大佐和キリスト教会

千葉県富津市・大佐和キリスト教会ブログ
当教会は正統なプロテスタント教会です

大佐和キリスト教会・クリスマス礼拝(2006年12月25日)

2007-02-25 23:58:10 | 大佐和キリスト教会NEWS
2006年12月25日に行なわれたクリスマス礼拝の模様です。

クリスマス・メッセージ:宮崎健男牧師
聖書箇所:新約聖書ルカの福音書1~2章



クリスマスというのは、神の御子キリストが誕生されたことを祝う日です。
戦時中、天皇が現人神とされ、神が人となってきたとされた。
天皇陛下の誕生日は日本国民にとって大切とされてきた。
子どもの時、小1年の時に、戦争が終わった。何も知らなかったが、大阪に空襲があったこと、何泊も泊まりながら、日本のチベットと言われた高知県に帰ったこと、田舎に帰りおじさんのお世話になった思い出がある。天皇陛下の存在は戦後も大変であった。4月29日が昭和天皇のお誕生日、12月23日は今上陛下のお誕生日。昔は国旗を掲揚し、国を挙げてお祝いしたが、若い人は関心がない。大統領、王様、天皇陛下への尊敬の思いは大切。国の秩序を保つために。日本は自由になりすぎ中心がなくなり、日本の国の意識が薄れてきている。隣の韓国は意識が強く、一生懸命に勉強し国の繁栄を熱心に考えている。クリスチャンも人口の30パーセント以上になっている。国家元首、象徴の誕生はその国その国で祝われているが、イエス・キリストのお誕生は、世界中で祝われている。

徳川家康も神になった。立派な人が死ぬと、神になる。イエス・キリストは逆で神様が人間になって下さった。成り下がって人間になって下さった。どうして成り下がってくださったか。大切な理由があった。    

ユダヤ民族の祖先アブラハムの子孫から、三つの宗教が生まれた。イエス・キリストを信じるキリスト教。マホメットを信ずるイスラム教。ユダヤ人が信じてきたユダヤ教。ユダヤ教とイスラム教の住んでいるところでは、争いが絶えない。神を中心にしていくならば、平和になることができる。

ユダヤ民族にはアブラハムの時代から、救い主が誕生する預言がなされてきた。救い主はアブラハムの子孫であり、ダビデ王の子孫として、生まれるとの約束が数々の預言者を通してなされた。救い主はヘブライ語では「メサイヤ」ギリシャ語では「キリスト」と言う。本当にメサイヤであるかを、ユダヤ人たちは系図によってチェックした。だから福音書の冒頭ににもイエス・キリストの系図が載っている。また預言者ミカは、救い主はベツレヘムでお生まれになると預言した。当時ベツレヘムは貧しく省みられない村だった。「…ベツレヘム。あなたは…決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから」天使が、ナザレに住む処女マリヤに現れ、「あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を生む。その子にイエスという名をつけなさい。その子はすぐれた者、いと高き者の子とよばれ、とこしえにヤコブの家を治めると告げられた」。マリヤは「わたしは本当に主のはしためです。どうぞお言葉どおりにこの身になりますように」と信仰によって受けとめた。天使のお告げどおりマリヤは処女のまま聖霊によって身ごもった。マリヤはヨセフという大工の男性と婚約をしていた。ヨセフはマリヤの妊娠を知って、離縁状を渡し密かに別れようとした。しかしヨセフにも夢に天使が現れて、マリヤは聖霊によって身ごもり、男の子を産む。名をイエスとつけなさい。この方はご自分の民を罪から救ってくださる方ですと告げられた。しかしヨセフとマリヤはナザレに住んでいた。ナザレで男の子が生まれたら、救い主はベツレヘムで生まれるという預言からそれてしまう。それでメシヤではないという意見が出てくるはず。

ちょうどその頃にローマ皇帝アウグストがローマの支配する世界に向けて、住民登録をせよとの勅令が出された。夫のヨセフはダビデ王の家系の出であったので、ベツレヘムまで行って住民登録しなければならなくなった。ヨセフとマリヤは、ベツレヘムに向かった。その途中でマリヤは産気づきベツレヘムで出産した。ベツレヘムの町は宿がいっぱいのため、家畜小屋に泊まったのでそこで赤ちゃんが誕生した。

その夜、ベツレヘムの郊外で羊の番をしていた羊飼いのところに、天の御使いが現れて彼らに告げられた。「今日ダビデの町に救い主がお生まれになりました。~あなたがたのために布にくるまって、飼い葉おけに寝かされているみどり児を見つけます。これがあなたがたのためのしるしです」またたちまち天使の軍勢が現れて神を賛美した。「いと高き所に、栄光が神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」羊飼いたちは、早速ベツレヘムに行ってみると、御使いの言われたとおり飼い葉おけに寝かされているみどり児を探し当てた。羊飼いたちは、全てが御使いの言われたとおりだったので、神をあがめ賛美し帰っていった。マリヤは羊飼いの出来事など全てを心に納めて思い巡らしていた。

羊飼いのような体験をしたら、その人の一生に忘れられない体験になることでしょう。そしてイエス様は救い主だという確信を与えられた。ここにおられる人々も、イエス様は救い主だという確信をいろいろな形で得ておられると思います。

私たち人間には罪がある。そのために自分の力によっては、死後天の御国に入ることができない。そのためイエス様が人間の社会に来てくださって、人間の罪の罰を身代わり受けてくださった。何の罪穢れもない神様の一人子が罰を受けてくださったので、イエス様を救い主と信ずる者に、その罪が赦され永遠の命をもち天の御国に入る道を開いてくださった。

本当に心を開いてイエス・キリストを救い主として信じてください。救い主として信ずるならば、とたんに神様が救ってくださいます。


老人ホームでのキャロリング。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月主日礼拝&お知らせ

2007-02-25 23:41:48 | 今月の礼拝予定&お知らせ
◆2007年3月 主日礼拝予定◆

3月4日(日) PM15:30~PM17:00 メッセージ:宮崎健男牧師

3月11日(日)AM11:00~PM12:20 メッセージ:宮崎一実伝道師

3月18日(日) 横浜フィラデルフィヤ教会の合同礼拝に参加。
          PM15:00~PM17:20
          メッセージ:福治友輝牧師
         (シャインジーザスシャイン・フォースクエアー教団)
          ※当教会を午後1時に出発予定

3月25日(日) AM11:00~PM12:20 ビデオメッセージ:大川従道牧師

※教会学校 毎週日曜 AM9:00~AM9:45
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼拝メッセージ『エリ・エリ・レマサバクタニ・・』(2007・2・18)

2007-02-25 23:40:13 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎一実 伝道師
説教箇所:新約聖書マタイの福音書27章45節~50節

今年の初め、大きな信仰の体験をした。1月5日から寝込んだ。
起き上がれないほど頭が痛くなった。偏頭痛持ちなので頭痛薬を飲んでもあまり効かなかったが、薬を飲んでも、お祈りしても、治らずどうしようもないほど痛くなって、神様に文句を言って祈るほどになった。結局神様を知っている者は、神様に頼るしかない、戻るしかない。死んだほうが楽ではないかと思うほどだった。腫瘍ができたと思うほどだった。命をとるか、治すかどちらかにしてください。泣いて祈ったら癒された。大きな体験をした。こんな祈り方をしたことがない。今までは、願い事がもしかしたら神の御心ではないかもしれないと思って、聞かれなかった場合の言い訳を考えながら、神様に祈るようないいかげんな祈りをしてきたのではないか。生きるか死ぬかの祈りは遊びがない。治してくれるか、命をとってもらうかの切羽詰った祈り、そういう祈り方の大切さを学んだ。

「エリ・エリ・レマサバクタニ」のイエス様の十字架上の御言葉を思い出した。「我が神、我が神、どうしてお見捨てになられたのですか?」とイエス様は十字架上で叫ばれた。神様に見捨てられた時期がある。こんなにつらいことがあって神様がいるのかと思う時期がある。それでも神様はともにいてくださる。福音の原点は、十字架の死。この世で一人だけ神に見捨てられた人。イエス・キリストは、ありとあらゆる体験をされた。どんなにひとりぼっちでもイエス様がいればお任せできる。八方ふさがりの絶望。そこから生まれる希望はどれ程素晴らしいかを覚えないといけない。絶望から生まれた希望は本当に私たちに大きな力を与えてくれる。私たちはすぐ聞いて欲しいすぐかなえて欲しいと願うが、神様は意味があって待たされたり延ばされたりする。しかし神様は私たちと同じように苦しみを感じてくださる。本当に心を注ぎだして祈る。心を注ぎ出せば出すほど聞かれる。たとえ聞かれないときにも、それ以上の結果を神様が与えてくださる。愛する兄弟姉妹と祈りあうことも大切。自分が元気な時は、愛する兄弟姉妹のために祈り、元気のない時には、祈りをお願いする。
(文責:三浦)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼拝メッセージ『生ける神に仕える幸い』(2007・1・14)

2007-02-25 23:37:32 | 今週のメッセージ
説教者:宮崎 健男 牧師
聖書箇所:新約聖書 マルコの福音書16章1~8節、9章20節        

四つの福音書はイエス様が十字架に架けられ殺され、墓に葬られ、
蘇られたことを一様に述べ紹介している。欠かすことの事実であることを表している。

教会の迫害者であった青年サウロは、後でイエス様に出会ってから
180度転換した。そしてイエス・キリストの福音を命がけで伝えた。
誰よりも多く伝えた。神の恵みによってそうしたのです。イエス様が十字架に架けられて死んで葬られが、墓から蘇られ、復活のイエス様に出会われた人々や事実について、パウロは順を追って書いている。蘇られたイエス様を一度に500人もの人々が見た。その生き証人が当時たくさん残っていた。それから2000年も経っている。それを信ずることを私たちは、要求されている。同じ真理に対して信ずるか信じないかで分かれる。救いに与るか、与らないかに分かれる。誤ったものを信ずるとオウム真理教のように大変なことになるが。イエス様が蘇られたことは確かな事実。

イエス様が十字架にかけられた時、その場所には12使徒は出てこない。十字架を遠くから見ていた女の人たちがいた。マグダラのマリヤ、母マリヤ、サロメなどの少数の女の弟子たち。その他エルサレムに上ってきていた女の人たちがいた。夕方になると安息日が始まるが、イエス様が木にかけられたままでは呪われるとユダヤ人は考えていた。なんとかとり降ろさねばならないと考えた。アリマタヤのヨセフという国会議員をしている男性がいた。イエス様の十字架刑にも反対をした。イエス様の弟子であった。彼がピラトに、イエス様を墓に葬ることを願い許された。また没薬とアロエを混ぜ合わせた物30キログラムを持ってきてイエス様の体をそれらと一緒に亜麻布で巻いた。岩穴の墓に葬り大きな石で墓をふさいだ。

安息日が終わって明け方早く、ヤコブの母やマグダラのマリヤなど女性たちが、イエス様の体に香油を塗ろうと、墓にやってきた。イエス様は彼女たちに蘇ることを伝えておられたが、彼女たちはイエス様のその御言葉を信じておらず、恩義を感じて香油や香料で丁重に葬って差し上げようとの思いで墓にやってきた。墓の石は転がしてあって空いていた。真っ白い太陽のように輝く衣をまとった青年がいた。天の御使いだった。「驚いてはいけません。十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方は蘇られました。ここにはおられません。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』とそう言いなさい」と天の御使いが言われた。彼女たちは全然それを信ずることができず、逃げ去っていた。誰にも言えなかった。恐ろしかったから。弟子たちの置かれていた状況は、何時捕まるかわからない。御言葉を伝えるという信仰は、全然なかった。その後で復活のイエス様が、マグダラのマリアに会われた。しかし彼女が「本当に会いました」と伝えても誰も信じなかった。その後、イエス様ご自身が弟子たちにも現れ、はじめて信ずるようになった。11人の弟子たちはガリラヤの山に登り、イエス様と出会い拝した。11人の弟子たちは、主の御言葉を伝えた。そのうちヨハネは、島流しになったが、後の方々は殉教された。  

イエス様が再び帰ってこられるときがある。その時は、この世界は取り壊されて、正義が現される。神の秩序に造り替えてしまう。  

中国の地下教会はいまや1億人の人がクリスチャンになった。1950年代は世界に10億人のクリスチャンがいるといわれていたが、今は19億人になっている。ひとえに聖霊様のお働きである。

創価学会では池田大作が重病になっているという。池田大作亡き後は、創価学会も大変になるのではないかと思われる。神様の時、たくさんの人々が教会に訪れるようになると信じている。

心理学者の話したところによれば、現代の人々はたくさん心に病を持っている。その心の病はイエス様を信ずることで、解決されるものと信ずる。イエス様を救い主と信じ、罪を悔い改めるならば、確かに赦されて平安の心を与えていただけるから。罪の赦しの福音は現代人の心の病を癒す力がある。日本の人々はやがて教会にやってくると信じている。しかし、今人々が来ないからといって、どうしたらいいかと悩むことはない。神に頼って聖霊様に満たされていきましょう。

イエス様は、弟子たちに会われて、イエス様の復活を信じようとしなかった弟子たちの不信仰、不従順な姿勢を責められた。お責めになりながらも、「全世界の造られたものに、福音を宣べ伝えなさい」と命令された。そして失望落胆の状態であった弟子たちは聖霊様を与えられて、力を与えられた。そして弟子たちは全てを神様に委ねた。

私たちも、全てを神様に委ねていきましょう。素晴らしい切り札として、若い人たちを用いられるようになる。期待して祈って全能の神に頼って参りましょう。
(文責:三浦)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする