各人に与えられた賜物がある。
人の賜物を見るとうらやましく感ずるが、神様から見ると賜物に大小優劣はない。
3.与えられた賜物は活かしていかねばならない。宝の持ち腐れであってはいけない。
祈りの賜物、奉仕の賜物…。愛―それもある意味で賜物。
憎まれても意地悪されても許してつきあっていく。それは愛の賜物を使える人と言える。私は十年前にKBIの神学校で学ぶ頃から、著名な伝道者に直接お会いする特権に
預かることが何度もあった。その度ごとに、先生方が言われるには
「あなたに注がれている愛について学びなさい」ということだった。
あなたが生まれる前からどれだけの人があなたを愛し、
思ってきたかを知りなさいということである。
十年が経ち分かってきた。私に、賜物として愛が与えられているのではないか。
自分に注がれてきた愛を人々に注ぎ返して行くという賜物。
愛される側にも責任がある。愛されることをしっかり自覚し認識すべきである。
当たり前と思ってはいけない。また神様の無限の愛も自覚し認識しなければならない。
そしてそれらの愛を流していかなければならない。
愛の賜物を終わりの世にあってクリスチャンの誰もが、用いていきましょう。
(文責:三浦)
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11月の主日礼拝&お知らせ

2005-11-07 07:25:08 | 今月の礼拝予定&お知らせ
◆2005年11月 主日礼拝予定◆

11月6日  AM10:30~PM12:00 メッセージ:宮崎一実 伝道師

11月13日 AM10:30~PM12:00 メッセージ:宮崎健男 牧師

11月20日 AM10:30~PM12:00 メッセージ:宮崎一実 伝道師

11月27日 AM10:30~PM12:00 ビデオメッセージ:李康憲 牧師

※教会学校 毎週日曜 AM9:00~AM9:45
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礼拝メッセージ 『ただイェスのみ』 (2005・10・30)

2005-11-07 07:19:31 | 今週のメッセージ
説教者:李 康憲 牧師
説教箇所:新約聖書 マタイの福音書17章 1節~8節
(1994年10月23日 東京中央教会)

「ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、
決して死を味わわない人々がいます」とイェス様が言われてから、
6日後に高い山に登られた。イェス様はペテロとヨハネとヤコブだけを連れて行かれた。
ペテロは第一の弟子となり、ヤコブは最初の殉教者となった。
ヨハネは最後まで生き延びて、聖書の結論とも言える黙示録を書いた。
イェス様はこの3人を特別に訓練された。その山で驚くべき光景が現れた。
イェス様のみ姿が光り輝き、モーセとエリヤが現れ3人で話し合っておられる
光景だった。ペテロはそれを目撃して思わず口出しした。「
ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、
エリヤのために一つ。」と。
しかし聖書が教えたいのは、イェス様が来られたのは律法も意味があり預言者も意味
があったが、それらを完成させ成就させるためであったからもはやイェス様だけに
依らなければならないはずだったということ。
ところがイェス様だけと言いながら、律法(モーセ)も必要、預言(エリヤ)も
必要だと言って、イェス様中心にならなくなっている信者がいる。
信者の生活全てがイェス様にならなければならない。イェス様が来られたからこそ、
モーセもエリヤも意味がある。私たち生きること全ての中心にイェス様が
来られなければならない。私たちはイェス様のみで充分永遠の命を持つことができる。
ペテロたちはそこで神の御声を聞いた。
「これは、私の愛する子~彼の言うことを聞きなさい。」
彼らが見上げると、イェス様お一人しかいなくなっていた。
見ることもイェス様だけ、生きることもイェス様だけ、聞くこともイェス様だけの
信仰生活を送りましょう。
(文責:三浦)
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礼拝メッセージ 『知恵と知識が司る人生』 (2005・10・23)

2005-11-04 04:58:08 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎 一実 伝道師
説教箇所:旧約聖書 箴言 3篇13節~26節

「学歴社会」と言われるが、学歴を取っても思いの仕事につけず、
親と同居し依存する「ニート」と呼ばれる人たちが現在、話題になっている。
一方子供たちは毎日学校から帰って、塾に通っている。
知識と知恵は私たちの人生にどうしても必要であるが、聖書はどう言っているだろうか?

1・「主を恐れることが、知識の始め」だと言っている。
「恐れる」というのは、認めて信じるということである。
主を信ずることが全ての源である。
2・社会にあって知恵の基準は、学歴や博学に置くことが多いが、
キリスト教にあって知恵の基準は神様である。
3・真の知識・知恵はどのようなものか?それは主にあって正しいものを
見分ける力である。たとえ学歴や知識があっても、主にあって正しいものを
見分ける力がなければ、よく生きることができない。
この世の中にあってたくさんの選択肢があるが、
本当に大切・重要なものを見極めることは難しい。
人間の力では判断できなくても、神様の知恵を授かることによって
見極める力を与えられる。
4・人の知識・知恵と神様の知識・知恵との違いは、限界のあるものと
限界のないもの。人間の知恵・知識の宝庫である「科学」も、
実は神様が創られたこの世界を、人間が理解するため道理に基づいて
探求し解明したものにすぎない。この世界を人間の力で完全に解明するのは
不可能である。また神様の知恵・知識は永遠のものだが、
学歴や博学はそんなことは気にしていない。
5・真の知恵・知識に司られた人生は、完全であり安心であり平安である。
たとえ人間の力は不完全であり限界があっても、完全な神様の知恵と知識に信頼し、
頼っていけば、安全で安心で平安な人生を送ることができる。
(文責:三浦)
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